08 家庭
※※※2021/3/21より、本作の大幅改稿版『最愛なる猛毒、致死量の慈愛。』を連載しております。大まかな展開は変わりませんが、【演出】【構成】【台詞】【一話あたりの文字量の改変】等、読みやすさを重視した改稿となっており、また、本作では描かれなかった【糸子と星史のはじまり】を書き下ろしております。読まれる際には改稿版のほうを強くお勧めいたします。※※※
身体の感触よりも、髪のにおいよりも、体温の高さに気をとられた。冷血の二文字が似合う女なのに、意外とあたたかい。
最近の若い女は低体温だって聞いたんだけどなあ。夏の冷え性もあるっていうし。もしかして見かけによらず、健康体なのかな、こいつ。
僕は雨宮にくっついたまま、思いのほか冷静に分析していた。
正直いうと、ぜんぜん、冷静なんかじゃないけど。これはある種の現実逃避だと自覚していた。
(……………やっべえ……、)
この状況、どうしたものか。
本音はそれに尽きる。
せつな的に抱きついてしまったのはこの際仕方ないとして、その結果、怒鳴られようと殴られようと逃げられようと、一通り覚悟していたというのに、雨宮はまったく抵抗してこない。僕の腕におとなしくおさまっている。完全に想定外だ。
自分からやってしまった手前、離れることもできず、半ば硬直状態の抱擁が続いた。
「訴えて勝つわよ。」
やっと耳に入った脅し文句が、天の救いにも聞こえた。
大げさに慌てて雨宮を解放すると、睨んでこそいたけれど、動揺はしていなかった。ちょっと前までは近づくだけでも警戒していたくせに、よくわからない神経をしている。
「なんだってのよ、もう。」
まあ、それは雨宮からしても疑問なんだろうな。これもまたお互い様の一例かと納得した上で、引き続き、勢い任せの釈明をした。
「えっと、まあ、ノリ?」
ついでに茶目っ気も付け加えておく。
「訴訟も辞さないわ。」
おおむねさっきと同じ発言なのに、今度は目がマジだ。
僕も今度は本気で慌てて、両手を向けながら謝罪した。「うそ」と「ごめん」を連呼したのち、「冗談だって」で締めくくる。
「なあ、夕飯食べた?」
しまいには話題を捻じ曲げた。
「俺、まだだからさ、どっか行かない? おごるよ。」
ご機嫌取りがてら気前よく誘えたのは、例の臨時収入と父さんのおかげだ。
雨宮は少し悩んだ末、思いついたように、「アイス。」と発した。
「え?」
「夕飯済んでるの。だからアイス、奢られてやるわよ。」
ハーゲンダッツよ、イチゴ味。やや横柄に注文を足す。思いがけない展開に、自然と口元が緩んでしまった。
「はいはい、仰せのままに。」
ふざけながらヘルメットを取り出して、彼女へ差し出した。
雨宮はきょとんとしてすぐ、眉をひそめる。
「なに、これ、」
「メット。もも……桂木のだけど、我慢してくれよな。」
抗議される前に先手をうった。
「荷物しまうから貸せよ。」「足置くのはそこだから。」拒否する暇も与えず同乗の段取りを仕切る。
雨宮は躊躇っていたけれど、準備万端の僕に観念したのか、慣れない手つきでヘルメットを装着して、おそるおそる跨った。
「膝で俺挟んで。」
「はさむ?」
「そうすると怖くないから。たぶん。」
「手は……どこ、」
「腰あたり。あと、スピード落としてほしいときは、右腿叩いて。」
仕方ないけれど、なかなか出発できない。一通り指示して鍵を捻ると、腰を掴んでいた雨宮の手が腹の前で交差して、力強く密着してきた。思わずもう一度鍵を戻す。
「え……? な、なに、」
背中越しに、雨宮が恐々聞いてきた。
「案外そそらないもんだな。」
僕はまじまじと答える。
「早く走れクズ。」
ふくらはぎを蹴られ、今度こそちゃんとエンジンをかけた。
申し訳ないくらい、雨宮には色気が無かった。
