13 月灯
※※※2021/3/21より、本作の大幅改稿版『最愛なる猛毒、致死量の慈愛。』を連載しております。大まかな展開は変わりませんが、【演出】【構成】【台詞】【一話あたりの文字量の改変】等、読みやすさを重視した改稿となっており、また、本作では描かれなかった【糸子と星史のはじまり】を書き下ろしております。読まれる際には改稿版のほうを強くお勧めいたします。※※※
みなぐちくん、
真夜中だと思った。空気が澄んで、静寂に息が詰まる。瞼をあけても、まだ暗い。
あらゆる要因が夜を告げる。でも、夢か現実かが定かでない。
「みなぐちくん、」
仲村が、座って見おろしていた。
顔がよく見えない。常夜灯を点けていたはずなのに、真っ暗だ。
やっぱり夢だろうか。こいつだって、布団で寝ていたはずなのに。
「きみは、ほんとうに皆口くん、なのかな、」
人影だけの仲村が、ゆっくりと言った。
「産まれたときから、ずっと、みなぐち あさひ、なの、」
静けさのなか、蚊の鳴くような声がよく響く。表情が確認できないぶん、耳が敏感になっているのかもしれない。
仲村? 曖昧に彼を呼んだ。
「セージ、」
声が返ってくる。
「星史、だよ。」
カーテンの隙間から光が射して、模様をつける。弱い、光だ。
「おれが、産まれたときから、変わらない、なまえ。」
おもむろにカーテンを開いた。窓いっぱいに光が射し込む。光は、青白い。人工の電灯よりも、太陽よりも、まだまだか弱く、おぼろげに彼を照らした。
「きみもそうでしょう、旭くん、」
………月あかりだ。
久しく百香が買い物に誘ってきたのは、期末試験が来週に迫った放課後だった。一応特進の生徒でありながら、彼女はどうも意識が低い。
「たった一日、しかも二時間程度。影響無いもん。」
それが言い分である。
「糸子ちゃんがね、もうすぐ誕生日なの。」
物色中に本日の目的を告げられた。雑貨屋を中心にはしごして、商品を手にとっては戻すを繰り返す。なかなか納得のいく物はみつからないらしい。
「旭も何か考えてよ。そのために連れてきたんだから、」
身勝手な人選だな。不本意ながら、渋々商品を眺めた。女の喜びそうなものなんて、これっぽっちもわからない。ましてや雨宮の好みなんて。
「だって、もともと糸子ちゃんと仲良かったのは、旭のほうじゃん。」
百香はいうけれど、そこはけっこう込み入った複雑なところだ。ここ最近は、特に。
仲村との距離が縮まるにつれ、雨宮への執着が薄くなってゆくのを、感じていた。
今の僕はたぶん、彼女を、雨宮糸子を見ないようにしている。それは垢抜けた彼女に嫌気がさしたとか、彼女を僕の知る雨宮と認められないとか、そんなセンチメンタルな理由じゃなくて、単純に僕の要領の悪さの問題だ。
仲村を受け容れつつある心境で、雨宮と以前のような関係を築ける自信が無かった。
雨宮とは、もうただのクラスメイトだ。もっといえば『幼馴染の友人』。彼女からしても僕は、『友人の幼馴染』なのだろう。最近は、百香を介す程度にしか口を交わさない。
完全な他人に戻るより、関係は破綻しているかもしれない。
反対に、仲村とは以前より行動を共にするようになった。最初の訪問以降さらに二回、泊りにも行った。いずれも彼の両親が留守の日で、明け方まで起きてたり、遊び歩いたりして、接し方もよりフランクに、腹の底から笑う場面も増えた。
これ以上、欲張るもんじゃない。
現状に不満は無い。生活に不備も無い。今ここで、下手に手を出したら壊れてしまう。
例えばまた僕が雨宮に接近して、それを仲村が寛容する保障なんて、無い。また見たくない彼らを目にしてしまうかもしれない。
新しく完成した今を、手放すことになるかもしれない。それだけは避けたかった。
この日常を続けるかぎり、もう仲村が暴虐に走ることはない。もう雨宮が、ゴミのように扱われることもない。
いつか、仲村にひのでを見た。
雨宮に、僕を見た。
くだらない。僕は仲村と接することで、妹と和解した気になっている。
