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06 逆鱗

※※※2021/3/21より、本作の大幅改稿版『最愛なる猛毒、致死量の慈愛。』を連載しております。大まかな展開は変わりませんが、【演出】【構成】【台詞】【一話あたりの文字量の改変】等、読みやすさを重視した改稿となっており、また、本作では描かれなかった【糸子と星史のはじまり】を書き下ろしております。読まれる際には改稿版のほうを強くお勧めいたします。※※※




 天災は忘れた頃にやってくる、というけれど、別に忘れていたわけじゃない。

 そもそも、『天』災ですらない。とりあえず、予告どおりに雨宮が欠席していたのは、唯一の救いだったのかもしれない。



「皆口くん、」



 仲村が特進の教室にやってきたのは、午前の授業が終わってすぐだった。

 人目もはばからず、僕の席まで寄ってきて、親しげに声をかける。


「おひる、一緒に食べよ。」


 久しぶりに視線の集中砲火を浴びた。学年の有名人と、特進の孤立者。接点があるなんて、誰も想像するはずがない。クラス中がまずは仲村に、その次に僕へ目を向けた。


「………なんのつもりだよ、」

 威嚇をこめて声を潜めた。


「たまには構ってよ。」


 仲村はまったく動じずに目をほそめる。笑顔に黒い部分は微塵も見当たらなくて、誰がどう見ても、厭味のない優等生だ。

 分が悪いと悟り、移動を提案した。仲村は軽い調子で了解する。連れ立って、屋上へ向かった。





 六月が間近に迫る空の下はほどよい陽気で、しばらく映写室で昼を過ごしていた僕には、眩しすぎるくらいだった。


「特進、めちゃくちゃ緊張したー。やっぱ雰囲気違うよね。」

 腰をおろしてすぐ、仲村は背伸びをした。

「俺も一応特進生なんだけど、」


 というより、緊張していたようになんて、まったく見えなかったけど。ぶっきらぼうに言い捨てると、仲村はまた軽く、「だって皆口くんは友だちだし。あはー。」なんて言う。

 相変わらず調子が狂うというか、腹が読めないというか、いちいち相手するのも面倒になってきた。例によって特大のカフェオレも持参しているし。

 適当に無視して、僕も紅茶のパックにストローを挿した。



「最近はあいつとばっか仲良くしてて、妬けちゃうけど。」



 一瞬にして、彼の目的を把握した。

 思わずストローを咥えたまま固まる。その短い時間で、今度は雨宮の身を案じた。


「……言っておくけど、俺が勝手に近づいてるだけだからな。」

「? 何が?」


 仲村もストローを咥えたまま首を傾げた。とぼけているようには見えないあたりが、かえって寒心を植え込む。


「だから、別に仲良くしてるわけじゃないから。……変なことすんなよ、雨宮に、」

 覚悟を決めて核心をつくと、仲村はようやく理解したような反応を見せ、笑いだした。


「心配しないでよ。さすがに、そんなことで八つ当たりしないってば。あんなゴミクズどうでもいいし、敵だとも思ってないし。俺のほうがスペック高いじゃん。」

「じゃあもうやめろよ。あんな、弱いものいじめみたいなこと、」


 今さらだけど、本性を知ってからのこいつとの会話は疲れる。

 遠慮も容赦もしなくていいのに、まるで煙相手に組み手しているような、もどかしさがある。僕は核心に続き、率直に抗議した。


 仲村は珍しく表情を消して、じっと僕を見た。

 やがてそっぽを向きながら、「むしろ弱いのは、俺のほうなんだけどなあ。」なんて呟いた。


 ふざけているようにも、拗ねているようにもみえる言い草に、僕はまた黙った。

 黙って、仲村を見た。


 透明感のある男だ。

 横顔のかたちも、陽気にてらされた肌も、ゆれる髪も。


 あの夜に見た暴虐な彼はたしかに存在したのに、今目の前にいる透きとおった彼も、間違いなく本物だ。黒い部分が微塵もない。

 白くて、白くて、わからなくなる。仲村星史という男が。


 悔しいけれど、こいつはどんなに凝らしても見えてこない。

 嘘を塗りたくっているようにも、すべてを曝け出しているようにも感じる。


 もう関わりたくないという望みを諦めるつもりで、僕は口を開いた。


