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夢観の八葉

海底、ガラスを鏤めた

作者: 穹向 水透

15作目となります。春の終わり頃の海での話です。

       1


 海を眺める度に思うのは憂鬱だった。

 確かに海は綺麗で、雄大で、神秘的だ。しかし、それは海との距離がある人々の言葉だ。

 小さい頃から「お前は漁師になるんだぞ」と散々言われてきた。しかし、海晴(かいせい)には漁師である父親の姿が格好良くは見えなかった。

 父親は口癖のように「海は魂の鏡」と言っていた。海晴には未だに意味が理解できない。父親に意味を訊ねると必ず「漁師になればわかる」と答える。海晴はその答えを知ることがどうでもよくなった。海晴が海を見ても感動できなくなったのは、他ならぬ父親の所為だ。

 父親は豪放磊落といった表現が似合う人物だ。しかし、あまりに些事を無視するので、小さな問題が大きく成長することが屡々ある。豪放磊落というより間抜けとも言えるような場面が多々ある。

 父親の所為で海に対しての想いを失ったが、父親のことは尊敬している。彼なくしては、家は存続できない。豪放磊落な彼の生き様は、海の上にいると目映い光を放つそうだ。事実、この一帯の漁師で最も魚を獲るのは彼なのだ。父親の船が帰ってきた時の歓声は、まるで黒船の来航、或いは神様が渡ってきたかのような盛り上がりを見せる。昔はそんな父親が誇らしかった。





 波止場では海猫が啼いている。海晴は父親の船のひとつで昼寝をしていた。季節は春の終わり。まだ夏というには朗らかすぎる気候だ。

 海晴は胸の上に置いた漫画本を鞄に仕舞う。どうやら居眠りをしていたようだ。漫画本は潮風に煽られて少し傷んだように思えた。しかし、古本だったので気には留めなかった。

 ひとつ、大きな欠伸をして、身体を起こし、鞄の中からサンドイッチを取り出した。本来は昼休みに食べる予定のものだ。サンドイッチには刺身が挟んである。朝、海晴が急いで作ったので、具のバランスなどは無視されている。使い過ぎたマヨネーズが、味を重いものにしている。寝起きの身体には毒のように思えた。

 サンドイッチを胃に押し込んで、また仰向けになった。

 再び眼を閉じた。海猫の声は子守唄、波に揺られる船は揺りかごのようだ。海晴は考え事をしていた。考えていたのは、特に纏まりのない、宛ら原始の海のようなものだった。

「海晴、お前、学校は?」

 海晴は眼を開けた。

「あー、きっちゃん。ちょっと、具合が悪くてさ」

「嘘だな、それ」

「うん」

「きっちゃん」というのは父親の仕事仲間で、名前を嶋波毅一(しまなみ きいち)という。気さくな人物で、海晴とも親しい。

「きっちゃん何してんの?」

「釣りしようと思ってな。おれの竿とか船に置いてあるんだわ」

 彼は船室を物色し、黄色い竿を手にした。

「海晴もやる?」

「やる」

 毅一がまた船室を物色し、赤い竿を海晴に渡した。それは同じく仕事仲間の早方(はやまさ)という青年のものだった。

 ふたりは波止場を移動する。いくつもの船が揺れており、その間を海猫が滑らかに飛んでいく。

「いい気温だよな。暑くもないしさ」

「そうだね。昼寝にもぴったしだ」

「お前、今日はどうして抜けたんだ?」

「えっと、まぁ、喧嘩だよ、喧嘩」

「またやったのかよ。懲りないねぇ」

 毅一はそう言って笑った。

「今回は何の教科だ?」

「数学」

 海晴の言う喧嘩は物理的な暴力ではない。言葉による暴力、要するに口喧嘩だ。今日は彼が教師の不備を指摘したことに由来する。「反抗的な生徒は廊下に立たせる」という古風なルールに則り、彼は出されたが、彼は廊下に立つと見せ掛けて、荷物を持って学校を抜け出したのだった。

「いいよなぁ。父親がその辺のことには寛容だから。あんまり怒られないんだろう?」

「まぁね。親父も人のこと言えないだろうし」

 ふたりはひっそりとした堤防までやって来て、糸を垂らした。ここは穴場として地元民に知られる場所だ。ものの数分で、毅一は小振りだが引き締まったメジナを釣り上げた。少し遅れて、海晴も釣り上げた。

