第1部 3
明子と話した次の日、俊平は1限の授業に出るため8時45分に教室に着いていた。
大学生には朝早く人気のない1限ではあるが席は半分以上埋まっていた。それは橋爪教授の授業だからだ。橋爪は元一流バンカーの変わり者であると学生達の間で有名だった。口癖は学生からの質問時間に私の給料は発生しない。真意を疑う発言ではあるが、質問がいらない程に分かりやすい授業ではあった。
この金融貨幣論は銀行や証券業界を志望する学生にとって必須と言われていた。人気があるため、他学部の学生も受けられることになっていた。
「俊平じゃねーか。久しぶりだな。」
幼なじみの天野圭吾だった。小学校から高校まで同じ。大学は別だと思っていたら、経済学部と学部まで一緒だった。とにかくミーハーで調子の良い男である。
「珍しいね。圭吾を1限で見るなんていつ以来かな。」
「俺だってたまには真面目になる人だぜ。すごいだろ。」
圭吾は不満そうに答えた。俊平には何がすごいのか分からない。
「どうせ何か目的があって来たんでしょ。」
俊平は決めつけるように言った。
「当たりだ。先週の授業でレポート課題が出たらしいな。見せてくれる秀才を探している。」
圭吾は人指し指を俊平に向けながら言った。
「そうなの?僕も先週は休んでしまって。」
橋爪の授業は出欠を取らない。評価は期末のテストとレポートのみで行う。他の授業に比べてレポートが重要と言われていた。
「お前は大事な時に役に立たないな。昔からずっとだ。」
俊平は圭吾の後に立とうと思ったことなどない。レポートなんて自分でやればいいと思う。圭吾はキョロキョロと周囲を確認する。
「ターゲット発見。俊平もついて来い。」
圭吾は足早に目的の人に向かう。俊平はしぶしぶ後を追う。
「冷奈ちゃん。久しぶりー。」
海堂冷奈だった。切れ長の目に整った顔立ちが印象的だ。冷奈は俊平と高校が同じだった。大学は同じだが学部が違う。冷奈は理工学部のシステム学科に所属している。
俊平は昔から冷奈に対して秘かな好意を抱いていた。でも告白したことはない。その容姿から男子に人気があった。ただ何事にもズバッと冷静に言う性格で告白しても玉砕する男子ばかりだ。リケ女のクールビューティーといった感じだ。
「何か私に用でもあるの?」
冷奈はいつも通り素っ気ない。
「冷奈ちゃんの高クオリティなレポートを共有してもらいたいです。」
圭吾はいつもは見せないへり下った態度で言った。
「いいよって言うと思ったの。それにちゃん付けはやめて。気持ち悪い。それに圭吾と仲良く思われるのはイヤ。」
冷奈は表情を変えずに言った。
「今度、冷奈のSNSにたくさんのいいねを付けるから。賞賛コメントも。だからこの通り。」
圭吾は両手を合わせて頼み込んだ。
「圭吾のいいねなんて価値ない。どうでもいいねボタンでしょ。」
どうでもいいねか、と俊平は聞いて納得する。
「じゃ駅にある三郎ラーメンをおごるから。」
三郎ラーメンはマシマシを基本とするコッテリ系ラーメンだ。
「化学調味料でお腹を満たすなんてイヤ。」
圭吾はお願いにコストをかけるがうまくいかない。
「築地の寿司なんてどうだ。ウニはイクラ、何でも食べ放題だぜ。ここにいる俊平がごちそうするぞ。」
そう言って圭吾は俊平の肩をポンポンと叩く。高い物の時だけ俊平にお鉢がまわってきた。
「築地に近いから美味しいわけじゃないでしょ。本当に何も分かっていない。ミーハーすぎ。」
冷奈は持論を展開する。結果として俊平は冷奈と築地で寿司を食べるチャンスとを逃してしまう。告白もしないでフラれた気持ちになってしまう。
「なんかつれねーな。昔のバレンタイン、まだ怒ってるのか?」
なかなかレポートが手に入らない圭吾は不満そうに言った。
バレンタインとは、高校3年の時に起きた事件だろう。圭吾はモテない男子数人に対して手作りチョコを下駄箱に入れていった。そのチョコには≪冷奈より≫という文字が入っていた。モテない男子にとって、冷奈からのチョコで天にも昇るくらいの気持ちになっていた。
俊平の下駄箱にも冷奈からのチョコが入っていた。そのチョコが好きな冷奈からでなく、圭吾からと知った時の落胆は、大学受験の成功を打ち消す程であった。冷奈にとっても卒業前に恋多き美女という汚名を手にすることになってしまった。