雨宮が平穏無事に過ごすことで、自己愛をまっとうしている。それでいいやって、思い始めている。
ぜんぶ要領の悪さの、いいわけかもしれないけれど。
「ねえ、これなんてどうかな、」
さっきから繰り返し百香は聞いてくる。ペンダント、髪留め、リップグロス、ぬいぐるみみたいなクッション。今度はピアスだ。雫を模したデザインをしている。
「雨宮って名前に、ぴったりじゃない?」
「あいつ、ピアスあけてないだろ、」
「やってみたらってオススメしたら、まんざらじゃなかったもん。」
変なこと奨めんなよ。ピアスを取り上げて棚に戻した。頑固オヤジみたいだと百香が笑う。彼氏ヅラってより、オヤジヅラだよね。いちいち二回言う。
「いっそ、ピアッサーごとプレゼントしちゃおっかな、」
ばか、ふざけんな。慌てて制止すると、三回目のオヤジ扱いを受けた。
「今どきふつうなんだけどなー、こんなの。」
そういう百香の両耳には一つずつ、ピアス穴があいている。高校に入ってからの、まだ歴の浅い穴だ。ひのでみたいなのとつるんでいるのだから、女子という性質上、中学くらいからあけていても不思議じゃないのに、変なところで真面目な女だと思う。でも、それとこれとは話が別だ。
「体に穴あけるとか、考えられない。」
率直な意見をのべた。
「オヤジさん的には、「親から貰った大事な体を~」ってやつですか?」
百香が真面目くさった口調で聞いてくる。ちっげーよ、ばか。
「耳に針刺すとか、絶対痛えじゃん。しかも、傷口飾るとか怖すぎ。」
「せっかく痛い思いしたんだから、飾るんじゃん。」
何食わぬ顔で百香は言った。今度はさも真面目だ。はあ? 僕は訝しんだ。
「ほら、出産と同じだよ。」
なお理解不能だ。頭上に疑問符を浮かべる僕を放置して、百香はまた、ピアスを物色しだした。あっ、これかわいー。たぶんプレゼントと関係無い物色である。
柵状の棚一面に陳列されたピアスは、正直どれも同じに見えた。どれも雨宮に似合いそうにない。
「もう時効だから言うけどね、ひのでの最初のピアスあけたの、百香なの。」
一瞬止まって百香のほうを向いた。
のんきに、両手に商品をとって見比べている。
「最初って、小5ん時の?」
僕はやがて聞いた。
「うん。」学校のトイレで? 「うん。」あっさりとした答えが返ってくる。
「なんでまた、」
僕は眉間に皺をよせた。
百香は、んー……と、またのんきに考え込んだ。
「女の子って、色々あるものなの、」
いろいろ……。うん。いろいろ。それ以上説明してくれそうになかった。
消化不良な疑問が残る。
なんで百香が、そんなことをしたのか、はたまた、ひのでがさせたのか。当時の二人に、どんな契約が交わされたのか。「女の子」とは、百香なのか、ひのでなのか。いろいろ、の、なかみとは。
「めんどくさいな、女って。」
考えるのを放棄してぼやく。
「男もたいがいだよ。」
まさかの反撃に、ぐうの音もでない。
「特に旭は、秀でためんどくささだよね。」
反撃は平然と続いた。彼女からすれば、攻撃でも反撃でもないのだろうけど。
散々悩んだ挙句、やっぱりあっちのお店にしようと、次の店舗へ向かった。
ここでもまた百香は商品を見比べ始める。隣で、僕も陳列棚に手をのばした。
「具体的に、どんなところ?」
一緒に探すふりをして聞く。
「なにが?」
「俺の、秀でためんどくささ。」
言い回しをそのまま使う。百香は無遠慮に、「いっぱいあるけど、」と前置きした上で、
「一番は、ひのでに絶対手をあげないとこかな、」と答えた。
まさかの返答に、僕は口を開けたまま固まる。
百香はお構いなしに続けた。
「喧嘩になっても、ボロクソ言われても、一方的にボコボコにされても、絶対殴り返さないよね。そういう男女差をわきまえてるところ、こよなくめんどくさい。」
独特な言い回しが、褒めているのか貶しているのかを曖昧にする。
「いや…いやいやいや、単純に太刀打ちできないだけだから、」
なんにせよ全否定した。あいつの蹴り、食らったことないだろ? ほんと一発で息できなくなるから。女の力じゃないし、反撃する余裕なんて無いから。
