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16 記憶

※※※2021/3/21より、本作の大幅改稿版『最愛なる猛毒、致死量の慈愛。』を連載しております。大まかな展開は変わりませんが、【演出】【構成】【台詞】【一話あたりの文字量の改変】等、読みやすさを重視した改稿となっており、また、本作では描かれなかった【糸子と星史のはじまり】を書き下ろしております。読まれる際には改稿版のほうを強くお勧めいたします。※※※




 八時半前には終わると連絡を受けたので、八時十五分に到着すると、仲村は既に予備校前で待っていた。正面口で手を振っている。


「外やばいね、暑い。」

「中で待ってればよかっただろ。」


 会話を挟みながら、手馴れたようすで後ろに座る彼を乗せて、すぐに出発した。




 仲村は、夏期講習で英語と物理を受講している。まがい物の優等生なりにも、一応の努力は惜しまないらしい。

「皆口くんも一緒に通おうよ、」

 一度、誘われたことがある。

「どうせとるなら数学だな。」

 そんな気更々なく適当にはぐらかすと、仲村は、一緒にいられないじゃん、と唇を尖らせた。何のために通ってるんだよ。


「いいんだよ。一応だもん、こんなの。」

 はあ、一応、ねえ。僕は僕で、またはぐらかした。




 彼との夏休みは至って平穏だ。ここ最近の私生活でのごたごたが、この時間だけ全部無になる。

 こうやって、予備校帰りの彼を拾って、あてもなくバイクを走らせたり、気まぐれにファミレスに入ったり、その日次第で解散したり、仲村宅ですごしたり。彼のお望みどおり、夏休みをそれなりに満喫している。まあ、まだ海にも行ってなければ旅行の予定も無いけれど。



「そういえば、好きな人の話もしてない。」

 やぶからぼうに仲村は言った。


 僕は、捲りかけの雑誌を変な位置で止めたまま、口を半開きにした。そんな間抜け面を、仲村は目をぱちくりさせて見据えてくる。


「恋バナだよ恋バナ。これだけ一緒に遊んでんのに、色気のある話一つ出てこないなんて、不健全すぎない? 高校生として。」

 大真面目に熱弁をふるう彼に、大きめの溜め息をついた。


「もてない特進生に何を期待してんだよ、」

「最近はわりかし、リア充寄りだと思うけど、」

「根本はぼっち維持してるっつーの。」


 ふうん。露骨に不満な顔をして黙る。彼がおとなしくなってから、雑誌の続きを二ページほど捲ったときだった。



「桂木さんとは付き合ってるの?」

 またやぶからぼうだった。



 あ。これきっと面倒なやつだ。


 第六感が働いて振り向くと、お察しのとおり、仲村は不機嫌そうに枕を抱え込んでいた。

「クラスの女子が見たらしいよ。腕、組んで歩いてたって。」

 しかも、心当たりのない目撃証言まで突き立ててくる。ほら、やっぱり面倒だぞこれ。

「ない。ありえない。絶対ない。」


 まずは簡潔に全否定した。百香とは夏休みに入ってからは、一度も出掛けちゃいない。バイクにも乗せていないし、腕を組んで歩くなんて、もってのほかだ。そりゃ、家に来ることは何度かあったけれど……なんて言うと、余計に話がややこしくなりそうなので、ふせておいた。


「見間違い、人違いだろ。」

「じゃあ付き合ってないの?」

「だからそう言ってんだろ、」

「じゃあセックスしてない?」


 質問の順序がおかしいだろ。あけすけな物言いに不快感を示すと、仲村は「だってえ、」とむくれながら、枕に伏せた。拗ねているのか、顔を沈めたまま動かない。本格的に面倒臭くなってきたので、相手にしないことにした。

 雑誌を開く視界の隅で、時々ちらちらと視線を感じる。無視だ、無視。


「……皆口くんには悪いんだけど、」

 こういうとき仲村は、案外辛抱がない。構わないでいるとすぐ痺れを切らして口を開く。

「俺さー、桂木さんってなんかきらーい。」


 へー。すこぶるどうでもいい。無関心に頁を捲る僕に、仲村は喋り続けた。


「なんか典型的なオンナって感じでさー、彼女ヅラもいいとこってゆーか、幼馴染ってモンを履き違えてない? 距離感が癪に障るんだよねー。彼氏じゃないけど特別な男がいまーすって吹聴したいのが見え見えでさあ、痛々しいっての。あれ絶対勝手に部屋掃除した挙句、AV発見してキレるタイプだよ。」


