04 同属
※※※2021/3/21より、本作の大幅改稿版『最愛なる猛毒、致死量の慈愛。』を連載しております。大まかな展開は変わりませんが、【演出】【構成】【台詞】【一話あたりの文字量の改変】等、読みやすさを重視した改稿となっており、また、本作では描かれなかった【糸子と星史のはじまり】を書き下ろしております。読まれる際には改稿版のほうを強くお勧めいたします。※※※
あなたを愛しているわ、世界で一番。
注ぎこまれる声と、感触の無い抱擁に、これも夢かと確信した。
今日だけで立て続けとは、記憶のなかの母さんは、少々でしゃばりだ。
まだ背丈の足りない僕を、母さんは膝立ちで正面から抱きしめている。
隙間無く密着して、うわごとみたいに愛していると繰り返す。
まるで呪いだ。
おかあさん、ぼく、きこえてるよ、
やまない呪文に終止符をうちたかったのか、脆弱な彼女を支えたかったのか、あのときの僕のことは、正直、わからない。
ええ。いいの。何度だって言うわ。
お母さん、あなたを愛してる。
あいしてる、あいしてる、世界で一番愛しているわ。
子どもはね、愛されていればいいの。愛されるべきなのよ、子どもは、みんな。
呪いは続いた。それが呪いだと僕は理解していた。
でも、呪われ続けた。最初は母さんのため。時々、自分のため。
そして、いつの日かそれは、―――――
「愛されない子どもなんて……あんまりじゃない。」
このひとは、何のために僕を愛したのだろう。
目が覚めたら、ひのでに見おろされていた。僕と天井の間を遮っている。
「どうした?」
妹が僕の部屋を訪れるなんて珍しい。用件を尋ねながら瞼をこすると、目尻の端では涙が乾いてへばりついていた。
「陽が、晩くなるって。」
どうやら、母さんから連絡が入ったのを伝えに来たらしい。
ひのでは両親を名前で呼ぶ。母さんのことは呼び捨てで、父さんには「さん」付けで。母さんは、ひのでの唯一の愛情表現だと好意的に受け止めているけれど、真意は正反対であるのを僕は黙っている。
今夜も母さんが外出するのは、聞いていた。
帰りの時間が読めないので、夕飯は用意しておく、目処がたち次第連絡する、と聞いていたわけだが、既に九時前。ここから晩くなるということは、日を跨ぐのかもしれない。
「私も、少し出る。」
出る、と告げたひのでには化粧が施されていて、肩には鞄もぶらさがっていた。
「でるって、どこに、」
僕は眉をひそめた。
時間も時間だし、妹は相変わらず女くさい、目を惹く身なりをしている。水商売の出勤前に見えなくもない。それ以前に、こいつはまだ停学中だ。
「復学前にみつかると面倒だぞ、」
やんわりと忠告してはみたが、兄の言うことを素直に受け容れる妹でないのは、百も承知だ。ひのでは鏡を覗いて前髪やまつげを軽くいじり、当然のように忠告を流した。
そしておもむろに、鞄から包みを取り出し、差し出してきた。
「なんだよこれ、」
包みは手のひら程度の大きさで、ひのでには似つかわしくない、ファンシーな絵柄をしている。
「もうすぐモモカがくるから、渡しておけ。」
ひのでは横柄に依頼した。依頼というより命令だ。
「自分で渡せばいいだろ、」
「うるさい。おまえが渡すんだ。おまえが買ったことにしろ。」
さも自然に命令が増える。
わけのわからない言動に呆れ果てていると、反応が気に入らないのか、ひのでは目を鋭くさせた。
「余計なこと言ったらぶん殴る。」
妹の場合、これが脅しじゃないから困る。ひのでは包みを押し付けると、行き先も告げずに出ていった。
抵抗させてくれない理不尽と、予定外に訪れた開放感と、少々の心配に、僕は複雑なため息をついた。
ひのでがどうでもいいわけじゃない。
此度の停学、妹の将来、時には身を案じることだってある。
でも、今みたいに扱われては、好きか嫌いかの二択で妹を表す場合、どうしても好きを選べそうにない。
そして、どうにもならない無駄なことばかり、考え始めてしまう。
どうして僕はひのでの兄で、ひのでは僕の妹なんだろうと。
せめて男同士だったら、もしくは女同士だったら、