「なんで俺に構うんだよ、」

「え?」

「雨宮のこと、どうでもいいなら、俺に関わる必要ないだろ。」


 できるだけ目を合わせないように、ゆっくりと訊ねた。仲村の顔色を窺うのが、正直怖かった。


 一定の距離を保った気配が、ほくそ笑む音がした。



「皆口くんは、ひとを好きになるのが下手そうだよね。」



 ひとを……。

 口の中で復唱して振り向いた。


「だから好きなのかも。」

 恥ずかしげもなく、でも、照れるように、仲村は頬をかいていた。

 全然怖くなくて、杞憂していた僕のほうが恥ずかしくなった。


「心外だ。」

 言い返したのは、ほとんど八つ当たりだ。

「あはー。ふられちゃった。」

 仲村に効かないのは、承知の上だったけれど。


 彼の好意がふざけていようと、本音だろうと、歓迎なんてできそうにない。これ以上の会話は無駄だ。潮時かと考えた隙に、仲村は歩み寄ってきた。


「ねえ、弱いものいじめの反対って知ってる?」

 突然縮まった距離に、思わず物怖じする。質問の意味なんて頭に入ってこない。



「庇護欲。」



 僕の理解よりも先に、仲村は答えを告げた。

 ひごよく、の一音一音がえらく丁寧に、艶かしく耳に沁みる。


「庇護欲は気持ちいいからね。」

 人懐こく笑いながら向かい合った仲村は、ポケットから何かを取り出して、僕の胸ポケットへと移した。


「ささやかなプレゼント。」


 胸に手のひらを乗せて耳打ちをしてくる。

 僕は噤んだまま、カフェオレを片手に手を振り去ってゆく彼を見据えて、立ち尽くした。呼び止める必要も、追いかける理由も無い。

 でも、まだ少し彼が怖いのも、悔しいが正直なところだ。



 胸ポケットのなかをそっと覗いた。

 USBメモリだ。

 ちょっと悩んで、取り出すのはやめた。教室に戻ってから鞄に隠そう。思いつきながら空を見上げると、あまりの眩しさに瞼を閉じた。






 好意が日常において、利になるとは限らない。それが僕の見解だ。

 利どころか、害の割合が多い場合だって、よくある。


 たとえば、百香はよく「旭のために」とか、「旭が心配」だなんて言うけれど、その実、煩わしいお節介がほとんどだ。仲村なんて、好意の名のもとに翻弄しかしてこない。


 そして、なによりも母さんだ。

 母さんの愛のなかに詰め込まれている物は、ろくなもんじゃない。


 孤独への恐怖。救済の渇望。父さんへの不満。理想の幸せ。幸せへの依存。すべてが呪いへと姿を変えて、僕に注がれる。


 好きになるのが下手。仲村は存外、的を射ている。

 僕はどうも他人からの好意を、捻くれた視点で見てしまう節があるらしい。


 全部が全部というわけではないけれど、明らかにあからさまなのは、見抜けるくらいに。




 事態は、仲村訪問による余波から起きた。



 彼が訪れた昼休み以降、クラスメイトからの目が若干変わった。

 主には女子だ。

 単にクラスが同じだけのほぼ他人、よそよそしく接する程度だった女子たちが、妙に友好的になりだした。


 朝の挨拶だったり、突然の雑談や質問だったり……最初は戸惑いもしたけれど、そのあまりにもあからさまで、浅ましい魂胆に、早々愛想笑いすら出なくなった。


 彼女たちの目的は、こぞって仲村だ。

 別学科に属する高嶺の花。かすりもしない接点を、僕で結ぼうとしている。

 不本意にも、孤立者の烙印が薄れつつあった。


 それでも僕は孤立者に徹した。

 質問されても雑談を持ちかけられても、必要以上の返事はしない。最低限の会話で済ませる。昼休みは映写室へ足を運ぶ。

 そしてこの空間でだけ、雨宮とだけ、あけすけに喋った。



「案外面倒くさいのね、あんた。」

 ここ最近の僕について、雨宮は言及した。



「何がだよ、」

「意地張ってないで、素直に馴染み直せばいいじゃない。」

 意地なんて張ってないけど。というのが僕の本音だったのだけど、雨宮が周囲を察知しているという事実のほうに気をとられた。


「おまえこそ、案外周り見てんのな。もっと無関心だと思ってた。」

「関心なんて無いわよ。嫌でも耳に入ってくるもの。」


 じゃあ当然、仲村の名前も入ってきてるはずだよな。……とまでは聞けなかった。

