20 崩壊
※※※2021/3/21より、本作の大幅改稿版『最愛なる猛毒、致死量の慈愛。』を連載しております。大まかな展開は変わりませんが、【演出】【構成】【台詞】【一話あたりの文字量の改変】等、読みやすさを重視した改稿となっており、また、本作では描かれなかった【糸子と星史のはじまり】を書き下ろしております。読まれる際には改稿版のほうを強くお勧めいたします。※※※
朝焼けがうるさい。
どんなに走っても空から逃げられるわけないのに、無我夢中でアクセルを踏んだ。ハンドルを切った。真っ赤な空は、『追いかける』なんてもんじゃなく、惨めに逃げ続ける僕を眺めるように包む。勝算の無い逃走に僕は必死だった。
玄関に飛び込むと、逃げ切れたと思えた。息を切らしながら階段を上る。躊躇いなんて余裕も捨てて、彼女の部屋の扉を開ける。
「………ひので、」
妹はいた。
香水のにおいが満ちた部屋で、窓から照らす赤にまみれながら、僕と同じように息を切らしていた。座り込んでおさえる脚が真っ赤に染まっている。血だ。
「なん……だよ、それ……」
苦痛に顔を歪ませる妹の惨状に、そんな言葉しか発せなかった。歩み寄っても、妹は逃げようとしない。いや、動けないんだ。何かで刺されたのか、脚を染め上げる流血が痛々しい。
僅かな冷静を取り戻しところで、やっと、「救急車、」だと慌ててスマホを取り出す。その即座、妹は震える僕の手首を掴んで妨害した。
「………けて、」
予測不能な行動に屈してしまい、妹の声が聞き取れない。
……なんだよ、どうしたってんだよ。おだやかに聞き直すことさえできず、声を震わせた。
妹がきれぎれの呼吸を整える。僕の手首を掴んだまま、充血した目を力強く向けた。
「モモカちゃんを、たすけて、」
真っ赤な目も、真っ赤な血も、この空の前では非力すぎた。
朝焼けが、うるさい。
モモカちゃんを助けて。
電話口で、ひのでは同じ言葉を吐いていた。着信を取るなり放った悲痛な声だった。
「あさひ、モモカちゃんを、助けて、」
声音が、息遣いが、そして彼女にはありえない兄への懇願が、事態が只事ではないのだと知らしめる。なんだよ、おい。今どこにいるんだよ。僕はひたすらに声を荒げた。
「………。」
声だけだった向こう側から、声さえ戻ってこなくなった。でも妹の気配はまだある。気配を残したまま、通話は一方的に切られた。
「どうしたの?」
星史が、黙り込む僕の顔を覗く。
「……帰らなきゃ、」
無意識に声がこぼれた。
ひのでに何があったかなんて知らないけれど、ひのでがどこにいるのかもわからないけれど、今すぐ家に戻らなくてはと、身体がざわついた。
「妹に、何か、あったんだ。たぶん……。様子……おかしくて。なんか、苦しそう、で。百香を、助けてくれって、それだけ、言って、電話切られて、」
真っ白になった頭で帰り支度を始めた。スマホやバイクのキーをポケットに突っ込むだけの動作が、効率よくいかない。自分だけでいっぱいになっていた僕には、他に気を配る余裕なんて無かった。
「それって……誰のため?」
問いかけられてようやく、彼に気づいた。
星史がまっすぐ見据えている。うろたえる僕とは正反対に、身じろぎ一つ、まばたき一つせず、芯のある声で問いかけてくる。
「『誰のために』『今すぐ』『帰るの?』」
覗きこむ顔が迫り距離を縮めた。今日の今日まで、今の今まで澄んでいた瞳を淀ませて、冷たい影をおとす。僕まで、身じろぎとまばたきを封じられてしまう。
「せい……――――――」
彼のなまえを呼ぶ途中だった。
無抵抗に僕は押し倒された。馬乗りになった星史が、息の根でも止めるかのように口を塞いでくる。
「……ねえ、教えてよ、」
刃先みたいな視線を刺してくる。覆い圧してくる手が氷のように冷たい。呼吸が薄くなってゆく。しずかに、鋭利に、豹変した彼にくらくらしてきた。
ねえ、教えてよ、みなぐちくん、
「いま、おれより、優先しているのは……妹? ……桂木、さん? それとも……両方?」
