03 孵化
※※※2021/3/21より、本作の大幅改稿版『最愛なる猛毒、致死量の慈愛。』を連載しております。大まかな展開は変わりませんが、【演出】【構成】【台詞】【一話あたりの文字量の改変】等、読みやすさを重視した改稿となっており、また、本作では描かれなかった【糸子と星史のはじまり】を書き下ろしております。読まれる際には改稿版のほうを強くお勧めいたします。※※※
普段どおりの朝を歩いた。
二回目の天気予報が始まる前に家を出て、この季節ならではの、陽射しと風を浴びて、自転車通学の生徒に追い抜かれ、喋りながら登校する生徒を追い越し、運動部の朝練を遠目で眺め、校門をくぐる。玄関あたりから顔見知りが増え、挨拶をしたり声をかけられたりしながら教室へ向かう。
途中廊下で、他クラスの生徒が、まあまあ大所帯のグループを作って、たむろしていた。通行の妨げにならない程度の空間をあけ、男女関係なく和気藹々と雑談している。
僕はできるだけ気配を潜めて、彼らを横切ろうとした。
「皆口くん、」
でも、みつかってしまった。
「おはよ。」
グループの中心から、仲村は声をかけてきた。
僕の知らない顔に囲まれながら、爽やかに人懐こい笑顔を向けてくる。
僕は声が返せなくて、瞬きだけで会釈のつもりをした。
誰? 知り合い? 通り過ぎた後から、彼らの会話が耳に飛び込む。
「うん。友だち。」
背中を突き刺す仲村の声に、吐き気を催した。
日常に、罅が入る。
家族に不満があっても、この身を削られても、自分が不甲斐なくても、それが僕なりの毎日で、小さな疵を塗り潰し、時には目を瞑りながら、ごくまっとうな日常を保ってきたのに。
この罅は直せそうにない。
見過ごせそうにもない。
放っておけばたぶん壊れる。
壊したのは誰か、なんて、原因も犯人も突き止め始めたら、きりがない。
唯一わかるのは、昨夜の一件が、間違いなく日常の上で起きてしまったという現実だ。
「俺を騙すんだ? いい度胸じゃん、ゴミクズ女。」
雨宮の腕を踏み躙りながら、仲村は言い捨てた。
「騙す……だなんて。……あたしと、皆口旭は、なんの関係も……」
とぎれとぎれに、苦痛を帯びた声から、僕の名があがる。
何の話だ? 状況が飲み込めず、硬直したまま二人を窺った。
「図に乗んな。口ごたえまでする気?」
仲村の語調はあくまで淡々としていて、激昂するより不気味な威圧感を生む。
その姿には、昼休み笑い合った人懐こさも、学年中から慕われる人格者の片鱗も無い。
彼は雨宮から足を退けると、今度は頭ごと髪を鷲掴みにして無理やり顔を上げさせた。
「皆口くんは幼馴染だって言ってたんだけどなあ?」
「……あいつとは、すこし、話した、だけで……情報は、漏れておりま……――――」
「今はそんな話じゃないだろ。ウジでも湧いてんの? おまえの頭。」
頭を掴まれ、揺さぶられる雨宮を目にした瞬間、吐き気がした。
吐き気がしたから……かもしれない。
息を殺し続けていたら、吐いてしまいそうだったんだ。
どうしていつもみたいに、安全地帯で蹲らなかったのか、事なかれ主義に徹しなかったのか、答えはそれ以外、思いつかない。
「……雨宮の言うことは本当だっ……!」
これは断じて正義感なんかじゃない。
僕は声をあげて二人の前に姿を現していた。
「金曜の……駅のこと、だろ? 雨宮と話したあと、偶然、幼馴染にも会ったんだ。俺、仲村が言ってたの、そいつのほうだって、勘違いしてて………同じクラスに桂木……桂木百香って奴がいる。そいつが証人になってくれる、から。……だからさ、その、」
簡潔に釈明しようとしたが、推測を交える分、そうはいかなかった。
突然の登場にも仲村は動じず、僕のたどたどしい説明を聞き終えると納得したのか、ふうんと頷いた。
「そっか。勘違いだったんだ。」
鳥肌が立った。
仲村が僕に向けたのは、いつもの彼そのものだった。と思いきや、みたび雨宮に視線を向ければまた、
「用は済んだから。帰れば。」
辛辣に言い放つ。謝罪すら無いその態度に、ついかっとなった。
