15 子供
※※※2021/3/21より、本作の大幅改稿版『最愛なる猛毒、致死量の慈愛。』を連載しております。大まかな展開は変わりませんが、【演出】【構成】【台詞】【一話あたりの文字量の改変】等、読みやすさを重視した改稿となっており、また、本作では描かれなかった【糸子と星史のはじまり】を書き下ろしております。読まれる際には改稿版のほうを強くお勧めいたします。※※※
どうして愛してくれなかったの
あたしたちが親になるべきだったのよ。子どもに、罪なんて無かったんだから。
どうして捨てたの? 同じ血が流れているのに、どうして手放せたの?
旭やひのでと、何が違うっていうの?
どうして愛してくれなかったの。あなたの家族だったじゃない、
愛されない子どもなんて……あんまりじゃない。――――――――
待ち合わせの十五分前に、父さんは現れた。
「何分から来てたんだ、」
薄まったアイスコーヒーを見るなり、眉を八の字にして聞く。
十一時くらい。僕は正直に答えた。それは待たせたな、悪い。父さんが無駄に謝罪する。続けて、それじゃあ昼食に行くか、と、席を立つよう促した。
「もう一杯、コーヒー頼めないかな、」
首を振ってから、僕は言った。
「少し、話したいことがあるんだ。」
それから、ちょっとだけ俯いた。
しばらくして、二人分のアイスコーヒーをトレーに乗せて、父さんは戻ってきた。座るなりストローを吸うと、一気にグラスの半分くらいまで減った。
母子手帳を前に、父さんは至って落ち着いていた。百香みたいに、わかりやすい動揺は無いけれど、しいていえば諦めているような、降参みたいな顔をしている。
「見つけたか。」
いいわけの一つもせず溜め息を落とす。
僕はこの人のこういうところが、けっこう好きだ。時々、やりづらさもあるけれど。
「ひのでのは、どうしてもみつからなかった。」
「ああ。お父さんが持ってる。」
「父さんが?」
「ひのでの予防接種や健診は、お父さんの役割だったんだ。あいつ、お父さんじゃなきゃついてきてくれなくてな。」
「母さんからも聞いたかも、それ。」
「むずかしい子だったからな。」
淡々と話が進む。
「それで、この名塚って、苗字についてだけど、」
淡々に紛れて僕は尋ねた。
「母さんの旧姓は、瀬田だよね?」
不穏を避けて、動揺を見透かされないように、慎重に声を作る。
「名塚旭って、俺のこと、だよね?」
手帳をみつけた瞬間から、確信はあった。百香が顔色を変えたのも、たぶん、僕と同じ確信だ。
経緯も、事情も、真相も、何もかも不明瞭なのに確信だけはある。名塚旭は、皆口旭より古い、僕のなまえ。
僕の本当のなまえだ。
「………三千、ごひゃく…四十二グラム、だってさ。」
名塚旭の手帳を広げて、僕は出生体重を読み上げた。
「ほんと、おっきく産まれたんだね。」
百香は、やわらかく返事をした。
皆口旭の出生体重は、空欄だった。
名塚旭って、俺のこと、だよね?
俺、知らなかったよ、こんな苗字。
ずっと、皆口のつもりだったから。
俺は、いつから皆口旭なの? ほんとうは、どっちなの?
どうして俺は、このなまえで産まれたの?
今日までに質問は絞ってきた。けどられまいと練習もしてきた。それなのに唇が震える。どうしても喉が渇く。質問の順序が、間の取り方が思うようにいかない。父さんを直視できない。答えを知るのが怖い。
僕はおおげさにコーヒーを飲み干した。
「これは、俺の、憶測で、聞くんだけど、」慎重に前置きする。
俺の父親は、ほんとうに父さんなの?
ひのでの母親は、ほんとうに母さんなの?
俺とひのでは、本当のきょうだいなの?