「カゴカキダイか。食ったことないや」

「美味いらしいけど、それは小さすぎて焼くには向いてないかもな」

 ふたりは雑談を交わしながら、二時間ほど釣りを続けた。穏やかな気候が時間の感覚を奪い去っているようだ。釣れた総数は十二。まずまずである。メジナとカゴカキダイがほとんどを占めている。ふたりは魚を焼くために七輪を船から持ってきた。取り敢えずは塩焼きにした。

「美味いな、カゴカキダイ」

「小さいけどね」

「充分だろ」

 そんなことを言いながら、四分の三の魚を消費した。残りは毅一の夕飯になるらしい。

「海晴、与之洋(よしひろ)さんに、明日の飲み会は参加できないって伝えといてくれないか?」

「おっけー」

 海晴は親指を立てた。毅一も親指を立てる。

 海晴は真っ直ぐ家に帰った。

 まだ父親は帰宅しておらず、洗濯物が干したままになっていた。海晴はまず洗濯物を取り込み、居間に掃除機をかけた。そして、戸棚からチョコチップクッキーを取り出して、テレビのスイッチを入れた。この時間は刑事ドラマの再放送がやっている。海晴は刑事ドラマが嫌いだ。それは彼の頭の良さに由来するのだが、それは推理小説などでも同じで、ノックスの十戒を完全に無視したようなものでないと面白味は皆無だった。すぐに犯人がわかってしまうことの味気のなさは言葉にし難いものがある。

 彼は棚から適当にビデオを取り出した。スター・ウォーズらしいが、シリーズのどの作品かは不明だったが問題はない。彼はナンバリングを確認せず、作中のシーンで時間軸を予想することが好きなのだ。

 右手にチョコチップクッキーを持ち、左耳からはお気に入りのアーティストの音楽を注ぎ込む。勿論、両の視線はテレビに向けられている。

 海晴が四枚目のクッキーを口に入れた時、玄関でチャイムが鳴った。漁業組合の人だろうか、と考えながら扉を開けると、知った顔の老人が立っていた。

「あ、名嘉伊(なかい)さん」

「やぁ、海晴くん。お父さんはいるかい?」

「まだ帰って来てない」

「そうかね。それじゃあ、帰って来たら、『名嘉伊が戯れ言を言いたいらしい』と伝えて欲しい」

「いいですよ」

 断る理由などない。

 名嘉伊は世間話を少しした後、自宅へと帰って行った。名嘉伊の家は高台にある白い洒落た二階建てである。彼は海岸の漂着物を用いたオブジェを作っている。確かに立派なものだが、芸術性の低さを自負する海晴には明確な評価が下せない。近代芸術よりは理解し易いが。

 スター・ウォーズがクライマックスに入った頃、父親が帰宅した。彼は両手にビニール袋を持っていた。

「おかえり」と海晴。

「おう」と父親。

「毅一から聞いたぞ。学校、抜け出したんだってな?」

「うん」

 父親は豪快に笑った。

「いいねぇ。青春って感じだな」

 そう言って海晴の頭を小突いて、彼は台所に立った。夕飯は基本的に父親の役目だ。

「適当でいいか?」

「うん」

 父親の料理は美味い。というより、漁師たちはみんな料理の腕があるように思える。今日のメニューはサバの味噌煮、エビのサラダだった。

「あ、さっき、名嘉伊さんが来たんだけど」

「おう」

「戯れ言を言いたいって」

「あー、わかった」

 父親は白米に納豆をかけた。海晴は白米と納豆は別々に食べる主義である。納豆が温くなるのが好きではなかった。

「なぁ」と父親。

「何? またいつもの話?」

「……」

「僕は漁師にはならないよ。やりたいことがある」

「やりたいことって何だ?」

「研究だよ」

 父親はゆっくり息を吐く。

「何の研究だ?」

「海洋学」

 父親は小さく唸った。

「……確かに、お前の頭なら大学にも行けるだろうし、実際、研究とかの方が向いてるかもしれないな。だが、うちは世襲制で、お前は一人っ子だ。わかるよな?」

「その伝統に腰掛けた古臭いシステムがダメなんだよ」

「違う。おれたちの役目は他には任せられないんだ。だから、世襲制なんだ。おれがいつも言ってるように……」

「『海は魂の鏡』でしょ?」

 父親は軽くふんぞり返り、息を吐いた。

「ああ、その通りだ。おれたちにはそれを守るって役目がある」

「それは世襲制である必要がある?」

「広めるべきではない。先祖たちの時代から、それを管理するのはおれたちだって決まってる」

「答えになってない」

 海晴は茶碗に残っていた米を口に入れて、腰を浮かした。そして、部屋に直行した。父親は何かを言いかけたが、海晴の耳には届かなかった。

 部屋に戻った彼は、K大学の甲殻類に関する論文を読み始めた。K大学は海晴の志望校のひとつで、主に水産業で著名な大学だ。最近では、深海生物の飼育に力を入れているというが、それが海晴にとっては充分過ぎるほど魅力だった。

