05 両親
※※※2021/3/21より、本作の大幅改稿版『最愛なる猛毒、致死量の慈愛。』を連載しております。大まかな展開は変わりませんが、【演出】【構成】【台詞】【一話あたりの文字量の改変】等、読みやすさを重視した改稿となっており、また、本作では描かれなかった【糸子と星史のはじまり】を書き下ろしております。読まれる際には改稿版のほうを強くお勧めいたします。※※※
昼休みに映写室へ通うのが、僕の日課になりつつあった。
あくまで映写室で過ごす事が目的であり、雨宮は二の次である。雨宮もそれを理解しているのか、必ず居るわけでもなく、かといって全く来ないわけでもなく、日によって訪れる時間も去る時間も、ばらばらだった。もちろん僕も。
いい距離感が整ったなと、ここ最近思う。
今の僕らは、孤立者同士が身を寄せ合っているのではなく、抜群の環境下に孤立者が集まった、という背景で昼休みを過ごしている(厳密には、僕が勝手に彼女の領域に居ついたのだけど。)。
そこに親交の義務は存在しない。
つまり、言葉を選んだり、雰囲気を守ったり、顔色を窺ったり、小さな嘘さえつく必要も無い。
身を削らなくて済むのだ。
雨宮も当初は、僕が訪れるたびに睨みつけてきたけれど、やがて無害だと認識したのか、単純に慣れたのか、もしくは面倒くさくなったのか、警戒しなくなった。
打ち解けたのではなく、どちらかというと無関心だ。
僕が居ようと居まいと本に集中し、昼食を摂り、時々テレビを点ける。
まあ、それは僕も同じで、だからこそいい距離感なのだけど。
でも、全く会話が無いわけでもない。
彼女から話しかけてくるのはほぼ皆無だけど、僕は気まぐれに声をかけた。
雨宮は無駄に真面目なもので、無視が下手だ。
「雨宮ってさ、お嬢さま?」
いつか百香がこぼした疑問を、そのまま質問にした。
「……何よ突然、」
「最寄り、明治神宮前だろ。すごいところ住んでるみたいだし。」
「……別に、ふつう……よ。」
ふつう、か。
僕のおうむ返しで会話はたいてい終わる。それがまた気楽なもので、僕の気まぐれ、もしくは意地の悪い部分に、拍車をかけていた。
雨宮に上流家庭の可能性をみたのは、最寄り駅だけが要因じゃない。
たとえば弁当。
彼女昼食は小判型の曲げわっぱ弁当で、それを縮緬の小風呂敷に包んで持参していた。中身はいつも丁寧に詰められていて、手毬麩や三つ葉なんかが、上品に添えられていた。
それ以上に目を惹いたのが、雨宮の食事作法だ。
片手に本を持つ習慣はいただけないけれど、もともと身についているのであろう箸の扱いからは、育ちの良さが垣間見えた。
「親、厳しい?」
さすがに唐突すぎたのか、雨宮は不思議そうに瞬きをした。
「食べかた、きれいだからさ。」
補足して聞くと、雨宮は更に瞬きを繰り返した。たぶんだけど、こいつはちょっとでも褒められることが苦手だ。
「……食事に関してだけは、父が、……どこに出ても、恥ずかしくないように……って。」
「でも、本読みながらは無作法だろ、」
「う、うるさいわね。こんなところで作法もクソもないじゃない。」
ついでに口の利き方も習うべきなんじゃ。言おうと思ったけれどやめた。それより、珍しく続いた会話に励みたかった。
「厳しいのは食べかただけなんだ、」
「……基本的には甘い親よ。」
「仲良いの、父親と。」
「悪くは、ない……と思う。」
これは持論だけど、親と関係が悪くないというのは、至って良好と同じ意味だと思う。
素直に羨ましかった。関係が悪くないと言える父親もそうだけど、話にあがってない母親についてもだ。
弁当を見る限り、彼女の母親は常識的な感性の持ち主だ。少なくとも、年頃の息子にハート型のジャムサンドを持たせるような人間とは違う。