「……おい、」
ここまで首を突っ込んでしまっては、今さらあとには引けない。
「それだけかよ、」
「なにが?」
「雨宮に、言うことあるだろ、」
仲村の足元では、髪を乱した雨宮が無気力に座り込んでいた。俯いていて表情が読めないが、怯えているに違いない。
すごむ僕に仲村は、わざとなのか本気なのか小首を傾げるしぐさを見せ、人差し指で頬を掻きながら、「あるとしたら皆口くんにかな、」と、口角を上げた。
「このことは内緒にしてね。」
いつもの人懐こい笑顔で言う。
ふざけるな。何なんだよこいつ。
「事情は……わからないけど、こんなの、明らかに暴力じゃないか、」
「だから内緒にしてってば。内申に響いちゃうからさ。」
ふざけるな。今度は声が出た。
彼と、彼により繰り広げられた光景は正気の沙汰じゃない。この狂気に加担するまいと、断固として拒絶した。
「しょうがないなあ。」
仲村は大げさなため息をついたあと、すっと表情を落として視線を足元に向けた。
そして躊躇うことなく雨宮のシャツに手をかけ、釦をひきちぎった。
「雨宮、仕事だ。」
「――――はい。」
何が起きたのか理解できなかった。ほんの一瞬だった。
仲村と雨宮の短いやりとりの直後、僕は押し倒され、真上には胸元を露わにした雨宮が覆いかぶさっていた。
「このまま、大声出されたいのかしら?」
雨宮からは怯えているようすどころか、救済の請いさえ微塵も感じられなくて、眼鏡の奥では真っ黒な眸が、まるで人形みたいに見据えていた。
絡みつくように跨る太股の体温、密着する胸の感触、そして彼女の脅し文句に事の重大さを察し、身がこわばる。
次の瞬間、かしゃりと鳴る機械音と、フラッシュを浴びた。
「せっかく友だちになれたんだからさ、問題は起こしたくないじゃん? お互い。あはー。」
重なり合う僕らが映った画面をみせつけながら、仲村は見おろす。
ふざけんな、なにが友達だ。
手も足も出ない僕の睨みに威勢なんか無い。仲村はおもむろに立ち上がって、手のひらをかざした。
「じゃあ、またね。」
昼休みに見た、気さくな優等生の笑顔を残し、仲村はその場から立ち去った。
彼の足音がいつまでも耳に響く気がした。
「………あんた、」
静寂を取り戻したと同時に、雨宮の声が呼吸と一緒に耳へ触れた。
「あのとき、みた?」
問いながら上体を起こす。
馬乗り状態で、乱れきった三つ編みと丸見えの胸元が妙に艶かしくて、息を飲んだ。
「見た……って?」
直視しないように質問を返す。
「と……とぼけんじゃないわよ!」
雨宮は両手で僕の顔を挟んで、無理やり視線を合わさせた。
「何の話だよ!? 本当にわかんねえよ!」
色々とむちゃくちゃだ。仲村もこいつも。積り積った困惑と衝撃に声をあげた。
雨宮は疑り深く僕を捕らえ続けたけど、ようやく警戒しながらも身体を退けた。
ネクタイとブレザーを調節して、釦の外れた箇所を隠す。乱れた髪は編み直そうとしていたが、踏みつけられた腕が痛むのか断念し、簡単に一つに束ねた。
「……せっかく取れたのにな、包帯。」
聞きたいこと、言いたいことは他にあった。でも、困憊しきって整理がつかない。
今の彼女と僕とでは、近づける距離が限られすぎている。
いったい何が起きていて、何に足を踏み入れたのか。
どうして、目の前で雨宮がぼろぼろになっているのか。
「また、俺のせい、だよな、」
それが精一杯だった。気にかけるくらいしか、できない。
「つけあがるんじゃないわよ。」
背を向けたまま雨宮は言い捨てて、僕は一人視聴覚室に残された。
彼女の足音はすうっと静寂に馴染んで、耳鳴りへと変わった。
あれは正義感なんかじゃなかった、断じて。
じゃあなにか? 自問しても「正義感ではない」としか答えられない。暴力を見過ごせないとか、雨宮を助けたかったとか、そんな利の無い理由が動機だとも思えない。
だからこそ、この日常を壊した犯人がみつからない。みつける必要も無いけれど。
僕は今日を、いつもと同じ今日として過ごしている。