百香以外の女子を乗せるのは初めてなのに、なんら特別感も無い。両腕も、太腿も、胸も、ぴったりくっ付いているのに、性的なきもちが一切湧いてこない。以前、仲村の命令で馬乗りにされたときは、随分と妖艶に見えたのに。
代わりに、妙な安心感があった。
運転している側がいうのも変な話だけど、全然緊張しない。
かといって、荷物を運んでいるふうでもない。腕を絡めてしっかり抱きついているのは正真正銘、雨宮糸子という女子生徒だ。
性的なにおいは、可哀想なくらいしないけれど。
健全な男子高校生としての悦びを味わえないまま、あっという間にコンビニに着いてしまった。
サンドイッチを一袋と、昆布のおにぎりを一つ、それと、新発売のロゴが張られたジュースと、雨宮注文のアイスを買って、店の前であけた。
バイクの傍で立ったままパンを齧る。『お嬢さま』疑惑のある雨宮の反応が気になるところだったけれど、彼女は抵抗無くアイスの蓋をはずし、スプーンでつつきながらただ一言、「炭水化物ばかりじゃないの。」と呆れるように言った。
「外で差し支えないやつ選んだ結果だよ。」
「帰って食べればいいじゃない。」
「無理。今帰ったら殺される。」
誇張して言い返すと、雨宮は見透かしたように、おおげさね、と言い捨てた。
「前も言っただろ。穏当じゃないんだよ、うち。」
「穏当の意味、わかってんの、」
「平和とかそんな感じだろ。」
「辞書引きなさいよ。たわけ。」
雨宮はアイスの表面をまだつついている。買ったばかりのアイスは硬く、プラスチックのスプーンが扱いづらそうだ。
やっとスプーンの先が沈んで、一口分を丁寧にすくった。一口分の薄ピンクが、これまた丁寧に雨宮の口へ運ばれる。狭く開いた唇は汚れることなく、静かにアイスをとかした。
やっぱり品があるな。たかが買い食いなのに。変に感心していると観察がばれて、睨まれた。
「雨宮はさ、なんで特進入ったの?」
目が合うと同時に話をふった。例によって雨宮は、瞬きを繰り返す。
「あたし、勉強しかできないもの。」
やがて素っ気なく答えた。
「勉強しか……って。ぜいたくな動機だな。」
「贅沢なんかじゃないわ。」
からかって笑うと、雨宮は珍しく唇をとがらせた。
「あたし、ブスだし、根暗だし、運動とかも死ぬほど嫌いだし、勉強くらいしか取り得ないけど、必死に受験とか、ばりばりの進学校ってのも性に合わないし、適当に入学れてそこそこ成績優遇だったのが、ここの特進だったのよね。」
自虐と言い訳を織り交ぜた説明をして、なげやりに視線を逸らした。
「言うほど、ブスじゃないと思うけど、」
逸らした視線が一瞬で帰ってくる。
僕の評価に、雨宮は疑うようなしらけるような、形容しがたい妙な顔をしたので、「美人でもないけど。」と補足した。
「あれだ、下の上。」
更に付け足したところで、アイスの蓋が飛んできた。
「……あんたこそ、なんで特進きたの、」
仕切り直して今度は、雨宮が問う。
「俺の全力の結果。」
僕は簡潔に答えた。雨宮が「はあ?」と首を傾げる。
「中三の俺が、全力で本気出して、死に物狂いで勉強した頂点にあったのが、特進。」
誰かさんからすれば、適当だったみたいだけど。皮肉ではなくて僕も自虐気味に説明した。
雨宮は黙って聞いていた。アイスはまだ半分以上残っている。
ふざけて、「ひとくち、」と口を開けてみたら、雨宮はごく自然に、僕の唇にスプーンを乗せてきた。冷たさと驚きで、苺の味があまりわからない。
「やっぱり、意識したの?」
冷たさが引くあたりで、雨宮はきいてきた。
「意識?」
「妹。」
ペットボトルの蓋をひねると炭酸が音をたてた。『新発売』に期待して一口飲むと、忘れていた口端の傷に、ずきんとしみた。味は、良くも悪くも無難といったところだ。
アイスのお返しとして雨宮に渡したら、やっぱり自然に受け取って飲んだ。うまいかまずいかの感想も無く返す。