三つの質問を、区切って、ていねいに声にした。腹をくくって答えを待つ。
散々用心していたはずなのに、僕は不穏にどっぷり浸かりこんでいた。表情からしぐさ、声から吐く息まで、ぜんぶ。
並んだ二冊の母子手帳を両手にとって、父さんは静かに瞼を閉じた。
「いっぱい、悩ませたみたいだな。」
ゆっくり瞼を開けて、落ち着き払ったまま、穏やかに目をほそめた。
「答えは全部イエスだ。安心してほしい。」
その一言で、初めて身体じゅうこわばっていることに気づいた。全身から力が抜けて、深呼吸みたいなため息をおとす。
父さんは人目もはばからず、僕の頭をわしわしと撫でた。やめてよ、と言ってみたものの、拒絶する力は残っていない。
「旭の父親は間違いなくお父さんで、ひのでの母親もお母さんだ。おまえとひのでは、二人とも、お父さんとお母さんの子どもだ。」
質問の答えについて、父さんも一つ一つ、ていねいに言い添えた。
さらに証明するように表紙を指差して、修正した形跡なんて無いだろう? と、おだやかに首を傾げた。二冊とも苗字は異なるものの、保護者の欄にはそれぞれ、父『ひずる』と、母『陽』の名が、間違いなく記されている。僕はぼう然と、ただただ安堵した。その様子に、父さんも肩の力を抜いて椅子にもたれた。また、降参みたいな顔をする。
「簡単なことじゃないんだ、」
やがてこぼすように言った。
簡単なこと? 聞き返しても、父さんは降参の顔のまま、ぼんやりとしている。
「……父親が違う、母親が違う、血の繋がりが無い。そんな、簡単なことじゃ、」
声は呟いているようで、はっきりと僕に届く。こういうところがやりづらいんだよな、このひとは。
「じゃあ、教えてよ。」
僕はもう少し欲張ることにした。
「この、名塚については、まだ聞いてない。」
たまには、やりづらい息子になってやる。
「俺に隠していた十七年間を、教えて。」
限りなく透きとおったグラスのなかで、氷がかりんと崩れた。
昼時を迎えた店内が混み合い始めている。場所を変えよう。トレーをさげる父さんを待って一緒に外へ出ると、忘れていた日差しに目がくらんだ。
父さんのマンション、もとい、昔の住居を訪れるのは何年ぶりだろう。
小学生のとき、ひのでと一緒に何回か「お泊り」したけれど、いつの間にかその行事は無くなっていた。今にして思えば、たぶん母さんの介入があったのだろう。
男独りで住むには広すぎる部屋は、テーブルも戸棚も家具の配置も、僕らが居た頃のまんまで、ちょっとしたタイムスリップの気分だった。
てきとうに座っててくれ。言い残して父さんはどこかへ消え、それから五分としないうちに戻ってきた。何か手にしている。
「これって、」
ひのでの母子手帳だ。
「探してたんだろう?」
だからって別に、見たいわけじゃ。ぼやきながら手帳を受け取った。
皆口旭と同じ、東京都北区の母子健康手帳。
保護者は、皆口ひずると皆口陽。子の氏名は、皆口ひので。表紙の文字を一通り眺めてから開く。
三月二十一日、帝王切開で産まれた、一八五〇グラムの女の子。
「俺の半分くらいじゃん、体重。」
「一ヶ月も早く産まれたからな。」
「今じゃ、俺より、背高いけど、」
僕は自虐気味に笑った。つられて父さんも笑う。それからすぐに、どちらともなく、平らな感じの顔になった。
「ひのでだけ、産まれたときから皆口なんだね。」
僕から切り出した。
父さんは少しの間だけ、無表情のまま止まっていた。やがて両膝に手を乗せて、深々と頭を下げた。
「まず、謝らせてくれ。……おまえたちを巻き込んでしまって、すまない。」
そんなこと言われても……、僕は返事のしようがなかった。どういった経緯を辿り、どんな事情を抱えて、今、父さんが謝罪に至っているのか、わからなかったから。返事どころか、許すことも許さないこともできやしない。無言のまま次の言葉を待った。
「名塚は、父さんと母さんと、旭の、本当の苗字だ。皆口は、変更した苗字なんだ。」
先ほどの丁寧な説明とはうって変わって、父さんは結論から口にした。彼らしくない、漠然とした説明に、僕はやっと返事をした。
「変更、って、家族まるごと?」
父さんは頷く。
「ひのでが産まれる前の話だから、あの子だけ最初から皆口なのは、そういう理由だ。」
それから深呼吸をして、僕をじっと見た。じっと見て、『ひのでが産まれる前の話』とやらを、語り始めた。