今朝も母さんから、『自信作』だと押しつけられた弁当を受け取ったし、昨日一悶着あった百香は、いつもどおり馴れ馴れしく寄ってくるし、ひのでとは必要最低限しか喋らないし、雨宮とは相変わらず他人だし。
昨夜の一件は、僕の高校生活になんの支障もきたさない。
だからといってこれから先、目を背け続ける自信も無い。
雨宮の袖から新しい包帯が覗く。……ああ。やっぱり現実だ。
「旭。あーさーひ、」
百香の声にはっとした。いつの間にか目の前にいる。
「課題やってきた? 数学。」
忘れてた。昨日はそれどころじゃなかったし。
「やばい。提出か、今日。」
「もう、旭ってば赤点すれすれなんだから、こういうときに稼がなきゃだめだよ。」
うるさいな。なんで嬉しそうなんだよ。言おうと思ったけどやめた。
「はい、」
直後に、言わなくて正解だったと安心した。百香が、はい、と渡してきたのは、数学のノートだった。
「早く写しちゃいなよ。」
ノートは見やすくびっしりと埋まっていて、課題に出された範囲が、ほぼ完璧に解かれていた。百香の数学の成績は、確かに僕より少しは上だ。でも、こんなにもしっかりやってあるなんて。
「ふふん。百香だって、やるときはやるんだから。」
こういうのが無ければ、まだましなのに。借りる手前、やっぱり口は慎んだ。
教室前方に設けられている回収箱には、まだ数冊しか提出されていない。今日は数学の授業が無いから、タイムリミットは終礼までだ。
……なんとかなりそうだな。とりあえず次の授業までの十分間、時間の許す限りペンを走らせた。
四限目終了時でおよそ半分まで写し終えた。昼休みを費やせば難なく終えそうだと、図書室へ出向く。
隅の席で集中しだしてから、しばらくしたころだった。
「宿題?」
耳慣れた声が背中を刺した。仲村が後ろから覗き込んでいる。
一気に不快指数全開だというのに、仲村はお構いなしで隣に座り、ノートを眺めながら「応用ばっかじゃん。さすが特進は大変だなあ、」なんてほざいた。
「何の用だよ、」
追い払うつもりで、ぶっきらぼうにきいた。
「皆口くんが心配でさ。怪我とかしてない?」
は? 思わず眉間に皺をよせる。
「あのバカクズってば、手加減わかってなさそうだし。」
こいつは本気で何をぬかしているんだろう。
いや、そもそも本気なんだろうか。もう相手にしないつもりだったけど、ペンを置いた。
「おまえが命令したんだろ、」
「やだなあ、皆口くんに怪我させたくはないよ。」
仲村はけらけら笑いながら軽く言った。思えば、元々こんな奴だった。
昨夜の一件を挟んだからこそ、腹の読めないふざけた奴に見えるけど、こいつはこの、無神経にならないぎりぎりの気さくさと、不快にさせない程度の馴れ馴れしさで、同級生たちを魅了してきたんだ。
僕もすっかり騙されかけたわけだけど。
「おまえたちって、その、何なの、」
結局相手にしてしまったので、この際聞いてみることにした。
「なんなのって?」
「だから、関係、みたいな。」
なんとなくだけど、いや、かなりいかがわしいにおいがする。
いわゆる、隷属的、というか、つまるところ、痴情のもつれ、みたいな。
「あはー。ないない。勘弁してよ、あんな肥溜めなんかと。」
僕の憶測を察したのか、仲村は全面的に否定した。男女間のいざこざでないなら、それはそれで逆に不健全な気がする。
でも言いたいことはそこじゃない。
「なんだっていいけど、ああいうのはやめておけよ、」
僕は率直に意見した。
「ああいうの?」
「だから殴ったり、蹴ったりするの。見てていいもんじゃない。」
今このときでさえ、昨夜の光景が目に浮かんでは吐き気がする。
暴力は苦手だ。相手が無抵抗なら、なおさら。
「だから誰もいないときを選んでるのにー。」
そういう問題じゃない。悪びれずさらりと言う仲村に眉をひそめた。
「見ちまったこっちの身にもなれよ。それかせめて、もう話しかけてくんな。」
「えー。皆口くんとはいい友だちになれそうなのにな。」
