少女漫画と立花さん
あの頃、目に映る世界はキラキラした夢で溢れていた。
それこそ、一つに絞るのが難しくて両手から溢れるくらいにたくさんの“夢”を持っていた。
「まま! みはるね、おおきくなったら、ケーキやさんになる!」
「あら、どうして?」
「ケーキをいっぱいたべられるから!」
「ふふ……じゃあ、お菓子の作り方をたくさん勉強しないとね」
夢を見続けていればいつか叶う。頑張れば報われる。
そう信じて疑わなかった。
けれど、世界はそんなキラキラしたものではなくて、幸せな未来なんて夢見るだけ無駄。
ここは御伽噺の世界ではない。
ただの、薄汚れた現実世界だ。
◇
「貴女の連絡先を教えてくれませんか?」
レジの前に立ったその男性が表情を変えず、脈絡もなくそんな事を言うものだから、
「……は?」
接客勤務中であることも忘れ、思わず本音だって漏れてしまうというものだ。
(何を言ってるんだろう、この人……)
スーツに身を固めた長身はいかにも仕事ができそうで、微塵も表情の変わらない顔は冗談を言っているようにも思えない。
その証拠に、男性は落ち着いた様子で伝票をレジに置き、財布を取り出しながら真っ直ぐとこちらに目線をやる。
「ですから、貴女の連絡先を知りたいのです。教えてください」
(真面目な顔で意味わからないこと言わないでほしいんですけど……)
眼鏡のレンズ越しに私を映すその瞳は真剣そのもの。
顔立ちも整っていて、普通の夢見る女性ならこんなイケメンに連絡先を教えろと言われればノーとは答えないだろう。
「い……」
そう。普通の“夢見る女性”なら。
「い?」
「……嫌ですし意味がわかりません。お会計420円になります」
お生憎様。私はそんなメルヘン少女ではない。
「お客様、申し訳ありませんが当店はそのようなサービスを行う店では……」
「そうですか、分かりました。支払いはニャオンでお願いします」
(……なんなの、この人)
もっとしつこく聞かれるのではと身構える私をよそに、男性は涼しい顔で専用機器にカードをかざす。
ニャオン、という音と共に支払い完了の字が機械に表示され、私の差し出すレシートを男性は黙って受け取ると、
「ご馳走様でした、美味しかったです。また来ます」
その言葉だけを残し、一度会釈してから背を向けると、扉の向こうに消えて行った。
(本当に、変人だ……変人……でも聞き分けのいい人でよかった……)
しかし彼は、そんな“聞き分けのいい人”などではないのだと、私はすぐに思い知る。
「小鳥遊さん、連絡先を教えてください」
(……何だろう、このデジャヴ感)
話は約5分ほど前まで遡る。
「小鳥ちゃーん!」
「はい、何ですか?」
私の苗字は小鳥遊なのだけれど、他のバイト仲間は本人たち曰く『親しみを込めて』小鳥ちゃん、と私を呼ぶ。
作業の手を止め声のした方に顔をやれば、パートの木村さんは何やらにやにやと口元を緩めつつ伝票をカウンターに置いた。
「クレームですか?」
「ううん、違うわよぉ」
では何事だろうと首を傾げると、
「この席のお客様がねぇ、商品は小鳥ちゃんに持って来てほしいんですってぇ。直々のご指名!」
そう言いながら、木村さんは先ほど置いた伝票を人差し指でコツコツと叩き、空いた片手を頬に当てると「若いっていいわねぇ」と嬉しそうなため息を吐く。
恐らく……いや、ほぼ確実に木村さんの考えているような色恋沙汰ではないのだが、私を2人目の娘のように思っているらしい彼女は、この『指名』に春の訪れを感じたようだ。
(どうせ冷やかしか何かでしょ……)
接客業はお客様がいなければ成り立たない。
店員の対応の悪さは店全体へのクレームに繋がる。
「提供行って来ます……」
「はーい、行ってらっしゃーい!」
故にご指名を断るわけにもいかず、渋々ながら注文の商品と伝票をシルバーに乗せ、喫煙ルームの自動扉をくぐり中へ入った。
伝票に書かれた番号のテーブルのわきに立ち、
「失礼します、お待たせ致しました。ご注文のブレンドコーヒーでございます」
顔に貼り付けた営業スマイルを向けた先、ソファに腰掛けていたのは見覚えのある男性。
誰だったかと私が思い出すより早く、
「約束通り、また会いに来ました」
と、その男性は眼鏡のレンズ越しに私を見上げた。
そう、昨日のニャオン支払い長身男だ。
(約束なんてしてないっての!)
