02 兆候
※※※2021/3/21より、本作の大幅改稿版『最愛なる猛毒、致死量の慈愛。』を連載しております。大まかな展開は変わりませんが、【演出】【構成】【台詞】【一話あたりの文字量の改変】等、読みやすさを重視した改稿となっており、また、本作では描かれなかった【糸子と星史のはじまり】を書き下ろしております。読まれる際には改稿版のほうを強くお勧めいたします。※※※
登校するなり雨宮を探した。正確には雨宮本人ではなくて、雨宮糸子の名前だ。
昨日は素通りした二学年の学力診断結果の貼り出しを見上げてすぐ、目的の物はみつかった。
やはり雨宮糸子の四文字は、どの教科でも上位に挙がっている。一位は現代文と世界史だけだけど、それでも総合二位という好成績ぶりだ。
あらためて、大した奴だなと感心している横で、かしゃりと機械音がした。
隣で、スマホをかざしている生徒がいる。結果の貼り出しを撮っているみたいだ。
「親に自慢しようと思ってさ、」
視線が合うなり、はにかんで笑ったのは、もっと大した奴だった。
雨宮を上回る総合成績一位の優等生、仲村だ。
「学力診断って、通知表に載らないじゃん?」
照れくさそうにする仲村相手に、意見のしようがなかった。クラスも違うし面識も無い。有名人な彼の存在を、僕が一方的に知っているだけの関係だ。
仲村は人懐こい笑顔で続けた。
「あ。こんなことしてたなんて、内緒にしてよね。恥ずかしいから。」
「………俺が居なくなってから、撮れば良かったんじゃないのか、」
思わず突っ込んでしまった。仲村は「確かに、」なんて笑う。
「でも、皆口くんになら見られてもいいかなって思ったんだ。」
彼の口からごく自然に出た「みなぐちくん」の音に、ぎょっとした。
同学年なんだから、名前くらい知ってるよ。それにほら、皆口くんには球技大会で苦しめられたし。部活入ってないのに強いじゃん、バスケ。
仲村は気さくにぺらぺらと喋り、その一方で僕は、彼の初対面とは思えない態度に戸惑うばかりだった。
そのうち、廊下の端から生徒たちの声がしてきて、まだ距離があるうちから仲村を呼び、朝の挨拶をなげてきた。仲村も声をあげて返事をする。
「じゃあまたね。」
去り際にも人懐こい笑顔を残して、仲村は生徒たちのほうへ向かった。彼らと合流してすぐ、仲村が輪の中心に馴染むのが、目に見えてわかった。たった今、僕に向けていたのと同じ表情をしている。
耳に残る「みなぐちくん」の響きと、総合成績一位に堂々と掲げられた、仲村星史の四文字に、心臓がかゆくなった。
同じ優等生でこうも違うものなのか。斜め前方の座席で、本日も真面目に授業を受ける雨宮を眺めながら、頬杖をついた。
今朝も僕らは、いつもどおり他人だった。
昨夜の件について僕は謝罪せず、彼女は咎めず、互いに声を掛け合わない。雨宮のうらめしい睨みや、柄にも無い「クソガキ」の音は、しっかりと脳裏に焼きついているのに、視線の先にいる見慣れた孤立者とは一致し難くて、みたび困惑した。
そうしているうちに、仲村を引き合いに出した次第だ。
雨宮は孤立者だけど仲村は人格者だ。同じ優等生なのに。
僕の知る仲村星史は、いつだって友人たちに囲まれている。
普通学科の生徒でありながら、特進の生徒より成績が良く、文武両道。もちろん教師たちからの評判もいい。かといってそれを鼻にかけたりしないし、いたって親しみやすい人柄だ。
対人関係においても、不良っぽい生徒にもオタクっぽい生徒にも分け隔てなく接してるし、会話の振り幅も広い。
人格者である要素はこれだけで充分なのに、加えて、透明感のある整った顔立ちをしているので、女子からの人気も高い。……にも関わらず俗っぽい噂は、一つとして無い。
つまり正真正銘、非の打ち所の無い優等生だ。
仲村の生き方が上手すぎるのか、雨宮の生き方が下手なのかは判らない。