「意識っていうか……うん、まあ意識したかな、一応。」
ペットボトルを受け取りながら、僕は言った。
ひのでは、中学入学当時から成績優秀な生徒だった。
中間、期末、学力診断、時々実施される小テスト、全てにおいて常に上位で、普段の素行の悪さなんて霞んでしまう(やらしい話、帳消しにされてしまう)くらいだった。
そんな彼女が中学二年の五月、初めての三者面談で、進学はしないつもりだと言い出した。
「母親がもう発狂しちゃってさ、せめて俺はそこそこの高校行かないとなって、察しちゃったわけ。」
三学年に上がったばかりの僕は、そこから猛勉強の毎日だった。
本来なら、身の丈に合った進学先を予定していたのに、番狂わせもいいところだった。もともと要領も、良いほうではなかったし。その年は、夏休みもクリスマスもバレンタインも、記憶に無い。
しかも番狂わせはこれで終わらない。
僕の受験が終わり、補欠入学がまだ合格に確定していない物憂い時期に、ひのでが進学の意思を固めたのだ。
「そして一年後、入学生首席で壇上にのぼる妹の姿が、そこにありましたとさ。」
芝居がかった口上で僕はふざけた。
雨宮はやっぱり、黙って聞いていた。
「……炭酸強いな、これ。」
『新発売』の感想をのべて、話を脱線させた。
「ええ。喉、熱くなるわね。」
雨宮はこんなことにも真面目に答える。
「あ、強炭酸って書いてあった。」
「炭酸って、強弱あるの?」
「は? 微炭酸とかあるじゃん。」
「知らないわ。」
「まじで? 店員にオーダーすると選べるんだよ、コンビニやスーパーでも。」
「……初耳だわ。」
「嘘だけど。」
「くたばれ下賤豚。」
新しい悪口だ、僕は腹をかかえた。雨宮はむっとしながら、空になったアイスをゴミ箱へ落とした。
「正直さ、妹が進学しないって聞いたとき、少し嬉しかったんだ。」
彼女の視線が逸れた隙に、僕は話の続きをはじめた。
「だから、必死になれたっつーか。」
話の続き、といっても、実のところこれで終わりだ。
これ以上進展はないし、特に結末も無い。しいて言えば、その後の高校生活で仲村と雨宮に出逢ったことが、最大の転機で今も続行中だけど、とても口にする勇気は無かった。
「勝ちたい?」
突然、雨宮が言った。なんのことか理解できなくて、へ? と聞き返す。
「一度くらい勝ちたい? 妹に。」
まさかとは思ったけれど、本当にそういう意味だった。
あまりにも真摯な面構えに、本音を言うべきか、ふざけるか悩む。
「そりゃ、できることなら。でも絶対無理。」
間をとって、ふざけながら本音を言った。
「でも、差くらい埋めたいでしょ、」
雨宮は更に真摯にきいてきた。まばたきの頻度が少ない。
僕はけっこう圧倒されつつも、あたりまえだろ、と言い返した。
「じゃあ決まりね。」
言うなり雨宮は、また慣れない手つきでヘルメットをかぶった。そして僕に「さっさと食べなさいよ。」と急かす。何がなんだかわからなかった。
「テスト勉強するのよ。」
横柄な声がメット内で篭った。テスト勉強って、これから? パンを押し込んでジュースで流す。
「当然でしょ。月曜からなんだから。」
「いや、教科書とか家だし、」
「あたしのがうちにあるわ。」
「うち、って、」
「あたしの家に決まってるでしょ、愚鈍。」
さも当然のように言うので、思わずむせた。咳払いをしずめて、小刻みに首を振る。
「いやいやいやいや、まずいだろ。もう九時前だし。」
「あんた終電関係ないんだから、問題ないでしょ。」
そういう問題じゃない。
そうじゃなくて、その、常識的にっていうか、その、いくら勉強といっても、その、ほら、おまえの親とか。僕はしどろもどろに難を並べた。
「今夜は、うるさいほうの父が夜勤だから平気よ。」
つまり母親のほうは寛容ってことか……。
やらしいことに僕の常識は、あっけなく揺らいだ。