「本気で言ってるの?」
百香は少し、怪訝な顔をした。
「旭が本気で喧嘩したら、ひのでだって敵わないよ。女の子だもん。」
すっぱりと言い切る。また口を半開きにしていると、今度は慎重に顔を覗き込んできた。
「ちっちゃいころさ、ひのでと喧嘩して怪我させちゃったの、覚えてる?」
全然記憶にない。間髪いれず返事した。
「あったよー。旭ってば、ひのでより大泣きしてたもん。」
百香の思い出話は、僕からきれいに消えていた記憶だった。
ひのでが小学生になったばかりのころ、僕たち兄妹は喧嘩をして、僕はつい妹を突き飛ばしてしまった、らしい。
ひのでは、花壇の石積みに背中を打って、怪我をした。服に血が滲んで、慌てて病院に駆け込んだけれど、幸い大事に至らなかった。ひのでも、怪我が見えない箇所だったせいか、けろっとしていたのに、僕はずっとわんわん泣いていた、らしい。
「あれに懲りたんだって思ってた。」
百香は含みのある呟きのあと、すぐにまた陳列棚に向かって、かわいー、を連呼しだした。
並んで、一緒に商品を眺めた。硝子のフォトフレーム、持ち手が猫の形をした傘、お菓子みたいな置き時計。
華やかな自己主張のなか、一本のボールペンに目が留まる。
「これがいいんじゃないか、」
濃紺と白銀の、シンプルなボールペン。
「なんか、あいつっぽい。」
機能性重視で、華が無くて、無駄に小奇麗で……。
眺めたまま立ち尽くす僕の手から、百香は奪うようにペンを取り上げた。
「ほんっと、めんどくさい。」
レジが混んでいたので、店の外で待つことにした。ほどなくして会計を終えた百香が戻ってきて、帰る前にアイスをせがまれた。今日付き合ってあげたのは、僕なのに。
本末転倒だ。件の思い出話がへばりついて、混乱させる。
暴力が嫌いだ。怪我をさせるのも怖い。こんな僕にした原因はひのでだと思っていたのに、僕自身、ひのでに怪我を負わせていたなんて。いったい何に怯えていたんだ、僕は。
期末が近づく数学の授業。内容がまったく入ってこない。重要な時期に、厄介な話を聞いてしまったものだ。
今、何ページだ? さっきのところ、もう黒板が消されている。まだ写してなかったのに。周囲を見渡すと、みんなノートじゃなくて問題集にペンを走らせている。そっか、こっちか。盗み見たページを捲ると、懐かしいものが目に飛び込んできた。
蛍光色に図々しく並ぶ数字。雨宮の電話番号だ。
割り込むように、あの日の記憶が蘇る。詰まらせた声、虚勢を張った態度、慌しい退散。想定外に手に入れた連絡先。残された部屋で、なかなか元に戻らなかった、にやけ顔。
……ただでさえ混乱しているのに、出てきてくれるなよ。
真面目に授業を受ける彼女の背中に、訴えかけた。
小奇麗に結われた三つ編みを、長いこと見ていない気がする。遠い昔みたいだな。月日なんて、たいして経っていないのに。
問題集を捲っただけの状態で、終礼が鳴った。
期末を控えた放課後は、ひと気が引くのが早い。
閑散を待ちわびて、映写室へ足を運んだ。なんだか久しぶりだな。パイプ椅子に寄りかかって、部屋中を見渡す。
相変わらずいい隠れ家だ。空調は整っているし、外からの音は聞こえないし、この狭さもちょうどいい。一人だとちょっぴり広いけれど。
気が済むまで見渡して、目を閉じた。また、無駄に考える。
ここに彼女がいないのは、平穏を生きている証拠だ。
友人に恵まれ、地位を得て、容姿を着飾り、若さを謳歌している証拠。
そして、もう踏み躙られることもない、証拠。
僕に関わらなければ、暴虐と関わらなくていいんだ。最高の結果じゃないか。見ていたんだから、彼女を。
見ていたんだ。雨宮のなかに、僕を。
一方的に、虫けらみたいに、手も足も出なくて、身体じゅうに傷を作って。その姿が、ひのでに負かされる自分みたいで。だからだと思っていたのに。
何に怯えていたんだ。誰を満たしたかったんだ。真実がみえなくなってしまう。平穏が、こんなにも忌々しい。
僕は今、空っぽだ。殻みたいな身体は頼りなくて、すかすかする。
