点々
深夜2時少し前。
もう少ししたらラウンドに行こうと考えていると、深夜帯の夜勤リーダーの看護師が夏ならではの怖い話をはじめた。
「そういえば知ってます、この病院の怖い話」
「なんですか、急に」
ラウンド準備をしながら、夜勤リーダーの話を聞く。
「なんでも出るらしいよ、幽霊」
「病院ではよく聞く話ですよね」
「点々と落ちる血痕、それをたどっていくとある病室へとたどり着く。そこにいる人に声をかけると呪われるという話ですよ」
「注意しますね」
適当に答えた。
何といっても、そんなものがいるとは信じていないからだ。
少したって、準備が終わってから夜勤リーダーへと声をかける。
「ラウンド行ってきます」
「気を付けて」
手野中央総合病院は、手野市のみならず、その周辺自治体の中核となる病院だ。
俺はそこで臨床工学技士というコメディカル職で働いている。
1000床を超える巨大病院の一つで、そこで働いていると様々な機械を触ることができる。
昔から機械いじりが好きな俺にとっては、これはある意味天職ともいえるだろう。
ラウンドというのは、要は各種装置がちゃんと動いているかどうかの確認作業と思えばいい。
今は深夜2時。
草木も眠る、丑三つ時というのは、まさにここから30分間程度のことを指す。
電気は最低限、懐中電灯を片手に制服で一人で歩いていると、どこか心もとない。
ただ、ペタペタと歩く俺の足音がどんどんと反響していく。
装置は数多くあるが、この深夜ラウンドのときには、主に呼吸装置を見ることとなる。
他にも様々な装置が病院にはある。
それらをラウンドで見ていると、とある廊下のところで点々と血が垂れているところに気づいた。
「おい、どっかで患者が徘徊しているんじゃないだろうな……」
血は俺のちょうど後ろで途切れている。
ということは、これをたどっていくと患者へと会うことができるだろう。
そう思い、とりあえずピッチを使って看護師の夜勤リーダーへと連絡をする。
「あ、リーダーですか。MEです。第2本館4階の廊下で血痕を発見。対応お願いします」
「分かりましたぁ、連絡ありがとうございますぅ」
何やら妙な間延びがあるが、これで連絡は果たした。
ピッチを切り、患者を捜すために血痕をたどることにする。
点々と落ちているが、それも積み重なればかなりの出血になる。
もしかしたらどこかで倒れているのかもしれない。
そう考えると、すぐにでも助ける必要があることは自明だ。
点々と続いている血痕は、ある部屋へとつながっている。
そこは、今は物品庫として使われている部屋だ。
以前は特別個室1号という名前で、VIP患者が入院するための部屋となっていた。
通常の入院の金額に、数万円を加えて入院する必要があるが、そこそこ人気だったらしい。
ただ、俺がここに入職する前に廃止となったところだ。
結局、ここの部屋の維持費はかなりかかっていたらしく、経費削減ということで削られることとなったようだ。
部屋のドアは物品庫となった時に取り付けられ、俺はその引き戸を開けた。
誰かがいる。
薄い黄色の花があしらわれたワンピースを着ている。
入院している人が着ているような服だ。
窓は嵌め殺し、さらに空調も今は切られている。
なのに、その人の服はふわりと揺れた。
左腕から血が垂れていて、足元にはすでに血の湖ができていた。
海というにはまだ小さい。
「大丈夫ですか」
その人は、月明かりに照らされ女性だと分かる。
黒髪は短く、肩にはわずかに届いていない。
艶やか、そういうのが一番似合っているだろう。
「ねぇ」
そこでふと気づく。
彼女の足元は、まるで蜃気楼のように揺らいでいる。
右手首はリストバンドをしているが、それは入院患者には全員しているものだ。
しかし、型式は古いものだ。
「あたし、どこに戻ればいい?」
幽霊、そう気づいた。
足元の血痕は、気づいた瞬間に、まるでスポンジのように床へ吸収された。
「ええ、お調べしますので、リストバンドを見せていただけませんでしょうか」
俺は冷静に彼女へと尋ねる。
右腕を風を感じさせずに彼女は動かした。
血なまぐさいにおいは一切しない。
むしろ、清浄な空気も感じさせる。
リストバンドは思った通りで、2世代前のリストバンドの型式だった。
2世代前は、今のようなフェルトに焼き印のパターンのものではなく、プラスチックの布のようなものに紙を張り付けていた。
ちなみに、紙はさらに直接濡れないように加工されていたが、それはまた別の話。
「ああ、ちょっとお調べしますね」
昔から変わらないのは、患者番号のシステムだ。
これでどうにか彼女がどこの入院患者なのかが分かる。
一つ問題となるのは、幽霊の患者番号だからここの病院のものなのかがわからないということだ。
それでも持ち歩いている手帳タイプのPDAを使って、調べてみると昔いた患者だということが分かった。
「お部屋が分かりました。こちらへどうぞ。ただ、夜勤帯の職員に報告だけさせていただきます」
「ええ、どうぞ」
彼女はほっとしたような声をしているが、幽霊にもそういう感情があることを初めて知った。
夜勤リーダーへの報告をピッチで済ませ、俺は彼女を病室へと案内した。
彼女の病室は、この1号室ではなく、11号室だということが分かっている。
生前はおっちょこちょいだったのかもしれない。
彼女を先導する形で、俺は案内をしていた。
その間にもPDAを使って彼女のことを調べる。
彼女のプライバシーのため、詳しい病態は避けるが、20代そこそこでの不治の病は、精神的にもきつかっただろう。
「こちらになります」
彼女を案内したところで、ふと後ろを振り返る。
彼女はまだそこにいた。
「ありがとうございます」
はっきりとした口調、扉の向こうへと融けていく彼女の姿。
それを見た瞬間、夜勤リーダーが廊下の向こうから歩いてくるのが見えた。