……星史じゃ、ない。
自由を失った身体と朦朧とした意識が、疑わせた。
容赦ない束縛と威圧。凍てつく眼差し。はかりしれない独占欲。
今、僕を捕らえているのは、星史じゃない。……彼は、
「ねえ、おれはどこにいるの? おれはきみの、どこにいるの?」
いつしか影を消し去っていた、あの暴虐だ。
「おしえてよ、」
ぎり、と、力をこめた指が震え始めた。頬をえぐるように爪をたてる。
それなのにいつまでも抵抗できずにいたのは、恐怖なんかじゃない。
僕は、まちがいに、気づいたんだ。
ほんの少しの、些細で重大な間違い。
……ああ、やってしまったな。傷つけてしまったな。後悔しながら、無抵抗のまま、星史を待った。
指はしばらく震えたのち、唐突にすうっと力を抜いて僕を解放した。一瞬で新鮮になった呼吸が、また別の朦朧となる。
「……なーんてね。」
馬乗りの姿勢だけ維持したまま、この一連の流れが嘘だったみたいに、星史はけろっと笑って肩をすくめた。もう一度僕の顔に手を伸ばして、今度は頬をつねる。その状態のまま、すこし、笑った。
「へんな顔、」
こっちの台詞だよ、それは。
唇を噛み締めて、震わせて、頬をひくつかせて、涙を溜めたまま無理やり笑っている星史は、このうえなく滑稽で憐れで幼稚な、変な顔をしていた。
「帰ろ。おれだって、飽きちゃったところ、だよ、」
ほんとうに、ほんとうに滑稽で憐れで、幼稚だった。
朝日が昇りきる前に僕は救急を呼んだ。
振り払って119番通報をする手を、ひのではそれ以上掴んでこようとしなかった。おとなしく、サイレンの音が近づくのを待っていた。
搬送先で妹が処置を受けている間、裏切り覚悟で父と母、そして百香に連絡を入れた。
三人はすぐに飛んできた。
母は、久々にひので関連で取り乱し泣き崩れ、医師から「見た目ほど怪我の程度は深刻ではない」と聞かされるやいなや、今度は安堵の涙をぼろぼろと溢した。それはまたそれで厄介なもので、妹と対面してからも母は泣くばかりで手に負えなくなってしまった。
母さんだけ先に送ってってよ。僕の耳打ちした提案を、父さんも悟ったようにすんなり受け容れ、僕と百香とひのでは、もうしばらく病院に残った。
三人になってすぐ、僕は席を外した。父さんの車が戻ってくるぎりぎりまで、百香とひのでを二人きりにさせた。
ひので相手にとはいえ、卑怯な手ばかり使っている自覚はあった。
まず、妹の騒動のおかげで、『かけおち』に関してのお咎めがうやむやになって、正直助かったと思ってしまったこと。
次に、くだんの裏切りまがいな連絡。両親だけならまだしも、あんな懇願を目にしておいて百香を呼ぶなんて、わざとじゃなければそうとうな無神経だ。
そして、あえてひのでと百香を二人きりにしたこと。
百香なら、頼まずとも絶対に事の経緯をきく。そして百香相手なら、ひのではすべてを打ち明ける。そしてその情報は、必ず僕のもとへと入ってくる。
「報復、だって。……たぶん。」
思惑どおり、百香はひのでから聴取した内容を、まずは結論から伝えにきてくれた。
「報復、って、つまり仕返し?」
百香は神妙な面持ちで頷くと、どうにも所在のない手で髪をとかしながら、詳細を教えてくれた。
まず確実なのは、此度の事件が過去起こした騒動の因縁である、ということだ。
夜更けで視界が悪かった。たまたま、ひと気の無い道だった。ここ最近は、他校生との衝突も起こしていなかった。
この三つの要因が、ひのでを無防備にさせていたのだろう。擦れ違いさまに切りつけられ、隙をみせた次の瞬間には太腿を刺されていた。激痛に蹲るひのでに、犯人はこんな言葉を残したという。
『皆口ひので、』
『おまえのことは、調べ済みだ。』
犯人の顔は見ていない。
しかし、心当たりならあるらしい。
「以前、トラブった相手でね、身内がマスコミ関係者って人、いるんだって、」
百香の深刻な報告にも、僕はまだ、事の重大さを理解していなかった。