すかすかに、生きている。
甘いにおいに触れて瞼をあけた。妹と、同じにおい。
期待と疑いが誘う。
抗うな。きっと、来ている。いつもそうなんだ。願いすぎると来てくれるんだ、彼女は。
まぼろしみたいに。
「……雨宮、」
入り口で佇んでいる、長い黒髪と薄化粧。短くなったスカートに、大きめのカーディガン。
懐かしい空間の、懐かしい再会に、新しい彼女が現れた。
何か声をかけないと。僕は言葉を捜した。頭ん中の、ありとあらゆる引き出しをひっくり返しても、気の利いたものが出てこない。
「丁度良かったわ。」
先手を打つように雨宮は口を開いた。身じろぐ僕の手を掴んで、何かを握らせる。
「これ、期末の答案。」
やっぱり、今回も動いていたのか。渡された物が新しいUSBメモリだと確認すると、彼女の暗躍にため息が出た。
「仲村の命令か、」
聞くと、雨宮は首を振った。
「あたしの意思。」
「うそつけ、」
「本当よ。あたしの行動は、全部自分の意思。」
気丈に言い切る。空気が張り詰めた。
「もうあの変な喋り方、しねえの?」煽るようにくだけた。
「お望みならそうするけど、」雨宮は冷たく言い放つ。
「それも、おまえの意思?」
また張り詰めた。お互い、凍ったみたいに睨み合う。
何か言ってこいよ、いつもの豊富な悪口。心のなかで挑発した。
こっちだって、たまには言い返してやるから。おまえ、全然似合ってねーから、その髪型。化粧、下手だって、ブスだって言ってたから、うちの妹。反撃の準備はいくらでもできていた。
次の瞬間、雨宮は逃げ出した。
驚いている間にも足音は遠ざかってゆく。
「―――ッの野郎……!」
後を追って廊下へ飛び出した。
だいぶ小さくなった背中めざして、全速力で走る。
距離はあっという間に縮まった。
「なんでついてくんのよっ、」
走りながら雨宮は叫ぶ。
「なんで逃げるんだよっ、」
僕はお構いなしで追った。
「あんたが追いかけてくるからでしょ!」
「おまえが逃げるからだろ!」
校舎内を慌しく駆け回る僕らは揃って滑稽で、まるで回し車で遊ぶハムスターだ。現に、僕はちょっと遊んでいた。
雨宮の逃走なんてほとんど無駄な足掻きで、あと少し本気を出したら容易く追いつきそうだったから。限界寸前なのか、もう息が切れている。必死で逃げる余裕のない彼女を、いくらでも眺めていられる気がした。
甘いにおいに鼻がなじんで、どうでもよくなってゆく。
教室を終着点に、彼女の逃亡劇は幕を閉じた。座り込んでぜえぜえ言っている。体力もないくせに無茶するからだ。一足先に呼吸を整えて、隣に座った。
「似合ってねーぞ、髪型。」
からかってみる。
「う……うるさいわね。」
「化粧、下手だな。」
うるさいわね。まだ息を切らしている雨宮がとことん滑稽で、笑えた。
「スカート、短くね?」
意地の悪い僕が始まって、裾を摘んで捲る。即座に雨宮の手が制裁を加えてきた。
「訴えて勝つわよ、」
ひっぱたかれた部分をさすって、また笑った。けっこう大声で笑った。雨宮は目を据わらせて、変な顔で黙っていた。教室に僕だけの声が響いて、通りかかった教師に早く帰るよう、注意された。
「ご苦労なこった。」
USBをかざして、あきれながら言った。雨宮はふんと鼻を鳴らす。さすがにもう走る気力も体力も残ってないのか、おとなしく歩いていた。
「おまえは何がしたいわけ、結局。」
隣を向くと、雨宮が不機嫌に「は?」と眉をひそめた。
「だからさ、こんなリスク冒してまで俺の成績上げて、なんの意味あんの。」
続く質問に、更に機嫌を悪くした。
「つけあがるんじゃないわよ。あんたじゃなくて、セージさまのためよ。」
またそれか。僕は頭をかいた。
わかってはいたけれど、いや、わかっているからこそ、いつも話が進まない。この隷属性や心酔ぶりが、さも当然のように彼女は振舞うけれど、根本は未だ明らかにされていない。それさえ判明すれば、もしかしたら納得も協力もあるかもしれないのに。一度たりとも、何も説明してくれない。