「いいよな、そういうの。うらやましいよ。」
素直にのべたところ、雨宮は目を丸くした。やはり褒められるのは苦手みたいだ。
「……なによ、それ。」
「うち、父親いないからさ。」
ミニトマトにフォークを刺しながら言った。雨宮は箸も縮緬で包んである上等なやつなのに、僕はランチ用の短いフォークを持たされている。こういう所で育ちの差というか、母親の差がはっきりするものだ。
「あ、離婚はしてないんだけどさ。母親がちょっと面倒くさい人で、一緒には暮らせないっていうか。まあ、穏当な家ではないわけ。」
たわいもない話として僕は続けた。
クラスメイト相手に、家族について触れたことなんて無いけれど、この空間とこの距離なら、軽口で済む気がした。
「別に、ふつうよ、そんなの。」
雨宮は素っ気なく答えた。その返事には、配慮も慰めも見当たらなくて、むしろ、本を開きながら言うあたりがぞんざいなくらいで、心地よかった。
ふつう、か。また僕のおうむ返しで、いつもより少し長い会話が終わった。
ふつうの家。
雨宮が口にした呼吸みたいな「ふつう」は、耳にずしんと残った。
推測でしかない彼女の家庭が、羨ましかったのは事実だ。
そして、彼女による『普通認定』は、自信に繋げてもいいと思えた。家庭をもっと軽視して、家族をあしらえる自信。
でも、現実はうまくいかない。
「明日、どうしても旭が行くの?」
週末の晩、母さんは駄々をこねた。
月に一度父さんと会うのは、両親が別居する際に取り決めた、契約だ。
父と子供の面会。これは父さんからの条件で、母さんは渋々飲んだらしい。
弁護士を立てていない漠然とした口約束は、面会する『子供』が僕なのか、妹なのか、もしくは二人揃ってなのか、その辺も結構曖昧で、たいてい、面会の日に都合のいい方が出向いていた。
そして僕が担当する日は、母さんの機嫌がすこぶる悪くなる。
「ひのでに代わってもらえばいいのに、」
母さんにとって、父さんと接触させるのにましなのは、ひのでのほうらしい。
「そうはいかないよ。先月もその前も、ひのでに任せちゃったし。」
こういうとき母さんを逆撫でしないコツは、僕も仕方なく行く、という姿勢を崩さないことだ。これは義務もしくは任務、と捉えている息子を演じなくてはならない。
「なんか旭、最近冷たいのね。」
どこかで聞いた台詞だな。状況に無関係な点にも心当たりがある。もしかしてこれは、女という生き物の常套手段なのだろうか。
「そんなことないよ。遅くならないようにするから。」
母さんに対してはまだ、これが精一杯だ。
学校ではやりやすくなってきたというのに、家庭はどうも難しい。
もう一人の親、父さんのことは嫌いじゃない。
きっと一般的な男子高校生より喋るほうだろうし、もちろん面会も苦じゃない。
ただし、これはきっとそれなりの距離があるからこその結果だ。
僕が考える『一般的』で、『普通』の男子高校生より、父親と接する機会が少ないから、二人の時間に希少価値が生まれ、会話を弾ませているのだろう。
だけどそれは、関係が良好、とイコールにはならない。
「二年生になったんだな。」
待ち合わせの蕎麦屋で先に座っていた父さんは、僕が到着するなり、嬉しそうに言った。そういえば学年が上がってから顔をみせるのは初めてだ。
なんでも好きなもの頼め。と言うので、お言葉に甘えて天丼と蕎麦のせいろ二枚の膳を選んだ。
「高校生だろ。そんなもんで足りるのか、」
なんてまた言ってきたので、更に甘えて出汁巻き玉子と、食後にはあんみつも追加すると、父さんは満足そうに頬をゆるめた。
「学校はどうだ?」
最初の質問はいつも同じだ。会う頻度が少ない分、彼のなかで僕の成長はゆるやかなのだろう。
「特に変わりないよ。」
少し嘘をついた。