 べらべらと出るわ出るわの中傷の嵐は、少なからず的を射ていた。なんだか目の付け所が女みたいだな、こいつ。つい口を出してしまいそうになったけれど、無視に徹すると決めた以上、反応するわけにはいかない。


「ねえー、聞いてるー?」

 仲村はついに雑誌を取り上げる強硬手段にでてきた。


「それ聞かされてどうしろと、」

「だからあ、俺、気に入らないの。あの子。」

 面倒だなあ。珍しく会話が成り立たない彼に観念した。


「馴れ馴れしくて、痛々しくて、独善的で、あざとい。」


 まだまだ言い足りないとばかりに、仲村は百香への中傷を付け足した。僕ははいはいと適当に頷く。すると突然、覗き込んで強引に視線を合わせてきた。


「なのに、勝てそうにないんだ。」

「なんの勝負だよ、」



「優先順位。上なんでしょ、おれより。」


 仲村は真面目に言った。このうえなく真面目に。



 顔のぜんたいと、声の音に、まだ不機嫌が残っている。喉まで昇っていた反論が、口のなかで溶けてしまった。つられて、僕まで真面目な顔になる。



「うそだよ、バーカ。」


 見計らったかのように、仲村は両手のひらを見せた。

 やっぱり面白いなあ、皆口くんは。悪い顔をしてけたけた笑う。そのとおりだよ俺が馬鹿だった。我に返って激しく後悔しつつ、冷ややかに彼を睨んだ。

 怒らないでよー、マンネリ防止の一環だよおー。仲村は愉快にちゃらけるだけである。僕は色々と諦めて、取り返した雑誌を再度開いた。


「ま、嫌いってのは本当だけどね。」

 横から声がしたけれど、今度こそ根気強く無視に徹した。




 彼との夏休みは、やっぱり平穏なんだと思う。

 振り回されても、面倒でも、悪ふざけが過ぎても、諍いには発展しないし、関係も良好なままだ。それもこれも僕の寛大さの賜物……と思いたいところだけど、実のところ仲村の存在は、今の僕にとって唯一の安息となっていた。


 ひのでは()()()()の一件から、帰ってきていない。


 別に、外で問題を起こしているわけじゃないし、逃亡先は百香の家だし、母さんには連絡だって入っている(らしい)。それでも、こうもあてつけがましく帰ってこないと、原因を作った側としては、どうにも居心地が悪い。


 それに加えて、我が家ではひのでとは別件で、新しい問題も生じていた。


 あの離婚宣言以降、母さんは、目に見えて僕に気を遣っている。

 言葉を交わせば常に顔色を窺ってくるし、表情にも無理が出てきた。僕は僕で、それに気づかないフリをしないとだし、更には、母さんの知らないところで彼女の(というより皆口家の)過去に触れてしまったし、まさに、お互いがお互いを腫れ物扱いである。


 身勝手な話だ。僕は母親からの依存に辟易していたはずなのに、距離ができれば憂鬱に感じている。


 居心地の悪さを感じているのは、母さんも同じみたいで、最近は必要以上に早く出勤して、無駄に遅く帰宅するようになった。僕も、仲村が歓迎してくれるのをいいことに、頻繁に家を空けるようになったし、最近では母さんと二人きりの食卓も、懐かしい。無論、くだんの離婚話についても進展はない。


 うやむやにするくらいの宣言なんて、するもんじゃない。

 母さんに避けられていると感じるたびに、内心で毒づいた。向き合う覚悟だって無いくせに。時々、ひとりのときでも毒づいた。そんなふうに今夜も毒づきながら、物憂い気分で、帰路についた。