とにかく、彼らの一位と二位の間には、想像以上に高い壁がそびえているようにみえる。
勝手な考察にふけているうちに、雨宮の右袖から白い物がはみ出していることに気付いた。
包帯だ。彼女の手首を丁寧に護っている。
……やっぱりあのとき、怪我をさせていたのか。
視線を窓の向こうに流して、ため息をついた。
事なかれ主義とはいえ、僕なりのルールは存在してしまうのである。
雨宮との接触は、必要以上に困難だった。
たかだかクラスメイトに話しかけるだけなのに、高校生とはまだ小難しい生き物で、「男子が」「女子が」なんて意識は中学で卒業したはずなのに、対象がイレギュラーであれば、順応できない。
雨宮はまさしくイレギュラーの塊だ。
周囲の目をあざむいて、彼女に声をかけるのは不可能に等しくて、機会もつかめないまま、今日が経ってゆく。
あっという間に放課後を迎え、最終的には尾行するかたちで雨宮を追い、普段は降りない駅まで辿りついてしまった。
「雨宮、」
やっとの思いで声をかけると、人の流れのなかで雨宮は振り向いた。
眉間に皺を寄せて警戒をみせる。驚く、とは違う感じだ。
返事はしてくれなかった。通学鞄を、さして重そうではないが両手で、それも右手を庇うように持っている。
「あの……さ、手、大丈夫?」
手短に聞いたものの、雨宮は警戒心をむき出しに睨むばかりで口を噤み、会話に応じようとしない。
「その手首、昨日のせいだろ?」
こちらが距離を詰めれば詰めた分、雨宮は後ずさる。
どれだけ他人嫌いなんだこいつは。交流が無くとも、素性の知れたクラスメイトだというのに。ここまでの苦労も相まって、僕はいくぶん意地になっていた。
「怪我したんだろ、あのとき、」
つい語調が強くなってしまった。雨宮の表情がこわばる。また僕らの間に、気まずい空気が流れた。
「……き、……き、……気安く話しかけるんじゃないわよ、無能が。」
沈黙を破ったのは雨宮からだった。今度は僕が噤んでしまう。
どうやら、昨日が例外だったのではないらしい。こいつは結構、口が悪い。
「いや、心配してんだよ、これでも。」
「あ、ああああんたに心配される筋合いなんて、な、ないわよ。グズの分際で、」
いいや、かなり口が悪い。
畏縮している割にはいやに攻撃的だ。
「なくはないだろ。俺のせいなんだから、」
「ち、近づくんじゃないわよ下賤民っ、」
「下賤って……。いいから、手見せ―――」
「旭?」
揉める僕らの間に、聞きなれた声が割り込んだ。
どこから見ていたのか、真後ろで百香が佇んでいる。
僕が彼女に気を取られている隙に雨宮は走り出し、気付いたときには昨夜同様、逃げられてしまった。
最悪だ。
最悪に面倒くさい展開だ、とたんに察した。
丸一日散々気を配ったのに、ここへきて雨宮には逃げられ、一番厄介な奴に目撃されてしまった。
「旭、」
身動き取れないでいる僕を、百香はにこにこしながら覗き込んだ。
「百香ね、アイス食べたいな、」
クレープでもいいよ? この辺、いっぱいあるし。百香の笑顔が何らかの取引を示唆するものなのか、単なる思いつきなのか、判断できなかった。
どちらにしても従っておくのが無難と察して、普段は降りない駅の、通らない改札を一緒にくぐった。
「ウサギを買いにきたの。」
駅にいた理由について、百香はこう語る。
うさぎ? 聞き返してみたところ、どうやらストラップのことらしい。話によると、目的の兎は有名なキャラクターで、専門店がこの近くなのだという。
「ピンクのね、単色のが欲しかったの。でもまさかの品切れ。専門店まで来たのになあ。」
残念そうに百香は嘆く。そのどうでもいい嘆きにさえ、僕は耳を傾けた。話題がこちらに逸れないようにと、とにかく親身に。
百香の沈んだ表情は、華やかに並ぶクレープのサンプルを目にした瞬間、ぱっと輝き、つくづく彼女という生き物に、ため息が出た。