 素っ気ない会話の流れで、どさくさに紛れるいい機会だったのに、できなかった。

 ただでさえ、今の僕は不安定な立ち位置にいる。孤立者の烙印が消え、少しでも雨宮の地雷に触れてしまえば、たちまち崩れてしまうほどに。


 それだけは防ぎたかった。

 せっかく手に入れた日常を、整った今を壊したくなかった。


 そのためにはただ、波がやむのを待つしかない。

 口も耳も心も、できるだけ閉ざして、事を荒立てなければいい、相手にしなければいい、適当に流せばいい。



 それだけだったのに、




「ねえ、旭、」


 やはり僕を煩わせるのは、この女だ。




「これからみんなで勉強会なんだけど……えっと、もし、暇だったら一緒にどう、かな?」


 放課後、女子数名を引き連れて、百香は誘ってきた。

 背後ではしゃぐ女子たちに比べ遠慮がちなところ、おそらく頼まれたのだろう。百香の性分上、嫌とは言えないのも知っている。そのくせ、僕との距離にも気を遣う。



 わかっている。彼女はそういう人間だ。

 昔から、幼い頃からそうだ。



 僕のために絆創膏を持ち歩く。

 ひのでが迷子にならないように手を繋ぐ。

 僕らが喧嘩をすれば、弱いほうを守り、強いほうを宥め、最終的に仲裁だってする。

 何かあれば声をかけてくれる。友人たちの輪に招待してくれる。誕生日にはケーキを焼いてくれる。

 ひのでの心さえも、開いてしまう。


 孤立者になった僕を、結局見捨てられない。


 そういう人間だ。優しい女だ。




 反吐が出る。




「雨宮、」

 百香を素通りして、雨宮に歩み寄った。


「帰ろ。」


 雨宮は座ったまま僕を見上げて、いつものように瞬きをした。

「な……なん――――」

 返事を聞くより先に彼女の手をとって、繋いだまま教室を出た。

 廊下へ出る瞬間、百香と目が合いそうになって、すぐに視線を流した。



 本当に反吐が出るよ。おまえの優しさには。







 僕は雨宮を引いたまま、裏門から外へと走った。足取りが軽い。手の体温が無ければ二人で走っていることを忘れそうだ。


「ちょ……ちょっと、」

 校舎からだいぶ離れたあたりで、雨宮が声をあげた。

「ど、どこまで……、は、走る気よ、」

 息があがっている。見かけどおり、体力は無いらしい。


「駅裏のスーパー。」

「は……はあ?」

 立ち止まると、雨宮は振り切るように手を離して、怪訝な顔をした。


「バイク停めてるんだよ。あそこ、結構穴場でさ。」

「そ、そういう問題じゃないわよ。く、靴! 上履き!」

 地面に向けて指をさす。そこで初めて、靴を履き替えてないと気づいた。


「あ……。」


 思わず口を開けたけれど、不思議とこの状況に、笑いが込み上げてきた。


「まあ、いいだろ別に。」

「よくないわよ。土日、挟むじゃない、」

「月曜から中間じゃん。どこも出掛けないだろ、」

「そういう問題じゃないわよドクズ。」


 僕は可笑しくなって、雨宮は不機嫌になる。だけど二人の間に、学校へ引き返すという選択肢は浮かばなかった。

 立ち止まったら急に力が抜けて、そこからは歩いた。もちろん、手は繋がずに。


「……なんだったのよ、急に、」

 歩き始めてすぐ、雨宮は問いただしてきた。

「ごめんな。面倒くさくてさ、ああいうの、」

 気は引けたけど、正直に話すことにした。


「ああ、桂木百香ね。」

「なんだ、めざといな。」

「気づかないほうがどうかしてるわよ。……ったく冗談じゃないわ。あんたたちの痴話喧嘩に、巻き込まないで。」


 雨宮の語調は、怒ったふうでも頭を抱える感じでなく、いつもどおり素っ気なくて、それ以上は咎めてこなかった。こっちとしては、謝罪も言い訳もある程度は用意していたのに、拍子抜けだ。


 雨宮は僕よりも、孤立者として歴が長い。今さら周囲の目なんて、気にも留めていないのかもしれない。だとしても派手に巻き込んでしまったな。


 隣で歩く雨宮に目をやると、彼女はおもむろに、ペットボトルを取り出して一口飲んだ。ボトルの中では、人工的な緑色が泡をたてている。オモチャみたいなジュースが、地味な雨宮には不釣合いだった。


