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手記

 平成23年11月17日。午後1時。

 一人の男に死刑が執行される。仮に、この男をAとする。61歳の壮年の男である。が、まるで80をすぎたろうじんのように、痩せ細り、無気力な人間であった。

 死刑が執行されるのだから当然と言えるのかもしれないが、死刑が確定する前から、捕まったときから、男は、そんな風になっていた。


 Aが犯した罪は、殺人である。

 Aが殺害したのは、北海道某市に住む46歳の女性、佐藤(仮名)である。佐藤は、就職活動から自宅に帰ってきた際、玄関先に待ち構えていたAに、包丁で腹を5回、胸を3回、顔を7回、計15回刺され、ショック死した。平成13年2月8日の午後7時32分の出来事である。現場はひどい有り様で、辺りに積もっていた雪は真っ赤に染まり、まるで赤い絨毯のようだったと言う。

 Aは佐藤を殺害した後、直ぐに最寄りの警察署へ出向き、自首した。裁判は速やかに行われ、Aは、その殺意の高さ、計画性なども相まって、そして何より、動機を重要視され、高等裁判所において死刑が宣告され、それを受け入れた。上告をすることは、無かった。

 Aは、自分に下された判決を当然のものだと思っていたし、そこに一切の文句も、異議も無かった。

 何故、Aはそう考えたのか?

 Aは、佐藤を計画性を持って、明確な殺意と共に、残忍に、無慈悲に殺害した。

 しかし、ではなぜAは直ぐに自首したのか?Aはなぜ、佐藤を殺害するに至ったのか?すなわち、その動機である。


 Aの動機は、復讐であった。


 すべての始まりは、昭和58年2月8日。午後3時12分。Aの4歳の娘と、当時28歳の妻が、とある車にひき逃げされたことである。

 その日、Aは妻と娘をつれ、近所の大型ショッピングモールに併設された映画館に、映画を観に来ていた。映画が終わり、多少の買い物を済ませたAは、疲れて寝てしまった娘を妻に任せ、駐車場に車を取りに行った。そして、ショッピングモールの出入口前の歩道で待つ、妻たちを迎えに行ったその時。

 対向車線から来た車が、急に加速をして、Aの妻たちに突っ込んだのである。

 Aの妻たちはそのまま車に引きづられ、10m程走ったところで車が停止。車は慌てたように、バックをし、逃げるように駐車場を出ていった。


 Aは、ただ呆然と、その光景を見ていた。


 Aの娘は即死、妻は重体で、意識も無いままに、病院へ運ばれた。Aはただ、呆然としていた。あまりに突然で、あまりにもショッキングな出来事が、目の前で起こってしまい、泣くことも、怒ることも、嘆くこともできず、ただ魂が抜けてしまったかのように、娘の死体を見下ろしていた。

 警察はすぐに調査を開始、目撃者への聞き取りと、監視カメラの映像等を解析し、ナンバープレートを照会、その翌日の夜には犯人を特定していた。

 

 その頃には、Aも徐々に現実を理解し、静かに、ゆっくりと、絶望していった。目を覚まさぬ妻と、永遠の眠りについてしまった娘を想い、啼いていた。

 そして、その翌日の午前8時12分、一人の若い女が警察署に出頭。当時20歳の、佐藤であった。

 佐藤は当時、車のギアを変えるためにクラッチを踏もうとし、誤ってアクセルを踏み込んでしまい、驚いてハンドルをきって、あのようなことになってしまったと語った。一度は逃げてしまったが、自分のしでかしてしまったことの大きさに、今更ながらに後悔と恐怖が芽生え、それに耐えきれずに自首、という、突発的な事故ではよくある、あってはならないことであった。

 佐藤の裁判は、難航した。佐藤は当時、短大生であり、若かった。そして、事故の翌々日には警察に自主的に出頭しているため、情状酌量の余地はあると、弁護側は主張。検察側は、若いとはいえ成人した大人であり、子供を引き殺し、その母親までもを意識不明の重体に追い込んだ。しかも、出頭したとはいえ一度は逃げているのだから、重い、妥当な刑罰を下すべきである、と主張。