百香は悩んだ末に、チーズケーキの入った苺のやつを選んだ。僕はいらなかったのだけれど、百香が自分だけ食べるのは嫌だとごねたので、仕方なく海老の入ったサラダのやつを注文した。
「旭なら絶対、しょっぱい系にすると思った。」
一口二口の交換にも応じ、甲斐あって百香はご満悦に、どうでもいい話を続けてくれた。僕はやっと肩をなでおろした。
「旭って、雨宮さんと仲良いの?」
安堵したのも束の間、百香はぶっこんできた。
手の止まった僕に対し、口をもくもくと動かしながら小首を傾げてくる。ここまでの苦労はなんだったんだ。
「別に。」
僕の返答に、百香は不満を見せる。
「えー。でも二人でこんなところ来てたじゃん、」
「一緒に来たわけじゃないって。……ちょっと用があったんだよ、」
「用って?」
「大したことじゃない。」
「勉強とか、授業のこと?」
「まあ、そんな感じ。」
「ふうん。」
咄嗟の嘘に、百香は納得したようなしてないような微妙な反応をとり、クレープの包み紙をくしゃくしゃ丸めてごみ箱に投げた。それを合図に、二人で駅へ引き返す。
「旭ってさ、あんまり女子と喋らないよね、昔っから。」
ホームで電車を待つ間、百香がぽつりと言った。
「でも嫌われないんだよね。」
どこか含みのある言い草に、いらっとした。
「何なんだよ、」
「べつにー。」
やがて電車が着き、二人でドア付近の手すりに摑まった。
「雨宮さんって、お嬢さまなのかな、」
離れてゆく駅を見つめながら、百香はこぼす。
「あの辺に住んでるとしたら、そうだよね、きっと。」
それはないと思う。あいつ口悪いし。言おうとしたけどやめた。聞こえなかったふりをして無言を貫く。
そのくせ僕も、雨宮のことを考えていた。
雨宮のこと、というより怪我の程度だ。
挫いただけかもしれないけど、痛みはあるのか、日常生活には差し支えないのか、そんなふうに悶々と考えてしまう。
昨日と今日とで、彼女の知られざる一面に驚かされたりはしたが、そんなのどうだっていい。他人に怪我を負わせておいて、平気でなんかいられるものか。
冗談じゃない、僕は妹とは違うんだ。
妹とは違う。
評価してほしいことも、主張したいことも、都合のいいことも、悪いことも、全部。
じゃっかん、悪いことのほうが多いけれど。
「電話のひとつくらい寄こしなさい、」
帰宅してすぐ、小言をもらった。
「せっかく、旭の好きな物ばっかり作ったのに。七時からのテレビ、一緒に観たかったのに。」
母さんは拗ねながら、夕飯の支度をする。このひとの、年不相応な態度には困ったものだけど、親として弁えてくれている部分も、一応はある。
緊急性のない連絡……つまり妹関連以外では、むやみやたらに着信履歴を埋めないところだ。だから僕もちゃんと評価して、多少の大人げなさには目を瞑る。
ちなみに金曜日の本日、母さんは夕飯に僕の好物を並べて、それを囲んで特番のバラエティ番組を観る、といったプランを立てていたらしい。
「どこ行ってたの?」
母さんは向かい合って、両肘をついた。
「竹下のほう。」
僕は箸を動かしながら答えた。
クレープが祟って、あまり空腹ではなかったのだけど、手を止めると面倒くさそうだったので、食べ続けた。
「デート?」
「まさか。百香の買い物に付き合わされたんだよ。」
母さんのなかで、百香は『セーフ』なのである。わかりやすく機嫌が直ってきた。
「ねえ、土日のどっちか、動物園行かない?」
そして唐突に提案してきた。
「なに、急に、」
「小さいころよく行ったじゃない。お弁当持って、一日中まわってたでしょう? 旭ったら、ふれあい広場から動いてくれないんだもの。男の子なのに可愛いものが好きだったのよね。あなたは昔から優しい子だから。」
ああ、はじまった。
