17 糸子
※※※2021/3/21より、本作の大幅改稿版『最愛なる猛毒、致死量の慈愛。』を連載しております。大まかな展開は変わりませんが、【演出】【構成】【台詞】【一話あたりの文字量の改変】等、読みやすさを重視した改稿となっており、また、本作では描かれなかった【糸子と星史のはじまり】を書き下ろしております。読まれる際には改稿版のほうを強くお勧めいたします。※※※
今からこい。
久方ぶりの連絡は笑ってしまうくらい横柄で、強引な、デートのお誘いだった。そのまま口にしたところ、「頭沸いてんの。」の一言で一蹴される。
「あたしの家。場所、覚えてるでしょ、」
相変わらずな女だ。時刻はもうすぐ二十一時。優等生のくせに、夏休みの活用法が荒い。迷わず家を飛び出した僕も、大概だけど。
到着してから途端に、冷静になった。エントランスのインターホンを前にして固まってしまう。というのも、先ほどから何度も電話をかけているのに、雨宮が一向に応答してくれないからだ。
呼び出しておいて何なんだよ。いいんだよな? 訪問してよかったんだよな? そもそも、あいつが来いって言ったんだし。
確かオートロックって、部屋番号を押すんだよな………あれ? あいつんち、何号室だったっけ………
「501。」
突然の囁きに心臓が波打つ。振り向くと、声の主が小首を傾げていた。
「うちなら、501号室。」
雨宮の父だ。
「糸子ならもうすぐ帰ると思うから、上がっててよ。」
以前同様、年齢を感じさせない貌と独特な雰囲気で、彼は迎え入れてくれた。
話によると、雨宮はまだ予備校から帰っていないとの事だった。
「ごめんね。誰に似たのか、身侭な子で。」
彼に釣られて苦い愛想笑いをしたけれど、僕は内心、このあと雨宮に言う文句や苦情を考えていた。
あのやろう、ふざけんなよ。説明不足にもほどがあるだろ。こんな状況作りやがって。夜更けに、女子同級生宅で、その父親と二人っきり。こんなにも気まずい空間は、なかなか無い。
「名前、聞いてなかったね、」
気まずさも緊張もこちらの一方通行らしく、彼は紅茶なんか出して、気さくに話しかけてきた。
前々から感じてはいたけれど、浮世離れした人だな。いろんな意味で、年頃の娘を持つ父親とは思えない。雨宮から聞いた家庭環境を考えれば、妙に納得してしまうけれど。
「皆口です。」
僕も極力、気さくっぽく答えた。
「下の名前は?」
「えっ、……あ、旭です、けど。」
予期せぬ返しに、隠していた緊張がさっそく露見した。
「旭は、糸子の彼氏?」
いっぺんに二つびっくりした。あまりにも自然に呼びつけにしてくるし、まるで出身地でも尋ねるようなハードルで、「彼氏」なんて口にするし。
「まさか、そんな、」
首と手を小刻みに振りながら、僕は否定した。
「だよね。」
反応に満足したのか、単純にからかっただけなのか、のんびりと笑う。
「あの子って、俺の子のくせに色気無いし、そういう雰囲気になれないよね。」
そう言って目を細める彼には、不自然なまでの若さや、人形みたいな貌のつくりも抜きにして、確かに独特な色くささがあった。
「ですね。」
僕が深く頷くと、彼は途端に真顔になった。そして今度は吹き出すように笑う。
「おもしろいな、旭は。」
二度目の呼びつけよりも、その笑顔が印象的で、今度は僕が真顔になった。
色香を無駄に撒き散らしているのに、どこか幼い。表情豊かな人形、そんな矛盾した表現がしっくりくる笑顔だ。雨宮も、もし吹き出したら、こんな顔をするのだろうか。
「あの、」
笑う彼を塞き止めるように、僕は改まった。
えっと、その……なんて、お呼びすれば……。しどろもどろに聞く。
「八重。」
彼は穏やかに名乗った。
「八重さん……と似てる、と、思います。その、糸子さんは。」
しどろもどろのまま、僕は言い切った。
すると八重さんは、しなるように頬杖をついて、へえ、とまた目を細めた。
「それって、どういう意味で?」
良い意味です。即座に強く頷くとまた笑われた。
彼の笑いのツボが特殊なのか、僕の反応に問題があるのかは判らない。どちらにせよ、八重さんにとって「おもしろい奴」だと認識されているのだけは、間違いないようだ。
「一人で楽しんじゃってごめんね。でも、ありがと。」
ひとしきり笑った八重さんは、謝罪と礼を同時にして、両肘をついた。
「血、繋がってないし、俺にだけは似ないように育てたつもりだったけど、そう言われるの、意外と悪くないな。」