男性を無視して商品をテーブルに並べ、伝票を置いて立ち去ろうとしたのだが、
「追加オーダーをお願いします」
その男性は狙ったかのように声をかけてくる。
いや、完璧に狙ったのだろう。
(嫌です!)
と、言いたくても言えないのが接客業の辛いところ。
「……はい、お伺いします」
「チーズケーキを一つ」
(そんなのコンビニで買って来い!)
「それから、」
この男性の顔に表情筋など無いのではと思えるほどに、相変わらず表情は変化を見せない。
ただ、レンズの奥にある瞳だけは真剣そのもので、
「小鳥遊さん、連絡先を教えてください」
しかし、言動は相変わらず脈絡もなくふざけている。
「お客様、昨日も“嫌です”とお答えしたはずですよね」
「ええ、そうですね。しかし一日経ちましたので、もしかすると心境の変化があるのではと思いまして」
「ないです。嫌です」
なぜ『もしかして』何て考えが生まれたのか不思議で仕方ない。
そもそも、私なんかの連絡先を知りたがる意味もわからない。
可愛い女の子なら、周りを見渡せば他にいくらでもいるのに。
「とにかく、名前も知らない方に連絡先を教える気は……」
「あっ!」
私たち以外に誰もいない静かな喫煙ルームに、突如響く男性の声。
そして初めて彼の表情が変化を見せた。
「僕としたことが……ああ、すみません。そうですね、自己紹介がまだでした」
彼は慌てた様子で鞄やスーツの胸ポケットを漁り始めるが、対照的に私は冷ややかな気持ちでその姿を眺める。
(いや、言いたいことはそうじゃなくて……別に興味無いんですけど……)
正直言って今すぐ帰りたい。
「ああ、ありました。これ、僕の名刺です。携帯の連絡先も載っていますので」
「え、あ……はあ……」
……後で捨てていいかな。
差し出されたそれに目は通さず、迷いもなくズボンの尻ポケットに押し込んだ。
けれど、目の前のその行為に男性は全く不快そうに顔を歪めたりはせず、私をひたすら見つめてくる。
……やっぱり、変な人だ。
「立花秋人、僕の名前です。覚えていてください」
(何でだよ)
覚えていたところでこの先の人生で何の役にも立ちそうにない。
「あと、これも覚えていてください」
「……何ですか」
「僕は、小鳥遊さんに一目惚れをしました。よくある少女漫画では一目惚れから恋が始まり、ハッピーエンドを迎えます。僕はずっと少女漫画のような恋を夢見ていました。つまり小鳥遊さん、貴女が僕の運命の相手だと思っています」
無表情に低い声で少女漫画に関するマシンガントーク。
ひどく不気味だ。
ハッピーエンド? 運命の相手?
「……運命だとかハッピーエンドだとか、そんなのあるわけないじゃないですか」
ここは御伽噺のように、全てが上手くいってめでたしめでたしで終わるような、綺麗な世界ではない。
ハッピーエンドを夢を見るなんて、
「……バカみたい」
◇
いつもそうだ。勢いで余計な事を口走り、人を傷つけたと気付いてから、一人で自己嫌悪に陥る。
何て滑稽なんだろう。
『バカみたい』
あの時、私が唇から思わず落としてしまった言葉は、きっと彼……立花さんを傷つけた。
私は、彼の綺麗な夢を汚い感情で踏みつけてしまったのだから。
(流石に、言って良い事と悪い事がある……それも『一応』お客様なのに……)
立花さんは私の“それ”に怒るわけでも、悲しんで見せるわけでもなく。
それが逆に心苦しくて、あの日以降も変わらず毎日やって来る彼を、私は意図的に避けている。
(謝らなきゃ……一応、謝らなきゃ……でも、何て言えば……)
そんな事を考えながら、来店する彼の指名を無視し続け、早くも一週間が経とうとしていた。
