マーヤ
覚えている。
わたしに優しく語り掛けた、あの声、あの眼差し。
全部、全部、覚えている。
「お嬢様が大きくなったら、必ず迎えにまいります。だから……どうか、そのときまで……お元気で」
初恋だった……、のだと思う。
少なくともわたしは、そう信じていた。優しくてかっこよくて、いつもそばにいてくれる。そんな彼こそが、わたしの『運命の王子様』なのだと。
だから彼は、わたしが大きくなったら、白馬に乗って迎えにきてくれるのだ。
なんて、まったくバカみたい。
――彼は『王子様』なんかじゃないのに。
「ミス・マーヤ、いつまで寝ているつもりですか!もう10時ですよ!」
わたしを揺すり起こす院長先生の声で目が覚めた。まだ夢見心地の気分だ。今朝は随分と懐かしい夢を見た気がする。あの声……わたしを呼ぶ声、あれは誰なの?
「ごめんなさい、シスター。すぐに支度します」
「……まったく。あなたはここに来てもう3年も経つというのに、まだ自覚が足りていないのね。これで何度め? 罰として、廊下の拭き掃除を命じます。それも塵一つないくらいにピカピカにすること、いいですね?」
シスターはそれだけ言うと部屋を出て行った。
彼女は厳しいけれど、いい人だ。わたしが両親を亡くして行き場を失っていたときも、あたたかく迎え入れてくれた。わたしにとっては家族同然の人。なのに、わたしは、ときどきこういったポカをやってしまう。
隣を見ると、同室のリーシャは既にベッドを抜けて下へ行ったあとだった。
わたしもようやくベッドから抜け出して、もそもそと着替え始める。白いブラウスにジャンパースカート、長い髪は三つ編みにくくるのがここの決まりだ。
下への階段を降りながら、ふと考える。
今朝の夢。
妙に既視感のある夢だった。前にも見たことがある? だったら、あの男の人は誰? わたしは、なぜ彼のことを待っているの?
もしかして……と思い至る。
もしや、あの夢は、わたしの幼いときに本当にあった出来事ではないのかと。
わたしには、5歳までの記憶がない。
正確に言えば、この孤児院に来るまでの記憶というものが何もないのだ。5歳までどこにいたのか、誰と暮らしていたのか、わたしには何の記憶もなかった。
まだ5歳なんだからそんなものだよ、という人もいるけれど、わたしからしたら、気付いたときには孤児院にいてずっと孤児院生活をしていることのほうが不思議だった。
院長先生によれば、わたしがこの孤児院に来たのは、ちょうど5歳の頃らしいから。だとしたら、5歳までは、どこか違うところにいた、そういうことでしょう?
わたしをこの孤児院へ連れてきたのは、叔父の付き人だという男の人だった。
叔父は父の弟にあたる人で、孤児院に来るついさっきまで一緒に住んでいた人でもある。生まれたばかりのわたしを引き取ったのも彼だった。わたしは生まれてすぐに、母親を病気で亡くしたのだという。父親はいなかった。死んだのか、いまもどこかで生きているのかはわからない。放浪癖のある人だったから、きっと突然に旅に出たい気分にでもなったのだろう、と叔父は言っていた。
そんな叔父が結核にかかったのは、26歳の夏――すなわち、わたしが5歳のときだ。叔父はお医者様の勧めで、長期療養施設に移ることになった。叔父は独り身で、ほかに面倒を任せられる人もいなかったから、わたしは孤児院へ送られることとなった。
全部、院長先生からの又聞きで聞いたことである。
どこまでが本当なのかはわからない。でも、わたしはシスターを信用しているつもりだ。シスターはつまらないことで嘘を吐くような人間じゃないし、わたしを含め、施設の子どもたちにも本当に良くしてくれるから。
階下に降りてすぐ、若いシスターに呼び止められた。
「マーヤ、あなたにお客さまがお見えよ。お待たせする前に、早くお行きなさい」
「お客さま……わたしに?」
わたしに来客なんて誰だろう。
孤児院にお客さまが来ることは珍しくない。でも、それは、お姉さんたちの進学先の大学の先生だとか、養子縁組を考えているお金持ちのかたのことで。8歳のわたしには、どちらも縁のないことだと思っていた。
頭に疑問符をいっぱい浮かべたまま、応接室のドアを開ける。
上座に座っていたのは、上流階級の人が着るような、上等なドレスを身に着けた大人の女性だった。
「あら。じゃあ、あなたがマーヤなのね」
彼女は、わたしを見てにこりと笑う。一目見て、笑顔が素敵な女性だと思った。それに、とても優しそうだと。
「座りなさい、ミス・マーヤ。あなたに話さなければならないことがあります。あなたに伝えたいことも」
「はい」
わたしは頷くと、院長先生の隣に腰かけた。
「こちらの御方は、アルレシャ公爵夫人とおっしゃる高名な貴族のかたです。あなたの伯母上に当たるかたですよ、マーヤ。公爵夫人はね、この8年間というもの、ずっとあなたのことを探していらしたんですよ。夫人はあなたを引き取り、これからの生活を支援したいとおっしゃっています。早い話が養子縁組をしたいということですね」
「よ、養子縁組!」
まさか、わたしにその話が来るなんて!
