彼女の事情
朝起きたら、机の上にぽつんと小さな袋が落ちていた。小さな物音ですら起きるように訓練されているミリアには珍しく全く気がつかなかった。
白猫が開けてみてと言いたげに前足でつついている。
中身はビスケットと飴がいくつか。
厨房からの差し入れ。届けるのが遅くなってごめんね。と走り書きが入っていた。
「あなたの飼い主は、律儀な人なのね」
明日までこないと言っておきながら、おそらく夜遅くに届けたのだ。ひっそりと静かに。
「うにゃ?」
「ちょっとあれでは今まで困ったのではないかしら?」
「うにゃあ。にゃ、にゃー」
白猫はそうだそうだと言いたげに訴えてくる。ミリアはこの猫に見える生き物と会話することに慣れてきた。
人を相手するよりよほど気楽だ。
ビスケットをかじると素朴な粉の味がした。豪華な食事よりずっと満たされる気がする。
朝、と言ってはいるが、実際のところ昼に近いか、既に過ぎているだろう。起こされねば、延々と寝ている。
もっとも、誰かが入ってきた気配などで起きてしまうのでそれもまた珍しいのではあるが。
白猫は足下で毛繕いをしていた。
この猫が動いていても、ミリアは全く気にならなかった。おそらく、彼女よりは早起きで活動はしていたはずだ。それでも目は覚めない。
生き物の気配がないのかもしれない。
「うにゃ?」
不思議そうに見上げてくる猫の頭をそっと撫でる。そこにある温かい感触にほっとした。
思うよりも参っているのかもしれない。
昼も薄暗く、夜になれば暗い暗い闇の底。牢屋というのはそういう場所だ。人と接触もほとんどなく、話をする相手もいない。寂しいとは思わなかった。
一人で、自由だと思ったのだ。小さな頃と同じようなものだから、慣れていた。そう思っていた。
ここに入れた男は皇太子の側近だったはずだ。顔に覚えがあった。確か、名前はディートリヒとかなんとか言ったはずだ。
かわいそうにと哀れむように言われたが、全く何とも思わなかった。きちんとした寝床も食事もある。着替えも用意されているのだからよい待遇とさえ思う。
ミリアの立場は皇太子の気分次第で変わるものだ。これを見たら激怒するかもしれないなとちらりと思った。おそらく、彼は知らない。
皇太子本人は、用があると国内に入ってすぐに帝都に戻っていった。すぐに戻ると甘く優しく微笑んで言っていた。
ミリアはそれを普通の娘であったら頬を染めるのであろうなと冷静に見返していた。返答すらしていない。どこから言質を取られるかもわからないのだから、人としてどうかという態度でも良心が痛むことはなかった。
だが、やはり心証はよくないのだろう。ディートリヒはミリアの世話をしながらもどこか冷ややかな対応だった。嫌々仕方なしが透けて見える。
断られたのですから捨てたらどうです? などと言っていたのを聞いていた。もちろん皇太子に激怒されたわけだが。
そのディートリヒはここには顔を出さない。
昨日は食事を半分ほど残したように見せかけたが、なにか反応は返ってくるであろうか?
なにか盛られているかもしれないと聞かされて、少し味見はしてみたのだ。
ミリアは嗜みとしてなどと言われ毒物にも慣らされている。多少ならば害はない。いくつか知った刺激を感じたので、確かになにか入ってはいたのであろう。
通常の流通には乗りそうもない麻薬に似たものがあった気がしたのだが、気のせいと言うことにしておく。
長期摂取で廃人確定のものは危なすぎる。
それほど、嫌われたのだろうか。ミリアは首をかしげる。
婚約を破棄したと王子が言ったところで効力はない。王家との取り決めなのだから、契約書の破棄をもって成立する。
破棄宣言をされてもまだ婚約者のままであり、その状態で他人の求婚を受けるなど不貞である。
だから、断るのが当然である。しかし、あの場にいた誰もが受けいれると思ったらしい。妹ですら、ぽかんと口を開いて、ほんきなの? と呟いていた。
ミリアにしてみれば、雰囲気で流されて応じるなどあり得ない。
現在も婚約は破棄されていない。破棄するには当人の同意と署名が必要であるから。彼らのやっていることは、求婚に応じないため、婚約者のある娘を拉致監禁している、である。
そして、戻ったとしても破談が確定している。連れさらわれた時点で、傷物扱いをされるだろう。
現時点でのミリアができることなど、泣き寝入りして皇太子に嫁ぐか、逃げるか、死ぬかくらいである。
いったいどこに好意を持てというのだろうか? 説得するならまだしも、意識を失わせ強引に連れ出すような男のどこに?