そんなある日のこと。
「小鳥ちゃーん! ねえ、小鳥ちゃん!」
「……? どうかしましたか?」
「あのね、これ!」
慌てたように控え室に飛び込んで来た木村さんの手にあったのは、ピカピカと銀色に光る腕時計。
「これねぇ……ほら! 小鳥ちゃんを指名するお客様! あの人がさっきまでいた席にあったのよぉ! けど、もう帰っちゃったみたいでぇ!」
「はあ、そうですか」
そのうち忘れたことに気づいて取りに来るのではと考える私をよそに、木村さんはその腕時計を強引に私へ手渡し、
「小鳥ちゃん、お知り合いでしょぉ? 渡しておいて!」
私の肩を一度ポンと叩くと、拒否する間もなくフロアへ戻って行ってしまった。
「……えっ」
控え室に一人残される、休憩時間中の私。
これから食べようと広げていたお弁当もそのままに、腕時計を握りしめたまましばらく思考停止していた。
「……渡しておいて、って……別に知り合いじゃないし……あの人の連絡先なんか、」
そこでふと、尻ポケットの底でくしゃくしゃになった名刺の存在を思い出す。
「……っ、」
どうせ明日もまた来るのだから、放っておけばいい。
そう。そのはずなのに、
「……」
なぜ私の指は、彼の携帯番号を打ち込んでいるのだろうか。
『……はい、立花です』
「も、もしもし……あの、えっと、」
『……小鳥遊さんですか?』
緊張しているわけではない。
なのに、自己嫌悪に押し潰された心は喉を圧迫し、上手く言葉が出てこなかった。
まず先にこの前のことを謝らなければならないのに、
「……忘れ物、してます。腕時計」
唇までもが脳の指令を無視してしまう。
『……ああ、本当ですね。取りに行きます』
「え、いえ……別に、明日どうせ来るんでしょうし、その時に……」
『……今日、小鳥遊さんに会いたいので、取りに行きます。シフト、何時までですか?』
私なんかに会いたがる意味がわからない。
私には、そんな事を思ってもらえるような価値なんてない。
「……8時です」
『ではその時間に行きます。どこで待ち合わせますか?』
「……裏口」
『わかりました、ではまた後で』
彼の綺麗な夢を汚す権利も、私にはない。
「小鳥遊さん、こんばんは」
「……こんばんは」
午後8時7分。
バイトを終え裏口から出ると、先に来ていたらしい立花さんが扉のそばで屈んで待っていた。
彼は立ち上がりながら片手でズボンのお尻を軽く払うと、
「小鳥遊さんと久々に話ができて嬉しいです」
相変わらずの無表情で、そんな言葉を唇から落としてみせる。
「……これ」
綺麗な言葉は聞こえないふりをして腕時計を差し出せば、立花さんは「ありがとうございます」とそれを受け取りスーツの胸ポケットに仕舞った。
「それと……あの、」
「ん?」
「この前はすみませんでした。バカみたいとか言って……私に立花さんの綺麗な夢を汚す権利なんてないのに……立花さんのこと傷つけて、ごめんなさい」
いつだか彼が私にしたように、今度は私が彼に頭を下げると、
「……それでずっと泣きそうな顔をしていたんですか。傷ついてなどいませんよ、大丈夫ですから……泣かないでください、小鳥遊さん。顔を上げてください」
立花さんはなだめるような声でそう言って、ぽんぽんと私の頭を軽く撫でる。
誰かに頭を撫でられるなんて、何年振りだろうか。
「……泣いてません」
「それは良かった」
顔を上げ照れ隠しに軽く睨んでやったのだが、それすら見透かしているかのように彼はフンと鼻で笑ってみせた。
「それに、」
「……?」
ぼそりと落とされた言葉に思わず首を傾げると、
「やっと、小鳥遊さんの連絡先を知れましたしね」
(……あっ!? しまった……!!)
