34 首魁
※※※2021/3/21より、本作の大幅改稿版『最愛なる猛毒、致死量の慈愛。』を連載しております。大まかな展開は変わりませんが、【演出】【構成】【台詞】【一話あたりの文字量の改変】等、読みやすさを重視した改稿となっており、また、本作では描かれなかった【糸子と星史のはじまり】を書き下ろしております。読まれる際には改稿版のほうを強くお勧めいたします。※※※
……おにいちゃん おねがいが あるんだ
妹の、最後の「おにいちゃん」は、夏だった。
妹が小学一年生で、僕が小学二年生の、なつやすみ。
八月三日。
僕が妹の「おにいちゃん」でいられたのは、この日までだった。
僕は、泣いていた。
冷静な妹を前に、ずっと、わんわん泣いていた。
怪我をさせたんだ。
ちょっとした言い争いの延長で、僕はつい妹を突き飛ばしてしまって、妹は花壇の石積みに背中を打って、怪我をした。
服に血が滲んで、慌てて病院に駆け込んだけれど、幸い大事に至らなかった。
妹も、怪我が見えない箇所だったせいか、けろっとしていたのに、僕はずっとわんわん泣いていた。
怪我をさせてしまった
傷つけてしまった
疵を残してしまった
後悔と罪悪感がとまらなかった。
ごめん ごめんね ひので
泣きながら何度も謝った。
ごめんね ごめんね ゆるして ごめんね
なんでも なんでもするから
ぼくをゆるして
「じゃあ……おにいちゃん。おねがいが、あるんだ。」
言ってくれ
ぼくに できることなら
なんでも
「……あのね、」
×××××××、……家族に、なってほしい――――――
夕方を迎えた十月の風は思いのほか冷たくて、そろそろ運転時の服装も考えなくてはいけない時期になったと痛感した。
後部座席に跨る彼は大丈夫だろうか。新潟、思ったより寒くなかったし、今の服装も東京基準だ。バイクに乗るには肌寒いかもしれない。
自宅までまだ距離のあるコンビニの駐車場に、バイクを停めた。
「なに? なんか買うの?」
「まあ、それもあるけど。走ってて寒くないか?」
「ちょっとね。でももう着くんでしょ? 平気ヘーキ。あっ、じゃあ温かいもの飲んでから再出発しようよ。」
言うなり、星史は早く早くとコンビニへ入っていった。どうせカフェオレだろうなと予測しながら、僕も後ろを付いてゆく。
まもなく夜になる、三日ぶりの東京。
僕は彼を、文字通り連れて帰ろうとしている。
高速道路を下りたあたりで、車内では星史の身の振り方について会議が行われた。
大げさな言い方をしたが、つまりはとりあえずの避難場所だ。さすがに、毎日『死ね』と貼られる自宅に帰すわけにはいかない。
会議が必要だったのは、避難場所が無いという切羽詰った理由からではなく、むしろ候補地が多いという、贅沢な悩みからだった。
一つめは、星史の両親が引っ越した先のマンション。
そもそも、何故星史が両親と同じ新居に越さなかったというと、『名塚月乃』の名が学校及び近辺に知れ渡った以上、東京自体を離れなくては、という、苦渋の決断からだった。だからこそ東京に戻ってきてしまった今、もはや両親と一緒に住めないという理由は無い。
二つめは、佐喜彦さんの自宅。
ここを提案したのは、まさしく張本人である佐喜彦さんだ。彼は星史と親族であるし、自宅には空いている部屋もあるという。所在地が都心になるので、王子からはだいぶ離れることにはなるが、「でも新潟よりは近いでしょう?」なんて冗談めかして笑ってきた。
そして、三つめ、は……
「俺ん家、くる?」
避難場所が佐喜彦さんの自宅に決定しかけたときに、僕は空気も読まず発言した。
車内が静まり返り、三つの視線が其々別の思想を持って、注目してくる。三方向からの生暖かい攻撃に、今しがたの提案を後悔する。
「決定ね。」
「決定だね。」
「じゃあまずは俺んち、戻らなきゃ。」
どうせバイク置きっぱなんでしょ? 目を輝かせる星史相手に、今さら前言撤回はできそうになかった。
「………。」
『東京ついた。これから星史と一緒にそっち行く』
旧仲村家マンションについてしまう前に、僕はこっそり、雨宮へメッセージを送信した。
運転中は肌寒かったのに、降りてみると暖をとるほどではなかった。ホットで買ったペットボトルも、なかなか冷めない。