 待ち人の、いないはずの我が家に灯かりが点っていた。

 窓の向こうには、それとなく人の気配も感じる。バイクをゆっくり片付けながら、様々な可能性を疑った。


 母さんかひのでか、二つに一つだ。


 どっちが居るかで対応が変わってくるな……玄関までの短い道中でわずらっていると、スマホが震えた。液晶画面に『桂木百香』が表示される。


 『お邪魔してるよー。鍵あけとくね。』


 メッセージを読むなり、肩の力が抜けた。

 まあこんなことだろうと、今しがたの緊張感に呆れもした。途端に足どりが軽くなって、何の抵抗も無くドアを開けた。


「ただいま――――――」



 次の瞬間僕は停止した。



 思考も、呼吸も、まばたきも、動作も何もかも。

 ありえない人物と遭遇した。



 僕だ。僕がいる。

 目の前に、僕じゃない僕がいる。



 何が何だか理解できなかった。理解するのに時間がかかった。理解したときには鳥肌が立った。


 くすんだ銀髪と、えげつないピアス。

 僕のようで僕じゃない、鏡の中でしか見たことのない、世界で一番見覚えのあるその顔の持ち主は、ひのでだった。



「おかえりなさーい。」

 百香の呼びかけと同時に、ひのでは逃げるように二階へと消えた。

 ドアを開けたままの状態で、驚きを隠せないでいる僕を目にして、おおよそを察したのか百香は声を潜める。

「びっくりしたでしょ? あれ。」

 百香の説明によると、美容室から戻ったときは、ここまで瓜二つじゃなかったらしい。


「百香も最初は驚いたよ。ひのでって、すっぴんになってもカラコンだけは死守するし、マツエクオフするのも久しぶりでしょ? 完全な素顔って、ずいぶん長いこと見てなかったんだなー、って思っちゃった。」


 高揚したようすで、百香は声を弾ませた。比べて僕は、あまりの驚愕からテーブルについてからもまだ少し茫然としていた。

「あれで髪黒くしたら、ほとんど旭だよね。絶対見分けつかない。」

 冗談がちに百香は笑うけれど、冗談じゃない。深いまばたきをしながら頭を振った。


「見分けつかないは言いすぎ。背、あいつのほうが高いじゃん。」

「脚も長いしね。」


 うるせえよ。言い返しつつ、はっと気づいた。

 仲村がクラスメイトから得た目撃証言の正体は、おそらくひのでだ。

 ひのでなら百香と腕を組んで歩いていても不思議じゃないし、あの銀髪やピアス姿も、『夏休みで羽目を外した皆口旭』と見紛ったものだとすれば、納得もいく。もの凄い迷惑な話ではあるけれど。


「あいつって、本当は全然、美人じゃないんだな、」

「自分で言って悲しくならない?」

 本当に、どこまでも風評被害な妹だ。


「でもさ、つまりさ、旭もばっちりメイクしたら、ひのでくらい美人になれるってことだよね。」

 恐ろしい軽口を叩かれ、また鳥肌が立った。ふざけんな。つーかもう整形レベルの詐欺じゃん、女の化粧って。よくわからない悪態をつく僕に対して、百香はあっけらかんと笑い飛ばす。