僕が思わず「えっ」て顔をすると、八重さんも「あれ?」と首を傾げる。
「糸子から聞いてない?」
おそらく、家庭環境についてだろう。そりゃおおよそは聞いているけれど、どちらの父親と血が繋がっているだとか、繋がっていないだとか、そこまで込み入ってはいないし、そもそも、当の父親からそんな話題を振られるなんて、夢にも思わないし……。
「家族構成は、一応。……でも血縁関係とかは、あまり、」
答えつつ、それとなく牽制した。雨宮本人以外の口から聞くのは、気が引けた。
「糸子は相方の縁戚なんだ。実の両親は年の差夫婦で、父親はとっくに他界済み。母親は育児放棄。戸籍上では相方の異母妹にあたるんだけど、親子くらい年齢離れてるし、二人で父親をしようって決めたわけ。」
牽制は無意味だった。
意図的に無視したのか、それともただの鈍感なのか、八重さんはあっさりと新情報を、しかもわりと詳細に与えてくる。読めないというか、不思議な人だな。外見以上に彼という人間がわからなくなってきた。僕は、いとも容易く暴露された雨宮の生い立ちを、きっと間抜けな顔で聞いていた。
「あの子には、申し訳なかったけどね。」
申し訳ない?
「子どもは親、選べないから。」
「あ、あの、」
間をあけて、僕は口を開いた。
「それ、俺に話して大丈夫なんですか、」
ここまで話が進んでおいてようやく意見する。
「どうして?」
「俺たぶん、いや、ほぼ確実に、糸子さんに嫌われてるんで、」
「 ? 大好きだよ?」
えっ。
二人して真顔になる。八重さんのほうが先に表情を取り戻した。
「セックスしたいかはわかんないけど。」
「へ? え? はあ…」
「旭は違うの?」
えっと、好意のほうですか。それとも、セックスについて、ですか。反射的に聞き返してしまったけれど、確実に僕は狼狽していた。それがまた、この人にとっては笑えてしまう反応なのだろうけれど。
「本当おもしろいな。俺、きみみたいな子なら好きだよ。」
がちゃん
突然強い音をたてて、リビングのドアが動いた。
帰宅した雨宮が、ドアノブを握ったまま目を据わらせている。
……間違いなく、聞かれてたな、今の話……。彼女の様子からそれは明白で、唾を飲み込んだ。雨宮は張り詰めた空気を纏いながら、つかつかと僕らに歩み寄ってくる。
「おかえり。」
冷たい視線をもろともせず、八重さんはにこりとした。
「いい歳して、男たぶらかしてんじゃないわよ。」
「残念。」
危ぶんだわりに、二人のやりとりはあっさりしたものだった。
雨宮はすぐさま僕に向けて、いつもどおり素っ気なく、「こっち。」と手招きする。
「旭、またお話しようね。」
リビングを出る間際で、八重さんが声をかけてきた。
「通報するわよ。」
僕の返事よりも先に、雨宮が素っ気なく言い捨てた。
久しぶりに対面する雨宮は眼鏡をかけていた。髪も三つ編みで小奇麗にまとめていて、服装も半袖のパーカーワンピースといった、シンプルないでたちをしていた。
「俺、おまえの彼氏なんだって。」
懐かしさのあまり、からかいたくなった。吉で赤面、凶で蔑視。どちらが出るか彼女の反応を待つ。
「その手の話を好むのよ。あのひとは。」
雨宮は至って平常に答えながら、鞄や教科書をしまっていた。予定外に、どちらも該当しなかった態度に物足りなさを感じた僕は、背後から彼女に近づいて、ふれそうな距離で隣に立った。
「イマドキの女子高生は終了したんだ?」
三つ編みの先端を摘んで言う。
「学校でもあるまいし、必要ないでしょ。」
手は容易く掃われた。
片づけが済むと、雨宮はベッドに腰掛けた。リモコンに手を伸ばしてテレビを点ける。ちょうど夜の報道番組が始まっていた。
「セージさま、どうしてる、」
脚を組んでテレビのほうを向いたまま、だしぬけに言った。
どうしてる、って。彼女の強引な切り出し方に、僕は返事を悩んだ。
「だから、変わりないとか。」
「じゃあ変わりない。」
「じゃあって何よ、」
ここでようやく、彼女の不機嫌に気付いた。
口が悪いのも素っ気ないのも、それが雨宮糸子のたちだからと見落としてしまったけれど、今の彼女は間違いなく苛立っている。心当たりとしては、先ほどの八重さんとの会話くらいしか思いつかないが、今夜のこの急すぎる呼び出しを考慮すれば、もっと他にあるような気もする。
「何かあったのか?」
聞き返すと、雨宮はやはり不機嫌に鼻をならして、脚を組み直した。