単純に、先のひのでの懇願と、犯人の残した言葉とが繋がって、それならば百香の身を案ずるのが当然、くらいの危惧しか思いつかなかった。ひのでの唯一の弱点は百香だ。調べ済みの上で、本人以外で害が及ぶとするのなら、彼女が妥当である。
「それどころじゃないよ。もっとやばいこと、あるじゃん、」
百香なんかより、重大なこと。自分の身の危険さえ軽視できる、「やばいこと」? 何を言ってるんだこいつは。眉をひそめる僕に、百香もまた顔をしかめる。
忘れたの? 百香は距離をつめて、顔を覗き込んだ。
「名塚月乃の近親者は、旭だけじゃないんだよ?」
……そうだった。
本人に自覚が無かろうと、洗い出せば浮き彫りになる、皆口ひのでの素性。
十七年前、世間を騒がせ、今もなお一部界隈で語り継がれる、殺人犯。
……そうだった。名塚月乃を潜ませる子どもは、僕と星史だけじゃない。
「まさか、そんな、……考えすぎだろ。だって……近親、たって、実際俺たち、名塚月乃と血の繋がり、無いし、」
星史のことは伏せて、苦し紛れに意見した。
「世間には関係ないよ、そんなこと。」
百香の断言が現実を突きつける。まさしくそのとおりだ。僕だって解っていた、そんなこと。一度でも籍で繋がっていた過去さえあれば、関係ないんだ。メディアというものは、いつの時代も容赦ない。
むしろ格好の獲物かもしれない。僕よりも、星史よりも、ひのでは世間の目を惹くのに充分すぎる素材だ。名塚月乃が、そうだったように。
「……まもらないと、」
「……え?」
「俺、ひのでを……護らないと。」
……、……、……。
「……なんだよ、その顔、」
状況の深刻さから一転、百香はあきらかに、この場に似つかわしくない表情で僕を見据えていた。堪えている。今にも吹き出しそうな笑いを、唇を噛むことで堪えている。
「ごっ、ごめ、」
僕の指摘が起爆剤になったのか、ついには両手で口を覆った。あきらかに、目だけで笑っている。
「だ、だって旭……まさか旭から、そんな、」
まだ何も言ってないのに弁解まで始める。しかも所々、笑いを吹き出しながら。
とたんに僕は赤面した。
わかっている。わかっている。そりゃあもう痛いほどに。何言ってるんだ、自分。そんな、兄貴みたいな、いや、兄なんだけど、実際。そう、実際、ひのでも、僕の妹なわけで。
頭の中まで支離滅裂になってゆく。
「やっぱりひのでが可愛いんだね、おにいちゃん。」
追い討ちどころか、百香はとどめを刺しにかかってきた。彼女の隠しきれない嬉々とした言いぐさが、羞恥を倍増させる。
視線を限界まで外す僕を、百香はついに声を出して笑った。
状況は何一つ変わっちゃいない。ひのでが危険なこと。百香も危険かもしれないこと。どちらも不明瞭で、どこにも助けさえ求められないこと。今、妹のために動けるのが、僕だけということ。
「だいじょぶだよ。」
いつもみたく、百香は言う。
「旭がそう言ってくれるなら、だいじょぶ。」
大丈夫。彼女の口癖はまるで、麻酔薬だ。根拠も無い、解決にも至らずなのに、いつの間にか僕らに漂っていた暗雲が晴れていた。
「それじゃ、ひのでのことなら、百香もお手伝いしなきゃね。」
「おまえ、自分の状況わかってんの、」
「旭と一緒なら平気ヘーキ。」
なんだそれ。僕の反応は、わりと冷たかったかもしれない。それなのに彼女は、にししと笑う。
「こんなの今さらじゃん。百香だけは、ずっと味方でいてあげる。」
目の前の幼馴染が、見覚えのある少年と重なって、みえた。
あれだけ鬱陶しかったはずなのに、幾度となく煩わせられたはずなのに、胸の内から靄が消え去っている。
桂木って、少し、セージさまに似てるわ。
あいつが言ってたの、案外、間違ってなかったんだな
「……ももか、」
不意に、彼女に、報告したくなった。
「星史……いや、仲村、なんだけどさ、」
「? え? 仲村くん?」
なになに? 突然。ごくまっとうな反応を見せる。
「いとこ、だったんだ。」