母さんが僕を身ごもっていた頃の、話だ。
名塚姓の近しい親族が、大きな事件を起こした。不運にも、臨月の母さんが第一発見者として、そこに居合わせてしまった。
事件は、テレビや週刊誌でも大きく取り上げられ、僕が産まれてからも報道は収束をみせなかった。
父さんも母さんも、産まれたばかりの僕を育てながらの聴取、報道陣への対応、さらには好奇の目に晒される日々に耐え切れなくなってしまい、名塚の姓を捨て、皆口姓に戸籍を変え、東京へと逃げた。母さんの旧姓である『瀬田』を名乗る案もあったのだけど、遠縁の親族がいい顔をしなかったらしい。
と、ここまでを、父さんは慎重に語ってくれた。
明らかに言葉を選んでいた。僕にわかりやすいようにとか、婉曲的にとか、そんな感じじゃなくて、どこか濁している。
たぶん今の話に嘘は無い。でも、まだまだ語るに抵抗ある部分が身を潜めているのも、明白だった。
このひとのことだ。濁すのは僕のためなのだろう。いつだって子供の気持ちが汲める人。親として相応しい人。そんな優しさがやりづらくて、時々、不憫な人。
「事件のこと、」
でも僕は、このひとを傷つける。
「何があったのか、聞いても、いい?」
このひとの子だから、このひとの子でもあるから。
……ごめんね、父さん。これから先、できるだけ迷惑かけないから。母さんのことも、任せてくれていいから。今日だけは、僕に傷つけられて。
『名塚 暁』
―――父さんの、若くして亡くなったという弟……叔父の名で検索をかけると、くだんの、十七年前の事件とやらに関する記事は、次々と出てきた。有名なデータベースサイトから、物好きな個人サイトまで。僕はあえて個人サイトばかり覗いた。俗っぽいぶん、当時の報道状況や世間の反応が、生々しく感じられたし、何より、事件関係者の名前が、しっかり明記してあったから。
叔父の名は、間違いなく記載されていた。『今播市会社員刺殺事件』という刑事事件の、被害者として。
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【今播市会社員刺殺事件】
『3日朝、今播市の住宅で名塚暁さん(28)が胸など数十箇所を刺されているのを親族が発見。搬送先の病院で死亡が確認された。通報を受けた警官により、妻・名塚月乃容疑者(26)が現行犯逮捕された。事件当時月乃容疑者は妊娠中であり、同年九月に出産。出産一時間後、分娩台の上で首から血を流している月乃容疑者を助産師が発見。自殺とみられている。』
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サイトの文面は、ほとんど父さんの話どおりだった。この発見した親族というのが、おそらく母さんなのだろう。
僕を身ごもっていた母さん……信じられないが、つまり僕も、現場に居合わせていたというわけだ。そして、例の「つきのさん」の正体を、こんなかたちで知るとは思わなかった。
名塚月乃は、叔父を殺害した加害者であり、僕の叔母だった。
血の繋がりは無いけれど、僕ら一家の正式な親族だった。そして僕ら一家の平穏を、ぶち壊した元凶だった。
加害者が彼女であったからこそ、この事件が必要以上に報道されたといっても、過言ではない。
サイトを読むにつれて、当時の過熱報道の実態が見えてきた。
名塚月乃はもの凄くきれいな人だった。
ただでさえこの事件は、妊婦の妻が夫を殺害し、出産直後には自らの命も絶ったという、衝撃的な内容だ。それに加えて、名塚月乃の並外れた美貌が話題となり、各メディアはこぞって取り上げた。世間もそれに食いついた。特に大衆向けの週刊誌では、煽るような見出しで読者をひきつけ、低俗な話題での広がりもみせた。
渦中の名塚家……両親の精神状態は、限界を超えていたと思う。
被害者遺族として苦境に立たされながら、加害者親族としても扱われる理不尽。常につきまとう好奇の目。鳴り止まない電話。最悪の環境下で幕を開けた、初めての子育て……いろいろあったんだな、二人は。何も知らなかったんだな、僕は。
「巻き込んでしまって、すまない。」
話の終わりに、父さんはもう一度謝った。
耐えられなかったこと、我慢できなかったこと、逃げるという選択肢に、僕を巻き込んでしまったこと。