そのあとの質問も大体決まっている。「勉強はどうだ?」「友達と仲良くやってるか?」やはりどうも年相応ではない話題が続く。
「彼女はできたか?」
そしてたまに変化球も投げてくる。思わずむせかけた。
「いい反応だな。図星か、」
楽しそうな父さんに、僕は咳払いをした。
「残念ながら、ご期待には添えられないよ。勉強だけで精一杯だから。」
「おまえはひのでと違って、わかりやすいなあ。」
「ひのでにもそんなこと聞くの?」
想像するだけで寒気がした。もし僕がそんなこと口にしたら、命はない。
「もちろん。あいつは素直な分、かえって読めないけどな。」
「素直? まさか。」
苦笑まじりに否定したけれど、ひのでの父さんに対する態度は、僕や母さんに向けるものとは違う、というのを僕は知っている。父さん自身は、全く気づいてないみたいだけど。
喋りこんでいるうちに品が届いた。二人分の膳と、出し巻き玉子が所狭しと並ぶ。
「それ、甘くないやつだけど、よかったのか?」
玉子に箸を伸ばすと、父さんは聞いてきた。
「うん。本当は出汁巻きのほうが好きなんだ。」
「本当は?」
「あ、……うん。甘い玉子焼きが好き、だと、母さんが、喜ぶ、から。」
変に声がとぎれた。
父さんとの再会が久しいせいか、本音と建前にむらが出る。
「悪いな、苦労かけて。」
察したように、父さんは謝罪した。
基本的に人間が出来ているからこそ、この人はこの人でやりづらい。
「そういうつもりで言ったんじゃないよ。」
僕は慌てて弁解した。
「こういうときは堂々と、好きなもの食べられるから、ラッキーだなっていうか、」
わざとらしく天丼にがっつくと、不運にも獅子唐が物凄く辛かった。でも、また父さんの頬がゆるんでくれたので、結果的にはよかった。
「今度は、中華か焼肉にしような。」
薬味をときながら父さんは提案する。僕は、できたらラーメンがいい、と提案し返した。
「そんなのでいいのか、」
「うん。カウンターで食べたい。」
獅子唐を齧った後のお茶はすごく熱くて、舌がひりひりした。
父さんと母さんの仲たがいの理由を、実のところ真相までは、知らない。
父さんは経済力に優れていて、たいていのことには寛大で、子煩悩なひとだ。別居後にこうして面会しても、母について何か吹き込んだり、愚痴をこぼしたりもしない。
ひのでが父さん贔屓になるのも頷ける。
でもそんな彼でも、長年連れ添った相手と暮らせなくなってしまった。
夫婦とは、そんなにも難儀極まりないものなのか。
考えてみれば、当然だ。血の繋がった家族でも大変なのに、夫婦なんて、他人同士が紙一枚で家族になるのだから。
「ひのでとは、仲良くしているのか?」
一瞬、心を読まれたかと思った。
「なんで?」
嘘を言うか本音をぶつけるか、悩む余裕もなくて、質問を質問で返す。
「いや、なんとなくな。………いや、それも違うな。」
父さんは父さんで、何か躊躇っているみたいだった。目を逸らして後ろ頭を掻く。
やがて深い瞬きを一回だけして、まっすぐ僕を見た。
「お父さんの希望だ。」
僕はこの人の、こういうところがけっこう好きだ。
「率直だね、ずいぶん。」
すまない。と鼻をこする父さんに、僕は好意的な反面、複雑でもあった。
あんな妹、持ったことないくせに。
ひのでの本性も知らないくせに。
一緒に暮らしてもいないくせに。
言いたいことは挙げればきりがないけれど、彼の内側から滲み出る苦悩を考えると、同情が先立ってしまう。しかもこの人は、それを隠せているつもりでいるから、なお不憫だ。彼の真摯を踏みにじる気には、とてもなれない。
「おまえたちは、たった二人の兄妹だもんな。」
真摯だけじゃない。父さんの言葉には重みもあった。
父さん自身も二人兄弟の兄だ。
