地面の下から初めまして。2
「下よ」
「うん。わかった。すごく、びっくりした」
聞こえた若い男の声。ミリアは最初は猫の声が聞こえたのだ。ついに幻聴を聞くようになったのかと思ったが、続く男の声に違う事に気がついた。
ミリアの想像には、猫と会話するような男はいなかった。
楽しげに、じゃれ合うような掛け合いは、気心しれた友人同士のように気安かった。
だから、つい声をかけてしまった。安心出来る相手などどこにもいないと知っていても。
ミリアがいるのは地下牢だ。とは言っても場違いなベッドが運び込まれ、家具も置かれている。それを見るだけならばとても地下牢とは思えないだろう。
だが実際いると壁が石のため冷たく、少々かび臭く、時折動物がやってくる。
昼も夜も危険だからと明かりはない。明かりとりとしてかろうじて、窓があるが腕の一本も通すのがやっとという隙間だった。
机の上に台を乗せて、その上に登るなどやったこともない。はしたないと言う侍女も家庭教師も、もういない。
監視すらこの部屋にはいなかった。ただ、どっしりとした扉が閉まっている。食事時に小窓が開くだけの扉。
ミリアが外へ出していた手を抜き取る前にざらりとした何かが舐めていった。少しだけ赤くなった指先が、少し痛いが大したことではないだろう。
「こらっ! うちの相棒が失礼しました」
足音と近くなる声。猫の白い足がミリアにも見えた。
行儀悪くミリアは机の上に乗せた台に座る。話をするには、下は遠い気がした。さすがにそこまで大きな声ならば、扉の向こうに聞こえそうだ。
「にゃあ?」
「ダメに決まってるだろ」
「うにゃ?」
「かわいこぶってきもい」
「ぎゃうっ!」
「い、いいのよ。今日は何日か教えてくださる?」
笑いがこみ上げてきた。この一匹と1人はやっぱりおかしい。
ミリアは笑いを含んだ声で、問いを外に投げる。
「んと。5月の30日だったかな。明日から6月」
「そう。ありがとう」
既に一週間は経過している。求婚を断ったミリアをさらうように、あるいは押しつけるように国を出されて。
王太子はなにを考えているのか。
おそらくは、邪魔者がいなくなり愛しい女性との生活を夢見ている。
実際は、戻った王、あるいは事態を知った姉たちに叱責されている頃だろう。肝心なときに役に立たなかった狸じじいにやり込められているかもしれない。
しかし、既に遅い。
ミリアの価値は、血筋でも、容姿でも、ましてや性根でもない。
十年に及ぶ王妃、あるいは為政者としての帝王学を学び、王の代わりを務めることを前提とした教育をされていること。そして、それを身につけたこと。
これに尽きる。
婚姻するのは半年も先ではなかった。そのため、国内の機密情報までも知っている。これが他国に流出するとどうなるか、とは考えなかったのだろう。
そうでなくても教育結果だけを持って行かれるというのは怒りを買うに違いない。
「地下牢に入れられるようなことやらかしたの?」
「求婚を断っただけよ。なのにこの仕打ち。なってないと思わない?」
「断っただけで牢に入れる男なんてろくでもないから、断って正解」
渋い声が返ってきて、同意するようににゃあにゃあと鳴き声が聞こえる。
「皆が非難したわよ。それなら私がと妹さえ言い出した」
「口説けないなら諦めろ。と僕は思うけどね。振られ男が未練がましい。……ところで、無体なことされてない?」
「お綺麗なものよ。何かしたら死ぬと言っているもの」
「……ずいぶんと気が強いお嬢様で。ちゃんとごはんもらってる?」
「ええ、十分とはいわないけれどね。私がいることを誰か知っている?」
「うーん。わからないな。僕も昨日、ここに来たばかりだから。
あ、僕は一応、冒険者してて、国を出ようとしたけど国境の出入りが厳しすぎて出られなくてこんなところに出稼ぎにきたんだ」
彼はミリアに軽い口調で、現状を伝えてくる。異常としか言いようがないことなのに今日の天気のように軽く。
ミリアは思わず窓を見上げれば、猫の青い眼がこちらを見ていた。
「にゃっ!」
挨拶されたように感じる。
「こいつはクリス様。様つけないとご機嫌損ねるからよろしく」
苦笑いで猫の名を告げられる。
「にゃにゃっ!」
「えー、本気?」
「にゃっ!」
嫌そうな声に抗議するような猫の声。
「クリス様がそちらにお伺いします。あと、数日、相手してやって。隠れる必要があるときはちゃんとわかって見えないところに行くから、気にしないで」
「え?」
「僕は、昼休みが長すぎると怒られちゃうから、明日もこのくらいに」
じゃあねと軽い声と白いものが降ってきた。
ふわふわで柔らかいものは。
「うにゃっ!」
よろしく! と言いたげに元気よく挨拶した。
「……よろしくね、クリス様」
ご機嫌な毛むくじゃらはすりすりとミリアに頭をこすりつけてくる。クリス、という名に引っかかりを感じたが、柔らかい毛並みの前ではそれもすぐに忘れてしまった。