正直、雨宮宅に関しては、日ごろから気にはなっている。
もう夜晩いし、お互い未成年だし、しかも男女だし……色々思うことはあるけれどしょうがない。
常識は、好奇心には勝てないみたいだ。
「勉強……うん。テスト勉強、しような。」
ぶつぶつ言う僕に、雨宮は「だからそう言ってんでしょ。」と更に急かした。
「右折は右腿、左折は左腿叩くわ。スピード落としてほしいときは肩叩くから。」
いつの間にかサインも仕切られていて、二度目の同乗をした。
雨宮の膝から太腿、両腕、胸がぴったりとくっつく。さすがに二度目だと抵抗も薄いなあ。恥じらいとかあっても歓迎なんだけど。そんなことを秘めながら鍵を捻った。
雨宮に操縦されて辿りついたのは、赤煉瓦造りの、幅のある大きなマンションだった。
煉瓦といっても本物ではなくて、模したデザインをした外壁の鉄筋コンクリートだ。立地は、以前雨宮を追ってきた駅の近く。
お嬢さまとまではいかないにしろ、やはり彼女は裕福な育ちらしい。
正面口を通り過ぎ、回り込んだ先の地下駐車場に誘導された。
「19番のところ、使って。」
指示通りの番号にバイクを停めた。大型のファミリーカーも納まりそうなスペースに、中古の原付二種がぽつんと置かれるさまは、どうにも滑稽だ。
地下駐車場から直結した裏口を抜けると、広いエントランスホールが広がっていた。外観よりずっと高級感がある反面、どこか懐古的なつくりだ。
「すごいところに住んでるんだな。やっぱお嬢さまじゃん。」
見渡しながら僕は言った。
「過大評価。築三十年越えの古物件よ。」
なるほど。だからレトロなにおいがするのか。
「父が独身時代、無理して買ったらしいの。」
説明しながら、雨宮はエレベーターの五階を押した。
「へえ、すごいじゃん。うちなんて、母方のじいちゃんが建てた家だよ。じいちゃんもう死んだし、ばあちゃんは伯父さんが面倒見てるから、母親と俺と妹で、ちゃっかり住みついてる。」
僕のほうの住宅事情を説明しているうちに、エレベーターは目的の階についた。
とたんに緊張が押し寄せた。
極力、意識しないつもりだったけれど、完全には無理だ。
エレベーターを降りてから僕は無言になって、玄関前に着くころには息も止めていた。そんな僕に配慮することなく、雨宮はインターホンを鳴らす。
スピーカーを通さず、すぐに住人がドアを開けた。
出てきたのは、若い男だった。
「おかえり。……あれ?」
すぐさま後方の僕に気づいて、顔をのぞく。
「ただいま。同級生よ。送ってくれたの。」
雨宮が簡単な紹介をしたので、心の準備もないまま「どうも、」と頭を下げた。
内心、なんだよ、母親だけじゃなかったのかよ、と毒づいていた。
「これから一緒にテスト勉強するから。」
雨宮はまた簡単に説明した。
おいおいそれだけかよ。僕は頭を中途半端に下げたまま、一人で気まずくなっていた。
っていうか誰だよそれ、兄貴? 明らかに歓迎されない流れだろ、これ。怖くて彼のほうを向けない。
「そっか。いらっしゃい。」
思いがけない返事に顔をあげると、男はスリッパを並べて、やわらかい表情で迎え入れてくれた。どぎまぎしながら、揃えられたスリッパを履く。
「お、おじゃまします、」
心もとないお邪魔しますを言いながら、もう一度、中途半端なお辞儀をする。
「リビング使う?」
「ううん。あたしの部屋でいいわ。」
「忘れ物、あったの?」
「うん。」
二人はごくまっとうな会話をした。そりゃ、家族なんだから当然か。ただ、いつもよりあけすけに喋る雨宮が新鮮だった。彼らの短いやりとりを、僕は感づかれないように観察した。
彼ら、というより正確には、彼だ。
若そうだけどどこか落ち着いた彼は、雨宮と同じく華こそ無いものの、小奇麗な身なりをしている。
外見はともかく、こんな時間に高校生、しかも異性の訪問に、説教のひとつも垂れないなんて。