「言い忘れてたけど、うちに雨宮いるから。」
隙を突くように明かした。飲み口に唇を当てたまま、星史は険しいような訝しいような、平たくいえば変な顔をする。
「うっそ、もうそんなに進展してんの?」
そこかよ。黙ってた事はいいのかよ。遭遇してしまう件にもノータッチかよ。つか進展も何もねーよ。
今度は僕が変な顔になる。
「ちっげーよバカ。……成り行きで、留守番頼んだんだよ。うち今、家に誰もいないし。」
「はー。どんな成り行きなんだか。」
そういうわりに、あまり興味関心のある口ぶりではなかった。まだ熱いはずのカフェオレを、一気に飲み干す。
「陽さん、なんでいないの?」
むしろ、こっちに関心があるようだった。
「再婚、するから……その……相手と一緒に、住み始めた。」
今更、無意味に気まずく説明する。
「ふうん。」
まだ関心があるか、ばれないようにさぐった。あってもこれ以上、何を言えばいいのか見当もつかないのだけれど。
「あーあ。一気にテンションがた落ちー。陽さんいないしー。ブスいるしー。旭くんはブス連れ込んでるしー。」
「うしろ二つは同じじゃねえか。」
律儀に突っ込みはしたけれど正直安堵した。母の話題は切り上げらしい。
安堵ついでに、付け加えるように苦情も言ってみる。
「ていうか、雨宮別にブスじゃねーだろ。下の上だ、下の上。」
「つまりブスじゃん。」
母の不在と雨宮の留守番に文句を垂れていた星史だけど、まだ笑っているだけ拒否感は本気のものではないことが窺えた。
だけど、自宅にはもれなく百香も待っているなんて、口が裂けても言えない。彼の彼女に対する評価が過去のままだとしたら、この冗談半分みたいな拒否感も本物になってしまう。
到着してから、そこはまあ……うまくやり過ごそう。
杞憂を後回しにしたところで、スマホが震えた。
液晶に映る文字に、つい吹き出す。
「なに笑ってんのさ。」
尋ねる星史に、僕は液晶画面を向けることで返事をした。
「噂をすれば、愛しの「下の上」さん。」
僕のふざけた台詞にか、液晶に並ぶ『雨宮糸子』の文字にか、どちらに対しての反応かは判らないけれど、星史は「あー、そー」と、さも面白くなさそうに返す。
なげやりな彼を、まあまあと一応宥めてから、着信をとった。
「よう。」
妙な充実感と幸福感を胸に、応答する。
しかし、次の声が返ってこない。
「……? 雨宮?」
なまえを呼ぶ。
それでも、返ってこない。
待てども待てども、雨宮糸子の声は、一向に聞こえない。
「旭、」
充実感が、幸福感が、罅を入れて戦慄に変わる。
僕がこの声を忘れるはずがない
彼女の声を、知らないわけがない
なぜだ どうして……
「……ひので……か?」
どうしておまえがこの電話に出るんだ。
「仲村星史もそこにいるな?」
一方的に妹は切り出した。
わけがわからない。
なぜ雨宮のスマホから妹の声がするのかも、なぜ妹が星史の所在を尋ねるのかも、
雨宮の、所在も……
「二人で来い。アメミヤイトコは、私が預かっている。」
通話が途絶える。
何事もなかったみたいに、ツーツーと、通話の終了を報せる音だけが響く。
この、たった数分の、妹との時間を、夢かまぼろしか、疑う。
それを願う。
たのむ……夢か、まぼろしに、したいのに、
残酷にも、この身を凍らす戦慄だけは本物だ。
「星史、……雨宮が……」
危ない。
自分がどんな説明をしたのか、経緯をどう語ったのか、何を危惧し、何を伝えたのか、わからない。
不安と混乱、恐怖と絶望、ひのでと、雨宮。
……様々な要因が、存在が、ぐちゃぐちゃに混ざり合って僕を曖昧にする。意識を掻き回す。
突然掴まれた手首の感覚が、僕を呼び起こした。
「……急ごう。」
僕の手首を握り、星史は気丈に言う。
いっさいの躊躇いも無く、僕らはバイクに跨った。
日が沈んだ闇夜の中、灯かりの点らない玄関先で、扉を背に百香は蹲っていた。
ライトに気づき、泣きそうな顔をあげて僕らへ駆け寄ってくる。
「あさひっ……ひのでが、家の中っ……糸子ちゃん、つれて……電話、でてくれなくて………ごめんなさい…百香、買い物、出てて……」
よほど動揺しているのか、支離滅裂な説明を並べる。断片的ではあるがおおよそを察した僕は、彼女の肩を抱いて落ち着かせてから、自宅の鍵を取り出した。
