西ヨークシャーの田舎町
ミッチェル伯母さまのお屋敷は、ロンドンから遠く離れたイングランド北部、西ヨークシャーの、ハワースという小さな村にあった。
のどかな田園風景とノスタルジックな街並みが不思議と心を穏やかにしてくれる。ブロンテ姉妹も育ったこの街で暮らせることが、いまは少し誇らしくもある。わたしは昔から本を読むのが好きだったから。
『ジェイン・エア』はもちろん読んだし、『嵐が丘』だって読んだ。シャーロットの文才が素晴らしいことは百も承知だが、エミリーだって十分に素晴らしいと思う。世間では「作風が暗い」とか「語り手の供述に一貫性がない」とか酷評する声もあるみたいだけれど、わたしはそうは思わない。だって、すべてのお話が明るくハッピーな物語だらけだとしたら、そんなのつまらないじゃない?
「マーヤはハワースの村を気に入ってくれたみたいね」
並んで馬車に乗りながら、伯母さまは優しく言った。
「気に入ったわ、とても! ブロンテ姉妹のご本の中の世界みたい! こんな素敵な街で暮らせるなんて、夢みたいよ!」
「なら、屋敷に着いたら、一緒にお庭を散歩しましょうね――あ、こら、そんなに乗り出したら危ないわよ、しっかり座ってなさい」
思わず身を乗り出したわたしの身体を、伯母さまが慌てて引き戻す。そして顔を見合わせて二人して笑った。
「あなたは本当にお転婆ね。わたしの手に負えるかしら」
「い、いつもはそんなことないわ。今日だけ、今日だけよ!」
馬車は砂利道をガタゴトと進み、長く続く林を抜け、やがて、一軒の邸宅の前に辿り着く。
静かに馬車が止まり、御者がドアを開けようとすると、屋敷のほうから、ひとりの男が走り寄ってきた。髪はきっちりと撫でつけ、仕立てのいい服に包まれた手足はすらりと長く伸びている。その姿は、後ろに見える鉄製の門と並んでも見劣りしないほどに背が高かった。
「奥様」
男は伯母さまを、そう呼んだ。
「お帰りなさいませ。お手をお貸ししましょうか」
「平気よ。それよりも、マーヤをあたたかい部屋へ連れて行ってあげて」
伯母さまが言う。そこで、ようやく、男はわたしのほうを見た。
まるで品定めをするかのように、頭の先から足の先までじろじろと眺めまわしたあと、わたしに向かって手を差し出す。意味がわからなくて呆然としていたら、こういうときは黙って手を取るものだ、と怒られてしまった。
「まったく、この程度のこともわからないとは。死んだ兄さんが聞いたら泣きますよ。淑女らしさの欠片もない、これがあなたさまの姪だなんて信じられませんね」
なによ。そんな風に言わなくたっていいのに。
わたしは大人の男の人から嫌味を言われたのは初めてではなかったが、初対面からいきなり格下げの扱いをされていい思いはしなかった。
「まあ、そう言わないで、スウド。この子はうちに来たばかりなのよ。淑女教育のことは、これからゆっくり教えていけばいいわ。それと笑顔、笑顔を忘れないで。そんなに怖い顔をしたら、マーヤが怖がりますよ」
「怖くて結構! この顔は生まれつきです!!」
スウドと呼ばれた男は、顔を真っ赤にして怒鳴り散らした。あまりの迫力に、思わず伯母の影に隠れる。それを見た彼女は、そっとわたしを抱き寄せて落ち着かせるようにささやいた。
「……大丈夫よ、マーヤ。何も怖くないわ」
「奥様まで何をおっしゃってるんですか。まるで私が泣かせたみたいな言い方! 私はただ、奥様の言いつけ通りに彼女を部屋へ連れて行こうとしただけで……」
言い訳がましくあれこれと並べ立てるスウドを、伯母さまは一喝する。
「あなたが怖がらせたんじゃない! ただでさえ、マーヤは慣れない土地に来て不安でいっぱいだというのに。余計に怖がらせてどうするの?」
「ですから、私は彼女にも『優しく』声をかけたつもりですが……」
「あれのどこが、優しいというのよ! いきなりじろじろ見る、突然手を差し出す、幼い少女の無知をバカにする、顔を真っ赤にして怒る!! マーヤが怖がるに決まってるじゃないの!!」
伯母さまに言われると、スウドは、途端にしおらしくなる。大の男でも、女主人に叱られるのはさすがに堪えるらしい。それがちょっとおかしくて笑ってしまった。
「……何がおかしいんです、お嬢様?」
「い、いいえ、なにも」
ジロリと睨まれたけれど、ちっとも怖くない。どんなに睨まれても、伯母さまが守ってくれるとわかっているせいかしら?