「こっち。」
雨宮に促されて、玄関から一番近い部屋に入った。
通されてすぐ、統一性の無い部屋だなと思った。
全体的には整理整頓されていて、机には教科書やノート類、本棚には活字の本が並んである。
ベッド、絨毯、カーテンは彼女らしく機能性重視のシンプルなものなのに、ぽつぽつと場違いなぬいぐるみや、少女趣味なインテリアも置いてある。でも、においは悪くなかった。
「ネイルなんてしないよな、やっぱり。」
「ねいる?」
「マニキュアのこと。」
ひのでの部屋はいつも、シンナーと香水の混じったにおいで、あふれていたから。
「………しないけど。」
「香水もつけないよな、おまえって。」
いいでしょ別に。ほら、始める。雨宮はテーブルを叩いて僕を座らせた。
「世界史と化学と物理、現文は漢字、英語は単語を中心に絞るわよ。」
てきぱきと教科書やノートを取り出して、ずらっと並べた。
「しぼるって?」
「暗記物だけで点稼ぐの。順位上げるには、一番手っ取り早いわ。」
そしてしれっと、「数学は捨てるから。」と宣言してきた。嬉しいような情けないような、つい苦笑してしまう。
「暗記だけって言っても、結構量あるぞ。たった三日じゃ自信ないんだけど、俺。」
正確には日程上、化学はあと四日、物理と英語は五日ある。
そもそも威張れることですらないけど、一応意見した。
「とりあえずこれ使って。」
そう言いながら雨宮が手渡してきたのは、世界史の教科書だった。範囲内のページに、所々アンダーラインがひいてある。
「読むだけでもいいし、ノートにおこしてもいいわ。あんたのやり易い方法で、とにかくラインの所だけ覚えなさい。」
アンダーラインは、むやみやたらにひかれているのではなく、明らかに厳選されていた。僕が授業中、重要視していた部分も端折ってあるし、逆に、まったく気にも留めてなかった部分がひかれていたりした。
「少なすぎないか? これ。」
目を疑って尋ねた。雨宮はお構いなしにパソコンを広げる。
「当たるのよ、あたしのヤマ。」
起動させながら、素っ気なく言い切った。
ヤマ……ね。
何の根拠もない言い分にうなりつつも、彼女を信じることにした。どうせ元より捨て試合だ。
教科書を凝視したり、時々ノートに模写したり、文字を隠したりして暗記する。その間、雨宮はずっとパソコンをうっていた。
「他の教科は、要点をまとめてプリントにするわ。そのほうが嵩張らないでしょ。」
だから出来上がるまでは世界史に費やせ。それが彼女の効率を考えた作戦だった。
僕は言われるがまま、黙々と暗記した。
かたかたと、パソコンをうつ音だけが響く。
「糸子、」
部屋の外から声がした。
雨宮が「なに、」と返事をすると、扉の向こうから先ほどの男が姿を現した。
木製のトレーを手にしている。僕らの傍に寄ってきて膝をつくと、トレーの上ではマグカップが二つ、湯気をたてていた。
「コーヒー、飲める?」
僕のほうを向いて小首を傾げる。思わず「は、はい。」と息を飲んだ。
さっき観察したつもりではいたが、改めて直視すると、独特な雰囲気のあるひとだ。
美形、とは違うのだけど、えらく整っていて、まるで人形が動いているみたいだ。
「俺、パパに夕飯届けてくるから。」彼が雨宮につげた。
「ゆっくりしていってね。」これは、僕に向けて言った。
いってらっしゃい。雨宮だけが返事をする。彼が部屋を出て少し経つと、廊下を歩く音、靴を履く音、施錠する音が続けさまに聞こえた。またパソコンの音だけになる。
「兄ちゃん、感じいいな。おまえと違って。」
気配が消えた頃合いで、僕はからかった。そろそろ脱線したくなったところだ。
雨宮もいったん手を止めて、コーヒーにクリームを二つ入れた。スプーンでかき回して、息を吹きかける。
「父よ。」
一口飲んで、言った。
「え。」