 海晴は昔から深海と、そこに棲む生き物が好きだった。海洋学を学びたい原点はそこにある。海の生き物は嫌いではない。寧ろ好きだ。各々の独創的な進化を見ると心が跳ねる。しかし、漁師になると、あくまで需要のあるものが狙いとなり、彼の本命とも言える深海には手を届かせることが困難になる。これは海晴の偏見でしかないが、彼は漁師という仕事にとって自由というものの縁など皆無だと考えている。

 論文を読み終え、取り敢えず、棚にある甲殻類の図鑑を手にした。スベスベマンジュウガニという有毒のカニが名前のインパクトひとつのために大きく紹介されている。この図鑑の欠点は、流行などに見事に流されている点であった。

 玄関の方からチャイムが鳴った。父親が外出したか、来客かのどちらかである。どうやら、正解は後者だったようで、それは毅一の声に似ているようだった。ここで海晴は、毅一に頼まれていた伝言を脳の影に置いていたことを思い出した。しかし、仮に毅一が来ているのなら、そんなことを伝える必要はなくなる。

 暫くして、ドアが閉まる音がした。その後、物音が途絶えたことから、父親が外出したことがわかった。恐らく、酒だろう。この町のまともな居酒屋など五本の指で足りる。そもそも、店としてカウントしていいのか不明なものも多数ある。

 海晴は何も持たずに家から出て、自転車に乗った。少し漕ぎ出しただけで、晩春の夜風が優しく彼を包んだ。彼は海瀬(うみせ)商店のあるT字路を右に曲がった。左に行くと隣町である。右方向にひたすら進む。波が砕ける音が漆黒の海から聞こえる。彼は周囲の雑多な音に惑わされることなく漕ぎ続けた。この行為に目的などない。不満の発散か、単純に気が触れたか。少なくとも、海晴はどちらでもない。近いというなら後者かもしれない。

 彼は家から五キロは離れた地点まで来た。そこには丘がある。昔、教会があったそうだが、この町の住民には受け入れられず廃れたらしい。今は何もない。ただ、短い草が夜風に戦いでいるだけだ。

 ここからは海が遠くまで見渡せる。高さだけで言えば、海猫病院の方が高い場所にあり、遠くまで見えるのだが、景色のクオリティではこちらの方が勝っている。この場所に名前などなく、海晴は「海の見える遺跡」と勝手に名付けた。そもそも、人の往来など普段はない場所なのだ。

 彼は海を何も考えずに眺めていたが、あるものが眼に入ったことで思考が復活した。それは夕夏島(せきかとう)という小島の近く、いや、実際には離れているのかもしれないが、その付近の海がぼやぼやと白く光っていたのだ。彼はその現象が何かを即座に判断するほどの知識は持ち合わせていなかったし、考えても何かはわからなかった。それは時々大きさを変えながらも、同じ場所で光っている。

 彼はその現象の答えを見つけようと、ひとまずは帰宅した。まだ父親は居らず、彼は自室でそれらしい本や論文を手当たり次第に読んだ。しかし、期待したようなものは見つからなかった。やがて、時は過ぎ、日を跨いだ。彼は急激な眠気に襲われたため、本や論文を机に放り出したままで眠りについた。


       2


 翌日、学校へは行かず、現象の秘密が気になったので、自転車で隣町の図書館を訪れた。図書館には六時間いたことになり、その間のずっと、現象に関することを探し回った。最も有力なのが、生物による影響であった。赤潮や青粉などのように、何かが大量発生し、海を光らせたのではないのだろうか、というものだ。夜光虫の可能性も考えたが、どうも光り方が異なる。青ではなく、白い。白銀と言っても間違いではない。