もっと年齢が離れていたら、産まれた順番が逆だったら、
僕らは別のかたちで、ちゃんと、きょうだいになれたんじゃないかって。
「お互いが、唯一のきょうだいっていうのも、難しいんだよね、きっと。」
百香は思いついたように言った。
コーヒーの湯気に息を吹きかけながら、その合間に、ぽつりと。
ひのでが家を出てすぐ、彼女はやってきた。
手土産のドーナツを箱一杯に持ってきて、特に用件があるわけでもなく、あがりこんできた。
僕もなんとなく彼女を迎え入れた。そしてなんとなく、ひのでのことを話した。詳細は伏せて、「妹が難しい」程度の話を。
普段ならこんなこと、絶対口にするものか。ましてや百香なんかに。
昨日までの僕ならそうだっただろう。だけど今は、こうして彼女と向き合っている。これもきっと、放課後での一件が、良くも悪くももたらしたゆとりなのかもしれない。
「唯一のきょうだい?」
僕は珍しく百香の話に耳を傾けていた。
「うん。きょうだいってさ、親が同じならほとんど同一人物じゃん。材料が同じなんだから。」
百香はさらりと言ったけれど、結構生々しい発言だ。それに極論過ぎる。僕が指摘すると、百香も「たしかに、」と笑った。
「でも、割と的を射ていると思うよ。百香は一人っ子だから知らぬが仏だけど、同じ材料で生まれて、同じ環境で育った人間が客観的に見えちゃうって、人生においてちょっと目障りかも。」
人生においてちょっと目障り。百香らしい言い回しに、不覚にも納得してしまった。
「ましてや、旭とひのでは二人兄妹でしょ? だから、お互い唯一のきょうだい。」
なるほどな。僕は素直に頷いた。
「きょうだいがもう一人くらいいたら、もっと楽だったんだろうな。」
「んー。それ言われちゃうと、ちょっと悔しい。」
悔しい? 僕が首を傾げると、百香はわざとらしく唇を尖らせて、すぐににこりとえくぼをみせた。
「だって百香、ひのでのお姉ちゃんのつもりだもん。」
その笑顔が僕には理解できなかった。照れているような、慈しんでいるような、どことなく誇らしげな。
やっぱり彼女は度々、僕を煩わせる。
話を変えてしまおう。僕はここぞとばかりに、ひのでから依頼された包みを彼女に渡した。
何が入っているかはわからないけど、余計なことも言えないので、とりあえず「これやる、」と簡単な言葉を添えた。
「えっ、うそ、」
包みを見るなり、百香は歓声をあげた。袋の柄で中身が把握できたらしい。目を輝かせながら「開けていい?」なんて聞いてくるので頷いた。
包みから現れたのは、ピンク色の兎のストラップだった。
「やだあ嬉しいっ、ありがとう!」
百香は兎を握り締めながら大げさに喜ぶ。
「どこでみつけたの? 百香のために探してくれたの? 覚えててくれたの?」
続く質問責めには返答のしようがなくて、あー、とか、んー、で対処した。それでも百香の喜び様は静まりそうにない。
「ほんっと嬉しい。旭からのプレゼントなんて、いつぶりかな、」
僕はコーヒーを啜りつつ、たまに横目で彼女を眺めながら落ちつくのを待った。
「……よかった。安心しちゃった。」
感激の終わりあたりで、百香は呟く。
安心? つい反応してしまった。
「旭、最近ちょっと違ってたから、」
「違ってたって、」
妙な言い方だな。
「うまく言えないけど、ぐーんと遠く行っちゃう感じ、みたいな。」
「もっとわかんねーよ。」
「えへへ。でもよかった。……百香ね、心配してたの。」
百香はカップを置くと、急にしおらしい態度になり、指を合わせだした。
もじもじと、何か言いたげなしぐさを見せる。
「あのさ、やっぱり、雨宮さんとは、仲、良いの?」
やがて遠慮がちにきいてきた。合わせた指同士をいじり、視線を泳がせる。
どうあがいても彼女は、僕を煩わせるみたいだ。
「べつに。」
げんなりと返答すると、泳いでいた視線が上目づかいに止まった。
「じゃあ、さ。その……ああいうの、やめたほうが、いいかも。」
「ああいうの?」
「今日の、放課後、みたいなこと。」
やっぱり行き着く場所はそこか。