両親を亡くして、叔父さまもサナトリウムに移ってしまって、天涯孤独と思っていたわたしに『伯母さまがいた』という事実がそもそも驚きなのに、それがお金持ちの公爵夫人だなんてもっと驚きだ。
しかも、その伯母さまが、哀れなこのわたしを引き取りたいと?
「あ、あの、公爵夫人……」
「ミッチェルでいいわ。わたしはあなたの伯母ですもの。そんな堅苦しい言い方はよして」
伯母さまは、わたしの緊張を和らげるように、優しく微笑んでくれる。それで、わたしも少し気が楽になった。
「あなたのお母さま――つまり、わたしの妹が、あなたを身ごもったと聞かされたのが9年前。相手は旅先で出会った貴族の男だった。でも、妊娠を告げた次の日の朝、妹のそばに彼の姿はなくて……きっと捨てられたのだろうと、わたしは思ったわ。妹は、若い男の一夜の気まぐれに弄ばれたに違いないってね。でも、あの子は違った。彼をまだ信じていた。子どもは産むと言ったわ。彼が帰ってくるかもしれない、だからこの子を死なせるわけにはいかないと――それが、あなたよ、マーヤ。名付けたのは妹よ。うちの屋敷で、うちが懇意にしているお医者さまに取り上げてもらって生まれたの。赤ん坊は可愛かった。わたしも主人も、これからこのお屋敷で育てられることを本当に楽しみにしていたわ。けど……」
「けど?」
伯母さまの顔色が、ふいに暗くなる。何か嫌な予感がした。
「子どもは……マーヤは……いなくなった。妹も。部屋には、置手紙だけが残されていたわ。妹の字だった。手紙には『いままでありがとう』とだけ書かれていた――ありがとうって何よ! 恩知らず! わたしと主人が、マーヤの面倒を見ることをどれほど楽しみにしていたか! それをあなたは奪ったのよ! 何もかも! わたしから!」
激昂する彼女の言葉からは、わたしの母への、数えきれない失望の念が窺えた。突然、姉のもとを訪れた妹は、去るときもまた突然だった。来たときには愛を持って受け入れた姉だけれど、いなくなったときは、怒りを抑えきれなかった。それは、ひとえに生まれた赤ん坊への愛情が芽生え始めてきたせいかもしれない。
「わたしは、生まれつき身体が弱くてね、子どもを望めない身体だと言われていたの。だからかもしれないわ。生まれてくる姪の成長が、楽しみでしかたがなかった。それは夫も同じよ。でも……彼は……1年前、乗っていた馬車の事故で……最期に、一目でもいいから、あなたの姿を見せてやりたかった。あなたにも会ってほしかったわ。ランスロットはあなたに会うことを本当に楽しみにしていたの。本当にいい人だったのよ、いまは亡くなってしまったけれど」
わたしも伯父さまに会ってみたかった。生まれてすぐに離れ離れになった母方の伯父。わたしの朧げな幼い頃の記憶にも、伯父夫婦のことは残っていなかった。母が、わたしを身ごもったばかりの頃に、姉夫婦を頼っていたことも知らなかった。その姉夫婦の家から、産後まもなく、わたしを連れて逃げたことも。
「わたしは、この8年間、ずうっと、あなたのことを探していたの。ロンドンの孤児院にいると知らされたときはビックリしたわ。でも会えてよかった。ねえ、マーヤ、こっちに来て伯母さまを抱きしめてくれない? 哀れな伯母をどうか慰めてちょうだい」
「もちろん……もちろんよ、伯母さま!」
わたしはソファーから立ち上がり、回り込んでぎゅっと伯母さまの身体をハグした。あったかい。それに、とてもいい香り。これはバラの香り?
「マーヤ、大好きよ」
「わたしも。わたしも、伯母さまが大好き」
初めて会った瞬間から好きだった。直感的にそう感じた。それは伯母さまのその人柄がそうさせるのだと思ったけれど、そうじゃない、わたしたちは既に会っていたのだ。そして伯母さまは、わたしのことを、いたく可愛がってくれていた。8年間探し続けて、いま、ようやく出会えたのだ。
「ああ、愛しいマーヤ、伯母さまと一緒に来てくれるわね?」
「行くわ。伯母さまと一緒に。わたしも、伯母さまのおうちに連れて行って!」
孤児院での暮らしは嫌いではない。
でも、大好きな伯母さまと暮らせるとなったら、絶対にそっちのほうがいいに決まっている! 優しい伯母さま。伯母さまは、わたしのことをきっとこれからも愛してくれるだろうから。