「あんた最近、桂木とやけに親密みたいじゃない。」
話された内容は、先日仲村から聞いた話そのものだった。
皆口旭が・桂木百香と・腕を組んで・歩いていた。……人違いで二度も尋問されるとは。
「気になるんだ? 俺と百香の仲。」
いじわるくほくそ笑んでやると、睨まれた。
「つけあがるんじゃないわよ。あんたたちがどこで何してようと、どうだっていいわ。あたしが気懸りなのはセージさまだけ。」
一度向けた視線をテレビへ戻す。報道番組では、先日発覚した汚職事件が大きく取り上げられていた。雨宮は画面を見据えたまま、また鼻をならす。
「彼、そうとう気にしてたから、」
やがて小さく言った。
その一言で、二人の近況を察した。
なんだ。こいつら今でも会ってるんだ。仲村はそんな素振りまったく見せなかったし、雨宮の名前すら口にしないし。
僕も鼻をならした。不機嫌な彼女に近づいて、隣に座る。
「ちょっと、なに座ってんのよ、」
ベッドが二人ぶんの重さで沈む。
「客に座らせないわけ?」
「床にでも座りなさいよ、」
「あー? さすがに意識しちゃう?」
顔面に枕をぶつけられて、そのまま仰向けに倒れた。
「調子ぶっこいてんじゃないわよ、クソ童貞が。」
雨宮が枕ごと顔を圧してくる。それがあまりにも非力で、痛くも痒くもなくて、笑えた。痛い痛い、ごめんって。抵抗まがいにふざけていると、か弱い力がすっと抜けて、枕が退いた。
「妹だよ。」
視界が広がってから僕は言った。雨宮が不服そうに見おろしている。
「百香と親密に歩いてたのは、俺じゃなくて、妹。あいつ最近髪切ってさ、すっぴんだと俺と見分けつかないんだ。背はあっちのほうが高いし、男に見えるかも。」
寝転んだままの釈明を、雨宮は黙って聞いていた。納得はしていないけど、これ以上疑う意味も無い、そんな表情をしている。
「そう。」
雨宮はそっぽを向いて、再びテレビを眺めた。
この誤解がとけたことを、仲村に報せるのだろうか。また会いに行くのだろうか。ベッドに沈んだまま僕は物思いにふけた。
見上げる先の雨宮の横顔は、やっぱりどことなく、八重さんと似ている。
血が繋がらなくても、一緒に暮らすうちに似てくるもんなのかな、親子って。でも、たしかに、彼の言うとおり色気は皆無だな。華も無いし。いや、ひのでに見慣れているから、やたら地味に見えるのかもしれない。真っ黒な三つ編みも、飾り気のない眼鏡も、ピアス穴一つ無いきれいな耳も。……耳。本当に、きれいな耳だな。
「急に黙るんじゃないわよ。気味悪いわね。」
雨宮が訝しく言った。あ、ごめん。僕は寝起きみたいな返事をした。
「耳、きれいなんだな、」
そして漠然とした頭のまま言った。
雨宮が身の毛もよだつ顔をしたので、慌てて起き上がって弁解した。
「違う、違うんだって。変な意味じゃなくて、」
「変態はみんなそう言うのよ。」
さすがの彼女も完全にひいている。僕は弁解を続けた。
俺の周りの女は、みんなピアスあけてるから、つい。まあ、みんなって言っても、妹と、母親と、百香くらいだけど……。中でも妹なんて、ピアス、すっげーえげつなくて。
「そういえば、桂木に奨められたわ。」
弁解の途中で、思い出したように雨宮は口を挟んだ。
「奨められたって、ピアス?」
変態疑惑が晴れたかはさておき、話題を逸らせそうだったので乗っかった。雨宮も何事も無かったかのように「ええ。」と頷く。そういえば以前、百香がピアッサーを贈ろうと企んでいたのを思い出す。
で? あけんの? おそるおそる聞くと、「予定は無いわね。」と首を振った。
「だよな。もったいないし。」
「何がもったいないのよ、」
「だってきれいじゃん。」
息をついてまた寝転ぶと、雨宮の手が下りてきた。
僕の髪をかきわけて、耳に触れる。
「ひとの耳どうこう言ってるけど、あんただって、あけてないじゃない。」
彼女の基準は、いつも曖昧で難しい。
変態的な発言には不快感をあらわにするくせに、触るのは許容範囲なのか。
そんなところにも、だいぶ慣れたけど。
「だって俺、男だし。」
僕は変な言い訳をした。
「父はあけてるわよ、二人とも。」
雨宮も変な反論をしてきた。
「絶対痛いのによくやるよな、みんな。」
百香に言わせれば、痛いからこそ意味がある、とのことだが、やっぱり理解できそうになかった。あけること自体は否定しないけれど、やっぱり痛いのは好きじゃない。
「雨宮は、痛いの苦手?」
「苦手というより、鈍いかもしれないわ。」
にぶい?