橋爪の授業はいつも通り分かりやすかった。今回は量的緩和についてであった。金融政策の一つであると俊平は知っていた。しかし言葉だけで内容については分からない。橋爪によれば、お金の量を緩ませる、言いかえれば日本円をたくさん刷って市場にバラまくこと。たくさん刷れば円安になり、自動車など輸出企業にはプラスになる。円の価値が下がるから、モノの値段が上がりインフレの危険があるが、刷る量に気を付ければ問題ないとのことだった。
授業には満足だが俊平は橋爪に質問したいことがあった。授業を終了と同時に教壇へ向かう。なぜか圭吾もついてきた。
「橋爪教授、立花です。質問したいことがあるのですがよろしいですか?」
俊平はできるだけで丁寧に言った。
「質問に答える時間に私の給料は発生しない。」
噂通りの答えが返ってきた。授業は人気だが、橋爪のところに学生が行きたがらないことに納得する。
「やめておけって。無駄だぞ。」
圭吾が俊平の耳元で言った。
「昼休みの時間でもかまいません。3限は授業ないですよね?」
俊平は引き下がるつもりがなかった。
「午後は協賛企業との大事なミーティングがあるから無理だ。」
「では今なら大丈夫ですよね?」
俊平は間髪を入れずに言った。
「ここはうるさいからダメだ。」
「では、教授のゼミ室に行きます。ここからすぐに。」
俊平の言葉に橋爪は反応しない。
「僕の質問に答えられない理由はありますか?」
俊平は続けた。
「そんな理由があるわけないだろう。」
橋爪はそう言って教室を足早に出ていってしまった。
「これは質問に答えてくれるってことなのか。それとも答えないのか。」
圭吾は状況を理解できていないようだ。
「たぶんOKってことだよ。あの人は否定形で返したいだけだよ。午後はダメって言ったけど、午前の今はできないとは言ってない。それに答えられない理由はないってことだから答えてくれるってことでしょ。」
俊平は橋爪のルールについて説明した。
「なんか率直じゃねえって言うか面倒臭えな。」
「強度の照れ屋なんじゃないかな。少なくとも悪い人ではないよ。人と話せないようなら、 トップバンカーになんてなれるはずがないよ。」
俊平と圭吾は荷物をまとめて橋爪のゼミ室に向かった。
橋爪のゼミ室に入ると、喫茶店ではないかと勘違いしてしまいそうだった。部屋中に挽きたてコーヒーの香りが充満している。テーブルや椅子などは学生用といった感じではなくカフェにありそうなものばかりだ。こんなゼミも悪くないなと俊平は思う。
橋爪は俊平と圭吾をソファーに案内してくれた。授業の時とは違い温和な顔つきをしている。コーヒーの効果かもしれない。俊平はそれから商店街の状況について細かく説明した。プライスマーケットの安売りに困っていること。対抗策としてポイントカードを発行したが失敗し、共通ポイントには待ったがかかったことなどであった。終始、橋爪は真剣な顔で俊平の話を聞いていた。
「どうして私に相談しに来たのかい。ポイントを発行した経験などないが。」
橋爪は口調も穏やかになっていた。まるで別人だ。
「共通ポイントは通貨ではないかと思ったからです。それなら授業に聞くべきかと。」
俊平は言った。その時、助手と思われる女性がコーヒーを運んでくる。橋爪はそれを一口飲むと顔がより温和になる。
「その通りだ。君のいう共通ポイントは商店街のどの店でも使えるのであろう。それは、通貨以外の何者でもない。」
俊平の勘は当たっていた。俊平もコーヒーを飲む。詳しくはないが、美味しく自分まで穏やかになりそうだった。
「通貨を発行する時に注意すべきことはありますか?」
「通貨というものは誰もが安心して使えなくてはならない。昔、日本も外国人からも信用される通貨が必要になったことがある。明治維新後、鎖国やめた日本は外国との貿易を始めた。外国の品を買うために信用される円でなければならない。日本政府はどうしたか分かるかい?」
橋爪の質問に俊平は目線を床に落として考える。普段当たりまえのように日本円を使っているので、円の信用など考えたことがなかった。
「1円玉を金とか銀で作ったらどうですか。外国人でも価値があると思います。」
俊平はなんとか答えをひねり出した。
