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14 日出

※※※2021/3/21より、本作の大幅改稿版『最愛なる猛毒、致死量の慈愛。』を連載しております。大まかな展開は変わりませんが、【演出】【構成】【台詞】【一話あたりの文字量の改変】等、読みやすさを重視した改稿となっており、また、本作では描かれなかった【糸子と星史のはじまり】を書き下ろしております。読まれる際には改稿版のほうを強くお勧めいたします。※※※




「ひずるさんと暮らそうと思う。」

 ひのでが切り出してきたのは、夏休みが始まったばかりの昼下がりだった。


 クーラーをきかせたリビングで、僕はしまりのない姿勢でテレビを観ていた。以前見逃したドラマの再放送にかじりついていたのに、間の悪い奴だ。

 唐突な父さんとの同居計画に、まず、「母さんには言ったのか?」と、「いつから?」のどちらから質問するべきか悩んだ。


「いつから?」

 後者を選びつつ、テレビの音量を下げる。

「休み明けか、卒業してから。」

 妹の返答に、計画が思いつき程度の段階なのだと察する。


 えらく漠然としてるな。まともに向き合おうとしたことがばからしく感じた反面、まだ詳細も決まっていない話を打ち明けてきた妹に、違和感を覚えた。


「俺に報せる必要、ある?」

 音量を元に戻しつつ聞くと、ひのでは不機嫌に、ある、と唇を尖らせた。

 どうも気に障ったみたいだが、そこからはだんまりで、殴りかかってくる気配も無かったので、僕は無関心のふりをして、再度ドラマに集中した。


「………来週、」

 CMになったとたん、ひのではまた切り出した。今度は間が悪くない。


「ひずるさんのところ、おまえが行け。」

 月に一度の面会か。命令口調なのはさておき、断る理由もないので承諾した。


「すごく会いたがってた、ひずるさん。」

 まあ、最後に会ったの五月だしな。

(あきら)から久しぶりに、連絡あったんだって。」

 母さんから? 父さんに? 初耳だ。

「おまえが、最近すごいんだって、頑張ってるんだって聞いて、喜んでた。」

 ………。

「陽が自慢してたんだ。おまえが、期末、一位とったこと。」

 ………。



「そう。」


 僕は素っ気なく答えて、ひたすら無関心のふりを続けた。







 期末試験の結果が周囲を沸かせ、僕をもてはやしたのは、まだ記憶に新しい。


 中間試験ではガリ勉のまぐれ(良くて努力の新鋭)だった扱いも、今回ばかりは一変せざるを得なかった。順位表が貼り出された日から、僕の地位は見事、成績上位者へと確立されたのである。


 夢のまた夢だった優等生は、案外きもちよくなかった。

 むしろ、わだかまった。疑惑の目を向けられない現状に、不安より不満が勝る。なぜ誰一人として、僕の不正を疑わないのか。こないだまでのおちこぼれた生徒に、違和感すら懐かないのか。総合成績一位の威力とは、かくも偉大なものなのか。


 ……ちがう。これはすべて筋書き通りの結果だ。

 計画された、皆口旭の地位。仲村星史が望み、雨宮糸子の仕立てた、僕。


「付き合う相手で変わるものだよね、人間。」

 百香の見解は、珍しく的を射ていた。


「糸子ちゃんや、仲村くんと仲良くなってからだもん。旭がすごくなったの。」


 皮肉にも二人の存在は、僕の評価に拍車をかけていた。朱に交われば赤くなる。そんなふうに捉えるのは百香くらいだと思っていたが、彼女だけでなく、学級、学年、学校側、皆が皆、同じ見方をしていたのである。

 わだかまってしまう。なんとも手応えのない日常だ。





「せっかくなんだから威張っておけ。」

 電話口で父さんは笑った。


 面会日時について、いつもならメールでやりとりする連絡が、今回に限っては電話だった。理由はもちろん、期末試験効果だ。

 ひのでの話どおり、父さんは本当に嬉しそうに、すごいじゃないか、おめでとう、と声を弾ませた。

 ありがと。でも、なんか、実感無くて。心情を濁す僕に対して、父さんは「威張っておけ」と明るく助言してきた。実状は、威張れることなんて何も無いのだけれど。


「俺もさ、もっと、天狗になれると思ってたんだけど、意外と、そうでもなかった。」

 まさか父さんも、息子の不正なんて夢にも思わないだろう。しかしすみませんお父さん。息子は、ばれたら退学モンの不正行為に、どっぷり手を染めています。胸の内で開き直っておいた。


