07 庇護
※※※2021/3/21より、本作の大幅改稿版『最愛なる猛毒、致死量の慈愛。』を連載しております。大まかな展開は変わりませんが、【演出】【構成】【台詞】【一話あたりの文字量の改変】等、読みやすさを重視した改稿となっており、また、本作では描かれなかった【糸子と星史のはじまり】を書き下ろしております。読まれる際には改稿版のほうを強くお勧めいたします。※※※
おにいちゃん、
最後に妹にそう呼ばれたのは、いつだっただろう。
僕は十五年と少し、現在進行形で彼女の兄だ。でも、お兄ちゃんでいた年月はとっくに過ぎ去っている。
揃いの帽子も、枕を並べた夜も、手を繋いでいた日々も、遠い昔の話。
いつから、いつからだ?
妹が、僕に笑わなくなったのは。
隣で眠らなくなったのは。
違うものを選ぶようになったのは。
手を伸ばさなくなったのは。
凍てつく眼差しを、向けるようになったのは。
「この出来損ないが。」
力で、兄を捻じ伏せるようになったのは。
壁に追いやられ崩れる僕に、靴の底が無慈悲に乗る。
なんだってんだよ……
ひのでの突然の暴力に手も足も出ず、目で訴えるしかできなかった。
痛みと困惑、そして理不尽。何から問うべきかさえ、考える余裕も無い。
悶える僕を容赦無く絞めるひのでからは、とめどない殺意が溢れていた。
「モモカに、何をしたって言ってんだよ、」
力を込めたまま、ひのではもう一度すごんだ。
「なにを……って、」
僕が百香に? 何を?
心当たりは容易に浮かんだ。今日の放課後の件か。
だけど、こんなにも咎められる意味がわからない。こちとら面倒事を避けただけだ。悪態も吐いてないし、手も出してない。何をしたというより、むしろ何もしていない。
ここ最近で百香との関係に変化があったこと、距離ができたのは確かだ。でも、それに関してひのでにここまで激昂される筋合いもない。
「離……せよ、」
僕にも徐々に、反抗の念が点ってきた。
「離さないと……」
力を振り絞ってひのでの手を掴む。
「離さないと何だよ。おまえごときが、」
言い返されたと同時に、ひのでの膝が僕のみぞおちに食い込んだ。
先ほどとは比べ物にならない激痛が、全身を襲い、呼吸を忘れた身体が脆く崩れる。
「喧嘩の一つも、まともにできねえくせに。」
取り戻した息が荒い。動悸が止まらない。見上げた先では凍てついた眼差しが、威圧と共に刺し殺してくる。
「私に勝てると思ってんのかよ、この出来損ないが。」
壁に追いやられ崩れる僕に、靴の底が無慈悲に乗る。
なんだってんだよ、これ。
困惑を通り越して、僕は途方に暮れ始めていた。
帰宅早々、殴りかかってくる妹。
訳も解らずやられっぱなしの自分。
あらためて思い知らされる、力関係。
口のなか、切れてるし、頭、踏まれてるし、ひのでは無傷だし。なんだってんだよ、本当に。
出来損ない……か。今さら上等だよ。
「でき…そこない……相手に、ずいぶん、本気だな、」
つーか、パンツ、みえてるけど? 余裕なんて全然無いくせに挑発した。出来損ないなりの、しょぼいプライドを捨てきれなかった。
格下に見られて、突然殴られ、蹴りを入れられ、雑魚同然に扱われる。ここまで落ちるところまで落ちたら、もう何も怖くない。むしろ、塵みたいなプライドくらいしか残っていない。
おまえは所詮、こんな兄貴相手に全力じゃないか。くだらない。
ひのでは挑発に顔色一つ変えず、それどころか足に力をこめてきた。僕の頭をじりじりと踏み躙り、屈みこむ。
「……なんでおまえなんだろうな、」
長い茶髪が垂れて、ひのでの表情を曖昧にする。眼光だけが鮮明に睨んでいた。
「なに……が、」
「虫唾が走るんだよ、」