瞬時に、彼女の訪問目的が把握できた。どこかで口を挟んでくるだろうと覚悟はしていたけれど、まさかこんなかたちでとは。
「怪我してたから、手伝っただけだろ、」
「雨宮さんのあれ、怪我なんかじゃないよ、」
百香は突然、声をかぶせてきた。
「前からよく巻いてるんだよ、包帯。男子はわからないかもしれないけど、女子の間では有名で……その、たぶん、リスカなんじゃないかって。雨宮さんってほら、静かなタイプだし、そういう噂、あるの。」
静かなタイプ。以前は優しいと思えたその表現が、一気に悪意に染まる気がした。
事情を知らない人間が、憶測をたてるのは仕方がない。相手が雨宮なら尚のことだ。
頭では充分理解しているのに、嫌悪感があふれてくる。
「……くだらないよな、女子のそういうところ。」
悪意を悪意で返すなんて、幼稚かもしれない。
そもそも、百香の悪意こそ僕の憶測でしかない。どうやら僕はまだ、嫌悪を抑制できるほど、大人には成れていないらしい。
「も、百香もね、そういうの良くないって思うよ。でもほら、そういう人に関わると、旭も何言われるかわかんないし。放課後のことも、けっこう、目立ってたし、」
「いちいち予防線張ってる分、おまえのほうがたち悪いよ。」
僕は歯止めが利かなくなっていた。
百香がどんなに言葉を選んで説得しようと、あの日のぼろぼろになった雨宮が浮かんで、とても容赦できそうにない。
『たぶん、リスカ』ってなんだよ。『そういう人』ってなんだよ。おまえに何がわかるんだよ。
「百香は、旭のこと心配してるの、」
ついに百香は声をあげた。
「心配心配言うなら、おまえこそ周囲の目みろよ。外でも学校でも馴れ馴れしくしやがって。」
より大きな声で僕は言い返した。今の嫌悪感と、今までの鬱憤も全部こめて。
とたんに百香の表情が曇る。
「なんでそんなこというの?」
声は湿り気が帯びて、震えだした。
「百香は、こんなに、旭のこと考えてるのに。いつも、いつも心配してるんだよ? ……今日の課題だって、旭、きっと苦労してるだろうから、助けになれたらいいなって、頑張ってノートまとめて……ひのでにも手伝ってもらって、ちゃんと全部……」
は?
思わず反論を忘れた。涙を浮かべる百香も、どうでもよくなった。
そんなことより聞き捨てならなかったのは、彼女の発言にだしぬけ登場した、妹の名前だ。
「なに? まさか、あのノート……ほとんどひのでが、」
今になって、不自然に完璧だったノートを思い出す。
嫌な推測がよぎり問い詰めると、さめざめ嘆いていた百香がきょとんとした。
「だって、ひので数学得意だし……」
「………ばかにしてんのかよ、」
満ちた嫌悪が溢れかえって、憤慨へと変わった。
厄介な女だ。彼女の善意はいつだって、僕を殺す。
こいつは誰よりも僕に近づいて、誰よりも僕を否定していることに気づいていない。
優しさの副作用みたいなものだと、言い聞かせてきた。
どんなにうんざりさせられても、煩わしく思えても、感謝するたびに帳消しにしてきた。
だけどそれも全部、どうやら疵を塗り潰していただけにすぎない。
「なんで? 旭……怒ってるの?」
性悪でない分、質が悪い。いつからこんなふうに思ってしまったんだろう。
「うっとうしいんだよ、おまえ。」
積年の本音が声に出た。
憤慨の理由を知る由もない百香は、戸惑いと驚愕の入り混じった顔をみせ、やがて唇を噛み締めて俯き、たった一言、「ごめん。」と謝罪を残し、出て行った。
兎を包んでいた袋がテーブルに残されていて、僕は音をたてて握り潰し、くずかごへ投げた。
百香は一日だけ学校を休んだ。
翌日には普通に登校してきて、目が合うなり何事もなく、「おはよ。」と笑顔を向けてきた。
でも言葉を交わしたのはその一言だけで、休み時間も放課後も、彼女が駆け寄ってくることはなく、僕に親しんでいた時間を、女友達と費やすようになった。
今の状況を亀裂と捉えるか、距離と考えるかは、僕と彼女とで違うと思う。
ひとつだけ言えるとするのなら、これは変化だ。そしてこの変化は、百香だけにとどまらなかった。