目を向けると、母さんは僕なんか見ちゃいなかった。
「ふつうはライオンとかトラが好きなのにね、男の子って。でもあなたはウサギやペンギンだったのよ。でもお母さんは、旭がそういう子で良かったなあ。穏やかで、優しくて、乱暴なんて絶対しないんだもの。そういえば、お弁当も可愛いのが好きよね。今でも。ジャムサンドとか甘い卵焼きとか。でもさすがにこの年でお弁当持って動物園ってわけにはいかないわよね。お昼過ぎに出掛けて、帰りに夕ごはん食べてきましょう。お母さん、行ってみたいお店あるの。」
饒舌に、思う存分、はしゃぐ。一方的にべらべらと、好き勝手に事を進める。
「いや、行かないって。」
冷静に制止すると、母さんは「どうして?」と首を傾げた。
「母さんも今言っただろ? この年で、って。俺もう高二だよ?」
「百香ちゃんは、今でもママとおでかけするって言ってたわよ、」
「百香は女だろ。」
言ってしまってから、やばい、と息を飲んだ。
気付いたときには遅くて、母さんの顔色がまた、みるみるうちに沈んでいった。
「……あたしだって……娘とおでかけしたかったわよ。せっかく女の子産んだんだから、」
そこからはまた饒舌だった。
……あたしだって、一緒に服選んだりケーキ食べに行ったりしたいわよ。恋愛相談とか内緒話もしたいし、二人で目一杯おしゃれして、おでかけしたかったわよ。せっかく女の子産んだんだから。でも、あの子じゃ、ひのでじゃ無理じゃない。
「あの子はふつうの女の子とは違うんだもの。」
散々並べた泣き言を、母さんはそう締めくくった。
そしてまた矛先は僕に向く。
「それなのに旭は冷たいのね、」「いつからそんな子になっちゃったの、」「昔は優しい子だったのに、」「百香ちゃんとは買い物行くくせに、」「お母さんには付き合ってくれないのね、」……怒鳴るでも泣き叫ぶでもなく、さめざめと切なそうに言うこのパターンが、僕の一番苦手な母さんだ。
「ごめん、そういうつもりじゃなかったんだ。」
変な答えかたをしている自覚はあった。
「学力診断、あまり良くなかったし、しばらく休日は出掛けるの控えたいんだ。」
今は、この人を否定しないことが最優先だった。
僕は最後に、ひどいこと言ってごめん、と謝罪し、更に「月曜日の弁当はサンドイッチにしてよ。」と、付け足した。
母さんが安っぽい感涙を流したところで、このなかみの無いやりとりは治まった。
多少の大人げなさ、だけなら目を瞑れる。でも一番の問題はそこじゃない。
父と離れて暮らすようになってから、母さんは、僕に依存するようになった。
大人の男に成る息子を歓迎できなくて、何歳になっても小さな恋人として扱いたがる。
僕も適度に、彼女の望む『穏やかで、可愛い物好きな、男らしくない息子』を演じた。下手に抗って発狂されても困るし、何より、ひのでが娘役を放棄していたから。
ひのでは動物園の小動物よりも、博物館の恐竜や模型が好きな子だった。そんな妹を、母さんが快く思ってなかったのは明白だったので、僕はここぞとばかりに動物園ではしゃいだ。本当は鰐や蛇を見たかったのだけど、ひのでと被るし、これ以上母さんを幻滅させたくもなかった。
ひのでは高学年に上がる頃には、親との買い物を敬遠するようになったので、僕は中学生になっても、母さんの外出に付き添った。
ひのでが母さんの手作り弁当よりも、昼食代の現金を要求するようになれば、僕は翌日の弁当に、母さんの喜びそうな可愛らしいメニューをリクエストした。赤いウインナーとか、甘い卵焼きとか、本当は大して好きじゃない、ジャムサンドとか。
時間の無駄遣いなんだろうな、きっと。
時々悩んでみるけれど、今さらこの生き方を変えられるとは思わない。
たとえば僕が賢く優秀な人間で、あらゆる成果を残せていたのなら、まだ救いはあったのだろうけど、残念ながら僕にできることは、これしかない。