明るく染めた長い髪。若さを謳歌した化粧、派手な爪。女を匂わす完成された体つきに、無慈悲な仕打ち。
暴力的で幼稚。激情家で傲慢。
……これは本当に、僕の妹なのか。
同じ材料で生成され、同じ環境で育った生き物なのだろうか。同じ血が、流れているのか。
目の前の異端に息を凝らした。途方に暮れ、ある種の達観をしていた自分が薄れていく。
入れ違いで、憶えの無い感情が芽生えた。殺意でも恐怖でも怒りでもない。罅が入るような、吐き気を催すような胸騒ぎ。
……なんだ、これは。
「おまえなんかと、血も肉も骨も同じなんて。」
ひのでは淡々と吐き捨てた。
それはこっちの台詞だ。妹の靴底を額に乗せたまま、声にならない威嚇をした。
最初に受けた一撃からか、口のなかが血なまぐさい。うまく言い返せないのもそのせいだ。結果的に無抵抗な僕は彼女の評価通り、喧嘩の一つもまともにできない、男の出来損ないだ。
「なんとか言えよ、クソが。」
ひのでは足を退け、今度は僕の髪を鷲掴みにして無理やり顔をあげさせた。頭皮に爪が食い込み、容赦無い罵声に圧倒される。
罅が入る。
吐き気がする。
……ああ、そうか。
憶えが無いなんて嘘だ。僕はこの感情を知っている。
抜け殻同然の僕に、ひのでが拳を振りかぶった。
「ひのでっ!!!」
拳が落ちる寸前で、叫び声が妹を止めた。
玄関で百香が息を切らしている。
百香は泣きそうな顔をしながら僕に駆け寄ってきて、同じ位置からひのでを見上げた。
「ひので……こんなの、絶対にだめ。」
声は震え、眸を潤ませながらも気丈に諭す。
一瞬でひのでの表情が曇った。
「でも、モモカちゃん……」
「こんなことされても、百香は嬉しくないよ。」
続けさまに諭され、ひのではうなだれた。
攻撃の意思を消した彼女を確認してすぐ、百香は僕のほうを向いた。
「旭……大丈夫?」
切なそうにみつめてくる百香は、やっぱり、幼い頃から何も変わってない。
優しくてお節介なところも、自分を名前呼びするところも、すぐに僕の心配をするところも、ひのでを制止できる手腕も。
いつもそうなんだ。僕らの諍いに割って入っては、僕を守って、ひのでを宥める。
弱いのが僕で、強いのは、ひのでだから。
ぼろぼろの僕に、百香はハンカチを宛がおうとする。柔軟剤の香りが鼻をついて、避けるように腰をあげた。まだ頬も頭も身体も痛い。それでも無理して鞄を掴み、逃げるように家を出た。
バイクに跨って躊躇い無くエンジンをかけた。
僕は逃げた。弱いから。
僕は、弱い。
百香がひのでを足止めしてくれることも、百香が追ってこないことも解っていた。
ひとは、いつから記憶を残すのだろう。
いわゆる物心というか、自分の一番古い記憶。
僕の場合は五歳だった。
あの夜、父さんと母さんは言い争っていた。今でもよく夢に見る、あの喧嘩だ。
喧嘩というより、母さんの、怒鳴り泣き叫ぶ声。
どうして愛してくれなかったの
あの叫びを、僕らは寝室で聞いていた。
オレンジ色の常夜灯の下で、身をまるくして寄せ合っていた。
ひのでの誕生日の前日だった。
その日、母さんは僕を連れて、ひのでのプレゼント買いに行こうと街へ出た。普段あまり行かない街だった。
買い物はすぐに済んで、母さんは近くにある屋内遊園地で遊ばせてくれた。そこで、友だちに会った。
母さんも、友だちのお母さんと喋りこんでいて、僕は時間を忘れて遊んだ。帰るときが惜しいくらい、楽しい日だった。
楽しい日だったんだ。
友だちとも遊んだんだ。
明日は、ひのでの誕生日だったんだ。
それなのに、夜は怖かったんだ。
「どうして愛してくれなかったの。あなたの家族だったじゃない、」