二度目の謝罪は、机にぴったりと額をあてていた。
離婚の件……話しそびれたな。帰宅後、事件について散々調べあげてから、僕は本日の面会を悔やんだ。
もっと、今の話をするんだった。昔の話なんかより。
悔やみつつも、また両親の結婚式写真を、ぼんやり眺める。両親の晴れ姿を見ていたはずの視線は、自然と名塚月乃へと移った。
まるで、アイドルみたいなひとだ。マスコミや世間が食いつくのに、納得さえしてしまう。
名塚月乃で検索をかけると、案の定、事件関連の記事と一緒に、大量の画像が出てきた。十七年も昔の事件だから多少の風化はあるにしろ、表立たないネット界隈では今でも話題に上がるらしく、不謹慎な書き込みも多く見受けられた。
彼女の美貌の虜になる者。
彼女の動機に憶測を立てる者。
擁護する意見。同情する声。支持する言葉。
神聖視されてゆく、名塚月乃。
挙句には当時、彼女の『信者』とされる人間たちが、模倣事件を起こす例も少なからずあったらしい。
現実世界で公にできない思想は、狂っていた。
それだけじゃない。この世界では報道されていない些細な情報も筒抜けで、第一発見者である親族が、名塚月乃と同じ妊婦だったことにも触れていた。当然、その親族が県外へ雲隠れした件についても。
不思議と憤れなかった。
真相を隠していた両親にも、元凶である名塚月乃にも、事を煽ったマスコミにも、今もなお低俗に盛り上がる世間にも、一部の狂人的な『信者』にも。誰に対しても何に関しても、怒りが沸いてこない。
実感が無いんだ。事件をどんなに調べようと、自分が被害者遺族だという実感が。
『一番の被害者は子供』
不謹慎な書き込みと並んで、よく目にした意見だ。
『子供が可哀想』『子供は親を選べない』『巻き込まれた』『子供に罪は無い』『可哀想』『被害者』『被害者』『被害者』『子供は被害者』………低俗な言葉や、支持派の意見に混じって嘆かれる、『子供』への同情。
その子供を指すのが、被害者遺族である僕なのか、名塚月乃の遺児なのか、あるいはどちらもなのか。
個人的見解としては、後者だ。少なくとも僕は僕を被害者と思えない。巻き込まれたも何も、なんにも覚えちゃいないし、同情されても困るし、親を選べないなんて今さらだし。だけど、名塚月乃の子は、違う。
つきのさんの子は、どうしたの?
その件についても、僕はぬかりなく追究した。
父さんは目に見えて返答に窮していたけれど、すぐにまた降参の面持ちで、口を開けた。
「手放したさ。」
負い目のある言いぐさだった。父さんは視線を下げて、指の組み位置を何度も変えた。姿勢がおちつくと、今度は唇を数回かみしめた。鼻からため息みたいな音を漏らす。
「お母さんは、最後まで、反対したんだけどな、」
唐突に母さんが話に出てきて、一瞬混乱した。父さんも見た目以上に、動揺しているのかもしれない。
僕は黙ったまま、父さんの話に耳を傾けた。
名塚月乃が残した子は、兄夫婦である父さん達が引き取ると申し出た。父方の祖父母をはじめ、親戚中から猛反対されたが、母さんが頑なに「育てる」と、譲らなかったらしい。それが発端となり、名塚側の親族と、嫁である母さんの関係はこじれていった。
板ばさみ状態の父さんは、最初こそ母さんに理解を示し、県外移住と姓の変更を条件に親族を説得して、丸く治めた。
しかし徐々に、迷いが生じてきたという。
「子どもに罪は無いって、解っていたはずだったんだけどな……」
弟の忘れ形見であり、名塚月乃の化身。遺児を抱くたびに父さんは葛藤した。いつしか葛藤に恐怖した。いつか、この小さな命が、憎悪への対象になってしまうのではないかと。迷い怯えてまで、手元に置く資格があるのかと。
「だから手放したんだね、」
父さんは頷いた。
名塚月乃の子は生後4ヶ月で、彼女の知人夫婦に引き取られた。父さんは無断で、施設も斡旋団体も介せず養子縁組の手続きを進め、母さんが僕を定期健診に連れて行った隙に、遺児を引き渡した。
当然、口論になった。母さんは泣いて喚いて、怒鳴って、父さんを批難した。そして散々怒鳴り散らしてから、さめざめと泣き崩れた。
「どうして、」
僕にはどうも理解できなかった。
「どうして母さんは、そんなに、」
母さんがそこまで、名塚月乃の子に執着したのか。
執着、とは、違うかもな。父さんは薄く口端を動かした。
「子ども、だったんだよ。」
こども?