「待って。」
鍵を挿す間際で星史が呼び止める。
ゆっくりと深いまばたきをしながら、視線を百香に向けた。
「桂木さん……だよね? きみは、残ったほうがいいんじゃない?」
危険なんでしょ? 妹さん。と、冷静な提案を淡々と告げる。
露骨に冷たい言いぐさをしているが、彼が彼女をいけ好かないという事実は、おそらく今に限っては無関係なのだろう。
しかし星史は、ひのでの百香に対する心酔ぶりを知らない。今この状況で、こんなにも最終兵器といえる存在、他にいないというのに。
その旨を伝えようとしたところ、百香が間髪いれずに首を振った。
「百香も行く。……ひので、百香の話なら、聞いてくれるかもしれないし。」
両手でぐっと拳を作り、ちいさく頷く。その様子を一瞥して以降、反論しない星史を確認してから、僕は今度こそ鍵を挿した。
玄関も廊下も暗い。突き当たりのリビングだけから、灯かりが洩れていた。
妹は、いた。
雨宮と、一緒に。
「――――雨宮っ……!」
「糸子ちゃんっ!」
僕と百香はほぼ同時に彼女を呼んだ。咄嗟に、反射的に叫んだ。
リビングに足を踏み入れ、真っ先に目に飛び込んできたのは、まさに人質の雨宮糸子だった。
腕ごと上半身を縛り上げられ、両足首も拘束され、口枷として、タオルを猿ぐつわにされている。そんな無抵抗でしかない雨宮の長い三つ編みを、ひのでは片手で鷲掴みにしていた。
雨宮は険しい表情で声も満足に出せないまま、身をうごめかせて抗いを見せるが、結局は無駄な抵抗。ひのでは三つ編みの付け根に爪をたて、えぐるように力を込める。痛みによる非道な抑制が、彼女の表情を引き攣らせ、更に自由を奪った。
まさに非人道的な光景は、それだけでとどまらない。
「なんの真似だ……ひので、」
ひのでの、もう片方の手には、
「ひので……!」
包丁が握られていた。
雨宮を人質に、包丁を凶器に、壁側近くまで距離をとって、妹は僕らと対峙する。
「ひのでッ!」
「動くな。」
声を荒げる僕とは正反対に、妹は淡々と口を開く。彼女の傍らで拘束された雨宮が、無慈悲な仕打ちに抗いながら、必死に何かをうったえている。
ひのでは包丁を握ったまま腕を伸ばし、指をさす要領で、刃先を星史に向けた。
「旭。……アメミヤイトコは、その男と交換だ。」
僕と雨宮の目が剥く。そして同時に彼を見る。
星史は動揺こそ見せないものの、明らかな嫌悪を懐いた静かな表情で、まばたき一つせず、ひのでを見据えていた。
雨宮が鬼気迫った表情で首を振る。条件をのんではいけないと、僕に、星史に懇願してくる。
彼女と彼の狭間で、僕は悟っていた。
悟ってしまった。
課せられた決断を。……選択を。
意図しているのか、単なる偶然か。
妹が僕に強いている。
雨宮と星史、どちらを選ぶかを。
「……あーあ、見縊られたもんだね。」
隣から、この張り詰めた空気に相応しくない軽薄な声がした。
「心外だよ、ほんと。」
星史が、あざ笑う口調で言い捨てた。
「交換なんて、俺とその肥溜めブスが、同等の価値だと思ってんの?」
物怖じもせず飄々とした態度で、ひのでに歩み寄る。
二、三歩近づいたあたりで、ひのでは星史に向けていた刃先を、雨宮に向き替えた。
その場で立ち止まった星史が、手錠を掛けさせるようなジェスチャーで両腕を差し出しつつ、尚も挑発的に嘲笑う。
「さっさとそいつを解放しなよ。お望みどおり、極上の人質になってあげるからさ。」
ひのでの無表情からは、次の行動がまるで読めない。しかし予測している場合じゃない。
「だめだ星史ッ!」
僕は彼を制止する声をあげた。
星史が手のひらを僕に向けて、制止し返してくる。
予期せぬ反応に戸惑い、言葉を失った僕を確認した星史は、再び飄々と、ひのでと対峙した。
「……と、その前に、」
そのまま、ひのでに向けて『会話』を始めた。
「はじめまして、皆口ひのでさん。ちゃんと話すのは初めてだね。」
唐突に始まった『会話』に、ひのでの眉がぴくりと動く。
「その節はどうも世話になったね。……ああ、勘違いしないでよ? 別に、恨み節を言うつもりなんてないんだ。ただね、少し、答え合わせさせてくれないかな?」
……答え合わせ?