母との団欒を終えリビングから出たところで、降りてきたひのでと目が合った。
まるでゴミでも見るように一瞥した彼女は、何の言葉も交わさず風呂場へと消えた。
おまえにはそう見えるだろうよ。
僕らの違いは、じゃっかん、悪いことのほうが多い。
それでも違うほうを選びたがる。お互いに。
週が明けて、僕にとって二つの朗報があった。
一つは、雨宮の手首から包帯が消えたこと。
相変わらず目も合わせてくれないし、明らかに避けられてはいるけれど、完治が判っただけでも御の字だ。
そしてもう一つは、学力診断の貼り出しが撤去されたこと。
でもこれには少し、後談がある。
妹の名前が消えた掲示板に胸を撫で下ろしたのも束の間、また心臓をいじられる事態に遭遇したのだ。
「隣、いい?」
ごく自然に、さも親しい間柄のように、仲村星史があの人懐こい笑顔を向けてきたのは、昼休み。屋上での出来事だった。
今日は、母さんの気合が入った弁当を見られたくなくて、教室も食堂も避けてここへ逃げてきたのに、まるで、待ち伏せていたのではないかと疑うくらいの登場の仕方だった。
僕の返答も待たずに仲村は腰をおろした。
「今日さー、弁当恥ずかしいから食堂行けないんだよね。」
まさかの屋上に来た経緯が同じである。
愛想笑いをしてやろうかと思ったけれど、彼の弁当箱から現れたドラえもんと目が合った瞬間、本気で吹き出してしまった。男子高校生がキャラ弁って。
「ひどいよね、これ。親の悪ふざけだよ。人前で食べれないっての。」
「俺も人前だけど、」
「あはー。残念ながらノーカン。」
軽い口調だが、ばかにされている感じはしない。馴れ馴れしいくせに相手を不快にさせないから、こいつには人が集まるんだなと、納得した。
仲村は弁当とは別にコンビニ袋も持参していて、そこから更に驚くものを取り出した。カフェオレだ。飲みきりサイズのパックではなくて、家庭用サイズの1リットルのパックにストローを刺している。
「弁当よりそっちのがやばいだろ、」
またつい笑ってしまった。
「超好きなんだよこれ。世界で一番おいしい飲み物だって思ってるよ。もしさ、水以外で一生一種類しか飲めない水分選ぶとしたら、間違いなくこれにするから。」
「突っ込み所が多すぎるって。」
「皆口くんのお昼も大概だよ? 超可愛くない? それ。」
話に気を取られて、隙だらけになった僕の手元からは、星型、ハート型、ヒヨコ型に模られたサンドイッチが丸見えになっていた。慌てて隠そうにももう遅い。
「……母親が勝手にやってんだよ。」
「親には苦労するよね、お互い。」
とたんに、喉がすっと軽くなった。
共通点がどうのとかじゃなくて、久しぶりに、会話、をした気になれた。他人と関わるのがこんなに楽だなんて。
「皆口くん、どうして部活しないの?」
食べながら、なんてことない話が続いた。
「勉強、ついていけなくなるし。」
「あーわかるかも。俺も両立とか絶対無理。」
「学年トップの言うことじゃないな、」
「いやいや結構ガリ勉だよ? 俺。プライベートは寂しいのなんのって。」
「俺も大差ないよ。地味に生きてる。」
いきてる、って。僕の言い回しを真似て仲村は笑った。
「でもさ、皆口くん、彼女いるでしょ、」
笑った後に、仲村は突然聞いてきた。
「? いないけど、」
「金曜に明治神宮前いなかった? 駅。女の子と一緒だったじゃん、」
うちの制服だったから、彼女だと思っちゃったよ。仲村がそう付け加えたところで、一つ、心当たりが浮かんだ。
百香か。
百香をそんなふうに扱ったことなんて一度も無いけれど、周りからはそう捉えられている事実に、げんなりした。
「あれが彼女とかありえないって。小中と同じだから、馴れ馴れしいんだよ。」
「へえ、幼馴染ってやつだ。」
「母親同士が仲良いだけだよ。」
「すごい。本格的。」