「平穏平和の証拠だ。」

 父さんはのんきに、諭すように言う。

「退屈は何よりの贅沢だぞ。」

 ちょっと解るかも、それ。電話口の向こうへ愛想笑いをして、おいおい話を切り上げた。




 来週には顔を会わせるのに、長話がすぎたな。ドラマの再放送を思い出して足早にリビングへおりると、母さんが先にテレビを点けていた。チャンネルがドラマに合わせてある。


「予定、決まったの?」

 母さんは外行きの服装で、椅子にかけていた。僕は頷いて正面に座るなり、母さんの恰好をさして、のんびりしてていいの? と尋ね返した。


「ええ。身支度、意外と早く済んじゃって。」

 時間に余裕があるというので、一緒に画面を眺めた。


 ドラマの展開が、すでに中盤に差し掛かっている。

 ……この回、見たことあるな。視聴し始めてすぐに気付いた。


「お母さんも、そんな気がする。」

「シーズン8だよね、これ。好きだからいいけどさ。」

「わかる。特にこの話、好き。」


 そういう割にそこから、二人して視聴が雑になった。各シーズンの良し悪しや出演者について語ったり、ドラマと無関係の談笑を挟んだり。いつもの、親子の団欒に花を咲かせた。



 目の前で笑う母さんが、以前より若々しく見えた。



 もともと、どこか年不相応なひとではあったけれど、ここ最近は無理がない。血色もいいし表情も明るいし、そうとう安定しているのだろう。

 息子(ぼく)のこと、(ひので)のこと、自分のこと。このひとなりに、消化しつつあるのかもしれない。そりゃ父さんに近況報告できるくらいにもなるか。実感できた贅沢を、僕は噛み締めた。


「旭、すこし、いい?」


 母さんが声色を変えたのは、そんな折だった。

 膝を揃えて背筋を伸ばし、薄っすら口角を上げて唇をとじる。

 妙に改まったようすに、僕は「なに、こわい。」とふざけた。


「怖くはないけど、大事な話。」

「だいじ、」


 そう、大事な話。あのね、ほんとうに、今さらなんだけど。母さんの睫毛が伏せてゆく。机の下で指を合わせているのが、なんとなくわかった。



「離婚しようと思うの。」


 だろうな。なんとなく、予測できていた。



 「いつごろ?」「本当、今さらだね。」「父さんも同意してるの?」「父さんは何も言ってなかったよ、さっき。」………予測はできていたはずなのに、返す言葉が選べない。それどころか、余計な感情がふつふつと湧いてくる。

 なんで今言うかな、そういうこと。

 大事な話って自覚してんなら、ちゃんと時間作れよ。こんな、テレビ見ながらとか、出掛けにとか、どうなの、それ。頭のなかで、不服が贅沢を薄めてゆく。


「ひのでには、話したの?」

 口にしてから我に返った。

 まさかこんな言葉を選ぶなんて、僕もそれなりに、いちおう、動揺しているらしい。


「ええ。」

 まさかの返答に、動揺を通り越して瞼が固まった。


「ひのでは、お父さんが同意してるなら、(あたし)の好きにしていい、って。」

 このひとなら絶対、まずは僕に相談すると思っていたのに。

「お父さんも、子どもたちがいいって言うなら、いい、って。」

 僕に構わず母さんは続けた。今さらな遠慮をぶらさげて、手遅れな配慮をちらつかせる。

「だから、あとは…」

 とぎれとぎれの説明が、いっそう深くつまった。


 だから、あとは、(ぼく)だけってことか。


 目の前の母親が、以前より若々しい。血色がよくて表情が明るい。無理がない。

 安定している。心の底から、安定している。



「いいよ。母さんが選んで。」


 不服も贅沢もまるごとぜんぶ吹っ飛んで、笑うしかなかった。



 いつの間にかドラマが終わっていて、夕方のニュースが流れていた。画面の隅に表示された時刻を、母さんはちらりと見た。

「そろそろ出ないとやばいんじゃない?」

 僕はすっとぼけて言った。

「あら、本当だわ。」

 母さんもちゃんと、のってくれた。鞄を肩にかけて、鏡を覗いて前髪をいじる。夕ごはんはハヤシライス温めてね。あとサラダあるから。てきぱきと指示を残してリビングを出る母さんを、玄関まで見送った。