 彼は新たな情報を得られないまま帰宅した。その途中で名嘉伊に会った。彼はオブジェ製作に使うと思われる、一見したところはゴミにも見えるものを袋に入れて抱えていた。

「おや、海晴くん。学校はどうしたんだい?」

「俗に言うサボりです」

 名嘉伊が笑う。少年のような笑顔だな、と海晴は思った。

「海晴くん、お昼まだかい?」

「はい、そうですけど」

「じゃあ、うちへおいでよ。ご馳走しよう」

 海晴はすぐに承諾した。別に断る理由もないし、あわよくば、彼から現象の秘密についての助言を貰おうと考えたのだ。名嘉伊という老人の素性はよくわからないが、何かしらは知っていると思ったのだ。

 名嘉伊の家はよく見るが、行ったのは初めてだった。遠くから見るよりも立派な建物だった。「これは私の子供が建てた家なんだよ」と彼は説明してくれた。表札には「名嘉伊」ではなく、「灯鏡」とあった。彼が訊ねると、「それはヒカガミと読むんだよ。息子の苗字だよ」と答えた。きっと、複雑な事情なのだろう、と海晴は察して話題を転換しようとした。

「まぁ、理由は非常にシンプルでね、昔、私が妻と離婚した時、親権は妻が獲得したんだ。それで息子は妻の旧姓を名乗っていた。しかし、妻の死後、彼は私のいる、この町へ帰って来たというわけだ」

「えっと、その息子さんたちは?」

「今はもういない」

 名嘉伊は優しく微笑んで答えた。海晴は何と返せばいいのかわからずに立ち尽くした。

「少し待っていてくれ」と名嘉伊が言うので、海晴は庭にあった椅子に腰掛けた。ここから見る景色も、なかなかのクオリティだ。

 彼はコピーしてきた資料を取り出した。あまり重要性があるとは思えなかったが、些細な材料が決定打となり得る可能性を捨てきれずに持ってきたのだ。唯一、役に立つと思われたのは、郷土資料室にあった「鏤鏡海記(るきょうかいき)」という本であった。この本には、この地域の海に関する様々な事柄が記されていた。その中のある頁に、「近海は鏡を擲った様だ」という記述があった。恐らく、これはあの現象のことだ。その本は貸し出しが不可能だったので、コピーを大量に持ってきた。続きを読もうとした時、名嘉伊が料理を運んできた。

「待たせたね」と彼が運んできたのは、シーフードパスタとシーザーサラダ、オレンジジュースだった。美味しそうな匂いが海晴を包んだ。

 名嘉伊も席に着き、まずはオレンジジュースで乾杯をした。何のための乾杯か不明だったが、悪い気分のものではない。

 まずはパスタを口に運んだ。彼はパスタを巻くのが巧いと自負している。シーフードの風味が口一杯に広がる。

「美味しい」と無意識に口から零れた。名嘉伊は「そりゃよかった」と嬉しそうに微笑んだ。

「料理を振る舞うなんて久しぶりだったからね、ちょっと不安だったんだよ。ああ、安心した」

 名嘉伊はシーザーサラダを皿から取ろうとした時、テーブルの端に置いてあったコピーを眼にした。

「これは?」

「ああ、えっと、『鏤鏡海記』って本のコピーです」

「ふむ。ああ、なるほどね」

 名嘉伊は少し読んで理解したようだ。

「君は、海が白く光る現象を見たわけだ」

「はい」

「先に教えるが、生物的な要因ではないよ」

「え、名嘉伊さんは知っているんですか?」

「まぁ、一応、研究者の端くれなんでね。調べたことがあるんだ」 

「結論から言っていただけると嬉しいんですが」

「そうだね……」

 名嘉伊は目線を上にしながら、パスタを口に運んだ。彼は指を折って何かを数えているようだった。

「じゃあ、今夜。与之洋さんには私から伝えておくよ」

「え、何で親父?」

「船が必要だし、それに、これは君の将来に大きく関わる可能性があるからね」

 海晴には名嘉伊の言う意味がまだよくわからなかった。

 料理を平らげ、多少の雑談をした後、彼は帰宅した。夜までの時間を潰すために、釣りに出掛けることにした。昨日の場所へ向かうと、毅一と早方元基(げんき)が糸を垂らしていた。今日は船を出しておらず、父親も隣町へ友人とゴルフに出掛けた。