談笑する程度に親しかった者、挨拶を交わす程度に近しかった者、百香を介して親交があった程度の女子生徒、いわばクラス全員との関係も変化した。
一言で表すのなら、よそよそしい、それに尽きる。
無視やいじめというほどの域でもなく、揶揄されたりいじられるような距離にも届かない。
つまり、雨宮糸子と同じ『孤立者』の扱いだ。
自分でも不思議なくらいに、ダメージが無かった。
放課後の一件から、何かしら余波があるのは覚悟していたし、もともと親友って人間もいなかったし、そもそも女子とは普段から喋らないし、当然といえば当然だ。
それに、彼らは一致団結して僕を孤立者に仕立てたのではない。
大前提として、大半が僕より賢い連中だ。あの一件で、彼らが僕の扱いを改めたにすぎない。
僕だって、彼らへの見方を改めた上で、あの一件を起こしたのだから、お互い様だ。
動き始めた新しい日常は、少し肩身が狭いけれど、妙な自己満足に守られていた。
変わりゆく日常のなかで唯一、雨宮だけが、彼女のままだった。
授業は真面目に取り組み、休み時間は活字だらけの本を読み耽る。機能性重視の三つ編みも、当世風ではない眼鏡も、裾が長めの制服も、小奇麗にまとまってはいるけれどやっぱり地味で、何者にも関わらず、馴染まず、溶け込まず、誰に対しても、当然僕に対しても、他人を貫く。
同じ孤立者に属してから、より彼女の行動が目に付くようになった。
そのせいで以前に増して、雨宮と仲村の関係に、疑問を抱くようになった。
表向きの二人は、徹底的に他人だ。
学内で一緒にいるところなんて見たこと無いし、言葉すら交わさない。
一度、雨宮が仲村のグループを横切る場面に、遭遇したことがある。雨宮は仲村に横目すら向けなかったし、仲村も雨宮に声一つかけなかった。
他人を装って擦れ違う二人に、鳥肌が立った。
あの夜の光景が、鮮明に蘇る。
無抵抗な雨宮を、容赦なく踏みにじる仲村。
人格者と孤立者、二人の間には高い壁がそびえていて、汚く罵るほどに圧倒的な力の差を、思い知らせる。
そんな理不尽を隠し、何食わぬ顔で高校生活をおくっている二人の異端者に、僕は目が離せなくなっていた。
自分に余裕ができたからこそ、余計に。
「穴場だな、ここ。」
声をかけると、雨宮は唖然と表情を固めた。
ノートを拾い集めたときの、あの顔に似ていて、僕は込み上げてきた笑いを、ふん、と鼻からだした。
話は少し、遡る。
滅多に席を立たない雨宮が、昼休みに限り不在になると気づいたのも、孤立者になってからだった。
午前の授業が済めば鞄ごと消え、午後の授業開始前に帰って来る。
最初は仲村との逢引(不当な表現だろうけど仮に逢引としよう。)を疑ったが、彼はたいてい、学友たちに囲まれて昼を過ごしているので、その線は消えた。
それならきっと、どこか静かな場所で昼食を摂っているのだろうと考えたが、見当がつかない。
教室や食堂は賑やかだし、テラスや中庭にも誰かしら生徒はいる。僕が逃げ場としている屋上で、彼女と鉢合わせたこともない。推測を巡らすうちに、雨宮をつけていた次第だ。
いやな行動力まで身についてしまったなと、我ながら呆れたけれど。
行き着いたのは、あの夜も訪れた視聴覚室だった。
入った瞬間、なるほどと感心した。
この室には、映写室が設置されている。雨宮はそこに潜んでいた。機材に囲まれた六畳程度の空間で、本を片手に弁当を広げていた。
「鍵かかってないんだ、ここ。」
硬直する彼女を無視して、真正面のパイプ椅子に座った。ラックをテーブル代わりに弁当を広げる。
「な、なな……ななんなのよ! あんたっ、」
当然、雨宮は抗議してきた。狭い空間いっぱいに距離をとり、人差し指を向ける。
「なんなのって、同じクラスだろ。」
「そ、そういう話じゃないわよ愚鈍っ。な、なななに居座ろうとしてんのよ!」
「おかげさまで、ぼっち認定なもんで。」
「あ、あああたしのせいじゃないでしょ。じ、じ、自業自得よ単細胞っ、」
意地の悪い話、僕は少し楽しくなっていた。
あえて無神経を振舞う新鮮さはもちろん、雨宮の反応が、実に興味深かったからだ。
