32 敬意
※※※2021/3/21より、本作の大幅改稿版『最愛なる猛毒、致死量の慈愛。』を連載しております。大まかな展開は変わりませんが、【演出】【構成】【台詞】【一話あたりの文字量の改変】等、読みやすさを重視した改稿となっており、また、本作では描かれなかった【糸子と星史のはじまり】を書き下ろしております。読まれる際には改稿版のほうを強くお勧めいたします。※※※
日々の生活において、連想する「朝ごはん」はどうしてもパンだった。六枚切りの食パンを、軽くトーストしたもの。
それと並ぶ動物性たんぱく質は、卵かベーコンかウインナー。野菜類はだいたいがサラダで、ごくたまに野菜のスープ。飲み物は牛乳かコーヒー。
マーガリンやジャム類は、誰の席からも平等に届くよう、テーブルの中心に置かれていた。僕はたいていマーガリンのみか、気が向いたときにピーナッツバターを選んでいた。
妹は、いつも苺ジャムだった。
トーストにマーガリンを薄く塗って、その上から山のようにぼってりとジャムを落としていた。妹がジャムを使うと、瓶のなかみは一度に半分くらい減っていた。
案の定、口のはたや指先は、すぐ苺色に汚れていた。
「ほら、また。」
僕はいつもお決まりのように、箱ごとティッシュを差し出していた。
「ん。」
難なく受け取る妹の指先は、べとべとだったけれど、爪はきれいに切り揃えられていた。
耳には一つの穴もあいていなかった。
髪も、真っ黒だった。
僕たちは、けっこう、似ていた。
………。
……ちがう。
記憶が脱線した。今はそんなことを思い出していたんじゃない。
単純に、自分の連想する「朝ごはん」を、なんとなく思い浮かべていただけだったんだ。
今の、この状況と比較したいがために。
「ママー、しょうゆー。」
「それ味付いてるの。依世ちゃんのお手製。」
「マジか!」
「道臣、お茶に氷、いれる?」
「ううん。」
「……千意子、道臣まで休ませたのか?」
「もち。だって幼稚園なんて義務じゃないじゃん。」
「うっわ。やっぱ元ヤンは言うこと違うねー。」
「は? 関係ねーだろ。」
「こわーい。助けてイヨさーん。」
「なんで私にふるのよ……」
「依世ちゃーん。星史がいじめるー。」
「……皆口くん、ごめん、ソースとって。」
「あっ……はい。」
「せいちゃん、せいちゃん、」
「ん? なに? 道臣。」
「おれ、幼稚園休んで、わるい子?」
「ううん。全然。ミチオはいい子、天使。悪い子はそこの母親。」
「おいコラ中退小僧。」
「なあにー? 中卒さん?」
「あぁ?」
「もう、やめなさい二人とも! 依世ちゃん、筑前煮、すごくいい味よ。」
「先代の味が生きてるな。」
「恐縮です。」
「あらあら、皆口くん、おかわりは?」
「あっ、いえ、大丈夫です。」
「遠慮しないでいっぱい食べてね。」
「あっ、はい。……ありがとうございます。」
いつから喋る前の「あっ」が口癖になってしまったんだ、僕は。
新潟に来てからか? いいや、今朝からだ。この賑やかな朝食スタート時からだ。
これが俗にいう、カルチャーショックというものなのか。
畳に座布団を敷いた座敷席。白飯、味噌汁、焼き魚、煮物、漬物、出汁巻き卵、おひたし……所狭しと並ぶ和食。飲み物は、冷たい麦茶か急須で淹れた番茶。
休むことなく声が飛び交う、大人数で囲む食卓。
こんなのサザエさんくらいでしか見たこと無い。
サザエさんは大げさだが、少なくとも我が家……皆口家では絶対ありえなかった食事風景だ。
自分の常識と余所の日常との差に、僕は完全に畏縮してしまっていた。
「借りてきた猫じゃん。」
そんな僕を、星史はずいぶんと悪い顔で覗き込む。愉快さを隠し切れない声と表情に、投げつけたい不服が脳内で渋滞みたいに並んだ。
ていうかおまえ、おまえだよ、星史。
なんで普通に元気なんだよ。いや元気でいいんだけど。安心したけど。限度ってもんがあるだろ。めちゃくちゃ楽しそうじゃねえか。いや楽しそうで何よりなんだけど。
つかさっき、ふつうに「中退」ネタにされてたよな? ありなのかそれ。ふつう、気、遣わない? いくら親戚とはいえ……え? 俺がおかしいの? ……まあ、おかしいかもな。今、ここにいるって状況だけで、充分。
「旭くん、魚食べるの上手だね。」
こっちの胸中などつゆ知らず、今度は手元を覗きこんできた。僕の食べ終わった焼き魚の皿を指している。たしかに魚をほぐすのは得意っちゃ得意だけど……。
「おれのもやって。」
お前……!