「今、セージさまが一番喜ぶのは、あんたが順風満帆に過ごすことなのよ。」
雨宮は尚も、尽くすことだけを口にする。
「それのどこが自分の意思なんだよ、」
僕は先ほどの彼女を蒸し返した。
否定してたけど、結局命令こなしてるだけじゃん。要は言われるがまま動いてる、そんなの、意思じゃないだろ。きびしめに追及しても、雨宮は確固として態度を変えない。
「意思よ。あたしは自分の欲望をまっとうしているだけ。」
欲望、ねえ。苦笑まじりに呟いた。
似つかわしくない発言だな。物欲とか無縁そうなのに。まあ、最近は、それなりに女子高生のかたち、しているけれど。改めて観察していると、視線が合うなり素っ気ない表情が睨んできた。あ、やっぱり、こいつはこいつだ。
「アイスでも食って帰る?」
話を捻じ曲げた。
「………なんでよ、」
「暑いし。奢るからさ、な、」
「お断りよ。」
「あっそ。じゃあこれ捨てよっかなー、」
USBメモリを握ったまま歩道橋から腕をのばすと、雨宮はわかりやすく慌てふためいた。
「なに考えてんのよバカ、」
身を乗り出して阻止しようとするが、身長が足りなくて危なっかしい。
「今回そうとう自信無いからなー。三桁かも、順位。仲村失望するだろうなー。」
雨宮が落下しないように、支えつつ煽る。
「わ、わかったわよ。奢られてやるわよ、」
観念してくれたところで、USBを胸ポケットにしまった。
「……ハーゲンダッツよ、イチゴ味。」
ふて腐れながらも、ちゃっかり要求してくる。
サーティワン近いからそっちにしてよ。「さあてぃ?」
苺のもあるからさ。しかもチーズケーキ入り。「……なんだっていいわよ。」
そのわりには足早に、歩き始めた。
カップ入りのアイスを買って、屋外席に座った。夕方がまだ明るくて、近くの噴水周辺では子供たちが遊んでいる。日の入りが涼しくならない季節になったな。
「うまいな、」
冷たい甘さを堪能しながら感想をふった。雨宮はスプーンを加えたまま頷く。
「暑いもんな、」
続けて感想をふっても、頷くだけで黙っている。
「その恰好さ、暑くないの、」
今度は指摘してみた。
「恰好、って、」
「カーディガン。それに髪、暑っ苦しいだろ。長いし黒いし重いし。」
無遠慮に述べる僕を、雨宮は「余計なお世話よ。」と一蹴する。
前のほうが絶対いい。戻せよ。「あんたの意見なんて聞いてない。」意見じゃなくて好みだけど。「余計どうでもいいわよ。」ちなみにそのセンス、百香の影響? 「んなわけないでしょ。」あーイトコちゃん、色気づいてきたんだ? きもちわる。「黙れ無能。」
淡々と、無遠慮をぶつけ合いながらアイスをつついた。相変わらず無視が下手な雨宮は、毒づきながらも律儀に返事をする。これが喧嘩にならないのだから、こいつとは面白い。
「周囲に馴染むためよ。そうすれば、あんたとありきたりな距離をとっても、不自然じゃないでしょ。セージさまは、それを望んでる。」
とたんに水を差された。行き着く場所は結局そこかと、げんなり頬杖をつく。
じゃあ何か、おまえは仲村のためだけに、暑っ苦しい髪型して、手間掛けて化粧して、わざわざコンタクトに代えて、しかたなく百香と仲良くして、クラスの連中にも愛想振りまいてるわけだ? それが全部、自分の意思だの欲望だの言うんだな? 僕はひと息に、なげやりに言った。
「そうよ。」
雨宮は即答する。
「あのひとのために動くのが、あたしのすべてだもの。」
語調がいつもどおり素っ気なかった。
啖呵を切っているのでもなく、誇らしげでもない。いつもの、僕と会話をする雨宮のままで、どうにも複雑だった。手元のアイスも順調に減っている。僕は大きな一すくいをほおばって、溶ける前に飲み込んだ。
「殴られたり、罵られたり、そんなのが意思なのかよ、」
冷たさが体の中から拡がって、寒気がした。浮かんだ鳥肌をさする。
「理解できないでしょうね、」
食べるのに集中していた雨宮が、急に顔をあげた。噴水のほうを見ている。
つられて同じほうを向くと、噴水の淵でふざけていた子供が、オモチャを落として泣いていた。