そして父さんは弟、つまり僕の叔父にあたるその人を、若くして亡くしている。
僕が生まれる前の話で、病死なのか事故死なのか詳しくは知らないけれど、決していい最期ではなかったらしい。
そんな背景が彼に、きょうだいの尊さを語らせている。
会ったこともない肉親に投影されるなんて迷惑だ、と、ひねくれた見方はいくらでもできるのだろうけど、僕とひのでが唯一の兄妹であるのは、紛れもない事実だ。
今だけは黙って、父さんの言葉を噛み締めておいた。
久しぶりの面会は穏当に終わった。
タクシーを拾えと、父さんに万札を渡されたけど、バイクで来たからと断った。それでも無理やり万札は押し付けられた。使い道に臆する臨時収入を鞄に隠して、母さんの待つ我が家へ走った。
ひのでが留守なのは、玄関を開ける前からわかっていた。不機嫌な母さんと、おとなしく家に居るような妹じゃない。
案の定、家の中の気配は少なくて、リビングでは母さんが、テレビを点けっぱなしに寝ていた。
「ただいま、」
声をかけると、母さんは首だけ動かして、だらしない笑顔で滑舌の悪い「おかえり」を発した。
缶ビールが空になっている。大して飲めないくせに、四本も空けたのか。気分良く夢心地になっている母さんの傍には、空き缶と一緒に写真も置かれていた。
アルバムに納められていないばらばらの写真が、無雑作に何十枚と積っている。
時系列もばらばらだけど、全部に幼い僕らが写っていた。
「旭はねえ、大きな赤ちゃん、だったのよお、」
酔っ払いながら、母さんは僕の昔を語りだした。
「丈夫で、発育のいい子だったわあ。病気も、全然、しないし。よく、笑うしい。寝返りも、あんよも早くてね、」
耳にたこができるほど、聞いた話だ。
母さんは続けた。
「うさぎと、ペンギンが好きだったのよねえ。たまごやきと、ジャムサンド、作ると、よろこぶのよ、いつも。でも、ママがいちばん、大好きで、あまえんぼさんだったの。お母さんも、旭が大好きだったわあ、」
優しくて、穏やかで、可愛い物好きな男らしくない息子。
僕は、母さんの話に耳を傾けるふりをしながら、写真を片付けた。
人間として出来ているのは、間違いなく父さんだ。
経済的、精神的に安定しているのも、子供の気持ちを汲めるのも、きっと親として相応しいのも。
でも僕は、この人を母親失格だと、切り捨てられそうにない。
暴力を振るうわけじゃないし、家事をやらないわけでもない。酒を飲んで暴れるわけでもない。暴言も吐かない。浪費家でもない。
この人は、幸せを諦めたくないだけなんだ。
彼女の幸せはきっと、理想に模られていて、その枠から少しでもはみ出れば、不幸になってしまう。不幸を認めてしまえば、たちまち崩れてしまうのだろう。
だけど、それはきっと、僕の責任だ。
「おかあさん、あなたを産んでよかったあ、」
彼女の理想が現実だと惑わしてしまったのは、僕だから。
十七年間、ずっと。
写真を片付けつつ眺めた。
海水浴の写真、七五三の写真、入園式の写真、動物園での写真。僕とひのでは必ず一緒に写っていて、改めて見ると結構似ていた。
今じゃありえない、ひのでの満面の笑みもあれば、僕に抱きついている画もある。時々、百香が一緒の写真もあった。
その一つ一つが微笑ましい反面、写真の先に待っている現在に、心臓がしめつけられた。
母さんの意図からか、父さんが写っているものはあまりなかった。ましてや夫婦のツーショットなんて影すらない。
そんな中、明らかに異質な一枚に目が止まった。
父さんと母さんの結婚式の写真だ。
これだけ乱雑に引っ張り出したのだから、紛れ込んでしまったのだろう。思わぬ貴重な一枚を、じっと見つめた。
写真は新郎新婦と、親族の集合写真だった。