「おっ、またサボりかお前は」と毅一が呆れた顔で笑う。「出席日数足りなくなっちまうぞ」

「まだ大丈夫。というか、きっちゃんが思うほどサボってないよ」

「そうなのか」

 早方元基は無表情で糸を見つめている。彼はこういう男なのだ。感情を表に出すことが滅多になく、行動も機械的な人物だ。

 海晴は毅一の横に座り、糸を垂らした。

「早方、今、何を考えてる?」

 毅一が訊ねる。

「……フェルミ推定」

「え?」

「このエリアにどれだけのメジナがいるか。しかし、材料が乏し過ぎるな。中止する」

 早方の考えていることは基本的に不明だ。仕事が出来て、酒に滅法強いということだけが知られている。

「なぁ、はやまっちゃん」

 彼が少しだけこちらを向く。

「夜、海が白く光る現象の要因ってわかる?」

「夜光虫じゃないの?」と毅一が口を挟む。

 早方は顎に手を当て、少し考えた後に頷いた。

「わかるの?」

「……この付近の特有な現象と言える。『鏤鏡海記』を参照すれば、僕の説明なんかよりもわかりやすいように書いてある」

 彼はそれっきり喋らなくなった。

 夕方になるまでにメジナとカゴカキダイが大量に釣れた他、大きめのアオリイカが釣れた。





 夜、夕飯を食べた後、名嘉伊が家のチャイムを鳴らした。父親は仮眠をとると言って、ソファに横になっている。

「やぁ、海晴くん。準備は大丈夫かい?」

「僕は。あとは親父だけ」

 海晴は父親を起こし、準備をするように促した。普段なら文句を言うが、今日は違う。帰って来た時から、やたらと上機嫌なのだ。飲み会も参加せずに帰って来た。しかし、父親は眼を見開いて言った。

「……酒、飲んじまった」

 船と言えども、飲酒状態での操縦はいけない。父親は電話を掛けた。

「おい、毅一、今からこれるか? えぇ、ダメ? ……仕方ねぇな。わかった、すまんな」

 次に別の番号を押す。

「……お、元基か? 今から来れるか? ん? 来れる? あいよ。一応、訊くが、酒は飲んでないよな? うん。おっけー、頼んだ」

 相手は早方で、操縦担当は彼に決まったようだ。

 早方は五分ほどしてやって来た。その時には、父親も準備を終え、四人で波止場まで歩いた。

「……何でそんなに上機嫌なんだ?」

 海晴が父親に訊ねる。

「そう見えるか?」

「うん。はやまっちゃんもそう思うよな?」

「比較的」

 早方は機械的に答える。

「しかし、酔いが回った時の方が顔は緩んでいる」

 波止場までの距離はさほどない。雑談をしながらであればすぐに着く。まず早方が乗り込み、発進の準備をする。海晴たち三人も乗り込んだ。

「久々だから緊張するよ」と名嘉伊。

「船が? それとも、現象が?」

「どちらもだよ。普段は浜辺までしか行かないからね」

「その現象って貴重?」

「頻度の話かい?」

「まぁ、それもあるけど、世界的に見て」

 名嘉伊は顎を擦る。

「ふむ。頻度はそれほどでもないが、場所が限定されているからね。貴重と言って問題はないと思うよ。現在のところ、同様の現象が確認されている例はないんだ」

「そうなんですか」

 海晴の期待は膨らんだ。海洋学者を志す者として、他と一線を画す現象を目の当たりにするのではないか、という期待だ。

 船は音を立てて動き出した。最初は緩慢だが、すぐに速度を上げる。目的地までは、波止場から二キロ程度の場所にあるらしく、期待が風に流れる前に到着した。

「ここ?」と早方に訊ねると、彼は無言で頷いた。

 そこは周囲と変わらないように思えた。一方を向けば海岸、もう一方には夕夏島。目測した距離で言えば、間違いはない筈だ。

「ここで合ってるぞ」と父親が言う。

「早方、水中カメラあるよな?」

 早方が頷く。

「じゃあ、それで撮ってくれ。取り敢えず、一枚でいい」

 早方はカメラを水に浸け、調節などをすることなくシャッターを切った。一瞬、夜の海が白くなった。彼はカメラを父親に渡して、確認をさせた。名嘉伊もカメラを覗き、頷いた。そして、カメラは海晴の手に渡った。彼は恐る恐る覗いた。

「これは……」

 彼は言葉が出なかった。それほどに美しい光景があった。

 それは鏡というよりもガラスに近いように思えた。さらに言えば、それは光を反射しているわけではないようだ。いくつもの突出した鉱石が蛍のように柔らかい光を放っているのだ。