ごく自然でしかない無邪気な言動に、つっこみ所が渋滞を超えて詰まった。
「星史、そのくらい自分でやれ。」
元希さんが口を挟んでくれた。厳格なお説教に対し、星史は例によってわざとらしく唇を尖らせ、ふざける。
「でも元希おじさん、ミチオのはやってあげてるじゃん。孫には甘いなあ。」
「そーだよパパー。ついでにあたしのもやってよー。」
「……あなたそれでも一児の母?」
「ん? なあに? 依世ちゃんも一緒にミチオのママになってくれる?」
「なんでそんな話になるのよ。」
「いよちゃん、いよちゃん、」
「なに? ミチオ。」
「いよちゃん、おれのお母さん、なる?」
「いいえ。お母さんにはならないけど、あなたは本当に可愛いわ。天使。」
「あたしはあたしは!?」
「今日休みなら、舗手伝いなさいよ。」
「なんでそんな話になるのー。」
少し油断するとこれだ。また朝丘家の空気に呑まれる。
途切れず飛び交う彼らの声をBGMにしているうちに、舗の奥から佐喜彦さんが現れた。
「おはようございます。」
寝起きの気だるさと、たぶん昨夜の疲れが少なからず残る彼は、光度がじゃっかん弱まっているものの、やはり異様な存在感を放っていた。寝癖もついているのに不思議だ。
「あらまあ佐喜彦くん。まだ休んでていいのに。お疲れでしょう?」
千寿さんが労いつつ、彼の朝食の支度を始める。佐喜彦さんは爽やかな「お構いなく」を告げた後、その場で姿勢のいい正座をした。
「おかげさまでよく休ませてもらいましたよ。……お義兄さん、お久しぶりです。こんな恰好ですみません。」
「いや、遠路遥々だったな。よく来てくれた。」
元希さんが、僕を迎えてくれたときと同じ、穏やかでちょっぴり不器用な表情をした。
「佐喜彦じゃん!」
「佐喜彦も来たの!?」
大人たちの遣り取りも束の間、星史と千意子さんが賑やかな声をあげた。
「「さん」を付けようねー、おガキ様方。」
「ねー佐喜彦、あとでゲームしよ。ボコボコにしてやるよ。」
「あたしもー。佐喜彦世代のクソ古いやつやりたい。」
「おや? 話、聞いてくれないのかな?」
……なんか、すごいな。ここまで違うものなのか、家庭って。
彼の登場によりいっそう、余所の家庭という別世界に直面した僕は、騒がしくも和やかで、遠慮の無い団欒に圧倒された。
「さきひこさん、おはようございます。」
「ミチオ~、きみだけは本当天使。」
みんな、この天使こと道臣くんを、ミチオって呼ぶんだな……
慣れない別世界の中、現実逃避状態で、僕は今さらな朝丘家の謎ルールに一人突っ込む。
「おにいさん、おにいさん、」
まさかのタイミングで、ミチオ少年が声をかけてきた。僕の隣に座り、服の袖をか弱く引っぱる。曇りの無い眼差しが、じっと僕に向いた。
「うるさいの、ごめんね?」
あ。天使だ。
盛大にもてなされた朝食後、朝丘家の面々はそれぞれの一日に就いた。盆でも正月でもない平日なのだから、当然だ。
元希さんは自営の商店に戻り、千寿さんは『せきと』を開店する。イヨさんと佐喜彦さん、それと半強制的に千意子さんは、『せきと』の手伝いにまわった。
『せきと』は本日、支店の人手不足により、本来働いてくれるはずの従業員が総じて出払ってしまっていたため、急遽な訪問は、正直なところ助かったのだという。
しかし、せっかく人員確保できたというのに、千寿さんは本日の営業を午後までにしようと提案してきた。
どうやら、夜に改めて歓迎会を開催するつもりらしい。
「依世ちゃんに佐喜彦くん、それに何と言っても皆口くんが来てくれたんだもん。」
夜まで働いてなんていられない、と、千寿さんは意気込む。そして誰一人としてそれを反対しない。
朝だけで充分すぎたのですが……なんて、この場でその意見は逆に無礼というものだろう。礼を言って痛み入るしかなかった。
「おれも昼のピークは手伝いに出るからさ、その間はミチオとテレビでも観ててよ。」
舗の奥の広間で寛ぎながら星史はのんきに言った。こいつだけ、完全に盆か正月状態だ。
とはいえ、実際新潟にくると、いつもこんな感じらしい。