 佐藤の側の家族は、娘はまだ若く、未来のある人間であり、故意ではない事故による罪で重い刑罰を下し、その人生を閉ざすのはあんまりだ、と主張。

 AならびにAの親類、妻の親類は、若い、どころか幼い娘、孫の未来を閉ざしておきながら、一体何を言っているのか。本当に悪いと思っているのなら、本当に反省をしているのなら、重い刑罰であっても、粛々と従うべきではないか、と主張。


 そして裁判所は、2年におよぶ裁判の末、佐藤の年齢と、殺意の無い、過失の事故であったこと、出頭してきた事実等を鑑み、昭和60年8月17日、佐藤に対し、懲役10年、執行猶予5年の判決を下した。

 弁護側はこれ以上の譲歩は無理だと判断し、佐藤に対し控訴は控えさせた。検察側は納得行っていなかったし、Aも、その親類にとっても不満な結末であったが、Aは自身のやるべきことを果たすため、その判決を受け入れた。Aは当時、娘の遺影を抱きながら、これ以上無く、無念である、と悔し涙を流していた。


 判決の1年前、Aの妻は、植物状態である、と診断されていた。

 Aは、目を覚まさない妻を養っていくため、病院で治療を受けさせ続けるために、自分で稼がなくてはならなかった。植物状態の人間の治療、入院費というのは、とてつもない額のお金が必要であった。それでも、Aにとっては唯一残った希望であり、見捨てるという選択肢は、存在しなかった。

 とはいえ、Aの実家も妻の実家も裕福なわけではなかったし、A自身が、妻のためにお金を稼ぐ必要があった。


 Aは懸命に、懸命に働いた。汗水を垂らし、休日にはどうにかこぎ着けた日雇いのアルバイトや、残業で金を稼いだ。その間にできる余暇には、妻のもとへと足しげく通い、目を覚まさない妻に熱心に語りかけ、世話を焼いた。Aの周囲の友人、上司、同僚たちは事情を理解し、温かく支えてくれていた。中には、少しでも足しにしてくれと、少なくないお金をわたしてくれる者達もいた。Aは泣いて感謝した。


 しかし、それも3年程経つと、次第に周囲は彼を諦めさせようとしてきた。

 とは言っても、それは決して悪意からのものではなく、むしろ善意からのものであった。

 休日であっても関係あるかと、働き詰めで、鬼気迫るような勢いで仕事をこなしていくAは、明らかにやつれていたし、寝不足と、心労、過労が原因で拒食症を発症し、満足に物を受け付けなくなっていた。事実、当時のAはいつ倒れてしまってもおかしくない、というよりも、倒れていないことがおかしい、というような状態であった。

 Aの周囲の人間は、そんなAのことを心の底から案じていた。

 いくら奥さんのためであっても、そんな状態では自分が死んでしまう。そんなことは奥さんだって望んじゃいないだろう。もう休んでもいいんじゃないか、と諭す者。

 もう3年も経つんだ!今まで目を覚まさないんだ、もう目を覚ますことはない!そんな女の為に、お前が死んでどうする!もう諦めろ!と突き放すように怒る者。

 気持ちは分かるし、立派だとも思うけど、もう止めてくれ。今のお前を見ているのは、本当に辛いんだ、と泣き落とす者、様々いたが、皆、Aのことを心から大切に想い、心配していた。

 さらに1年経つと、Aの妻の実家も、諦めるように諭した。

 もういい、娘の為にそこまでしてくれたのは本当に感謝している。けれど、もういいんだ、君まで死んでしまう。それは、娘だって望んじゃいない、と。

 Aは皆の言葉が心の底からの善意であることも、自身を心配してくれていることも、よく分かっていた。

 

 それでもAは、いつも悲しそうに首を横に振った。「もう、自分には、彼女しかいないんだ」

 彼は、いつも申し訳なさそうに、笑ってそう言った。

 彼はいつまでもいつまでも、懸命に働いた。

 彼は決して、妻のことを見捨てはしなかった。

 病院に通い、献身的に妻の世話をやき、話しかけ続けた。


 本当のところ、彼自身、もうほとんど諦めていた。それでも、完全に諦めてしまえば、もう自分は立つことすら出来ない、妻の存在が、妻を支えるという役目が、妻を支えられるのは自分なのだ、という自負が。自身を支えているのだと、自覚していたが故に、諦めなかった。Aは、妻がもし、死んでしまったのなら。