「………あ、旭は、」

 家を出る直前で、母さんはまた声色を変えた。



「お母さんに、ついて来てくれるわよね?」



 半開きのドアから夕焼けが射す。逆光のなかで振り向く母さんに、僕は薄く笑った。

「そんなこと心配してるの?」

 いってらっしゃい。……いってきます。微笑み返す母さんが穏やかだった。穏やかで、嬉しそうで、満ち足りていて、心の底から諦めるしかなかった。






 何を期待していたんだ、この母親に。僕は写真をかざして途方に暮れた。

 以前、思わぬ形で手に入れた、両親の結婚式写真。新郎新婦の二人は親きょうだいに囲まれて、この上なく幸せそうに隣り合っている。

 こんな現在(みらい)が待っているなんて、想像もしなかっただろうに。若い両親を憐れんだ。


 夫婦って、当事者にしかわかんないもんだしね。

 ……まあな。

 仲村との会話を思い出して、心のなかで呟く。


 夫婦はわからない。わかるのは難しいってこと。

 一緒になるのも、離れるのも、辛いのも幸せなのも、いちいち全部、難しい。

 でも、それでもうまくやってる夫婦のほうが多いわけだし、難しいからって、大変だからって子どもを巻き込むのは、筋じゃない。と言うのが僕の本音だ。自分の本音が見えてくると、しだいに、母さんに納得できなくなってくる。


 先ほどの満ち足りた笑顔が浮かんで、写真の中の花嫁と重なる。両方嬉しそうだけど、まったく別もの。僕は花嫁の母さんから、目を逸らした。

 逸らして、父さんを見た。燕尾服の父さん。今より痩せていて、髪は黒々している。来週、からかってやろう。なんならこの写真、持って行ってやろう。どんな顔するかな。



「……何にやにやしてんだよ、きもい。」


 顔をあげると、ひのでが冷めた目つきで見ていた。プリクラと鋏を手にして、絨毯であぐらをかいている。

 そういえば同じ空間に居たんだった。つい無防備に、にやけてしまったな。だってこいつときたら、プリクラを切り分けるのに集中していたみたいだったし。


「これさ、父さんと母さんの、結婚式の写真(やつ)。」

 にやけ面をごまかして、写真をひらひら振った。

「ひずるさんと、陽の?」

 ひのではすぐさま興味を示した。近づくなり有無を言わせず取り上げて、じっとみつめる。

「ひずるさん、若い。」

 やがて真顔で呟いた。うん、なんたって二十年くらい前のだし。僕も真顔で答えた。写真をみつめるひのでの睫毛が、ぱちりと動く。まばたき一回分なのに、化粧のせいかやたら目立った。


「陽、きれい。」

 ひのではもう一度、真顔で呟いた。綺麗か? 僕は鼻をふんと鳴らした。



「ドレス、いいな。」



 耳を疑った。なに、女みたいなこと言ってんだこいつ。思わず妹を凝視する。

 どう見ても、純白のウェディングドレスに「いいな」なんて言う柄じゃない。露出過度だし、目の周りは黒いし、爪はごてごてしてるし……ある意味、女を全面に出してはいるけれど。品性の問題だよな。そういう、乙女的な志向は程遠いよ、おまえには。山ほどの内心を飲み込んでこらえた。

 容易く口にできるほど、僕らの距離はまだ近くない。


「このひと、だれ、」

 何事も無かったように、ひのでは尋ねてきた。両親を囲む親族の一人を指している。


「『つきのさん』だってさ。」

 妹の指先にいる、やたらきれいで若い女のひとについて、僕は簡潔に答えた。

「誰だよ、つきのって。」

 当然、ひのでは聞き返してきた。

「知らね。母さんがそう呼んでた。」

「陽の友だちかな。」


 どうだろ。これ、親族写真っぽいけどな。「陽か、ひずるさんの、姉妹(きょうだい)、とか。」二人とも男兄弟しかいないだろ。結婚してんのは瀬田(せた)の伯父さんだけだし。ほら、奥さんはこっちのひとだろ。「瀬田家、なつかしい。」俺は去年法事で会ったけど。「私、受験だったし。」あー、そー。