別の子供が、服のまま噴水内に侵入して、オモチャを手にずぶ濡れの姿で帰ってくる。泣きっぱなしの子供を宥めつつ、二人はその場から去っていった。
「あたしの盗み出した答案で、あのひとは優等生になれるわ。」
一連を傍観した終わりに、雨宮は静かに言った。僅かに残っていたアイスが、ほとんど液状になっている。口に運ばず、カップのなかをスプーンでかき回した。
「あたしを汚く罵れば、あのひとは誰の前でも笑える。不満も、嫌悪も、苛立ちも、あたしを踏んで、ぜんぶリセットできるの。」
混ぜるほどにアイスは原形を失ってゆく。
白とピンクが溶け合って、カップの内側を汚した。
ぐちゃぐちゃ、ぐちゃぐちゃと、手なぐさみでかき回す。
「仲村星史は、ぐちょぐちょで汚いあたしが、仕立てているのよ。」
言い終えて手を止めた。
内側がやたら汚い、空のカップを持ったまま、ぼんやり黙った。目を開けたまま眠っているような彼女を、僕もおとなしくみつめた。頬杖をついてため息をおとす。
……あれだけ邪険にされて、一途なもんだな。感心と小ばかの間くらいで呟いた。当然でしょ。あたしはあのひとの、不要な好意だもの。自負するように雨宮は言う。
「セージさまがあたしの物にならなくても、あたしの全部が、彼で埋まればいいの。」
すっと立ち上がって、スカートを軽くはたいた。短い裾がきわどく揺れる。
長居しすぎたわね。そう言われて、空の色が変わり始めていることに気づいた。送ってくよ。電車、混んでるだろうし。鍵を振りながら提案する。
「当然でしょ。」
ふんぞり返って雨宮は言った。
久しく彼女を乗せて走った。いつかと同じく胴にしっかり抱きついて、太腿も胸も密着させているのに、申し訳ないくらい、性的な気持ちが沸かない。どんなに着飾っても、色気ってのは無い奴には無いんだな。笑いをヘルメット内に留めて、貴重な今を噛み締めた。
家がもっと遠ければいいのに。
気付かれない程度に速度を落としてみたけれど、流れる景色はあんまり変わらない。遠回りしたらばれるかな。どうしようもない思惑を胸に、帰路を走った。
走っているうちに、ひのでのことを思い出した。
雨宮がブスだと、むかつくと、嫉妬していたひので。それでも、百香が喜ぶのならと、拗ねていた妹。残念ながら似たようなもんだな、おまえと。
「……雨宮、」
走りながら彼女を呼んだ。ヘルメットと風に遮られて、声が届かない。
景色が、彼女の家へと近づいてゆく。空の色が濃くなってゆく。
薄く浮いていただけの月が、光を放ち始めた。
信号が、ささやかにやさしく赤を点す。
授かった時間のなかで、僕はハンドルから左手を離し、彼女の手に乗せた。一瞬の身じろぎに気付かないふりをして、少し、握った。
「俺は、おまえのなかにいたのかな、」
声が届くはずなんて、ない。
………どうしよう やっぱり、手放したくないなあ
信号が無情に青を点す。
ハンドルを握りなおしてアクセルを踏んだ。外灯が両横に流れてゆく。
月だけが、同じ位置で止まっていた。
真夜中だと思った。
続けて、眠っていたんだと気付いた。ここが、彼の部屋だと思い出した。
覚めきらない目で見渡すと、布団から仲村の姿が消えている。時刻は午前3時前。灯かりを落としてから、一時間も経っていない。僕はベッドから降りて、廊下へと出た。
仲村の家に泊まるのも、今夜で四度目になる。今日も学校から直接、泊まりにきた。
母さんへの説明も、ずいぶん円滑に済むようになったし(というより僕自身、変な抵抗感がなくなった)、訪問は以前より気軽になってきた。
イヨさんも僕を「皆口くん」と呼ぶようになったし、ここの飼い犬の名が「文遠」だとも知った。イヨさんは、来るといつも見事な夕飯をふるまってくれて、水仕事が済むなり帰る。文遠は、十一時を回るころにはゲージの中で眠りにつく。
その後、僕たちはたいてい夜更かしをする。
ゲームをしたり、テレビを観ながら喋ったり、たまにはバイクを走らせたり、特に会話もなく漫画を読んでごろごろしたり。その日によって過ごし方は違うけれど、僕らなりに有意義な時間を満喫していた。