「間違ってはいるが、なかなかするどい答えだ。政府は日本円をいつでも一定量の金と交換すると決めた。外国人にとって貿易で受け取った日本円が金になるわけだから安心していた。当時も今と同じで金は世界共通の価値だった。」
橋爪はそう言ってコーヒーをお代わりした。ペースが早い。まるで話すためのガソリンだ。
「それは日本が始めた制度ですか?」
「いいやイギリスから始まった。当時はアメリカではなくイギリスが何事も最先端であった。通貨の価値を金で保証する。これを金本位制という。イギリスから世界各国に広がった。つまり世界は実質、金で取引をしていた。」
俊平は金本位制について知らなかった。
「通貨と金を交換するってことは、持っている金の量までしか通貨を発行できないということですよね?」
俊平は尋ねた。
「その通りだ。交換レートを一定にすると、所有する金までしか発行できない。1グラム の金を1円としよう。その場合、金を1キログラム持っていると、千円しか円を発行できない。」
橋爪は具体例を説明した。
「こいつが共通ポイントを発行する場合は金をたくさん用意するってことですか?」
今まで黙っていた圭吾が言った。
「それは違うと思う。通貨が金で価値を保証していたのは昔のことだ。現在、金本位制をとっている国はほぼないだろう。」
圭吾は悔しそうに唇を噛んだ。
「共通ポイントも何かで価値を保証すべきということでしょうか?」
「私ならそうするだろう。ところで、花天ポイントは知っているかい?」
橋爪は逆に質問した。花天ポイントは、ネットショップの花天マーケットで買うと貰えるポイントだ。テレビCMでもよく見かける。最近では使用できる店が増えていたか。
「花天ポイントですか。一応持っています。」
「花天ポイントで買い物ができるのは何故かな?」
橋爪は質問を続けた。何か意図があるのだろう。
「店側が花天ポイントを信頼しているからですね。」
圭吾が答えた。その時、俊平がはっとなる。
「ポイントを使われた店はポイント分の円を受け取れるからですね。」
橋爪の顔が満足そうになる。
「花天ポイントは通貨だ。円で価値を保証されている。」
「つまり、円本位制ということですね。持っている円の量だけ花天ポイントを発行できる。」俊平の言葉に橋爪は首を縦にふる。
「共通ポイントを発行するなら管理が必要だ。客が店で買い物をする時、その店から発行ポイント分の現金を預からなくてはならない。つまりこういうことだ。」
橋爪は近くにあったホワイトボードに内容をまとめる。
<通常>→1万ポイントが発行されている場合
発行量 10、000ポイント
預かり金 10、000円
<ポイント発行>→客が買い物で200ポイント獲得
発行量 10、200ポイント(プラス200)
預かり金 10、200円(プラス200)
<ポイント利用>→客が買い物で300ポイント利用
発行量 9、900ポイント(マイナス300)
預かり金 9、900円(マイナス300)
橋爪の話は授業の時と変わらない。分かりやすくまとめてくれた。
「預かり金がゼロになったら、ポイントは利用できないということですね。」
俊平は確認する。
「そういうことだ。利用できなくなると通貨としての信用はガタ落ちだ。そうならないように店から円を預かることが重要だ。」
俊平は共通ポイント発行について分かってきた。
「預かり金より多くのポイントを発行したらどうなりますか?」
俊平は念のため聞いてみた。発行したポイントが10万で、預かり金が1万ということもありえる。
「預かり金がなくなればポイントを利用できなくなるが、例外もある。」
例外と言われ、どうしても気になる。
「ポイント利用とは、ポイントを円に変換することだ。店が受け取ったポイントを円に交換しない場合どうなるか?預かり金は減らない。つまりポイントはポイントのまま存在し、通貨としての価値が高まる。そのポイントの発行権を持つ君達は錬金術を得たことになる。」
錬金術と聞いて圭吾の顔が変化する。明らかに興奮している。
「錬金術があれば俺は大金持ちだ。寿司は中トロ食べ放題だし、海外旅行はビジネスクラス、車はメルセデスベンツのEクラスに乗りたいな。夢が広がるぞ。」
商店街を救うための相談が圭吾の夢実現に変わってしまっていた。