「………なによ、」

「そういうの飲むんだなって思って。」

「悪い?」

「いや、悪いとかじゃないんだけど。」



 僕はまだ、けっこう彼女を知らない。

 嗜好も傾向も境遇も、真意も。



 距離だけは近づいていると過信していたのに、重要な部分は全部後回しで、空白のままだ。


 ないがしろにしていた順序を悔やむなんて、遅すぎるだろうか。

 今からでも、修正は効くのだろうか。

 そして、真っ先に修正すべきはどこからなのか、今日までの僕らを振り返った。


 どんなに記憶を辿っても、短い過去を遡っても、避けていた場所はいつも同じだ。

 空白のままにしていた理由も要因も、本当はわかっている。答えならとっくに持っていた。


 ただ、触れるのを避けていただけだ。




 悶々としているうちに駅まで辿りついてしまった。雨宮は僕の隣を離れ、改札へ向かおうとする。

「乗ってかないのか? 送ってくけど。」

 呼び止めると雨宮は振り向いて、じとっと睨んできた。



「心中なんて真っ平って言ったでしょ。」



 そうだよな。あらためて納得した。


 過信していた距離。

 放置したままの空白。

 (おご)っていた関係。


 こんなもんなんだ、彼女にとっての僕は。



「……おまえさ、」

 順序を正すなら、きちんと修正するしかない。



「最近、仲村と会った?」



 触れるべきはここしかない。



 仲村の名を出しても、雨宮は特別な反応をみせなかった。

 いつもなら、意地悪にからかえば大真面目に対応するし、気まぐれに接近すれば慌てふためいて動揺するのに、こんな時に限って、冷たく、無反応だ。


「俺たちのこと、ばれてるっぽいから。」

 いたたまれなくて付け足した。



「図々しいわね。何が『俺たち』よ。」

 雨宮は淡々と返す。



「別にいいだろそこは。何か、難癖つけられたりしてない?」

 殴られたり、蹴られたり、実害を受けているんじゃないのか。潜んでいるかもしれない理不尽を勘ぐって問いただすと、雨宮の目つきが鋭くなった。



「セージさまは、そんな人じゃないわ。」

 冷たかっただけの反応に、敵意が混ざる。



 まず耳を疑って、次にはつまらない冗談かと思った。

 でも、突然棘をたてた雨宮の声も、目つきも、勿論反応も、正真正銘、ぜんぶ本気だった。

 ……なんだよ、せいじさま、って。


「おまえ、あいつに何されたか解ってんの?」


 正気かこいつは。懸念から一転して、詰め寄った。


「あれは、誤解を生んだあたしが悪いのよ。」


 雨宮は言い切る。

 その態度には躊躇いも迷いも無くて、僕は、雨宮糸子という女に初めて落胆した。


 今の今まで勘違いしていたんだ。

 彼女の従順や隷属の影にはきっと、狂気への恐怖や何らかの脅し、力で捻じ伏せられている背景があるとばかり思っていたのに。

 まさか、正体が恋心だったなんて。しかもずいぶんと、盲目に。


「め、めちゃくちゃ、好きなんだな、あいつのこと。」


 彼女の心酔を逆撫でしないように、僕は作り笑いをした。

 初めて彼女に対して、言葉を選び、雰囲気を守り、顔色を窺った。


「すき?」

 おうむ返しをしながら、雨宮は表情をひきつらせる。



「……あんたには解んないわよ、」

 そして嫌悪感たっぷりに、僕を睨んだ。



 これまでで一番冷たくて鋭い眼差しには、嫌悪だけじゃなくて、怒りにも蔑視にも似た負の感情が込められていて、聞き慣れたはずの悪態が、ずしんと響く。


「あのひとのことなんて、なにも。」


 響くだけじゃない。そのまま身体を貫通して、風穴をあけられたみたいだ。

 肉も骨も内臓も吹き飛ばされて痛みだけが残る。



「好きだなんて、軽薄なものじゃないわ。」



 見限るように雨宮は僕から離れた。

 改札を抜けて、真っ直ぐと遠ざかってゆく背中は、どんなに見つめ続けても、振り向かなかった。








 好きだなんて、軽薄。

 雨宮から叩きつけられたことばを、寝転びながらぼんやり口にした。

 無機質な声は天井にはね返り、耳へすとんと落ちる。