「それより、もっと喜びなよ。せっかく可愛い妹が帰ってきてくれたんだから。」


 たしかにそれはそうだけど、できることならワンクッションというか、心の準備くらいさせてほしかった。

 っていうか、ひのでも居るなら居るって言えよ。

 収拾のつかない感情が、八つ当たりみたいに向けられる反面、今回も彼女に感謝しなくてはと思う恩義が邪魔をしていた。



 優先順位。上なんでしょ、おれより。



 不意に、仲村の言葉が頭をよぎる。

 優先順位……とか、そういうんじゃないんだよな、こいつの場合。彼の理不尽な批判を、真っ向から否定できそうにない自分に、ほんの少しだけ嫌気がさした。


「おまえさ、仲村ってどう思う?」

 これは完全に僕が悪い、あまりにも単刀直入な質問だ。当然、百香は首を傾げる。


「なあに突然?」


 いや、えっと、なんとなく、おまえ的にああいう男、その、どうなのかな、みたいな。咄嗟にむちゃくちゃな理由を、無理やり添えた。


「んー。どうって言われても、面識ないしなあ。でも女子には評判いいよね。百香は全然タイプじゃないけど、顔とか。」


 百香はすんなりと質問を受け容れて、真面目に返答する。その評価が好感なのか嫌悪なのかは微妙なところだけど、えくぼを見せているあたり、少なくとも悪意は無いみたいだ。


「でも、旭と仲良いなら悪い人じゃないんじゃないかな。」

 やっぱり好感寄りらしい。百香が仲村を素直に評価するほど、彼が憐れになってくる。


 『馴れ馴れしくて』『痛々しくて』『独善的で』『あざとい』よくもまあ、あそこまで言えたものだ。


「雨宮が言ってたんだけど、おまえ、仲村に似てるんだって。」

 今となっては、雨宮の意見にも概ね同意できそうである。

「えーなにそれー。」

 百香はわざとらしいくらいに目尻をさげて、口元に手を置いた。




「モモカちゃん、」

 気づくと、リビングの入り口にひのでがいた。ドアを薄く開いて、顔を覗かせている。


「テレビ、始まるよ、」

 先ほどは外していたカラーコンタクトを装着し、前髪をピンであげているあたりに、彼女なりの抵抗が垣間見えた。

「えっ、もうそんな時間? 始まる前にアイス買ってこようと思ったのにー。まーいっか。ほら、ひので、こっちこっち。一緒に見よ。」

 僕ら兄妹に流れる気まずさもお構いなしに、百香はおおげさに明るく振舞った。彼女の手招きに従って、ひのではリビングに入ってくる。


 二人が絨毯に並んでテレビを点けると、ニュースがやっていた。都内で傷害事件があったようだ。

「今日○○くん出るんだよねー。超楽しみ。」

 百香のはしゃぐ声で、詳細までは聞き取れなかった。


 百香が、()()()()()()をとるようになったのは、僕の正体、つまるところ、皆口や名塚や名塚月乃の真相に触れてからだ。


 傷害事件や殺人事件、そういった類いの報道が流れるものならば、チャンネルを変えたり、今みたいに別の話ではぐらかしたり、とにかく僕の目や耳に入らないようにしている。

 正直ばればれだけど、百香なりに、さりげなくのつもりなのだろう。きっとこれも彼女の厄介な優しさだ。

 悪意が無いぶん、たちが悪いなあとつくづく思う。そしてその都度、優しい女だなと溜め息が出る。最近はとくに、溜め息が深い。


 僕にはこの幼馴染を、優先順位で図ることなんて、きっとできない。


 優先順位なんて一言でまとめても、『必要か不要か』『便利か不便か』『大切か粗末か』『愛か憎か』で、大きく異なってくる。

 僕にとってこの桂木百香という存在は、その、仲村が指摘する優先順位のどこにカテゴライズすべきなのかが、わからない。


 ただ、ひとつだけ言えるとするのなら、



「旭もほら、こっちで一緒にみようよ。」


 今の僕にとって、皆口旭にとって、彼女は『救い』だ。



 妹同様、手招きに従ってソファに座った。ひのでを真後ろから見下ろす。


「似合うじゃん、髪。」

 短くなった後頭部に向けて、僕は言った。


「うるせーよ。」


 ひのでは正面を向いたまま、無気力に言った。


 でも銀はやりすぎだろ。「銀じゃない。アッシュ。」あっしゅ? 「ジジイかよてめーは。」おまえと一つしか違わないだろ。「二つだろ。」あ、そっか、おまえ早生まれか。「バカだろおまえ。」あ? こちとら学年一位様だぞ。「私は一位以外とったことない。」