思わず声に出す。
ちち、って父親? 「ええ。」今の? 「ええ。」 今の人が? 「ええ。」
とても信じられなくて、しつこく聞く。雨宮は律儀に同じ返答をしてくれた。
「めちゃくちゃ若いな。」
驚きの末はほとんど感服だった。
「若くないわ。もう五十過ぎよ。」
まじで。再び驚きが舞い戻る。
肌、すごいきれいだったし、顔立ちとか髪質とか、いや、外見云々よりも、しぐさっていうか雰囲気っていうか振る舞いっていうか、全体的にとてもそんなには。
驚きすぎて、褒めているのか貶しているのか、判らなくなってきた。
「本人いわく、『お金かけてるから』ですって。」
ボトックスとかレーザーとか、メスも何度か入れてるみたいよ。雨宮はあけっぴろげに話す。
あまりにも包み隠そうとしない姿勢に、はあ、と口を開けるしかなかった。
「あれ? でもさっき、「パパに」って、」
矛盾に気づいて追究してしまった。
記憶が確かなら、先ほど彼は『パパに届ける』と言っていたはずだ。更によくよく思い起こせば、雨宮も『父は夜勤』と言っていた(やらしい話、それが決定打で訪問に至ったわけだし。)。
雨宮が、ずずずとコーヒーをすすった。両手でマグカップを支える。
「父が二人いるの。あたし。」
彼女の言葉つきには、憂いも嫌気も無かった。もちろん悩んでいる様子も。自慢しているふうでもない。
しいていえば、血液型はA型なの、くらいのニュアンスだ。
なぜか一転、僕は驚かなくなっていた。
驚き飽きたというか、処理しきれなくなったのかもしれない。むしろ、『年頃の娘が夜更けに男を連れてくる』という状況を、すんなり受け容れる妙な順応性の理由は、ここにあるのだと納得さえできた。
「母親は何人いんの?」
マグカップに手を伸ばす余裕も出てきた。コーヒーの表面がゆれている。
「いないわよ。父たちが二人で、あたしを育てたの。」
何も入れずに一口飲むと、酸味が少ない、僕好みの味をしていた。
「すごい家庭なんだな。」
こどもみたいな感想をのべた。
「そうかしら。ふつうよ。」
雨宮もいつもどおり答えた。
「少なくとも、あたしはそういうことにしてる。」
ふたり揃ってコーヒーをすすった。部屋中に香りが漂う。
「もう一人の父親って、どんなひと?」
おそらく過去雨宮の話に出てきた、食事作法にだけ厳しくて、基本的には甘くて、今夜は夜勤の『うるさいほうの父』とは、さっきの彼じゃない。
「どんなって言われても、まあ、飄々としたひとよ。」
「ひょうひょう。」
僕はさぐるようにおうむ返しした。
「あと、あたしを溺愛してる。」
「溺愛。」
これはすんなり返せた。
じゃあさ、そっちのほうの父親いたら、俺、やばかったかな。冗談交じりに聞くと、雨宮はこれまた真面目に、「でしょうね。」なんて返すので、心の底から安堵した。
脱線はここまでにして、また室内がパソコンの音だけになった。僕も再び、教科書と睨めっこをする。
しかし、一度途切れた集中力を立て直すのは難儀なもので、彼女にばれないようにさぼった。
さぼって、色々考えたり、部屋を見渡したりした。
整理整頓された部屋。
本棚に並ぶ活字だらけの本。
場違いなぬいぐるみと、少女趣味なインテリア。
そこに住むのは、最低限の作法と優秀な成績を身につけた、雨宮糸子という女子生徒……
僕はやっと、この統一性の無い空間の正体に気がついた。
ここにあるのは、彼女の二人の父による、子育ての賜物だ。
教養と、躾と、愛情、すべてが詰め込まれている。
「おかえり」、「ただいま」。「忘れ物、あったの?」、「うん」。「届けてくるから」、「いってらっしゃい」。……訪問してからいくつか耳にした親子のやりとりが、頭のなかでこだました。
「やっぱりすごいよ、おまえんち。」
僕はこぼした。雨宮が手を止めて、こっちを向く。
「ほら、うち、母子家庭だろ。」