「生理痛とかわからないの。」
そういう話するか普通。僕が笑うと、雨宮はよく理解していないみたいな真顔で、小さく首をかしげた。
彼女のこういうところが、僕はやっぱりけっこう好きだ。
『続いてのニュースです。』
テレビの音が際立って、僕らは自然と無口になった。二人して画面に目を向ける。
いつの間にか汚職事件のニュースが終わっていて、次は都内で起きたという、傷害事件について取り上げていた。たぶんこれは昨夜やっていた報道の続報だ。百香の妨害で聞き取れなかったけれど、間違いない。
事件の詳細は、女子大生が交際中の男性を刃物で刺し殺人未遂で逮捕、というものだった。凶器に使われたのは、刃渡り十八センチの包丁だという。
「刺されたら、さすがに痛いよな、」
ニュースを見ながら僕は言った。
「さすがに痛いわね。」
「うわ、すっげー他人事。」
「あんたが言ったんじゃない。」
「はは。でもさ、ピアスも刺してあけるよな、」
「包丁とじゃ比較にならないでしょ。」
「だからさ、針に刺されるくらいなら、生理痛と同じなんじゃね?」
「あんたに生理痛の何がわかるのよ。」
「バファリンで治るんだろ?」
「たわけ。ド腐れ童貞。」
ぐだぐだと、中身の薄い会話を交わした。
ずっと仰向けに沈んでいるせいか、ベッドの弾力感が麻痺してきて、体に力が入らない。おのずと言動まで無気力に、適当になってゆく。
「あけてみる? ピアス。手伝うけど。」
ぐだぐだのまま、僕は提案した。
「なんでそんな話になんのよ。」
雨宮はごもっともな意見を、同じぐだぐだの延長で言った。
おもむろに、無気力な彼女の手首を引っぱってみる。そこは線引きしているのか、一緒に寝転んではくれない。基準の難しい女だなあ。僕は諦めて上体を起こし、彼女と向かい合って座った。
「もったいないとか、きれいとか、言ったくせに。」
向かい合ってすぐ、雨宮は指摘した。
「うん。言った。」
僕は彼女の髪をかきわけて、耳に触れた。
「でも、俺があけるなら別。」
「やっぱりド変態じゃないの。」
素っ気なく、冷たく容赦なく手は掃われて、僕だけが笑った。
テレビ画面ではニュースが続いていた。
例の傷害事件のあらましから、加害者の友人への取材。被害者親族への取材。事件前の二人の関係、行動、人物像………メディアというものは、いつの時代も容赦ないと思いつつも、僕は雨宮との会話を中断してまで画面に見入った。
報道によると、加害者の女子大生は素行に問題の無い真面目な学生で、被害者の男性との交際も順調だったという。だからこそ今回の事件が信じられないと、取材を受けた友人たちは口々に語っていた。
「好きなのに、殺すんだな。」
独り言みたいに僕は言った。
事実、独り言だった。勝手に声になっていた。
頭の中が、名塚月乃でいっぱいになっていた。否が応でも意識してしまう。
伝わる報道が、いやに彼女を掘り起こす。
当時、名塚月乃の犯行について関係者たちは、「信じられない」と口を揃えていたらしい。
円満だと評判だった夫婦。
愛する夫を殺した妻。
身重で起こした凶行。
そして、不可解な自害。
謎ばかりが残る事件は様々な憶測を呼び、『信者』とされる人間たちをも生み出した。
『信者』の一部は模倣犯となり、その多くは、十代二十代の若い女だった。
交際相手を切りつけた少女、意中の相手を監禁した女学生、婚約者に薬を盛った女………殺害にまで発展した事件こそ無かったものの、『信者』たちは世間をざわつかせた。
さすがに、考えすぎか。もう十七年も昔の話だ。
「未遂なんだから、殺してないでしょ、」
雨宮の声で正気づいた。僕の独り言に返事をしている。
「未遂なら殺意はあったんだろ。」
好きなのに、殺す。好きなのに。自分の独り言が、頭のなかでこだました。