仲村が関わってくればその度に、彼の裏の顔がちらつく。それを知りつつ、以前のように接したくもない。
僕は罅割れた日常から目を背けるのに、必死だった。
「………学校に告発されたいのか、」
考え抜いた末、逃げ道はこれしかないと声を潜めた。
「俺と……雨宮本人の証言があれば、おまえに撮られた写真なんて怖くないからな。」
もちろん本気じゃない、ただの脅しだ。
でも、事実雨宮の身体には暴力の痕跡もあるだろうし、こうして彼女の名前を出すことで、今後の抑制にも繋がるのではないか、と思えた。
じっと見据える僕を、仲村は顔色一つ変えず頬杖をついて眺めていた。
やがて、ふうっと浅いため息をつく。
「皆口くんは、いまいち立場がわかってないなあ、」
そしてぽつりと言った。
「ねえ。妹さん、もうすぐ復学するんだってね。」
意味深に、そして予想外に発せられた言葉に凍りつく。
仲村は続けた。
「皆口ひのでさん。美人さんだよねー。うちのクラスでも有名だし、三年にも目つけられてるって噂だよ。しかも入学生首席で成績優秀。暴力沙汰だったってのに、学校側も教師連中も甘くなるわけだ。」
……なんだよ、なにが言いたいんだよ。
「今、それと何の関係が……」
「愛された者勝ちってこと、世の中。」
仲村は簡潔に言い切った。
「もしもきみが俺を告発したとして、損をするのはどっちだと思う? この学校にきみの味方なんていないよ。あのゴミクズ女だってね。」
彼にとって、おそらくこれは脅迫でも助言でもない。
いわばただの会話だ。
なんてことないように席を立ちながら『会話』する仲村に、僕が感情や反論を捻じ込む隙なんか全然なくて、不気味なほどの優等生に捕らわれたまま、口を噤んだ。
「でも、俺だけは味方になってあげる。」
仲村は去り際に耳打ちした。
恍惚に浸るような、粘りのある耳打ちだった。
この意図を見抜く自信は無い。むしろ、見抜きたくもない。
まかり通る理不尽なら、とうの昔から認知済みだ。それに目を瞑り、時々修整を加え、少しの我慢をしながら僕は生きてきた。きっとこれからも。
きっとこれからも、ずっと。
それでいいのか? 解放された束の間の安穏で、考えた。
答えなんて出ないかもしれない。そもそも、答えがあるのかさえわからない。仮に答えが出て、何ができる?
きみの味方なんていないよ
それが真理だ。わかっていたはずじゃないか。
だから今まで考えないように生きてきたのに。事なかれ主義に徹してきたのに。こんなふうに考えたら最後、思い知らされる。
日常に入ってしまったこの罅は、想像以上に深い。
昼休み終了まで十分をきった。
瞼を力強く閉じて、ぱっと開き、一心不乱にペンを走らせた。
――――――どうして愛してくれなかったの
目の奥で、母さんの声が鳴り響く。とたんに、ああ、眠いんだなと察した。
課題なら、先程なんとか終わらせた。そこでエネルギーを使い果たしたのか、六時間目が始まったあたりからうつらうつらしていたけれど、もう限界みたいだ。
たぶん、今は半分、夢を見ている。
どうして愛してくれなかったの
むかし、母さんが叫んでいた。
母さんが、父さんに向かって怒鳴っていたのを、部屋で聞いていたんだ。
僕もひのでもまだ幼くて、その頃のひのでは僕よりも小柄で、オレンジ色の常夜灯を点けた薄暗い部屋で、身をまるくしていた。
「だいじょうぶだよ。」
僕はあのころ、ちゃんとお兄ちゃんでいたかった。
全然大丈夫じゃないのを知っていたのに、嘘を塗って、ひのでと、自分を安心させようとしていた。
きっと父さんと母さんは、どっちも正しくて、どっちも悪い。
全貌なんてみえなくても、子供ながらに理解していた。もうどうにもならないって。
それならせめて、少しでも昨日と変わらない今日を、今までと似た日常を過ごせるよう、ごまかすしかないんだって。
いつだってきっかけはあった。
日常に罅が入るのは初めてじゃなかった。
父さんが離れてしまったのも、
母さんの依存が始まったのも、
僕とひのでの関係がこじれたのも。