僕は、まっとうとはかけ離れた切り出し方をする。
「……え?」
「だから……仲村が、俺の。」
名塚月乃の子、とは言わなかった。言わなくても、彼女はきっと把握して、その上で「そっか」くらいで済ませてくれるだろうから。きっと。
「そっか。」
ほら、やっぱり。期待どおり、百香はえくぼを見せて笑ってくれた。
「いとこって、近いよな。」
「うん。近いよね。」
「百香は、いる?」
「いるよー、いっぱい。パパもママも、きょうだい多いから。一番下なんてね、まだ幼稚園児。超可愛いよ。」
ああ、やっぱり、彼女の善意は、いつだって僕を殺す。
なのに、いつからだろう。これを苦と感じなくなったのは。呆れかえるくらい麻酔薬だ。
モモカちゃんを助けて……なんて、皮肉なもんだ。妹の懇願を思い出しながら、僕は少し同情した。
ひのでは被害届を出さなかった。
妹なりに、百香の身を案じての判断だったのだと思う。
その件で、母は久々に妹を叱った。泣き崩れるでも発狂するでも取り乱すのでもなく、叱った。
頑なに被害届を拒む妹に対する、母の言い分を要約するとしたら、「お願いだから、もっと自分を大事にしてちょうだい。」これに尽きる。
これ以上、何かあったらどうするの? 次はもっと、取り返しのつかない目に遭うかもしれないのよ? どうして、確証の無い心配はするのに、自分を蔑ろにするの?
珍しく母親としての責務を果たす母の言葉を、妹も娘の責務のつもりなのか、黙って聞いていた。そしてきちんと説教を受けた終わりに一言、「ごめんなさい」を告げた。
そのたった一言で、軍配はひのでに上がった。母は最後に、「今後は晩くに出歩かないこと」と釘を刺し、被害届の件を終わらせた。
正直なところ、今回ばかりは僕も母に賛同していた。その反面、今後に関しては警察に頼っても無意味だと、諦めていた。
『僕と妹は犯罪者、名塚月乃の親族です。その件で脅されています。幼馴染にも危害が及ぶかもしれません。何かある前に助けてください』
そんなこと懇願できるか。
したところで、救済なんかあるもんか。
今はただ、出来る限りの防衛に努めるしかなかった。百香とひのでには、外出を控えさせる。極力、一人で出歩かせない。ひと気の少ない場所は避けさせる。門限を設ける。残り短い夏休みを無事終えるためには、それくらいしかできなかった。
百香の存在もあってか、ひのではすんなり応じてくれたので、それだけが救いだった。
そして、名塚月乃の件についてはまだ、妹には伏せておいた。
母にも、『仲村星史』の存在を、伏せた。
どちらにしろひのでの一件で、息子との悶着が曖昧になってしまったのだ。母も母で思う所があるのか、あの、明け方の諍いには全く触れず、僕らはいつもの母子に戻った。
どこか、しこりのある、平穏な、母子に。
今は、色々と、同時に起こりすぎだ。
両親の離婚。母の再婚。皆口家の過去。名塚月乃の存在。仲村星史の正体。百香とひのでの危機。
どうして物事はこうも一斉に押し寄せるのか。整いすぎて物憂かった日常が、いつの間にか所々、剥がれている。また罅が入ってしまうのも、時間の問題なのかもしれない。
そんな心配とは裏腹に、残り短い夏休みが平和裏に過ぎ、不安視していた事柄も何一つ起きないまま、気づけば9月1日、始業式を控える朝を、迎えていた。
一時の平穏に浸れた安心感からか、僕には、この短い懸念の日々を、振り返られる余裕が生まれた。
このたった数日間、幼馴染と妹のためだけに過ごした。
そしてその間一度も、仲村にも、雨宮にも、会えなかった。連絡さえしなかった。来なかった。
仮に会ったところで、どうすればよかったのだろう。
震えながら、真実を告げてきた雨宮の感触が、ぬけない。
取り繕った笑顔で、泣きそうになりながら強がる星史が、きえない。
……ひのでを護らなければと、迷いは無かった。
……百香の存在が拠り所なのだと、もう否定ができなくなっている。
僕は雨宮に、星史に、どんな顔をしよう?