集合写真といっても畏まった堅苦しいものではなく、くだけた笑顔や、ピースをしているフランクなやつで、親族だと判ったのは両祖父母の存在からだ。今よりずっと若いが確かな面影がある。親族というより家族写真だった。
新郎新婦である父さんと母さん、その両親である両祖父母、母さんの兄夫婦、そして、若くして亡くなったという、叔父らしき人も写っていた。面識は無いが、父さんによく似ている。
あともう一人、面識の無い人がいた。
やたらきれいな若い女のひとだ。
「母さん。このひと、誰?」
父さんにも母さんにも、女きょうだいはいないはずだ。叔父に奥さんがいたという話も聞いたことがない。
酔っ払っている母さんの隙をつくように、僕は尋ねた。
「あー………つきのちゃん……、ね、」
母さんはもうほとんど寝ていた。閉じかけの瞼で、うつらうつらと写真を覗く。
「おかあさん、きれいでしょう? ……ふふ、」
花嫁姿の自分を自慢したのを最後に、完全に眠りへとおちた。
母さんの寝息を確認してすぐ、写真を臨時収入と同じ鞄へと隠した。
週が空けて、中間試験が近づいてきた。
特進は特進らしく、この時期はたかだか中間でも空気が変わる。殺気立つ、というほどではないが、学級全体が、試験に支配されるような雰囲気になる。
休み時間に予習復習をする生徒も珍しくないし、雑談の中に、範囲や教師の出題傾向などを練り込むようになる。
昨年度までは僕もそんなふうに乗り越えていたが、この度からは、努力の方向性を変えてみようと試みた。
「数学、教えてくんない?」
結局は他人頼みだけど、雨宮に試験勉強の依頼をしてみたのだ。
会話に慣れてきた彼女も、久しぶりに顔をひきつらせた。
断られるならそれでよしとするつもりだ。単純に、昼休みは時間と空間を共有しているのだから、という浅い思いつきでしかない。
雨宮は学年二位だし、試験前なのに本しか読んでいないし、少なくとも彼女の勉強の邪魔にはないだろうし。「どうせ」と「たまたま」の産物だ。
「………どこ、」
「え?」
思わず聞き返した。
「だから、どこがわかんないのよ、」
意外な返答だった。
どうやら、ダメ元の依頼に応えてくれるらしい。
「どこがわからないのかも、わからない。」
「問題外じゃないの。大たわけが。」
最近の彼女は畏縮しなくなったぶん、以前に増して辛辣だ。
雨宮の教え方は特別上手くもなく、下手でもなかった。
ただお互い遠慮が無いので、僕としては気が楽だった。解らなければ解るまできく。なかなか理解しない僕に、雨宮は容赦なく毒づく。その繰り返しだ。
「雨宮はさ、いつ勉強してんの、」
脱線も、たまにあった。
「は?」
「テスト勉強、してないみたいだから。」
休み時間も本読んでるし、なんて言ったら監視してると思われそうなので慎んだ。
「授業聞いてれば充分よ。」
さすが学年二位は言うことが違う。もっと必死になれば一位も狙えそうなのに。
…………。
学年一位。
ふと、仲村の姿が脳裏をよぎった。
ここで雨宮と時間を共有するようになってから、そこそこ経つ。
距離も整い、関係も安定し、会話もそこそこになったけれど、未だ彼女に仲村の話を切り出せないでいる。
あえて触れないわけじゃない、と言ったら正直嘘になる。
たしかにこれ以上、仲村と関わりたくないし、切り出したところで雨宮はまともに取り合ってくれないだろうけど、実のところ、この現状を失うのが惜しかった。
「なんでさっきの公式忘れてんのよ。頭空っぽなんだから、覚える容量なんていくらでも余ってんでしょ。」
「あいにく残量不足なんだよ。別のことで頭使ってるもんで。」
「無能のくせに、大見栄張ってんじゃないわよ。どうせくっだらないカスしか溜めこんでないくせに。」