彼の見せるスマホ画面には、『小鳥遊さん』で登録された電話帳。
今すぐ消してくださいと言いたいのに、
「……名前も、覚えていてくれて嬉しいです」
そう言って幸せそうに微笑む彼の顔を、悲しみで崩す事が私なんかに出来るわけがなかった。
「実は繊細な一面もあると知れました。小鳥遊さんのこと、もっと教えてください」
「……私なんかのこと知りたがるなんて、変人」
「変人で結構です。次は下の名前を教えていただけますか?」
(誰が教えてやるものか)
◇
うっかり彼……立花さんに連絡先を教えてしまい、これでもうしつこくお店にやって来ることはなくなるだろうと思われた。
のだが、私の彼に対する認識と考えはとことん甘いのだと思い知らされる。
「小鳥遊さん、下の名前を教えてください」
「お待たせいたしましたー、ブレンドコーヒーでございますー」
「ああ、ありがとうございます」
そう、連絡先の次はこの有様だ。
下の名前を教えてほしいと、立花さんは連日お店にやって来て、ブレンドコーヒーだけを頼んで帰る。
「小鳥遊さん、下の名前……」
「ご注文は以上でお揃いでしょうか?」
「ええ、大丈夫です。ところで小鳥遊さん、下の名前を……」
「ごゆっくりどうぞー」
小鳥遊さん、下の名前を教えて。
小鳥遊さん、下の名前。
ここ最近、彼が口に出す言葉はずっとこれだ。
私はSi○iではない。
「あの、小鳥遊さん」
「……立花さん、勤務中の拘束も業務妨害にあたるって知ってましたか? 仕事の邪魔しないでください」
そして、先日少し優しくされたからと、恋愛感情に心ときめかせるような純粋な少女でもない。
小さな音を立てて伝票をテーブルの隅に置き、そのまま彼に背を向けてフロアへ戻る。
「……」
立花さんはいつもならここでその背中に追加注文の声掛けをしてくるのだが、先ほどの脅しがよほど効いたのか、珍しく何も言葉を投げて来なかった。
「小鳥遊さん、今日もお仕事お疲れ様です」
「……立花さん、何でいるんですか」
バイト終了後。裏口から出るとなぜか立花さんがそこで待っていて、いつだかのデジャヴを感じる。
立花さんは片手で弄っていたスマホをズボンのポケットにしまいながらこちらへ向き直り、
「勤務中に呼び止めるのは良くないと気付かされましたので。バイトの終わった後でなら、いくら話しかけても大丈夫かと思いまして」
相変わらずの無表情で淡々と言葉を吐いた。
たしかにバイト中に邪魔されるよりは幾分かマシではあるが、
「……小鳥遊さんの下の名前、教えてください」
なぜここまで私なんかに執着するのか、それだけは全く理解ができない。
「……立花さん、」
「はい、何でしょう? 下の名前を教えてくださる気になりましたか?」
「違います」
何て都合のいい思考回路をしているのだろう、この男は。
「……からかうなら、私よりもっと可愛い子がいっぱいいるんですから……そういう子にしてくださいよ」
そうだ。
彼のような顔の整った優しい男性には、私みたいに根暗で不細工の女じゃなくて、もっと可愛くて素直な子がよく似合う。
それなのに、
「……? なぜです? 僕が興味のあるのは小鳥遊さんだけですから、他の女性はどうでもいいです」
「だから……! からかわないでくださいって言って……!」
「からかってなどいませんよ。前にも言った通り、僕は貴女……小鳥遊さんに恋をしたんです。ですから、相手は小鳥遊さんでなければ意味がありません」
なのにどうして、立花さんはこんなにも真っ直ぐな言葉を向けて来るのだろうか。
なんで、私なんかに。
私には、恋してもらったり興味を持ってもらえたり……そんな価値など、一円もないというのに。
「……名前、」
「ん?」
「……下の名前、教えても笑わないって約束してください」
「わかりました、約束します」
私は、自分の名前が嫌いだ。
母の付けてくれた、
「美春」
美しくて、春のように暖かい女の子に育つように。
そう願いの込められたこの似合わない名前が、私は嫌いで仕方がない。
名前負けもいいところだと、今まで何度も他人に笑われた。
「……名前、美春です」
「美春……」
一言呟いたきり言葉を飲んだ立花さんを、恐る恐る伺うように見上げてみる。
どうせ彼も声を押し殺して笑っているのだろう、そう思っていたのに、
「……美春」
目線の先にあったのは、ただ嬉しそうに柔らかく微笑む顔で。
立花さんは、その三文字を確かめるように、何度も私の名前を呟く。
「……名前、似合わないでしょ。美春なんて……私は美しくも春みたいに暖かくもないし、」
「……小鳥遊さんは、自分の名前が嫌いなんですか?」
真っ直ぐに私を見つめる目には汚れがなくて、その眼差しから逃げるように目線を逸らし小さく頷いた。
「僕は、小鳥遊さんによく似合っていて、小鳥遊さんらしい名前で……素敵だと思いますよ」
同情のためのお世辞なんていらない。
そう言葉を投げつけてやりたいのに私の頭を撫でる彼の手がとても優しくて、その手の持ち主を傷つけてしまうことを、頭ではなくただ心が躊躇した。
「嫌いなら、僕がたくさん呼んで好きにならせてあげますよ。美春さん」
「……やっぱり、立花さんは変人ですね」
「構いませんよ。僕が変人でいることで、美春さんとこうしてお話ができるのなら……変人のままで結構です」
彼が何度も低い声でなぞる私の嫌いな“三文字”は、なぜなのか、今までで一番心地よい言葉に感じた。
――……変人の立花さんとは、まだまだ縁を切れそうにありません。
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