なんとなく顔を合わせられなくて、視線を曖昧にした。
「テレビとかでよく言うじゃん。女手一つだの、シングルマザーって言葉。なんか引っ掛かるんだよな、あれ。一人での子育てが美談、みたいな風潮。死別はともかく、原因が離婚とかだと、どうも納得できなくて。」
愚痴っぽくなってしまったが、要点はそこじゃない。
話が長くなってしまいそうだったので、早々に結論を告げることにした。
「子供って、一人で育てるより二人で育てるほうが、よっぽどすごいだろ。」
血の繋がりもない、育った環境も違う他人同士が、一緒に人間を育てるんだから。それを放棄したのがうちの親なわけで。おまえんちは、男二人で、すごいじゃん。
結局長くなってしまったと我に返ると、雨宮はじっと見据えていた。
「変なこと言うのね。」
変? そうか? 再び脱線した僕らは、また揃ってマグカップに口をつけた。
「そういうのもぜんぶ含めて、ふつうなのよ、うちは。」
コーヒーはちょっとだけぬるくなっていた。香りはぬけてしまったけれど、味がわかり易くなっている。一気に半分以上飲み込んだ。
「あんた、やたら家族に自嘲的だけど、」
雨宮は猫舌なのかまだ息を吹きかけつつ、慎重に啜っていた。啜る合間に会話を挟む。
「あんたの家だって、あんたが普通ってことにすれば、ふつうよ。」
ずいぶん都合のいい考え方だな。僕は笑った。
そんなもんでしょ、家族なんて。雨宮は素っ気なく言う。
「普通じゃないって思えないなら、思わなきゃいいわ。切り捨てようが、軽蔑しようが勝手。子供でいるうちは、家族なんて自分第一でいいの。子供は自分の家庭しか知らないんだから。価値観も基準も、自分が一番正しいのよ。」
小難しいこと言ってくれるな。
僕の理解が乏しいのか、雨宮が達観しすぎているのかは、判らない。ただ、彼女の持論を受け容れるには、時間が必要だと察した。まったく理解できないわけじゃない。おぼろげながら納得はできるし、雨宮だからこその説得力もある。
二人の父に、一人の娘。母はいない。そんな家庭環境を、彼女は普通だと言い切る。
現実的にはそうとう希有な戸籍なのに、雨宮には、ふつう、なんだ。
僕も、あの、脆弱な母親と暴虐な妹を、ふつう、と言い切っていいのだろうか。
言い切れば、ふつうになれるのだろうか。
「もしかして、慰めてくれちゃってる?」
妙にこそばゆくなったので、茶化してみた。
「つけあがるんじゃないわよ、ド低脳。」
僕らのやりとりは、最早お約束になりつつある。
楽しいのは僕だけで、雨宮は辛辣だけど。一緒に笑うことなんてないけれど。
彼女の笑った顔すら、見たこと無いけど。
「イトコちゃん、やっさしー。」
懲りずにふざけた。
雨宮は、面食らった表情をみるみる赤面させる。そして無言でぬいぐるみを投げつけてきた。
こういう反応を示してくれる彼女が、僕はけっこう好きだ。
学校のこと、家族のこと、自分のこと。少しのあいだだけ、どうでもよくしてくれる。
「ふざけてる暇あったら、単語の一つでも覚えなさいよ。あたしが直々にみてやってんだから、無様な結果出すんじゃないわよ。」
「はいはい、仰せのままに。」
今の毎日なんて、ふざけて笑っているだけでいいのにな。僕はまだ十七歳なんだから。
まあ、いろいろ考えるのも仕方ないのだろうけど。もう十七歳なんだから。
めんどうくさいな、高校生ってやつは。
やっと真面目に取り組み始めたところで、帰宅の音がした。
ただいま、と、部屋の外から呼びかける声に、雨宮はおかえりなさいを返す。
ノックを鳴らして、雨宮の父は部屋を覗き込んだ。
「みてみて。まだ開いてた。」
嬉しそうにケーキの箱をみせてくる。
「頭を使うなら甘いものだよ。てきとうに休憩にしよう。」
やわらかく言う彼の、やっぱりどうも逸脱しているあたりが、心の底から羨ましくてしかたなかった。