楽しい日だったのに、父さんと母さんは喧嘩をしたんだ。
「また捨てるのね。あたしも、旭も、ひのでも、―――――」
………おにいちゃん
布団のなかで、ひのでが不安そうに呼んだ。
………だいじょうぶだよ
僕は妹に嘘をついた。
翌朝、母さんはいつもどおり台所に立っていた。
テーブルにはサラダと牛乳、コップも用意してあって、母さんはパンにジャムを塗りながら、笑顔でおはようと言ってくれた。
「おかあさん、だいじょうぶ?」
なんとなく僕は言った。
母さんが止まった。止まって、今度は泣いた。
泣き崩れて、僕を抱きしめた。
「……あさひ、」
テーブルのコップは、三つだけだった。
「お母さんは、絶対、あなたを手放したりしないから。絶対……あなたを護るから。」
世界で一番愛しているわ。
縋って抱きしめる母さんと、抱きしめられたまま立ち尽くす僕を、妹がリビングの入り口で、隠れるように眺めていた。
おかあさん ひので 四歳になったんだよ
僕はそれが言えなかった。
彼女の腕を振り解くことさえ、できなかった。
どんなに古い記憶を引っ張り出しても、最後の「おにいちゃん」がみつからない。
学校の駐輪場にバイクを停めて、物思いにふけた。逃げ場がここしかないのは情けないけれど、ここ以上に冷静になれる場所も、他にない。
おかげで、ずいぶん古い記憶まで辿れた。ひのでも可愛かったな、なんて思える余裕も出てきた。一向に、帰りたくはならないけれど。
テスト前だってのに、何をしてるんだ僕は。
冷静になればなるほど、情けなくなってくる。
痛みがどんなに鎮まっても、ミラーの中には、ぼろぼろの自分が居る。帰りたくないくせに、行く当てもない。とりあえず留まっているのは、学校の駐輪場。恰好悪すぎる。
今夜のこと、母さんに知られたら面倒くさいな。せっかく作った夕飯も、食べなかったし。またさめざめと滅入るんだろうな、あの人は。
百香がまた丸く治めてくれないかな。こんなときばかり頼るなんて虫がいいな。
ひのでに嫌われるわけだ、僕は。
ていうか、何をあんなに怒ってたんだよ、あいつは。
百香に何をしたって?
あいつのことになると目の色変えやがって。だいたい、僕と百香が仲良くしないほうが、おまえにとっては好都合だろうが。
冷静になると、今度は不平不満も出てくる。
頭のなかで独り言のように愚痴った。
愚痴れば次第に、どうでもいいことまで考えるようになる。
どうせ、ひのではまた学年トップなんだろうな。それに比べて、僕は不甲斐ない結果になりそうだ。勉強量が多いのも、真面目に生きているのも、僕のほうなのに、遺伝子だって同じはずなのに、平等じゃないな。
……いや、平等じゃないのは普通のことなんだ。僕たち兄妹の差は、なんら特別じゃない。もともと違うほうを選んでいるのだから。それなのに風評被害だ、遺伝子なんて。
ある程度歎いたところで、妹について考えるのをやめた。これ以上は、本当につらくなりそうだったから。
二学年のトップは……また、仲村だろうな。
頭からひのでを消すと、自然と仲村の姿が浮かんできた。
人懐こい笑顔と、親しみやすい振る舞い。どんなに凝らしても見えてこない、透明感。
「つけあがるなよ、肥溜めが。」
優等生の陰に、潜んだ暴虐。
僕は瞼を閉じて、彼も消した。
「この出来損ないが。」
するとまた、ひのでが浮かんできた。
罅が入る。
吐き気がする。
どちらかが頭の片隅に残る限り、二人とも消えてくれない。
現れては消え、消えては現れるの繰り返しだ。あの暴虐な姿で。
やっぱりそうだ。きっと、見てしまったんだ。
「なにしてんのよ、あんた。」
幻聴、だと思った。
考えすぎて、願いすぎて、錯乱しているのだと。