 脱線しつつも会話は続いた。僕らにしては、かなり平和的なやりとりだ。


 殴る蹴るの喧嘩(正確には『殴られる蹴られる』だけど。)をしていたときと比べれば、兄妹仲はかなり進歩していると思う。自然と同じ空間にいるようになったくらいだし。だからこそ今の距離は、もどかしい。別に仲良くしたいわけじゃないけれど。


 ひのでは飽きずに写真をみつめている。

 そんな妹を、僕はまた凝視してみる。


 派手で、女くさくて、若さを謳歌した、十五歳。肉親でもなければ関わることのない人種だ。肉親だからといって、特別仲良くもないけれど。仲良くしたいわけじゃないけれど。それはひのでも、同じだろうけど。

 もどかしいな。夫婦が難しい以上に家族はもどかしい。この妹は、とくに。



「父さんと暮らすって決めたの、母さんが原因?」


 僕は少々やけくそにきいた。ひのでの睫毛がぱちりと動いて、視線を向ける。


「聞いてるんだろ、離婚の件。」

 会話の延長みたいな調子で続けると、ひのでも同じ声調で、「半分。」と答えた。半分ってなんだよ。さすがに頭をかいた。


「じゃあ、もう半分は?」

 懲りずに会話を続けてみると、ひのでまでなんだかやけくそに、

「おまえ。」と言い返してきた。

 はあ? 僕は思い切り聞き返す。

「おまえが、一位になったから。」


 一位って、期末? 確認すると、ひのでは長い睫毛を伏せて、頷いたのか無視なのか曖昧なしぐさを見せると、何事もなかったかのように写真を置いて、絨毯へ戻った。プリクラの切り分け作業を再開する。丁寧に鋏を入れるプリクラには、ひのでと百香が写っているのが遠目にもわかった。


「私がこの家出れば、モモカが住めるだろ、」

 鋏を動かしつつ、ひのではさらりと言った。

 百香? 住む?

「部屋空くし。」

 さっきから何を言ってるんだ、こいつは。

 話の流れに頭が追いつかない。妹の発言一つ一つに僕は眉をひそめ、首をかしげた。


「結婚するだろ、来年。」


 はあ? 今日一番、変な顔になった。


 結婚て誰が? 「おまえ。」誰と? 「モモカ。」は? いや、しないけど。「なんで?」なんでって……。


「来年で二人とも十八だろ。」

 いや、そういう問題じゃなくて……。


 話がてんでかみ合わない。混乱ばかりの僕にひのでは苛立ち始め、ついには手を止めた。

「昔、約束しただろ。私が小一で、おまえとモモカが小二のとき。夏休み。八月三日。」

 ひのでは、『約束』とやらの詳細を一つずつ挙げながら、詰め寄ってくる。


「覚えてねーよ。そんな昔のこと、」

「でもした。」

「小学生のときの話だろ、」

「でも約束だ。」


 かたくなに一歩も譲ろうとしない妹に、混乱を通り越して疲れてきた。

 そりゃ、ところどころ記憶の抜けた幼少時代、もしかしたら僕と百香の間に、幼子ならではの、ほほえましい婚約があったのかもしれない(考えたくもないが)。そしてその婚約を、この、図体ばかりでかい子どもは、不憫にも長年本気にしてきたのかもしれない。


 冗談じゃない、ばかばかしい。

 疲れ果てて僕も苛立ち始めた。くだらない。(ぼく)より何倍も何十倍も何百倍も賢い(おまえ)が、そんなくだらないことでむきになるな。


「くだらねえ。」

 呆れかえって吐き捨てた。


「くだらなくなんかない。」

 すぐさま、ひのでは食ってかかる。


 反射的に身構えた。すり込まれてしまった、情けない条件反射。だけど、ひのでは殴りかかってこなかった。拳も握らず、鋏とプリクラを持ったまま腕を下げている。ただ、形相だけはおだやかじゃなかった。