……なあ、変な話していい? こだまに負けじと声を出す。雨宮は「いい」と答えない。頷きもしないけれど、僕は勝手に話し始めた。
ある女が、妊娠中に自分の夫を殺したんだよ。
仲睦まじい、ごくまっとうな夫婦だったんだって。腹の子は、二人にとって待望の子どもだったんだって。二人の人生で一番幸せなときだったんだ。それなのに、女は夫を殺したんだ。好きなのに。
女は逮捕後に子どもを産み遺して自殺。すげー話だよな。
雨宮がじっとみつめてくる。僕は目を逸らして話し続けた。
この話、続きがあってさ、
女が夫を殺したとき、第一発見者として、義理の姉が居合わせたんだよ。その義姉も同じく妊婦で、しかも臨月。
義姉は女が遺した赤ん坊を、産まれたばかりの自分の息子と一緒に育てるって引き取ったんだ。でも周りは猛反対。あたりまえだよな。唯一味方だった亭主も、最終的には無断で、赤ん坊を養子に出しちまった。
義姉は激怒するわ号泣するわの大発狂。家庭崩壊寸前になったけど、夫婦はなんとか立て直したんだ。自分たちの子どもも、いたし。なんとか幸せに、暮らしていたんだ。
でも、義姉は、何年もかけて、裏でこっそり養子縁組先の養母と接触していた。
……それで、会いにいったんだ。
五歳になった息子を連れて、あの子に会いにいったんだ。
……おわり? 雨宮が躊躇いがちに聞く。
ああ、おわり。僕はきっぱりと言い切る。
視線を合わせる。雨宮はやっぱりじっとみつめてくる。
それからどうなったとか、ないのね。
僕は頬をゆるませた。
なー、どーなったんだろーなー。人工的な笑顔でちゃらける。
雨宮は真面目な顔で、ずっとみつめてくる。
僕はまた目を逸らす。俯いて目を逸らす。
胡坐を組み直すと、ベッドが微かに軋んだ。そのまま動けなくなった。
顔が上げられなくなった。彼女の顔を見られなくなった。
「俺も、知りたいんだけどさ、」
俯いたまま、笑顔が解けなくなっていた。
また、独り言になっていた。
………ずっと、忘れてたんだよ、
『五歳の息子』は、十七歳になった今、
その日のことも、『あの子』のことも。
なさけないよな。どうしようもないよな。今になって思い出すなんて。
忘れたくて、忘れてたんだ。忘れちゃいけなかったのに。
忘れちゃいけなかったんだ。だって、ふたりは、――――――――――
…………、
目の前に、温かい暗闇が広がった。
雨宮の手が、僕の瞼を塞いでいる。両手で覆っている。
そのまま唇も塞がれた。声を出す間もなく塞がれた。
彼女のにおいがした。
「ド変態なうえに創作癖まであるなんて、救いようがないわ。」
僕を解放してすぐ、雨宮は言った。
あきれた視線を向けてくる。僕の笑顔はすっかり消えていた。それどころじゃなかった。散らばった頭のなかを整理整頓しようと、たった今、自分の身に起きた出来事を必死に遡る。
「今、何した?」壊れたロボットみたいに聞く。
「口、塞いだ。」正常なロボットみたいな返事がくる。
え、ちょ、塞いだ、って。
「駄作過ぎて聞いてらんないわね。もっと構成練りなさいよ、無能。」
いつもの調子で辛辣に吐き捨てて、僕を小突く。
「人間、忘れるようにできてんのよ。大事なことも、些細なことも、ぜんぶ。思い出せて良かったじゃない。」
じっとみつめて真面目な顔で言う。
なんでか泣いてしまいそうになりながら、今度は自然に、どうしようもなく本格的に、ばかみたいに、僕の笑顔はこぼれた。
「せっかくだからセックスもしとく?」
軽く誘ってみる。
「くたばれ。用が済んだら帰れクソ童貞。」
無論拒否される。
それにしたってあんまりな言いぐさだ。呼び出したのはどっちだよ。意見すると、雨宮はますます睨みつけてくる。