今夜もそうだった。きまぐれに好きなことをして、遊んで、きまぐれに眠りについた。
違ったのは、今だ。
僕は目を覚ました。仲村の姿が無かった。
廊下に出ると家じゅう暗いままで、どの部屋にも灯かりは点っていない。手探りでリビングまで辿り着くと、ここだけは薄明るかった。窓から月あかりが溢れていて、部屋全体を青白く照らしている。
窓際で、シルエットになった仲村が、無気力に座っていた。
ゆっくりと振り向いて、僕に気付く。
「起きてたの?」
人懐こい笑顔に、僕は頷いた。頷いて、同じように座った。
仲村が窓の外へ視線を戻したので、同じように外を見た。
「なんだか眠くないんだよね。」仲村が言う。
「俺はけっこう眠い。」僕が言うと、寝てればいいじゃん、と笑った。
「きのう、雨宮から預かったから、答案。」
前置き無く、僕は言った。
「そっか。」
窓の外を見上げたまま、仲村は答える。束の間の沈黙のあと、膝を抱えて落ち着き払ったようすで、薄く笑った。
「おれ、もう、あいつがいなくても、平気。」
平気、って? 「いろいろ。」色々、か。「うん。いろいろ。」たとえば? 「いっぱい、笑ってる。」いつもだろ。「違うよ、平気に笑ってる。」そっか、平気にか。「うん、平気に。」そっか。「皆口くんがいるから。」そっか。
曖昧に会話を繋げた。
これは夢だろうか、つい、現実を疑ってしまう。そのくらい、見える世界は頼りない。
でもきっと現実。夢なら夢で、別にかまわないけれど。
「星史、」
僕は、彼を呼んだ。
「おまえの目的は何だ、」
青白い光が彼を照らす。陰影が、おだやかに動いた。
「数え切れないよ、そんなの。」
膝を抱えなおして首をすくめる。瞼を閉じて、口元だけ笑ったまま、仲村は語り始めた。
やりたいこと、たくさんあるよ。きみは今日まで、叶えてくれたじゃん。一緒に食卓囲んで、夜晩くまで遊んで、同じ部屋で、寝て。……だけど、まだまだあるんだ。足りないんだ。十七年分、だもん。
「それは、『お願い』だろ、」
小突いて話を塞き止める。
そっか、目的か。観念して、いたずらに笑ってすぐ、表情をおとした。
「おれを探してほしい。」
さがす?
「おれがきみを、みつけたように。」
言うなり、おもむろに棚のほうへと歩み寄った。
数多く飾られた写真から一つを外して、額縁の裏から何かを取り出す。
封筒みたいだ。手のひらより一回りほど大きい、わずかに厚みのある封筒。口には何重にもテープが巻かれていて、固く鎖されていた。
「……無理強いはしないよ。これは、お願いじゃないから、」
中身のわからないそれを、差し出しながら告げた。
「もし、おれを探してくれるなら、そのときに開けてほしい。きみを不幸にしちゃうかも、しれないけれど。」
僕は少し躊躇ってから、受け取った。
「なんだよ、不吉だな。」
からかうように言う。
「だから無理強いはしないんだよ。」
「一生、開けないかもしれない。」
これは真面目に言った。
「いいよ。それならそれで。」
仲村はおだやかに目をほそめた。
微笑んだまま、ゆっくり俯いてゆく。やがて顔が見えないまでにうな垂れて、まるで、乞うような姿勢になった。
「………ここからは、『お願い』、」
いつの日からか潜めていた暴虐の影が、もう、どこにもない。
蚊の鳴くような声だけが響く。記憶の片隅で滲んでいた光景が、目の前の彼と、重なる。
「……明日から、いつもの仲村星史に戻るよ。……いつもどおり、今のおれたちを、ちゃんと過ごす。これ以上、きみの毎日を、こわさない……から。………だから、」
やっぱり、現実だったんだ。
「おれを捨てないで、」
青白く、か弱く、おぼろげな瞳に僕が映っている。彼のなかに、いる。
なあ、雨宮、
僕は、おまえのなかにいたのかな。
僕がいたのは、おまえだったのかな。
いつか、彼女にすがりついたように。
彼女ごと、自分を愛したように。
みえてしまった真実を握りつぶして、彼を抱きしめた。