とか思っていたら、さすがに笑いすぎだと、伯母さまに怒られた。
「さあ、あまり長居をすると身体が冷えますよ。お部屋へ行って暖炉の火であたたまっていらっしゃい」
それから、スウドに連れられて、屋敷のリビングルームへ入る。パチパチと燃える暖炉の火に当たっていると、女中のひとりが温かい紅茶とクッキーを運んできた。
「ようこそ、マーヤお嬢様。こちらは奥様から、お嬢様に、と。甘いお菓子はお好きですか? お紅茶にはお砂糖をお入れしましょうか?」
「チョコレートチップクッキー! わたし、大好きよ! ねえねえ、本当に、全部食べてもいいの?」
何を隠そう、わたしがこの世で一番好きな食べ物がこのチョコレートチップクッキーなのだ。伯母さまはそれを知っていて出してくれた? それとも、ただの偶然? チョコレートチップクッキーが嫌いな人なんていないものね。
「お嬢様!! お菓子を召し上がるのなら、先に手を洗ってからにいたしなさい。洗面台の場所は、この部屋を出て、左へ曲がったところです!」
「はぁ~い……」
伸ばしかけた手を引っ込めて、嫌々立ち上がる。
だが、手を洗って戻ってくると、そこにスウドはいなかった。洗面台まで付き添ってくれた女中はいまも一緒だったが、なぜかスウドがいないのもわかっているようで、彼女は、彼がどこにいるかまで知っているようだった。
「スウド様なら、奥様のお部屋だと思いますよ。彼には女主人のお召替えの任務がありますから」
女中によれば、スウドはもともとこのお屋敷の主人の息子で、いまは亡くなった兄に代わり、身体の弱い義姉のために身の回りの世話を買って出ているのだという。つまりは、公爵の弟――女主人の義理の弟で、実質的な執事役でもあるということだ。聞けば、このお屋敷を管理しているのもスウドなのだという。
「スウド様も、まだ28歳でいらっしゃるのに、立派なかたですよ。世間一般でいうそれくらいの御年の殿方なら、きっと遊びたい盛りでしょうに。それも、ご次男ですと特にね。まあ、彼の場合は、兄上さまが早くに亡くなられたから、ご自分がしっかりしなくては、という思いもあるのかもしれないですが」
確かに、スウドには、強い責任感というものが感じられた。わたしに必要以上に厳しく当たるのも、そのくせ、女主人の言いつけには弱いところも、全部、亡き兄の代わりに屋敷を守らなければならないという強い使命のもとに動いているのなら納得がいく。
「何かおっしゃいましたか、マーガレット?」
「わぁ!!」
振り向くと、スウドが怖い顔をして立っていた。いつのまに戻ってきたの?
「何か余計なことを言っていないでしょうね? あなたは少しおしゃべりが多いのが気になります。勤務中は口を慎むように」
「す、すみません、スウド様」
「よろしい。では下がりなさい」
女中が出ていくと、入れ違いに、ミッチェル伯母さまが入ってきた。わたしのそばにやってきて、ぎゅっと抱きしめてくれる。
「ああ、マーヤ、わたしの可愛い子。いい子にしてた?」
「もちろん。ちゃんと手も洗ったし、言いつけどおりにしているわ」
「いい子ね。お菓子は食べた?」
「まだ。いまから」
「じゃあ、一緒に食べましょう。わたしもいただくわ。スウド、お茶を注いでちょうだい」
「……かしこまりました」
スウドが一歩下がってティーカップにお茶を注いでくれる。淹れたばかりの紅茶は、温かくておいしかった。それに、クッキーも。
「あなたのこと、いっぱい教えてね。いままで一緒にいられなかった分も、これからまとめて愛したいの」
これから、わたしの新しい生活がはじまる。
孤児院で過ごした空虚な日々とは違う、豊かな自然と溢れんばかりの愛情に包まれた西ヨークシャーでの暮らしが。