「………旭は、ずるい。」



 黒く縁取られた大きな目が、睨みつけてくる。長い睫毛が、音をたてるようなまばたきを二回繰り返して、俯いた。そのまま不気味に黙り込む。


「なに、そんな、まじにならなくても、」

 僕は、視線の合わなくなった妹を持て余した。この敵意は、今までのどの敵意よりも扱いに困る。殴られたり蹴られたり胸ぐら掴まれるほうが、ましだと思うなんて。

 後ずさろうか、顔を覗き込もうか、悩んでいるうちに、ひのでは低く呟いた。


「なんでおまえなんだよ、」


 声がいつもの威圧とまるで釣り合っていない。かぼそい恨み節を、僕はきちんと拾った。


 妹は続けた。

 私のほうが強い。頭もいい。足だって速いし、字も上手い。おまえなんかより、ずっと、なんだってぜんぶ。……なのに、ずるい。ずるい、ずるい、ずるいずるいずるいずるい。連呼するほどに声を荒げる。だんだん、幼くなってゆく。恨み節は、いつしか子供の駄々になっていた。



「妹になんて産まれたくなかった。」

 幼い罵倒の末で妹は叫んだ。



 それはこっちの台詞だ。怒鳴ってしまいそうになって、唇をかみしめた。

「どうしたんだよ急に。落ち着けって、」

 兄妹揃ってぶちまけてしまっては、おしまいだったから。僕は冷静に、警戒しながら妹をなだめた。


「俺もさ、言い方悪かったし、まあ、結果的に、その、約束っての? 破ったわけだし、気に障っただろうけど、ほら現実的に、ありえないだろ、そういうの。」

 ことば切れ切れのみじめな対処。でもたぶん、唯一の方法。なりふり構っていられなかった。妹とのこれまでを水の泡にしたくない。


「百香にだって迷惑だろ、結婚なんて。」

 水の泡にしたくない。関係を、距離を、もうこじらせたくなんかなかったのに。


 穏便を望む僕を、ひのでが許すはずなかった。顔をあげて睨みつけ、鋏を握りなおす。



「……アメミヤイトコか、」


 刃先を向けて、僕に問う。



「モモカちゃんよりあいつを選ぶのか、」

 牙をむく妹を前に、足が動かない。視線を外せない。これは恐怖ではなくて、諦めかもしれない。

 もう無理なのかな。……無理なんだな。どっちにしろおしまいなんだな。頑張っては、みたけれど。僕なりに。



 妹の腕が揺らぐ。

 スローモーションのようにみえたのは、まやかしだ。


 まばたきの合間で、鋏が目にも止まらぬ速さで僕をかすめた。

 間一髪で避けたものの、妹の敵意はやまない。



 モモカちゃんの物にならないおまえなんて、いらない



 妹が声を荒げる。体勢を直し、再び刃先を向けて僕を睨む。



 許さない。おまえたちふたりとも許さない。いらない。いらない。いらないいらないいらない


 敵意で固めた呪いを連ねる。



「おまえもアメミヤイトコも―――――」

 妹が怒鳴っていた。呪いの言葉の途中だった。



 彼女の声がやむ前に、僕の右手は突きたてられた刃を掴んでいた。

 そして左手は、一瞬の隙をみせた妹の頬を、音をたてて引っ叩いていた。



 妹がぐらりと崩れる。

 鋏が床に転がり落ちる。

 ひのでは頬をおさえて呆然とした。


 髪を乱した妹を前に、僕は我に返った。微かに痺れる左手と沈黙した妹を、何度も見返す。




「……ひので、」



 何も考えられずに名前を呼んだ。

 乱れた茶髪が妹を隠す。表情を窺うより先に、ひのでは背を向けた。気力の抜けた身体で鋏を拾う。


「ひので……?」

 止まったまま動かない。拾った鋏を、ただただ眺め俯いている。


 そしておもむろに髪を束ね、刃を入れた。


 後ろ髪、右側、左側と、無造作に何度も束ねては、じゃきり、じゃきりと、躊躇いなく断髪してゆく。その様子を僕はあっけに取られて見ていた。