ただ、向かい合う勇気が無かった。
完全に壊して新しく作り直すより、ちょっと壊れた部分を塗り潰すほうが、楽だったから。
どうして愛してくれなかったの。あなたの家族だったじゃない、――――――
頭のなか、母さんの怒鳴り声が遠のく。
……完全に、寝てしまうな。
諦めかけた瞬間にチャイムが鳴って、六時間目が終わる。
終礼のあと課題を提出すれば、今日もおしまいだ。
「旭、今日も勉強してくの?」
終礼後すぐ、百香が聞いてきた。
「いや、帰る。」
僕は首を振った。百香が嬉しそうな顔をする。
「じゃあさ、じゃあさ。よかったら、買い物付き合ってほしいな。」
昨日のちょっとした一悶着で、百香なりに学習はしているらしい。
まず、僕を暇と決めつけない。そして一応、「よかったら」と前置きする。
それでもまだうっとうしさが消せないあたり、詰めが甘いけれど。しかし課題の借りがあるので、今日は大目にみた。
「ノート、早く出してきなよ。回収されちゃうよ。」
百香に急かされて回収箱へ向かうと、既に提出されたノートが山積みになっていた。
これを最後に日直が職員室まで運ぶわけだが、今日に限りその提出システムが、穏当にいかないことに気づいてしまった。
黒板の日直欄が、雨宮糸子の四文字で埋まっている。
「? 旭、なにしてんの?」
回収箱の前で立ち止っていると、百香が駆け寄ってきた。
「早くしなよ。雨宮さん困ってるじゃん。」
言われて振り向くと、斜め後ろでは雨宮が佇んでいた。
因縁とばかりに僕を睨みつけている。そんな眼差しよりも今は、袖から覗く包帯が気懸りでしょうがない。
その腕で、この量を運べるのか。
ほら、早く早く。百香に取り上げられたノートは、山の一番上のぽんと置かれ、僕は背中を押されて席へ戻された。
その目を離したほんの一瞬で、事は起きた。
背後で、どさどさと崩れる音がした。
振り向けば案の定、床一面にノートが散らばっている。
一度持ち上げて、やはり無理だったのだろうか。雨宮は手首を隠すようにおさえていて、麻痺したみたいに小刻みに震える姿が、なんとも滑稽だった。事情を知らない人間が見れば、なおさら。
その場の視線すべてが彼女に集中した。
時が止まり、教室中が静まり返る。
やがて、誰のものか判らない嘲笑が、微かに吹き出した。
ちょっと、悪いよー。また別の声が、これまた嘲笑混じりの制止をする。
それを皮切りに、教室中の音が蘇り、時間が動きだした。
笑いを堪える呼吸もあれば、あーあ、と小さく響く叱責。見てみぬ振りで帰り支度をする者。本当に無関心な者。
ぜんぶが普段どおり、放課後の光景として日常に馴染んだ。
小さな疵を、塗り潰すように。
僕の時間だけが、止まったままだった。
きみの味方なんていないよ
記憶のなかで、仲村が笑う。
ふざけんな大嘘つき。みんな、僕と同じじゃないか。
記憶に潜む彼へ反論した。
だけど感謝するよ。
きっかけを、くれたこと。
どこから時間が動きだしたかなんて判らない。
歩み寄ったときなのか、しゃがみ込んだときなのか、散らばったノートを、拾い集めているときなのか。
ひとつ言えるとすれば、彼女と視線を合わせたその瞬間にはもう、始まっていた。
「代わるよ。」
味方が欲しいんじゃない。
ただ、今、真っ先に向き合いたい罅が、ここにあるんだと思う。
「……な、………、」
雨宮は唖然と、何か言葉を探そうとしている。
いつもの悪い口が炸裂する前に、先手を打つことにした。
「その腕じゃ無理だろ。」
突き刺さる視線を肌に感じた。
今度は僕に集まっている。驚愕と、好奇と、もしかしたら嘲笑も、あらゆる方向から、無数の槍みたいにぶすぶすと。
でも、もういいや。
「予定入ったから。」
そう告げると、百香は何か言いたそうに躊躇う。雨宮はこの展開に戸惑っている。
二人とも、ざまあみろ。僕は山積みのノートを抱えて廊下へ出た。
運びながら、視線が合ったときの雨宮を思い出していた。傑作だったな、あの顔。
たぶん始まっていた。新しい日常が。