なんだよ本格的って。また軽く笑い合ったところで、チャイムが鳴った。
やばい、次体育だったんだ、と、仲村は弁当箱を袋に押し込んだ。特大のカフェオレから飛び出たストローを咥えたまま、ごめん、またね。と退散する。
優等生の肩書きを忘れさせる滑稽な去り際に、僕は一人になってからも小さく吹き出した。
会話ができたな。
屋上で一人、ぼんやり考えた。
ひとと話す行為というのは、多かれ少なかれ自分を削る。
あたり障りない言葉を選び、雰囲気を守り、時々小さな嘘をつき、常に顔色を窺う。
他人と関わるのだから当然っちゃ当然だけど、僕が関わらざるを得ない他人たちは、それでも割に合わない相手ばかりだ。
母さんだったり、ひのでだったり、身内相手に僕の削られる部分は、ぶ厚い。
「旭、今日暇でしょ、」
終礼が済んですぐ、百香は寄ってきた。
こいつもまた、僕を厚く削る人間だ。
「帰ったらさ、久しぶりにバイク乗せてほしいな。」
いくつになっても、僕相手ならこういう態度が許される前提で接してくる。
「無理。メット持ってきてないだろ、」
「平気ヘーキ。百香のやつ、ひのでの部屋に置きっぱだもん。」
仲村の勘違いの件も重なり、いつも以上に彼女が煩わしく感じた。
「……そうじゃなくて、無理。忙しい。」
「なんで?」
なんでってなんだよ。
「勉強して帰るから、」
適当に嘘をついた。
「……旭、怒ってる?」
どうしてそうなるんだよ。今関係ないだろ。
「別に。」
「なんか冷たいもん。」
うっとうしくて怒鳴ってやりたかったけれど、クラスメイトの目もあったので堪えた。これ以上、百香との関係性を、露見したくなかったのもある。
言い返してこない僕に何かを察したのか、百香は「ごめん」と言い残し、何事もなかったかのように、女友達に明るく声をかけて教室から出て行った。
厄介な女だ。本当に。
勝手にずかずか上がりこんだ挙句、自己嫌悪に陥れて去ってゆく。満足に嘘もつかせてくれない。
僕は片付けたばかりの教科書とノートを取り出して、予定してなかった質問をするために、職員室へと向かった。
珍しいこともあるなと、教師は大幅に時間をとってくれた。
ありがた迷惑でしかないが、自分から質問した手前、みっちりと復習する羽目となり、帰り支度をするころには、殆どの教室から灯かりが消えていた。廊下も、最低限の電灯を残して、暗く静まりかえっている。
こんな時間になったのも、全部百香のせいだ。もう、しばらくはバイク乗せてやるもんか、絶対。
大人げなく根に持ちながら、物寂しい校舎を歩いた。
足早に玄関へ向かう途中、中庭を挟んだ反対側の廊下で、同じく小走りで駆けてゆく生徒をみつけた。
ゆれる三つ編みに、近しい記憶が蘇る。
雨宮だ。
どことなく鬼気迫るその姿を目で追っていると、彼女は周囲を警戒しながら、視聴覚室の扉を開け、身を隠すように閉じた。
しんと鎖された扉を眺めるうちに、僕の足は自然と、視聴覚室へと向かっていた。
足音と気配を殺して、辿りつく。雨宮が潜んでから数分と経っていないはずだ。
僕はまず、息を止めて扉に耳をあてた。
「……、……、」
声のような音がするけど、よく聞き取れない。
悪趣味だと自覚しつつも、僅かに扉を開き、隙間からなかを覗いた。
視聴覚室は照明こそ落としているものの、窓を射す月明かりで、にぶく薄明るい。暗闇と呼ぶには曖昧だ。
雨宮と、向かい合ってもう一人、誰かが見える。
おずおずと、俯き加減で指を合わせる雨宮が顔をあげた瞬間、彼女は手首を捕まれ、そのまま乱暴に床へと叩きつけられた。
「つけあがんなよ、肥溜めが。」
倒れ伏せた雨宮へ辛辣に言い放つ声が、僕に、もっと近しい記憶を呼び起こさせる。
心臓が潰れて喉がつまる。別人なんかじゃない。
曖昧な暗闇、窓を射す頼りない光は、
仲村星史の姿を照らしていた。