基本は『せきと』のお手伝い。配膳だったり片づけだったり慣れたもので、常連さんからすると星史の存在自体が風物詩扱いなのだと、千寿さんは楽しそうに教えてくれた。
手伝い以外の時間は、気ままにテレビをみたりゲームをしたり、道臣くんのおもり係を任されたり……。まさしく今日、人手が足りていてピーク時間外の今こそ、その気ままな時間なのだ。
「ここさー、まじ遊ぶとこ無いんだよねー。あ、駅前に映画館とイオンならあるけど。行く?」
僕に尋ねてすぐ、道臣くんにも「おにいちゃんたちとイオン行くかー?」なんて聞いてる。道臣くんは至って冷静に、「せいちゃんが行きたいならいいよ」と返していた。
彼がさほど乗り気でないのを確認したうえで、僕は提案した。
「迷惑じゃなければさ、俺も手伝えないかな、お店。」
星史の顔が一瞬だけ、真顔になる。
すぐさま、子どもみたいにほころんで、思い立ったように舗へと慌しく走って行った。千寿さーん! 人手もう一人追加ー! こっちが恥かしくなるくらい、はしゃいだ声が聞こえてくる。
置き去りにされた道臣くんと目が合って、僕は正座をし直し、きちんと彼と向き合った。
「ごめんな。わがまま言って。」
道臣くんが首を振る。
「ううん。ご本、よんでる。」
言うなり彼は、テレビのリモコンを両手で握って、僕の隣に座った。僕を真似るようにちょこんと正座をして、首を傾げる。
「おひるまで、テレビ、いっしょに見よ?」
いたいけな天使の提案で、十数年ぶりに視聴するアンパンマンには、知らないキャラが増えすぎていて少々困惑した。
最初に足を踏み入れたのが明け方だったせいか、ピーク時の『せきと』の繁盛振りには驚かされた。これは人手が歓迎されるわけだ。
常連ばかりの地域密着型の店かと思いきや、観光客らしき客層も多く見受けられたのだ。聞くところ、昔はこじんまりとした舗だったが、あるテレビ番組に取り上げられ、その際訪れたのが当時の人気俳優だった影響もあり、客足が潤い事業が拡大したのだという。
「パパとママが結婚する前の話でしょ?」
「じゃあ、依世が小学生くらいのとき?」
「まじで大昔じゃん。」
「ぶっ飛ばすわよ。」
営業終了後の午後三時。後片付けの終えた店内には、例の騒がしく和やかな団欒が再燃していた。みんなそこそこ疲れているのに元気だなと感じる反面、先程までの店内を思い返せば、納得のいく節もあった。
一言で表すなら、楽しそう、だったのだ。
厨房で腕をふるうイヨさんと千寿さんも、客席を任された佐喜彦さんも、半ば強制的に手伝わされていたはずの千意子さんも、そして誰より、星史も。
顔見知りであろう客から声を掛けられたり、時には席で呼び止められていたり、観光客からは例の大昔の人気俳優について話を振られたり……。親世代、下手をすれば祖父母世代の客相手にも、星史は気さくに対応し、場を和ませていた。
それが仲村星史だから。……とは、一概に言えなかった。
違ったのだ。
僕が学校で見ていた人気者「仲村星史」と、『せきと』で働く「仲村星史」は、全くもって別人だった。
なのに、違和感が無かった。
違和感が無いという違和感が確信に変わったのは、予定通り開催された、夜の歓迎会でだった。
「皆口くん。今日は頑張ってくれたようだね。」
元希さんが労ってジュースを注いでくれる。
「い、いえ。そんな。ご迷惑ばかりおかけして……」
「そんなことないないっ。すっごく助かっちゃった!」
僕の謙遜を、千寿さんが明るく否定して、讃えてくれた。
「そうそう。星史より使えんじゃん?」
「ひっど。むしろ千意姉より使えたし!」
「……あなたたち二人よりよっぽど要領良いわよ、彼は。」
「厨房任せても飲み込み早そうだよね。」
「じゃあさ、じゃあさ、おれと旭くんで新しい支店作っちゃう?」
「なんでそんな話になるんだよ。」
やはりまた、途切れることのない声達の後から、笑いが起きる。
騒がしくも和やかな団欒に包まれる。嘘偽りない、まっとうな家庭の一部に、ちゃんと彼がいる。
無邪気に笑う星史がいる。
団欒に馴染み楽しむ傍らで、確信した。