 今度は瞼を閉じて、暗闇のなかで雨宮と、仲村を探した。


 僕の前で無垢に笑いながら、雨宮をゴミと罵る仲村。

 僕へ嫌悪を向けて、仲村に心酔する雨宮。

 あの夜の、暴虐的な主従関係。


 考えても考えても考えても、どうしてもわからない。



 おまえたちはいつからこんなに深く、僕のなかに住みついてしまったんだ。



 好意の先にある感情。好意を踏み躙る神経。どちらもおぼろげで、かたちが見えない。色も無い。白くて白くて、見当もつかない。


 いっそ痴情だと、開き直って性癖だと言ってくれれば、ばからしい、きもちわるいで終わった話なのに、この二つの計り知れない影は、深く根をはる。

 これは、僕が好意に対して捻くれているからなのか。





 どのくらいぼんやりしていたのだろう。

 橙だった窓が紺に変わっている。カーテンを閉めて灯かりを点けると視界が鮮明になり、それと同時に、喉の渇きが時間の経過を報せた。母さんのいない日は時間の流れが速い。特に今夜は、良くも悪くも。


 キッチンにおりて冷蔵庫を開けると、サラダとグラタンが二人分並んでいた。母さんが出掛ける前に作っておいたらしく、テーブルには温め直すよう、書置きも残してある。


 書置きの文字面を眺めながら麦茶を飲んだ。

 母さんの字は、達筆ではないけれど下手でもない。しいて言えば若い字だ。文面からも滲み出る年不相応さに、ため息をついた。


 どんなに歪んでいようと、依存であろうと、母さんが僕に注ぐ愛は、感情の頂点だ。すなわち、君臨する感情とは好意なんだ。


 だからわからなかった。

 好意を軽薄と名づける雨宮の心理が。

 弄ぶように蔑む仲村の真意が。

 二人に捕らわれてゆく、自分自身が。

 新しい日常と向き合うために、色々と吹っ切れたつもりだったのに。



 テーブルに頬をつけて伏せると、ひんやりした。全然眠くないのに動くのが億劫になる。身体が行動を渋る分、頭だけは嫌になるほど回転した。


 学校のこと、家族のこと、自分のこと。

 悩むほど深刻でもなく、気楽に生きられるほど心地良くもない、そんな日常に、僕の頭はめまぐるしく考え続けた。




 だいぶ経ったのに空腹の気配が無い。というより、グラタンを食べる気になれない。

「………。」

 ふと目論んで顔をあげた。

 重たい身体を起こして自室(へや)へあがり、鞄を取り出す。鞄には父さんから貰った一万円札があの日のまま、四つ折りで眠っていた。


 ……外に出よう。どこかで夕飯を済ませよう。


 使い道に臆していた臨時収入の使い道が、母さんへのささやかな反抗だなんて、我ながらせこいとは思う。

 でもいいんだ。反抗だけじゃないから。ちょっとした鬱憤晴らしでもあるから。

 相手不明の言い訳を唱えながら、身支度を整えた。



 玄関から物音が聞こえたのは、身支度が済んですぐだった。



 ひのでが帰宅したらしい。

 いつもは二階に直行する足音が近づいてきて、ひのでが姿を現した。


 先週から復学した妹の制服姿は目に久しくて、僕はばれない程度に眉をしかめた。スカートが短すぎるのも要因の一つだけど、『同じ学校の』というのが、何よりきつい。


「……おい、靴、」


 しかもどういうわけか、ひのでは土足だった。さすがにあからさまに表情が歪んでしまう。

 指摘しても、ひのでは黙ったまま立ち尽くしているし、僕は早々出て行くことにした。


「俺、これから出るから。」

 夕飯は冷蔵庫。グラタン、オーブンで温め直せってさ。


 母さんの書置きを口頭で伝えながらリビングを出ようとした瞬間だった。



 擦れ違いざまに胸ぐらを掴まれ、何かを言うよりも先に、ひのでの拳が僕を殴り飛ばした。



 痛みと驚きに意識が追いつかない。

 休む間も無く、ひのではまた僕の胸ぐらを捕らえ、今度は身体ごと圧し付けるように壁へ叩きつけてきた。


 背中に衝撃が走る。呼吸がままならない。



「モモカに、何をした、」



 妹の声が重く響いて突き刺さる。

 首を捕らえた派手な爪が、音をたてて折れた。

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