それに欲しいモノ全て松竹梅の竹になっていることが気になる。大トロとファーストクラス、Sクラスを選ぶのが普通ではないか。金を持ってもコスパが重要なのか。 いや、コスパを重視するから金持ちになるのか。俊平には分からない。もしかして圭吾は深い話をしているのかもしれない。
「やっぱりドンペリの風呂に入りたいぜ。水を使わず純度100%で。」
思い違いだったようだ。圭吾は圭吾。いつも変わらない。
「ポイント発行時、他にも注意すべき点はありますか?」
俊平が質問すると橋爪は静かにうなずく。その時、ソファーの後ろに女性が現れる。
「私の質問にはまだ答えをいただけないのでしょうか。」
冷奈だった。少しイライラしているようだ。おそらくだいぶ前から待っていたのであろう。
「なんだ冷奈か。盗み聞きしているくらいなら、俺達の儲け話に参加してもいいんだぜ。」
冷奈は圭吾の言葉に反応することはなかった。それに儲け話ではない。
「悪いが午後にまた来てくれるか。16時過ぎなら空いている。」
冷奈はそれを聞き、よろしくお願いしますと言ってゼミ室から立ち去った。
それから1時間程、俊平は橋爪と共通ポイントについて深く話し合った。橋爪の知識は深く、それでいて現実を捉えている。やはり元トップバンカーだ。
橋爪に相談した後、俊平と圭吾は構内にあるカフェテリアに来ていた。カフェテリアというお洒落な名前がついているが、地下にあり全く日の光が入らない。天井のパイプがむき出しになっているので倉庫といった方がふさわしい。まだランチ前のため、学生の数はまばらである。二人は長テーブルをはさんでパイプ椅子に座り缶コーヒーを飲んでいた。「教授に相談していいアイデアは浮かんできたのか?
「だいたいまとまったかな。一度ダメになった共通ポイントを改良して提案するよ。今度はカードではなく、システム化してアプリを使う。それに・・・」
俊平は頭の中にある計画を説明する。順序よく話したわけではないが、圭吾は理解したようだ。
「事業計画書を作ろうぜ。今日は時間あるだろ。俺も手伝ってやるぞ。」
俊平は事業計画と言われてもピンとこなかった。
「これって事業なのかな。僕は商店街を救う方法を考えているだけだよ。」
「事業以外の何だっていうんだ。共通ポイントをシステム化するって言うけど、誰が管理していくんだよ。」
そう言われて俊平は商店街の人達を思い浮かべる。高齢化の縮図といっても過言ではない。控え目に言ってもシステムに強くはないだろう。
「確かに商店街の中にはいないかも。」
「そうだろう。だから俺達が代わりにシステムを管理していくんだ。」
いつのまに俺達の事業になっていた。
「俺に任せておけば大丈夫だ。有名な学生起業サークルに所属しているからな。」
「圭吾はそこで何をしているの?」
学生起業なんてミーハーな圭吾らしいと思う。とりあえず話だけ聞いてみることにした。
「主に事業計画書の作成を担当している。花天の四木谷社長は知ってるだろ。あの人の元右腕だった人にお前の計画書は売り物になるレベルだと言われる程だぜ。」
圭吾は自信満々に言った。俊平は違和感を感じずにはいられなかった。
「作成した事業計画書で起業しようとは思わなかったの?」
俊平は思う。事業計画って起業する人が作るのではないかと。
「俺にはまだ資本金となるまとまったお金がないかな。今は一所懸命に働いて将来ビッグになるんだ。」
ビッグになるなんて久しぶりに聞いた。事業計画を投資家にプレゼンして資本金を得るのが本来の流れではないか。
「今はその事業計画書を売って、お金を貯めているんだね。」
「カフェのバイトで貯めているぜ。バイトリーダーに抜擢されている。俺がいないとカフェが潰れてしまうと言われる程だ。この前なんてな・・・」
よく分からない自慢話が始まった。
「事業計画書を手伝ってくれるって言ったでしょ。売れる程の計画書だから僕はお金を払う必要があるってことだよね?」
俊平は聞いてみた。
「俺が友達から金を取る男に見えるのかよ。もちろん無料だ。早速取りかかろう。」
俊平は売れる計画書がタダになったことに驚くことはなかった。タダより高い物はないと言うが払う代償は何だろうか。圭吾が関わることではないか。そんな不安を抱えつつ、計画書作成は進むことになってしまった。