僕は、もうずっと前から、この星史を知っている。
愛してくれるひとたちに囲まれる彼を、愛される子でいる彼を、いつの間にか知っていたんだ。
あのひとが
愛され過ぎてるくらい、
愛されてることだけは
……あんたよりも知ってる
あんたよりも 知ってるんだから
……彼女ほどじゃ、ないけれど。
意識が薄れる直前で、視界に映りこんだ彼に目を奪われた。
隣で眠る星史はこの上なくすこやかで、これまでの騒動が嘘みたいに安らいでいる。静かな寝息と無垢な寝顔を前に、彼が受けた迫害の日々が脳裏を巡り、心臓が潰されそうになった。
星史は否定したけれど、騒動の責任が僕に一片も無いとは言い切れない。
僕が、母子手帳をもっと厳重に保管していれば。
無理にでも、ひのでに被害届を出させておけば。
百香が疑われた時点で、名乗り出ていれば。
星史が『信者』の襲撃を受けた日、彼を連れ出していなければ。
僕らが、出逢わなければ。
数え切れない仮定を、過去を、悔む。どこかで修整できなかったのかと、歯車を直せなかったのかと、悩む。無駄に考える。
就寝前までの星史を思い出す。
歓迎会の途中から、朝の約束どおりゲームをした。テレビ画面と二つのコントローラーを用いる、古めのゲーム。
大いに盛り上がった。星史のゲームの腕は相変わらず雑魚同然で、それ以上に佐喜彦さんが群を抜いて下手っぴで、気づけば朝丘の面々に混じって、僕も本気で笑っていた。
元希さんたちが住居に戻り、まだしばらく、星史を含めた来客組で遊んでいたけれど、おいおい御開きにして、星史は僕の泊まる部屋に布団を敷いた。
ようやく二人きりになれて、積る話もあるだろうと夜更かしを覚悟していたのに、拍子抜けもいいところ星史は早々爆睡した。
おかげでこっちはすっかり目が冴えてしまった。
布団の中で仰向けのまま、部屋中を見渡す。外観と同じく和風の造りをしているけれど、所々近代的なデザインも見られ、おそらくリフォームされているのが判った。
睡魔を待ちながら何気なく障子戸のほうを見ると、向こう側が微かにぼんやり明るいことに気づいた。障子戸を開くと、縁側を挟んで庭が広がっていた。生垣が不自然な位置で、壁のようにそびえている。
灯かりは、生垣の奥で点っていた。飛び石の並ぶ道を渡れば向こうに辿りつけそうだ。
星史を起こさぬよう布団を抜け出し、忍び足で玄関から靴を運んだ。
縁側から庭へ出る。
まるで灯かりに誘われるように、飛び石を歩いた。
「あら。眠れないの?」
庭の奥に隠されていたのは、もう一つの庭だった。四方を生垣に囲まれ、外灯が設置されている、用途不明の庭。
そんな不思議な空間でイヨさんはひとり、佇んでいた。
「なんですか、ここ。」
ぶしつけに僕は変な質問をした。彼女とのやりとりが馴染んできた証拠なのかもしれない。
「ここね、むかし、兎を飼っていた跡地なの。」
やはりイヨさんも、あっさり答えてくれた。
「うさぎ、ですか。」
「ええ、うさぎ。」
「小屋、あったんですか、」
「ええ。柵もあったわ。」
時刻は午前一時前。双方とも、寝床から出てきましたといわんばかりの寝巻き姿。そして、兎小屋の跡地だという庭。
奇妙な集合を果たした僕らは、不相応で淡白な会話を繋げる。
「もともと、この庭も舗も、養母の持ちものだったの。」
今度はイヨさんが唐突に言った。
「イヨさんの……おかあさん?」
反射的に言葉を返す。
頷いたのか、瞼を伏せたのか、イヨさんは曖昧なしぐさのあと、
「……皆口くん、」
まっすぐ、僕を見据えた。
「血なんて、くだらないと思わない?」
血が、くだらない。
雑な言い回しだなと思った。おそらく血縁を意味しているのは、すぐ理解できたけれど。
しかしこの雑さが、却ってイチノセイヨらしいとも思えた。
「……朝丘の人間たちは、みんな、星史の出生も素性も知った上で、あの子を受け容れているわ。差別も特別も無い、家族として接している。血の繋がらない、あの子を。」
証拠に、彼女の声は本来の説得力以上に、僕へ刺さる。