 そのときは、後を追うつもりであった。

 そうして、4年の月日が流れた。 


 Aはもう、限界だった。体も心もボロボロで、何度も何度も、いっそ諦めて、自殺してしまおうか、と考えた。その度に、妻の顔を見て、安らかに、ただ眠っているだけの妻を見て、なにくそとふるいたった。

 当然、Aだって妻に対して、理不尽な怒りを覚えたことはある。なぜ、自分はこんなに苦労しているのに、と、何度も思ったことがある。その度に、Aは自身に対して、なんて醜いのだろう、と自責の念にかられたこともある。それでも。それでもAは、ずっと、ずっと、妻を待ち続けた。


 妻が植物状態と診断されてから8年。平成3年11月17日。落ち葉が落ちきって、いつものように妻に語りかけていた、その時。

 ついにその時がやってきた。

 やってきて、しまった。


 Aの妻は、もう目を覚まさないと思われていた、彼女は。


 奇跡的に、目を覚ましたのである。


 Aはまず呆然とした。手を握り締め、語りかけていたら、弱々しいながらも、確かに自分の手を握り返す感触に、何かの間違いかと、バッと妻の顔を覗き込むと、ゆっくりと目を開けたのだ。久方ぶりに見る妻の目は、痩せ細ったためか奇妙に輝いていて、ぼんやりと自分を見つめ返すのみであった。


 それを見た、私は。胸から溢れる気持ちを、安堵とか、喜びとか、驚愕とか、そんな、溢れて溢れて止まらない気持ちを、うまく表現できなくて。けれど確かに、嗚咽のように笑って。泣いた。

 判決で悔し涙を流して以来、はじめての涙であった。


 それからのAの日々は、輝くようであった。

 妻はまず、自分が9年眠っていたこと。

 その間に、ずっと、ずっと、Aが自分を支え続けていてくれたこと。

 自分の為に、Aがどれ程のことをしてくれていたのかを、説明された。


 妻は、涙を流していた。


 妻には、たくさんの人が会いに来てくれた。

妻のことを諦めるように諭してきていた人たちは、皆、土下座せんばかりに妻に謝り、Aにも、泣きながら謝罪してくれた。そして、私と妻を、祝福してくれた。奇跡なんかじゃない、お前が諦めなかったから、それが故の必然だったと、言ってくれた人がいた。心の底から嬉しくて、大声で泣いて泣き崩れて、涙と鼻水でグシャグシャになって、笑った。


 Aは浮かれていた。報われたのだと、無駄ではなかったのだと、これからは、妻と共に生きていけるのだと思うと。浮かれずにはいられなかったのだ。


 Aは、それから毎日のように妻の病室へ通い、リハビリを手伝った。9年寝たきりだった妻は、満足に体を起こすこともできなかった。最初のうちは、私が下の世話をすると恥ずかしそうにしていたが、寝たきりの時に何度もしていたことを伝えると開き直ったようだった。

 一月ほど経つと、妻はなんとか手すりを掴み、体を起こすまではできるようになっていた。それでも立つまではいかなかったが、非常に順調で、今までの妻の状態からすれば、進歩が目に見える分、Aにとって天国だった。


 ああ、だから。

 だからせめてせめてせめてこのときに、このときに言い出せていたなら、あんなあんな、あんな結末には、ああ。



 妻は順調に快復していった。3ヶ月ほど経って、自力で立ちあがれるようになって、歩く訓練を始めていた。私はその訓練にも付き添った。けれど、必死の表情で手すりを掴んで歩こうとする妻を見ると、どうしても涙が出てしまって、よく妻に笑われてしまった。

 そうして、さらに2ヶ月が過ぎたある日。


 妻が、自殺した。


 理由は明白だった。

 妻は知ってしまった。

 病室に備え付けてあったテレビで。

 私たちのことが、特集で組まれていた。

 私が妻のためにしてきたこと。

 周りの人達がたくさん手を貸してくれたこと。


 娘が、かすみが、死んでしまったことも。

 知って、しまった。




 

 

 

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