「あんたを父に突き出してもいいのよ。」
「? でも俺、すっげー気に入られたっぽいけど、」
「だから用心することね。父は若い頃から、生粋のアバズレよ。」
まじかよ。驚いたけれど少し冷静になって、悩んだ。顔似てるし、いけるか? 悩んでみたけれど、やっぱり「ナシ」だった。真に受けるんじゃないわよと、雨宮が引き気味に察してくる。その場では笑ったけれど、帰り際、玄関まで見送ってくれた八重さんに、僕らは二人して勝手に気まずくなっていた。
彼女はなんだろう。別れまでの残された時間、考えた。
仲村が安息で、百香が救いなら、僕にとっての雨宮糸子は。まるで、もやと隣り合って歩く気分だ。
「うちの駐車場、使えばよかったのに。」
パーキングに向かう道中で、雨宮は言った。
そうもいかないだろ。不法侵入になるじゃん。「なるでしょうね。」なるのかよ。って言うかさ、予備校行ってるなら終わってから呼べよ。「時間指定したところで、守らないでしょ。」どれだけ気まずかったと思ってんだよ。「父は楽しんでたみたいよ。」俺は気まずかったの。「そう。ずいぶん盛り上がってるように聞こえたけど?」立ち聞きとか悪趣味だな。「変態には負けるわ。」
歩幅と同じ速度で、会話を交わす。無遠慮に心地よく進む。
僕らは言葉を選ばない。雰囲気を守らない。嘘をつかない。顔色も窺わない。
雨宮糸子は僕のなんだろう。優先順位の、どこにいるのだろう。
パーカーワンピースにサンダル姿の雨宮は、ひのでに比べると身体の凹凸も色気も無くて、貧相にみえた。でもセックスはできる、と即断できた。したい、じゃなくて、できる。
「えらい上から目線ね。」きっと雨宮ならそう言って、睨みつけてくるだろう。間違いなく拒絶してくるだろう。それならそれで諦められる。これも即断できた。だけど手放したくもない。自分の矛盾に正直なぶん、彼女の優先順位は、仲村や百香よりずっと難解だった。
「またくだらないこと考えてるんでしょ、」
気づくと、パーキング到着間近だった。雨宮が立ち止まって目を据わらせている。
「あんたが黙ってるときって、大抵、ろくでもない。」
あながち間違ってない。
「セックスできそうだな、って思ってた。」
冗談めかして正直に告げた。
「えらい上から目線ね。未来永劫、ありえないわよ。」
「キスしたくせに?」
「ふ、さ、い、だ、の。」
本気でそれで押し通すつもりのようだ。僕もそれでいいやと納得した。
雨宮糸子は僕のなんだろう。優先順位の、どこにいるのだろう。
僕は雨宮糸子のなんだろう。彼女の優先順位に、僕は存在しているのだろうか。
これ以上は疲れるから、やめた。
どうせ、答えなんて出ない。
「ここでいいよ。」
立ち止まった場所で手を振った。雨宮は振り返してこない。ばいばいも、おやすみも言わない。けれど立ち去る素振りも見せない。彼女なりの見送り流儀に則って、ひとり歩き出した。
「……………皆口、」
距離という距離は空いてなかったと思う。雨宮が僕を呼んだ。
「――――――ッ……、」
振り向くよりも先に、背後に気配を、間を置かず、背中全体に体温を感じた。
雨宮が後ろから抱きついていた。僕の背中に、顔をうずめている。
「あたし、あんたが嫌い。」
密着する体がふるえている。怯えるように、しがみついている。
僕はそのまま固まった。服をきゅうと掴まれる。
「きいて。」
かぼそい声が、背中越しに言葉をつらねる。弱々しく告げる。
みなぐち、きいて、
「 、 、 。」
「『 』 、 。」
「 ………――――」
明かされた真実に呼吸ができなくなる。
ありとあらゆる記憶をたぐり寄せて、繋ぎ合わせて、過去を疑う。あがいても抗っても背いても、受けとめるしかなかった。
ふたりの、十七年間を。