言葉を選んだり、雰囲気を守ったり、顔色を窺ったり……身を削らなくて済むこの掛け合いや、気まぐれにからかうと大真面目に反応する雨宮が、けっこう、面白かったから。
「おまえさ、さすがに俺だって傷つくよ? 病むよ? あー精神的苦痛だわ、これ。」
「は? あたしはあんたに轢き殺されかけてんのよ。訴えて勝つわよ。」
あー。あったなそんなこと。すっかり勉強の手を止めて、僕は笑った。
「あれ危なかったよなー。危うく免許取り消しだった。」
「頭沸いてんの? 取り消しどころか前科持ちよ。……あんな鉄屑乗り回してるだけあって、やっぱりネジ一本抜けてるわ。」
雨宮はまったく笑っていなかった。事故未遂の件を、そうとう根に持っているみたいだ。
あれを忘れられそうにないのには、同意するけど。
「あの日さ、居残りでもしてたのか?」
初めて雨宮と口をきいた夜を思い出しながら、聞いた。
「……あんたこそ、なんであんな時間に、」
思ったより口が悪くて、余裕が無くて、滑稽だった彼女が、今は普通に言葉を交わしている。
「妹と喧嘩して逃げてきてた。」
「だっさ。」
口が悪いのは、相変わらずだけど。
残り時間も限られてきたので、問題集に切り替えた。口酸っぱく教えられた公式に苦戦する傍ら、横目で雨宮を眺めた。
また文字ばかりの本を読んでいる。髪は小奇麗に結われていて、眼鏡はくもり無く磨かれている。背は低くはないけど全体的に華奢なせいか、か弱く見える。
特にほっそりと目立つ指と手首に、胸がざわついた。
僕の知らないところで、彼女はまた仲村と会っているのだろうか。
汚く罵られ、髪を乱され、踏みにじられ、この制服の下に、新しい痣を作っているのだろうか。
吐き気がする。
なのに、どうして従順なのか。助けを求めないのか。訴えないのか。弱みでも握られているのか。
……見えないところでぼろぼろになる必要なんて、ないのに。
「あのさ、」
まあ、僕も、ひとのことは言えないけれど。
「帰り、送っていこうか?」
気づいたら声をかけていた。
「……何の話よ、」
「鉄屑、乗ってみたくない?」
バイクの鍵を振ると、雨宮は目を丸くして瞬きをした。いつもより頻繁に、ぱちくりと繰り返す。
やがて首から上ごと視線を外して、わかりやすく慌てふためいた。
「じょ……冗談じゃないわ。あんたと心中なんて真っ平よ。」
なんで事故る前提なんだよ。指で鍵を回しながら笑い飛ばした。雨宮はへそを曲げたらしく、なかなか視線を戻してくれない。
昼休みも残り十分きったことだし、早々戻ることにした。
「先に戻るよ。」
支度にとりかかると、そっぽを向いていた雨宮が突然、問題集に手をかぶせてきた。
蚊でも叩き潰すかのような大げさな勢いに、僕は思わず唖然とした。
「な、なに?」
「…………あたし、」
俯き加減で何か言おうとしている。
「あ、……明日、休むから。……その、」
そこまで言ってまた声をつまらせた。
少し待ってはみたが、喋りだしそうな気配がないので、顔を覗き込む。
「雨宮?」
次の瞬間、雨宮は問題集にペンを走らせた。
文章や空白を無視して、何か数字を書いている。
「……わからないところ、あれば、き、聞いてきなさい……よ。」
突き返された問題集に書かれていたのは、どうやら彼女の連絡先だった。蛍光色に図々しく並ぶ番号を眺めていると、雨宮はせわしく鞄を持ち、先に席を立った。
「く、くだらないことで掛けてきたら、……ひ、ひひひっぱたくから!」
映写室を出る直前に、忠告を残して走り去ってゆく。
僕は唖然ののち呆然と、そして呆然ののちに顔を覆い、肩を震わせた。
しばらく堪えてはいたけれど、問題集にでかでかと並ぶ番号を見てしまうと、もうだめだった。
にやけ顔から元に戻れない。
もう授業が始まるというのに、映写室から出られそうになかった。