でも、彼女はいた。声の先で薄闇に紛れて、僕を呼ぶ。
「こんな時間に。」
雨宮はまぼろしなんかじゃなかった。
呆然とする僕に歩み寄ってきた雨宮は、顔を確認するなり眉間に皺をよせた。
「どうしたのよ、顔。」
指摘されて、ひのでにやられた傷を思い出す。
「おまえこそ何やってんの、」
なんとなく笑い飛ばして、話を逸らした。
「あたしは…………、く、靴、取りに来たのよ。どっかのバカのせいで。」
「まじで? 超ご苦労。」
「どの口が言ってんのよ。ドクズ。」
ごまかしていたつもりが、いつの間にか本当に笑っていた。別れ際の件に尾を引かず、いつもどおりのやりとりが成立して、嬉しかった。雨宮は全然、笑ってなかったけど。
笑う僕を尻目に、雨宮は無言でポケットから何かを取り出した。使い捨ての洗浄綿だ。封を切って僕の口端に宛がう。以前同様、僕は噴き出した。
「また持ち歩いてんの、それ、」
「うるさいわね。」
湿った綿がひんやりとしみる。
「妹にさ、やられたんだ、これ。」
笑顔が解けないまま、僕は言った。
「そう。」
雨宮は素っ気なく返す。
「妹、めちゃくちゃ強いんだ。喧嘩。」
「そう。」
「俺、勝てなくてさ、いっつも。」
「そう。」
足も、すげえ速くてさ、小学生んとき運動会のリレーで、全校生徒の前で追い抜かれたんだよ。あと新学期の書初め、あいつばっか金賞取るんだ。中学の球技大会も、俺のクラス、あいつのクラスにボコボコにされてさ。ああ、そういえば展覧会の絵画も、賞取ってたな。それにこないだの学力判断、学年一位取りやがってさ、あいつ。
「……そう。」
俺さー、補欠合格でぎりぎり入れたんだよ、特進。なのにあいつときたら、首席で簡単に入学りやがってさ。完全に嫌がらせだよ。大して仲良くないんだから、違う高校行けっつーの。レベルだって、もっと上げられたくせに。
僕はだらしない笑顔のまま、ひのでについて話し続けた。
雨宮は何に対しても「そう。」と素っ気なく返すだけだった。
「……なんにも勝てないんだ。昔から。」
「皆口、」
唐突に呼ばれて、息がとまった。
「もう喋らないで。傷、拭けないわ。」
眼鏡の奥からまっすぐ見据える黒い眸に、僕は順じた。
喋るのをやめて、笑顔を消して、彼女に委ねる。
切れた口端に、腫れた頬に、細い指と濡れた綿がつたう。
やわらかな束縛に身を任せていると、彼女の手首が視界に入った。
赤紫のあざが、何重もの線となって皮膚と同化している。
力で捻じ伏せられたあとだ。虫けらみたいに踏み躙られた痕だ。
とたんに吐き気がして、目を逸らす。
逃げた先のミラーには僕が居た。反射する僕と、正面にいる雨宮が並んだ。
目の前のすべてに罅が入って、確信した。
僕はこの感情を知っている。身体が憶えている。
「………何がおかしいのよ、」
気づけば、また笑っていた。
「名前、初めて呼ばれたなーって。」
「笑うほどじゃないでしょ。」
「笑えるよ。」
今一度誓おう。
あの夜、僕を突き動かしたのは、正義感なんかじゃない。
「変なやつ。」
「おまえもな。」
「めんどくさい男。」
「お互いさまだよ。」
きっと見てしまったんだ。
みえてしまったんだ。
仲村にひのでを、雨宮に、僕を。
庇護欲は気持ちいいからね
そりゃそうだよな。庇護欲なんて、ほとんど自己愛だ。
「ほんとう、めんどくさいやつ。」
僕はやっぱり、母さんの子どもなんだ。
いつ、手を伸ばしたのか。いつ、腕をまわしたのか。いつ、引き寄せたのか。全部憶えていない。衝動なんてそんなものだ。
衝動のせいにしてしまえば、いい。
僕は雨宮を抱きしめていた。
強く、強く、すがりついて、雨宮ごと自分を抱きしめた。