「………わたしが、」


 足元に、切り捨てられた茶髪が散らかってゆく。



「私がおまえだったらよかったのに、」



 変わり果てた姿でひのでは振り向いた。








 幼馴染に言わせれば、僕は、『男女差をわきまえた』『こよなくめんどくさい男』のはずだった。そんな評価も今日までだったなと、頭をかかえる。


 左手から、妹の感触が抜けない。


 平手のとき、頬の皮膚がやたら薄っぺらく感じた。

 衝撃で、ひのでがよろめいていたような気もする。

 妹の、女のかよわさを思い出すほどに、吐き気がした。

 殴ってしまった、人を。妹を、殴ってしまった。


 あれは防衛だったのか。それとも手段だったのか。後悔の間隙で考察しても、しっくりくる答えが出てこない。たとえどんな答えに辿り着こうと、僕が暴力を振るったという事実に変わりはない。

 僕ら兄妹が、今度こそ取り返しのつかない域に、達してしまったことも。



「もしかして、参ってる?」

 騒動からしばらくして、案の定、百香が駆けつけた。

 とはいえ、駆けつけて来た時点では事の次第を把握していなかったらしく、まずは百香側に起きた異変から説明してくれた。


「こんな時間にひのでがやってきた。」「髪が短くなっててびっくりした。」「ほっぺが腫れてるし、様子もおかしい。」「とてもあれこれ聞ける雰囲気じゃない。」……以上の事柄から、真っ先に(ぼく)とのいざこざを察するあたり、相変わらず厄介な女である。


 僕は観念して、いざこざがあったことを認め、手をあげてしまった事実を告白した。さすがに、騒動の発端までは口にできなかったけれど、百香はそこまで深く追及してこなかった。どうやら彼女の目には、僕がそうとうへこんでいるように映っていたらしい。


「けっこう、参ってる。」

 実際、僕はへこんでいた。

「うわ、素直。重症だねー。」

 咎めず、深刻にもならず、あえて茶化すようにふるまう厄介な優しさを、久しく痛感した。

「ひので、どうしてる?」

 その優しさに甘えて聞いた。

「あっちも重症。もう絶対帰らないって。」

 百香は包み隠さず笑ってすぐ、だいじょぶだよ、と付け加えた。

 だいじょぶって、何が大丈夫なんだよ。僕はますますへこみながら机に伏せた。


「こんなの、ただのきょうだい喧嘩だもん。」

 百香はあっけらかんと言った。


「ただのってなんだよ、」

「ただの立派なケンカ。」

 矛盾してないか? してないよ。百香、すっごいテキカクだもん。百香は得意気に言い切って、人差し指を立てた。


「言い合いになって、旭が叩いて、ひのでが拗ねて、旭はへこんでるんでしょ? ふたり揃って怒って、ふたりとも嫌な気持ちになってるなら、立派な喧嘩だよ。」


 なぜか嬉しそうに謎の理論まで唱える。


「ひのでは、旭を殴って意気消沈なんて無かったもん。一度も。」

 その情報はいらなかったな。……っていうかあいつ、今まで罪悪感無しかよ。眉間に皺を寄せると、百香はおかしそうに笑った。


「ほらね、だから、今までのは喧嘩じゃなかったんだよ? 成長したじゃん、お兄ちゃん。」

 笑いながら念を押す。

「暴力ふるって、褒められることなんてないだろ。」

「わあ、こよなくめんどくさーい。」


 話しているうちに、じゃっかん気が軽くなってきた。それが百香の手腕によるものと考えると、きまり悪くもなった。彼女は僕と妹の諍いの原因を、知らない。


「へこむのはさ、ひのでが可愛いからだよ、」

 何も知らずに、そんなことを言う。

 かわいくねーよ。僕は拗ねた。可愛いじゃん。百香は優しく反論する。賢いのに、ずっと子どもみたいで、手がかかって、可愛い。彼女の挙げる妹の「可愛い」ところは、どれも否定のしようがなくて、ますますきまり悪くなった。