「こらー。ケンカしないの。」


 和やかな仲裁が入ったところで、番組が始まった。

 特番の学力クイズ番組で、百香のお目当てのアイドルもちゃんと出ている。意外と難問揃いで、僕と百香は所々不正解なのに、ひのでは見事正解ばかり出していた。


「旭。CM入ったらアイス買って来い。」

 は? なんで。

「おまえは四問、私は全問正解だった。」

 だからなんだよ。

「モモカちゃんのぶんも。」

 いや、だからどうしてそうなるんだよ。

「わーい。じゃあ百香、パピコね。コーヒーのやつ。」

 おまえも便乗してんじゃねーよ。僕は文句をたらしながら立ち上がり、財布とスマホとバイクのキーをポケットに突っ込んだ。


 五分で買って来い。ひのでが百香の膝枕で、偉そうに言う。安全運転で急いでねー。百香がまた便乗して、手を振る。



 彼女は救いだ。仲村が安息であるのと、同じくらいに。



「うるせー。」

 僕は捨て台詞を残して、コンビニへ向かった。








「どうして愛してくれなかったの、」


 母さんの泣き叫ぶ声で、夢に気づいた。


 夢のなかで僕は、むかしの子ども部屋にいた。常夜灯を点した薄暗い部屋に、二組の布団が隙間無く隣り合っている。その真ん中あたりで、小さな山がもぞりと動いた。


「……おにいちゃん、」

「……だいじょうぶだよ。」

 僕とひのでだ。毛布をかぶって、身をまるくしている。


 部屋の外から響く喚きと怒号を聞きながら、幼い二人をみつめた。

 まるで防空壕に防災頭巾だな。十七歳の僕は、他人事みたいに薄く笑った。


 全然、大丈夫じゃなかったんだよな。しゃがみこんで、五歳の僕を覗き込んだ。幼心にも罪悪感があるのか、下唇を噛み締めている。

 この大嘘つきめ。この先、苦労するんだからな。届かない忠告を残す。


「……おにいちゃん、おにいちゃん……」


 ひのでが何度も僕を呼んでいた。瞼を堅く閉じて、必死に眠ろうとしている。

 毛布の上から妹に触れてみようにも、透けてしまう。夢なんだから当然か。

 災難だよな、今日に限って。時計の針が0時を越えている。三月二十一日になっていた。



「誕生日おめでとう、ひので。」



 感触の無い愛撫を繰り返しながら、届かない祝福を送った。





 そうだ。ひのでの誕生日の前日だったんだ。

 朝一番にプレゼントを渡して、びっくりさせようねって、みんなで計画していたんだ。

 プレゼントは内緒で買わなきゃって、母さんは父さんにひのでを任せて、僕と街に出たんだ。ひのでの大好きなキャラクターのぬいぐるみをみつけて、母さんはお店の人に、ピンクの包装紙と黄色のリボンを頼んだんだ。


「ちょっと、遊んでいこっか。」


 ぬいぐるみが包まれるのを待っているときに、母さんが言った。「近くにね、お部屋の中にある遊園地があるのよ。」僕はその提案を喜んだ。


「お父さんと、ひのでには内緒よ。」

 母さんは口元で人差し指を立てた。


 遊園地につくと、母さんは電話で誰かと話し始めた。周りを見渡している。すると今度は、どこかに向かって大きく手を振って、電話をきった。手を振る先から、一組の親子が近づいてきた。




 次の瞬間、目の前が、ぶれた。



 バグを起こしたテレビ画面みたいに、景色が、人影が、目に映るものが途切れてゆく。

 不鮮明な記憶が、僕を置き去りにして、進んでゆく。

 十七歳の僕は瞼を擦りながら、必死に夢を目で追った。

 親子の、母親と思われる女の人が、僕と視線を合わせて会釈していた。


「はじ×ま×て、」


 ノイズみたいなのも混じってきた。たぶん今のは、「はじめまして」、だろう。


「旭。×の×はね、お母×んの、お友××。」

「よろ××ね、××ん。」


 女の人の顔がよく見えない。背格好だけなら小柄な人だ。


「ほら×××ない×、あん×も挨××て、」


 女の人は、後ろで隠れている子供を前に促しているみたいだ。

 ノイズが濃くなる。バグが強くなる。夢が、いよいよ見えなくなってゆく。


「………××××、×××、です。」


 あなたのお友だちよ。母さんが僕の背中に触れたところで、場面が替わった。





「今日ね、ゆうえんち行った。」

 切り替わった先は、自宅の脱衣所だった。父さんが僕の髪をわしわしと拭いている。

「よかったな。楽しかったか?」

 先ほどとは一変して、声も姿も鮮明な夢に戻っていた。

「お友だちと遊んだよ。」

 幼い僕が、得意気に話す。

「百香ちゃんも一緒だったのか、」


「ううん。ももかじゃないよ。」

 幼い僕が首を振る。



 ………だめだ。それ以上は言うな。



 唐突に悪寒が走る。僕は幼い僕へ、届かない声を投げた。


「えっとね、おともだちね、」


 言うな……言うな、言うな、言うな言うな言うな言うな言うな、


「×××××××××。」


 ―――――――――――――、




  今日、どこに行った?

  誰と、会っていた?

  旭を……誰に会わせた


  ………………。


  ………旭に、会わせたわけじゃないわ

  あたしが会いたかったの あの子に



「あなたはあの子を、どうして愛してくれなかったの。」




 ―――――――――――――。


 ようやく、理解した。


 どうしてあの日、両親(ふたり)が衝突したのか。

 兄妹(ぼくら)が、怯えなきゃならなかったのか。

 父さんが、離れてしまったのか。

 ひのでが、祝福されなかったのか。


 皆口家は立て直していたはずだった。過去になんて蓋をして、新しく、幸せになっていたはずだった。それなのにどうして、たった一晩で、崩れてしまったのか。



  お父さんと、ひのでには内緒よ。



 僕のせいだったんだ。

 母さんとの約束を、破ってしまったから。



 夢は記憶だ。僕は忘れたかったんだ。忘れちゃいけなかったんだ。事態が起きてしまってから消去しても、意味なんてないのに。無理やり握りつぶした記憶が、バグとなって夢を蝕む。



「………××××、×××、です。」



 きみまで、消して、ごめん。

 どうしよう。顔も声も名前もみつけられない。

 これは、あやまちから目を背けた報いなのか。







 枕元でスマホが震えている。目が覚めても現実に気づいても、体が動かない。暗い部屋に液晶の光がせわしく瞬いて、重たい右腕を伸ばした。

 『着信 雨宮糸子』

 画面を見るなり飛び起きて、耳に押し当てた。

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