どういうつもりなんだ。何を言っているんだ。
僕は星史の不可解な言動に、固唾を呑んで立ち竦んだ。
「単刀直入にきくよ。今回の騒動の発端になった、きみへの襲撃事件。あれ、自作自演だよね?」
途端に場の空気が変わる。
形を変えて、張り詰める。
星史はすいすいと言葉滑らかに続けた。
「おかしいと思ったんだよ。擦れ違いさまの急襲とはいえ、ずいぶん無防備な箇所刺されているし、何より、あの場で刺されるだけで終わり……なんてのも不自然すぎる。動けなくなったきみを拉致したり、もっとひどい暴行を受けていたって、不思議じゃなかったのにね。」
どういう……ことだ?
……おい、ひので、
なんで……なんで黙ってんだよ
「それに、名塚月乃の件で蔓延っていた記者……きっと、あれ自体は本物なんだろうけど、それをリークしたのも、もちろんきみだよね? 「あの学校に名塚月乃の関係者がいる」って。」
なんで……否定……しないんだよ
「それだけじゃない。桂木さんの誤投写真の件、あれも不自然な点がたくさんあるんだ。……いいや、今指摘したいのは、そこじゃない。」
星史が深いまばたきを一つ挟んで、目の色を変えた。
「俺はね、この自作自演こそが不自然だと見ている。」
僕にはわからなかった。
彼が、何を言っているのか。
彼が推し量った、見透かした、何かを、
「きみの手がけた自作自演が、自発的だとは思えないんだ。この騒動の発案者……真の元凶は、きみじゃない。」
真実、を。
「きみに、自作自演を、演じさせたのは――――――」
星史が突然、『会話』を止めて振り向く。
今までの余裕も嘲笑も嘘みたいに、震撼した顔で僕を見る。
「――――旭くんッ!!!」
視線があった刹那に叫び声をあげ、飛びついてきた。
ごどん、 と、鈍い音がした。
何が起きたのかわからなかった。
何かが起きたのだと気づいたときには、
「……せい……じ……?」
星史が庇うように僕に覆いかぶさっていた。
「ぁぐッ……はっ……」
僕の上で、声じゃない声を吐く星史と、わけもわからず倒れる僕の横で、なぜか不自然に椅子が転がっている。
いつも、僕とひのでが、食事のときに使う、木製の椅子……
……まさか、今しがたの、鈍い音、は……
察すると同時に、星史の背後でゆらりと人影がそびえた。
もう一脚、別の椅子を振りかざし、それは無慈悲に星史の背面を殴打する。
「がはぁッ!」
嘔吐みたいな悲鳴をあげてすぐ、星史は僕から退かされるように蹴り飛ばされた。
悶える彼が、ボロ雑巾のように床で這い蹲る。
「……あーあ。もうちょっとだったのに。」
一連の流れに、目も、理解も、追いつかない。
「旭にはちょっとだけ、寝ててもらおうと思っただけなのに……ま、いっか。」
星史を甚振った、人影の正体に、困惑する。
「てゆうか、男のくせにべらべらべらべらよく喋るなあ、」
その、無邪気な声を、
あどけないしぐさを、
屈託のない笑顔を、
麻酔薬のような、彼女を、僕は、知っている
もう はるか昔、から
虫の息となった星史に、彼女は小さなステップを踏むような足どりで、あざとく、女の子らしく、歩み寄った。
僕の知る、屈託のない笑顔で彼を見おろす。
そして容赦なく、頭を踏みつけた。
「ほんっと、うるせーんだよ。肥溜め野郎。」
無邪気な声で、
いたずらに、あどけなく、容赦なく踏み躙りながら、
桂木百香は、えくぼを見せた。