「ここでは誰もあの子を迫害しない。……ここにいれば、あの子はまだ、仲村星史として生きていけるの。」
刺さるなんてもんじゃない。
ぶっ刺してくる。貫通する勢いで、内臓ごと吹き飛ばすみたいに。
「あなたに、あの子を連れ戻せる?」
狙いを定めるように言い放った。
瞬時に、気づく。
彼女は最初から、僕に手を差し伸べてなんかいない。
「東京を発つ前に、私、言ったわよね。あの子が、あなたの足枷になるって。」
協力者なんかじゃない。
「それは、星史からしても同じ。」
逆だ。
思い知らせようと、したんだ。
「あなたの行動次第では、あなた自身が星史の足枷になるかもしれない。あなたのしようとしていることは、あの子を不幸にする結果を、招くかもしれない。」
この場所で生きる彼を、尽きることのない笑顔を、暖かな周囲を、平穏な団欒を、幸せな星史を、見せ付けるために、
「名塚という血だけのために。」
名塚旭を、連れて来たんだ。
『僕らが、出逢わなければ』
僕が僕に言う。
先ほどの、すこやかに眠る星史を脳裏に映し出して、囁く。
僕らが、出逢わなければ……今なら、出逢わなかったことにできると、囁く。
修整がきくのだと、歯車を直せるのだと、教えてくれる。
イヨさんの視線と一緒に。
………。
他に、
何もいらないんだ。
お金も、学校も、友達も、家族も、
……なまえも。
………。
セージさまを……おねがい。
………、
……今さら、何を迷うってんだ。
「連れて帰ります。」
イチノセイヨ、あなたの主張なんて、知ったことか。
「星史が、俺を選んだんです。」
だからこそ、心から思うよ、
「血じゃないんです。俺たちは。」
星史の家族になってくれたのが、あなたたちで、……あなたで、よかった。
「俺は、あいつが選んだ俺を、優先したい。」
最大の敬意を、払わせてくれ。
そして、願わせてくれ。
「全部……担わせてください。責任も、あなたたちも、全部。」
俺に、俺たちに、あなたを担わせてくれ。
「俺も、星史を選びます。不幸になんてさせない。」
俺と、
彼女は、
何よりも星史を優先するから。
それが、俺たちだけのかたちだから。
イヨさんが視線を伏せる。浅い、音の無い溜め息を、しぐさだけで見せる。
手の震えを隠しながら、まばたきを我慢しながら、僕は次の彼女を待った。
罵倒されたら土下座しよう。殴りかかられたら素直に殴られよう。通報は……さすがにないと思うけれど……。
なんて矛盾な自分だろう。ある程度色々諦めて、覚悟して、我を貫いた。
そのくせ、かなりびびっていた。イヨさんが耳に髪をかき上げただけで、びくっと身じろぐ。
「本当にくだらないわね。血なんて。」
血がくだらない。先程と同じ台詞が違う音で耳ににじんだ。敬意を払って、その意味を考える。僕にとっての血を、家族を、思い出す。
「くだらない……かは判らないけど、俺には、もどかしくて……時々、わずらわしい、です。」
母と妹……一番身近な家族を思い浮かべた。
「もどかしくて煩わしい、か……」
イヨさんはその感想を、噛み締めるように小さく復唱した。
「……そうね。」
やがて、納得した顔をあげる。
「くだらなくて、もどかしくて、煩わしい。そんなもの、無視しちゃえばよかったのよね。」
どこか吹っ切れた彼女からは、薄れかけていた好感度がまた感じ取れて、僕の震えもいつの間にか治まっていた。
「イヨさんは……意地悪、ですね。独占して、ふんだくってやれって、言ったくせに。」
あの、あっさりとしたやりとりを期待する。
「それとこれとは話が別よ。」
有り難いことに、彼女は期待に応えてくれた。
「そういうところですよ。」
だから僕は、彼女を心から敬愛する。
「下衆で、意地悪で、すてきです。」
ふふっ、と、今まで見たことのないイチノセイヨが、笑った。
「あなたも、あと三十年早く生まれていれば、もっと素敵だったはずよ。」
妖艶で、あどけなく、どことなく母性的に、たぶん、讃えてくれている。
「それじゃ、イヨさんよりずっとオジサンになりますよ?」
「だから素敵なのよ。」
ふと見上げた夜空。新潟は、星が多い。