 百香は、ひのでと僕との、『約束』とやらを覚えているのだろうか。覚えているとしたら、当時の僕と今の僕とを、どう捉えているのだろう。とても聞き出す勇気は無い。



「……なんで、あんなことしたんだろうな、髪。」

 雑に話を変えた。

「ずいぶん思い切ったよね。」

 百香はすんなり話に乗って、明日にでも行きつけの美容院に連れて行くと、提案した。贔屓の美容師を紹介するので、出来上がりは保証するという。


「だいじょぶだよ。ひのでは可愛いもん。」


 だから何が大丈夫なんだよ。かわいくねーし、全然。僕はまた机に伏せた。


 百香がスマホをいじっている気配がする。たぶん、ひのでへの連絡だ。

 きっと彼女は、僕にも言った「だいじょぶ」を、ひのでにも送信しているのだろう。幼馴染ってだけで、ご苦労なこったな。きょうだいなのは、僕らなのに。



「あいつさ、未熟児だったんだって。」

 伏せたまま僕は言った。



「予定より、一ヶ月も早く産まれてさ、身体弱くて、よく病気したんだって。」

 語りながら顔をあげると、百香と目が合った。スマホを降ろして、まっすぐ僕の話を聞いている。僕は続けた。


「俺は、でかい赤ん坊で、病気どころか熱もほとんど出さなくて、手もかからなかったって、聞いたんだ。……その、母さんから。」


 どうしよう。話の切り上げ方がわからない。


「えっと……なんかさ、昔っから、正反対だったんだよな、俺たち。」

「写真とか無いの?」


 唐突に百香は口を挟んだ。にこにこと小首を傾げている。


「赤ちゃんの旭とひので、見てみたい。」

 席を立って無邪気に手を引く。つくづく、こいつには敵わないと、なかば降参しながら、軽くなった腰を上げた。






 押入れの奥からアルバムを引っ張り出す。最初に開いた分厚い一冊目は、就学前くらいのアルバムだった。赤ん坊のころのは、もっと奥か。身を低くして手探りする僕を差し置いて、百香は写真を見ながらはしゃいだ。


「なつかしー。これ、動物園のじゃん。百香も映ってる、」

「その頃のは、たいていおまえも写ってるよ。うち、おまえんち以外友だちいなかったし。」


 次に取り出した二冊目は、小学生時代の物だった。これもハズレか。押入れの更に奥へ目を凝らすと、箱カバー付きの、それらしい一冊が見えた。ほこりを掃いながら手を伸ばす。


「旭とひので、分けてないんだね、アルバム。」

「年子だから面倒だったんだろ。……よいっしょっと、」


 やっとのことで引っ張り出した箱には、僕とひのでの生年月日が記されていた。これに違いない。箱をあけると、最初の分厚い二冊とは異なり、薄い冊子のアルバムが、何十冊と重なっていた。

「なんか、面白いまとめ方だね、」

 確かに。なんでこんな小分けにしてるんだ。


 冊子を開くと読み通り、乳飲み子の僕と妹が写っていた。百香が「かわいい」と声をあげる。

 何十冊とあるどれを開いても、もれなく赤子の僕らが、分けられることなく納まっていた。


 ひのでは、本当に小さな赤ん坊だった。

 赤ん坊なんて、たいして見る機会ないけれど、それでも標準より繊細なのが判るくらいに。比べて、僕はずいぶんしっかりした赤ん坊だった。重量感があって、髪なんてふさふさだ。


「旭、まんまるだね。」

 百香も笑いながらそういった。

 二人で次から次へと、薄いアルバムを開いた。

「かわいいね、」んー。「これなんて、目、くりくり。」んー。「ほんとはけっこう似てるね、ふたり。」……んー。感想を言うのは百香だけで、僕はそれに対して相槌をうつのみだった。



「? ねえ、旭。これって、」


 百香が突然、感想以外の声をかけてきた。

 他の冊子とはつくりの違う二冊を手にしている。一番底にあったらしい。


「母子手帳……?」



 二冊を見比べるなり、百香の顔色が変わった。

 驚くような、戸惑うような複雑な表情に、僕は首を傾げる。


 なんだよ、どうしたんだよ。呼びかけに、百香は黙ったまま視線だけ向けてくる。表紙を僕から見えないようにしている。

「かせよ、」

 問答無用で僕は取り上げた。


 奪うなり、彼女の表情の意味がわかった。また厄介な優しさを痛感した。

 表紙の違う二冊の母子手帳。一冊は、僕の物だった。



『東京都北区 母子健康手帳 皆口旭』



 間違いなく、『僕』の物だ。

 そしてもう一冊。


 それは、ひのでの物、ではなかった。




『愛媛県今播市 母子健康手帳 名塚旭』



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