「驚いただろう?」と父親。

「うん」

「ここが『海は魂の鏡』たる場所だ」

「え?」

「おれたちが守り続ける場所だよ」

 海晴は唖然としていた。父親は「漁師になる決意が出来たら連れていく」と言っていた。自分は誘導されたのか、と行動を振り返った。しかし、後悔よりも、目の前の光景の方が魅力的だ。

「……この場所の説明を頼む」

「いいだろう。えーっと、おれよりも名嘉伊さんの方が適してるな。すいません、お願いします」

 名嘉伊が手を軽く上げる。了承という意味だろう。

「まず、この場所が何かを一言で言うのならば、墓場だ」

「墓場?」

「『黄昏の子』という人々がいる」

「何それ?」

「まぁ、知る筈もないだろう。簡単に言えば『命の繋ぎ手』だ。彼らには自己の命を犠牲にして、死んだ他者を救う役目がある。海底の光はそれを弔うためのものだと考えられている」

「何処に関係性があるの?」

「あの光は、海底にある六角形の水晶から発せられているんだが、『黄昏の子』の役目が果たされる度に光る水晶の数が増えるんだ」

「ここである必要があるの?」

「それは調査中だよ。『黄昏の子』が発生、集合するエリアは何故か集中している。しかし、他のエリアでは、この現象は見つかっていない。或いは、違う形態として現れているのかもしれないがね」

 名嘉伊は一度、咳払いをした。

「これは、秘匿されている情報なんだ。脅すようで申し訳ないが、君はこれを知った以上……」

「管理をしろ、って?」

 海晴は父親と名嘉伊を交互に見た。

「まぁ、そうだな。漁師ってのは、あくまで表だ」

「それは、つまり、管理さえするなら漁師である必要はない、ってことでいい?」

 父親が苦笑する。

「まぁ、そうなるな」

 海晴は早方の方を見た。

「はやまっちゃんは?」

「……僕のメインは漁師じゃない。研究だ」

 彼は静かに言った。

「ついでに言えば、毅一も。一応、海洋学を嗜む者の端くれとして、名嘉伊さんの元で指導を受けている」

「そういうことか。でもさ、それって僕が管理する必要がある?」

 早方は首を振る。

「あくまで世襲制、君の家の伝統なだけ。ただ、ここの海底の権利は君の家と海猫病院が共同で保有しているから」

「海猫病院は『黄昏の子』に関係が?」

 早方は頷いた。

「んー、そっか。まぁ、いいよ、請け負おう」

「本当か?」

「うん。でも、ひとつだけね」

「ん?」

「僕は漁師としてではなく、海洋学者として管理するよ。だから、取り敢えず、あと数年は親父に任せるけど」

「ん、んん、まぁ、いいぞ。仕方ないな。本当は漁師も継いで欲しいけどな……」

 父親が唸る。

「毅一に任せればいいです」

 早方が呟いた。

「お、そうするか。よし、そうしよう」

 父親が豪快に笑う。海が揺れたようだ。海晴と名嘉伊も一緒になって笑った。早方は口元を少し緩めた。そして、毅一は何も知らない。

「結局、あの光を出してるのって何?」

「簡単に言えば、未知の鉱石ってことになる。発光原理も不明だからね。しかし、これは海洋学というより、地質学の範疇になりそうだね」

 海晴と名嘉伊は船の縁に腰掛けて話をしていた。早方が波止場に向かって船を操縦し、父親は船室で鼾をかいている。酔いが回りきったようだ。波止場に着き、父親を起こすが、まったく起きないので、ひとまずは放置することにした。酔って船で一夜を明かすことなど珍しくはない。

「名嘉伊さん、『黄昏の子』には会えないんですか?」

「ふむ。会える、筈。別に秘匿と言っても、行動が制限されているわけじゃないからね。よし、今度、私の友人に会わせてあげよう」

 名嘉伊とはそんな話をして別れた。

 海晴と早方は家に戻った。そして、海晴は早方に海洋学のあれこれを指南して貰った。何処の大学を選ぶとか、現実的な話だった。

「海は魂の鏡」という言葉の意味はまだよくわからなかった。それでも、海晴の海に対する姿勢は、いくらかポジティブになったようだった。

 後に、あのガラスを鏤めたような海底の秘密を解明したのは海晴だ。しかし、これはまだ未来の話である。きっと、誰もが忘れた頃に語られるに違いない。

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