「陽にとっては、旭と、同じだったんだろうな。」
憶測だけであげれば、理由なんていくらでもあった。
母さんと名塚月乃が、本当の姉妹のように仲が良かったこと。同時期に妊娠したこと。産まれたばかりの僕の存在。使命感も、憐れみも、投影も、全部ひっくるめて、母性だったではと父さんは語る。
「お父さんには、難しくてな、どうしても。」
頭ではわかっていたんだ、と、父さんはちょっぴり言い訳を付け足した。
今にして思えば、両親の最初の溝は、そこからだったという。
赤ん坊が一人になったことで、母さんの負担は確実に減ったものの、それ以上に、夫婦間に生じたわだかまりは大きかった。父さんは『手放した』つもりでも、母さんからすれば『捨てた』同然だ。間違いなく、二人の仲はぎくしゃくし始めた。
父さんは信頼を取り戻そうと、必死になって家族に尽くした。家事も育児もなんだって協力した。僕のおむつ替えも、寝かしつけも積極的にやったし、休日だって家族優先に動いた。母さんと僕を第一にしてきた。
少しずつ、少しずつ立て直し始めた皆口家に、転機が訪れた。
母さんの二人目の懐妊だ。
「ひのでがおなかに入ってから、陽はよく笑ってくれるようになったよ。」
母さんは、まだ言葉のわからない僕に、膨らんでいない腹を触らせて、「お兄ちゃんになるのよ」と、言い聞かせていたらしい。性別が判明してからは、さらにさらに笑うようになった。
―――りぼんの付いたドレスを着させたいの。大きくなったら、二人で目一杯おしゃれして、おでかけするわ。一緒にケーキ食べて、恋愛相談や内緒話だってするの。お父さんにも、旭にだって内緒よ。せっかく女の子産むんだから―――――
母さんは未来の先に、幸せを信じていた。信じないと認めてしまうから、新しい幸せで、古い不幸に蓋をした。どうしても諦めたくなかった。理想で模った、幸せを。
ピッ、ピッ、ピッ、……エアコンの調節音がする。目をこすると、百香がリモコンをかざしていた。
「この部屋寒すぎ、」だと、小言をこぼしている。
「こんな設定温度で寝ちゃだめだよ。体によくない。」
たしかに、どことなくだるくて体が重い。節々を伸ばしつつ上体を起こした。冷房病って怖いんだよ? 小言を続けながら、百香は部屋を片付け始めた。片付けといっても、開いたままのパソコンと閉じたり、散らばったペンを筆入れに納める程度だけど。
勝手にいじんなよ。いつもだったら抗議の一つでもしてやるのに、今はどうでもいい。無気力にしていると、百香はすすっと近づいてきて、髪を耳にかけた。
「みてみて。新しいのあけちゃった。」
右耳のピアス穴が一つ増えている。なんかね、ピアスって偶数良くないんだって。夏休みだし、これくらいアリだよねー。いつもの調子で、屈託のない笑顔を向けて、なんてことない話題を持ちかける。
「………今日さ、会ってきた。父親。」
その優しい無神経に感謝して、僕は面会を報告した。百香の表情が微かに薄くなる。
「ちゃんと話せた?」
僕は頷く。
「よかったじゃん。」
いつもの彼女につられて、口角をあげた。
それから簡単に、自分の話をした。
名塚のこと。皆口のこと。事件のこと。今日父さんから明かされた一通りを、淡々と話した。百香は相槌もせず膝を抱えて聞いていた。
「百香もね、それとなくママに聞いたの、」
それとなく?
「うん。旭んちって、何かワケアリなの? って。」
直球じゃんか。僕は吹き出す。直球じゃないもん。母子手帳のこととか、言ってないもん。百香は唇を尖らせる。そしてすぐに話に戻った。
「事件とかまでは知らないみたいだったけど、なんとなく、ワケアリの家ってのは薄々気づいてたっぽいよ。でも、ママはどうでもよかったんだって、」
過去は過去、今は今。近所に越してきたのも、同世代の子どもがいるのも、何かのご縁。仲良くなれたのだから、立派なご縁。それが桂木家のスタンスなのだという。
スタンス、なんて言葉を選ぶあたりが血統だなと思う反面、うちのあの母親が、百香の母親とだけは長年親しくしていられる理由に、納得ができた。
「おまえは、どうなんだよ、」
突拍子もなく僕は訊ねた。
「百香はどうでもよくないよ?」
即答するので、びっくりした。
旭やひのでが、どうでもいいわけないじゃん。小首を傾げてきょとんと言う。
「ワケアリのおうちでも、人殺しの家族でも、暴力沙汰起こしても、こよなくめんどくさくても、百香はどうでもよくない。」
人殺しって、もっとオブラートに包めないわけ? 苦笑する僕に、百香は笑った。
「絶対、見捨ててなんかあげないもん。百香だけはずっと味方でいてあげる。」
いたずらに、あどけなくえくぼを見せる。
厄介な女だな。うっとうしいし、馴れ馴れしいし、もう高二なのに、自分を名前呼びするし。せめて性根さえ腐っていれば、思いっきり嫌ってやれるのに。
妹のきもちが、痛いほどに解ってしまう。
「やっぱ暑い。下げて、クーラー。」
「だめー。」
リモコンを取り上げようしてかわされる。
アイス買ってきたから、下階で食べようよ。ドラマの再放送、みるんでしょ。百香がエアコンを切って腕をひっぱる。夏休みの、なまぬるい夕方に鼻の奥が痛くなった。