何を話そう? 次はどんな、皆口旭として接すればいい?
始業式を控える9月1日の朝。こんなにも憂鬱な登校はいつぶりだろう。学校に対しての憂いなんて、しばらく皆無だったはずなのに。
溜め息をついたその直後、飛びつかれるように背中を押された。
隙だらけの背に受けた攻撃は、戯れの延長としては必要以上に、僕をよろけさせた。
「おっはよー、……って、ひ弱すぎじゃない?」
それどころか、表情まで滑稽に硬直させる。
『かけおち』前となんら変わらない、いつもの彼のまま、星史は現れた。
「へんな顔―。」
あの時と同じ台詞を放ちながら、あの時とは比べ物にならない本物の笑顔で、指さしてくる。
「あ。そうそう、変な顔で思い出したんだけど、」
まだ反応に窮している僕なんかお構いなしに、星史は「みてみて」と、肩を組みながらスマホを見せてきた。その画面を見た刹那、僕も本気で吹きだした。
星史の自撮り画像だ。キメ顔で、目の辺りにピースサインを添えたその顔は、頬が目に判るほど腫れあがっている。
「予告どおり、母親から右ストレート頂きました。」
芝居がかった口上で、あの『かけおち』の結末を報告してきた。
僕はもう一度、大きく吹きだす。
「怖すぎだろ、仲村りた。」
「なに他人の母親呼び捨てにしてんだよー。」
他人じゃねーだろ。
「おっと。そこはトップシークレットでしょ。」
あ。そういう方向でいく?
「そうしとこ、とりあえず。」
なんなんだよこいつ。これでもかってくらい、無垢で、むかつく。
むかつくくらい、真っ白に笑いやがる。
『かけおち』を取るに足らない、夏休みの思い出に昇華できた僕らは、そこからどうでもいいテレビの話題で盛り上がりながら、校門をくぐった。
今は、色々と、同時に起こりすぎている。
でも、日常はまだ、剥がれちゃいない。
「皆口、」
僕と星史だけでなく、彼女だって、そうだ。
「……おはよ。」
変な間を挟んでしまったのは、初めての、彼女からの挨拶だけが原因じゃない。
「お、……はよ。」
「なんつー顔してんのよ。」
目に懐かしい、眼鏡、三つ編み、制服の組み合わせ。どこか辛辣で、そっけない口ぶり。映写室だけでしか会えなかった雨宮が、夏休み明けの教室に現れた。
「……。」
「……。」
「あさひー、糸子ちゃーん、おはよー。……あれっ? 糸子ちゃん!?」
見詰め合うほど情緒的でなく、睨み合うほど敵対心も無い、もどかしい僕らなんて気にもとめず乱入してきた百香は、これまた空気を読まず真っ先に、退化した雨宮について声をあげた。
僕らの日常は、そんなにやわじゃない。
期待と希望が、確信に変わる気がした。
そうだ。この日常を作り上げたのは、あの仲村星史と雨宮糸子なんだ。僕を散々振り回した、異端。一筋縄ではいかない彼らが、そうそう壊れるものか。
今の僕の毎日は、僕だけのものじゃない。
期待、してもいいのだろうか。希望を持っても、いいのだろうか。確信を信じても、許されるのだろうか。
ゆるされたい。
どうか、今だけは。
今だけ 今だけでいいんだ
わかっている
自分のしたこと
してはいけなかったこと
触れてはいけなかったもの
越えてはいけなかったもの
傷つけてはいけなかったもの
考えなければいけなかったこと
向き合わなければいけなかったこと
忘れてはいけなかったこと
ぜんぶ 全部わかっている
それでも どうか 今だけは
神さま おねがいだ
今だけ 子どものしたことだと わらってくれ
星史のことも 雨宮のことも ひのでのことも
ぼくのことも
ゆるしてくれ
「誰かさあ、この中で、ナヅカツキノって知ってる奴、いる?」
始業式を控えた、9月1日のホームルーム前。
誰のものか判らないクラスメイトの声が、僕を貫いた。
日常はとっくにぶち壊れているのだと、
僕たちは赦されないのだと、ぼろぼろの日常が、笑った。