仲村を欠いた彼女は、臆病で人嫌いで、そのくせ口が悪く、すぐ虚勢を張る。当初はその悪態に度肝を抜かれたけど、教室内での無口な彼女とのギャップを考えると、申し訳ないが面白い。
「冗談だって。」
とはいえ被害妄想の激しそうな相手なので、からかうのもほどほどにしておいた。
「むしろ助かったよ。おまえがドジってくれて。」
「は……はあ?」
「なんか吹っ切れたっつーか。」
やりづらかったから、あのクラス。
雨宮が僕の話を聞いているかは定かでなく、距離は保ったまま警戒をみせていた。
昼休み終わるぞ、と、僕は彼女に座るよう促す。彼女は先ほどまで腰掛けていたパイプ椅子を自分のほうへ引き寄せ、恐る恐る座った。
当然会話が弾むはずもなく、じろじろ見ていても怒られそうなので、僕は室内を見渡した。
ここは実にいい隠れ家だ。
外からの雑音は聞こえないし、機材のために空調も調っている。なぜかテレビも設置されていて、棚には誰が持ち込んだのか、雑誌が置いてある。
視聴覚室とを隔てた硝子窓も、内側の斜光カーテンを閉めてしまえば壁同然になるし、もし人が入ってきても、一見無人でごまかせそうだ。
真面目な生徒である雨宮が、よくこんな場所をみつけたもんだ。いや、真面目だからこそか。
散々視線を走らせておきながら、最終的には彼女へと落ち着いた。
片手に本、もう片手にジュースのパックを持っている。
「な……なによ、」
視線に気づかれ、やはり睨まれた。
「何読んでんのかなーって思って。」
咄嗟に嘘をついた。雨宮は眉間に皺を寄せて口を噤むと、すぐに本を閉じて箸を取り、昼食だけに集中しだした。
「難しい本? おもしろいの?」
また意地の悪い僕が始まった。彼女の次の反応が気になってしょうがない。
「……あ、あんたみたいな無能には、と、到底理解できない内容よ。」
案外無視されないもんだな。
「前から思ってたけど、悪口のレパートリーすごいよな、」
「な……、あ……ああんたの語彙が、す、少ないのよ、」
「そこは否定しないけど。あとさ、もっと楽に喋れって。」
「ら、らく……?」
「なんでいちいちビビッてんだよ。」
これも前々から思っていた点だ。
罵詈雑言はさほど気にならないけれど、常に畏縮しているような喋り方だけには、どうも参る。こっちが苛めているみたいだ。
「び、びびってなんかないわよ! ああああんたみたいな下等生物と話してやってるだけでも、あ、あ、ありがたく思いなさいよ、この凡愚っ!」
反論の勢いで、握っていたパックから中身が飛び散った。
不幸にもストローは僕のほうに向いていて、ブレザーとネクタイに染み模様を作った。
「あ。」
目を合わせ、二人揃って一瞬停止する。
先に動いたのは僕で、込み上げてきた笑いを堪えきれず腕で顔を隠した。
雨宮はというと、慌ててポケットからハンカチと、使い捨ての洗浄綿を取り出し、染みに宛がった。
僕はますます堪えきれなくなった。
「何、持ち歩いてんの、それ。」
「う、うるさいわね、」
「牛乳じゃあるまいし大丈夫だって、」
「濃縮還元なめんじゃないわよっ、」
なんだこいつ面白すぎる。
変な真面目さも、読めない言動も。あんなに距離をとっていたくせに、触ることには抵抗無いのか。
「……なにが可笑しいのよ、」
「凡愚ごときに親切なんだなって思って。」
「責任と賠償の問題よ。……揚げ足……とるんじゃないわよ。」
「そりゃどうも。ていうか、普通に喋れんじゃん。」
指摘すると、雨宮は手を止めた。
染み抜き中のネクタイを握って、睨みつけてくる。
きまり悪そうな目つきが、妙にいじらしかった。
「案外簡単だろ。どうせ俺だし。」
得たばかりの、浅い知識を披露して僕は笑った。
今度は視線に配慮して、そっぽを向きながら。
残りの時間は特に何もなかった。
一つ二つ、何か言葉を交わしたような憶えもあるけれど、会話といえるほど大層なものでもなかったし、やっぱり、特に何もなかったで正解なんだと思う。
映写室を別々に出て、教室へ帰り、いつもどおり他人に戻った。