「呪えばいいのかしら」
ふぎゃっと足下から声がした。踏んだりしたのかと思えば全く違ったようだった。力加減を間違えた気もしない。
「ごめんなさいね?」
よくわからないままにミリアは謝罪した。
考えないようにしていたが、現状に苛立ち、怒りも覚えていたのだ。
今まで十年かけて教育されていた成果も全て水泡に帰した。
ミリアに施されていたのは、王妃のそれではない。王の代わりを務められるほどのものを詰め込まれたのだ。
さすがにそこまでは予想してなかったのかもしれない。
ミリアも初めは、王子になにかあったときのために用意されたのだと思っていた。
両親の望みは、既に知っていた。美しい妹は、王子の子を産み愛されるため。ミリアは、王妃としての職務を果たすために用意された。それは王家も了承している。
両方をこなすのは不可能であると判断されたのだ。
なぜ、という疑問をもたなかった。現在の王妃は、3人の子を持ち王妃の職務も行っている。それがミリアにできないとは思えない。
王も複数の愛妾はもっているが、本来は産まれた子に継承権はない。
妹の子を後継者とするなどおかしかったのだ。
王の後継者に期待されたのは次代の血を繋ぐこと。それ以外の職務は彼女がこなすことになっていた。
王子は優秀ではあったが、王には向かないと判断された。その判断は感情的過ぎる。感情と判断すべきことを切り離すということが出来そうにないと見限られた。
故に好きにさせていたという側面はある。
おそらく、両親よりも両陛下に可愛がられていたのだろう。下心はあるにせよ、その優しさはミリアも恩に感じている。同様に恨んでもいるが。
ミリアは前妻の子であり、継母や妹とは折り合いが悪かった。どちらかと言えば、相手から嫌われていたようだ。その延長線上に、関わりたくないと思っているらしい父がいた。
両親にとっては娘は妹のみで、ミリアは戦略上の駒に過ぎない。必要なものは揃えるが、構うことはしなかった。
それさえ妹には気に入らなかったように思える。次期王妃にみすぼらしい格好をさせることも教育を与えない事も許されることではない、とは考えつかない。
甘く優しく毒にひたされたかわいそうな妹。ミリアにはそうとしか思えない。
「本当に、どうする気なのかしら」
国王夫妻が戻り、事実はどうあれミリアが隣国に連れて行かれたと知れば激怒するだろう。今頃、取り戻すべきか、暗殺すべきか決めているに違いない。
おそらく家は没落するだろう。ミリアには価値があった。見誤ったのは両親であり、妹であり、元婚約者の王子である。
廃嫡やむなしと判断されるか、さっさと子作りさせて孫を早急に育てるかという話になる。王太子のまま、王になれず過ごすしかない。
陛下たちは他国に婿入りした王弟の子に継承させる事態だけは避けたいに違いない。国内に該当する男子がいないだけで、外国人で良ければ継承可能な男子はいくらでもいる。
あるいは、少し遠くなるが姉たちの子でも男子はいるのだ。
直系男子にこだわるべきかは、彼らが考えるべきだろう。ミリアはもう、舞台から下ろされた。国に戻ったところで居場所はない。良くて修道院に行くくらいだろう。
ただ一度のお茶会で、全て無駄にされた。
恨み、憎む理由には足るだろうか。
それでも、国を裏切るまでには至らない甘さを嗤うべきだろうか。ミリアは身の振り方を決めかねている。
「本当に、助けてくれる?」
「うにゃ?」
「それなら」
どうして欲しいのだろうか。
ミリアは、どうしたの?と言いたげな白猫のあごの下をなでた。誰かに助けを求めるなど、今まであっただろうか。
利害関係の一致ではなく、ただ、助けてと。
「なんでもないわ」
へんなのー、それより撫でてよ。
そういわんばかりの態度で遊びを要求してきた。ミリアは目についた、赤いリボンを手にとった。