忘れてしまった願い
重く閉ざされた扉の向こうから、咽び泣く声が聞こえる。
《ウインド》が千歳基地に鹵獲されてからずっとこの有様だ。赤城が運んだ食事にも一切手はつけられておらず、声は日増しに小さくなっていく。このままではいけないと、七海はある人物に部屋の鍵を託した。
我那覇青河。ナンバーズの中では神剣についで最年少の少女だ。
我那覇は小さな咽び泣きが漏れる扉を前にして、不愉快な表情になる。
元々、我那覇は神剣の事が気に入らなかった。話は噛み合わず、常に浮かんだ薄ら笑いが不気味だった。七海から目をかけられている事も、苦手な原因であるのかもしれない。
だが他ならない、七海からの頼みだ。我那覇には断るという選択肢は選べなかった。
「…………入るよ」
扉を開く。甲高い音が鳴り、中の様子が明らかとなった。
「……うわっ」
我那覇は思わず扉を閉めかけた。
真っ白だった部屋にはクレヨンの文字で埋め尽くされていた。殴り書きで読み辛いが、「お兄ちゃん」と書かれているようだ。
中に入り、ゆっくり部屋の中を進んでいくと、やがて神剣の姿が見えた。
周りには無くなったクレヨンの屑が散乱し、本人は泣きながらひたすら指を齧っていた。元々乱れていた髪は更に荒れ、クレヨンや埃が絡みついている。
我那覇が黙って見ていると、気づいたのか泣くのをやめ、ゆっくりと振り返る。
「……我那覇、ちゃん」
「七海さん達が心配してる。早く顔見せなよ」
「……………………」
神剣は顔を背け、再び爪を噛み始める。既に爪もボロボロで、血が床に落ち始めていた。とても正気とは思えない。
「何してるの? 七海さんに怒られたいの?」
「っ!! いや、いやぁ……!! 怒られたくない、怒らないでぇ!!」
「な、何……!?」
ちょっとした脅し文句だったのだが、神剣は突然叫びながら部屋の隅まで走り、身体を壁に押し付ける。
訳の分からない神剣の奇行に、我那覇の苛立ちも頂点に達した。手を無理やり掴み、部屋の外へ連れ出そうとする。
「ほら、早く!」
「嫌だぁぁぁ!! やめて、怒らないで! 叩かないでぇ!! 七海お兄ちゃぁぁぁん!!」
「七海さんがそんなことする訳ないでしょ!! いいから早く部屋から出なさいよ!!」
「いやぁぁぁぁぁっっ!!!」
「いい加減にしなさいっ!!!」
破裂音の様な音が部屋に響き渡る。
我那覇が神剣の頬に、平手打ちしたのだ。
途端に静まり返る。
「…………」
「あ……」
赤く腫れ上がった神剣の頬を見て冷静になったのか、我那覇は後ずさる。神剣は何も言わず、殴られた頬に手を当てている。
「れ、零奈……」
ごめん、と言おうとしたその時だった。
突然我那覇の首に細い指が絡みつき、そのまま押し倒される。
「うっ、ぐっ……ぅぅ」
細い腕の何処からこんな力が出るのだろう。我那覇が必死に引き離そうとしてもビクともしない。
徐々に体重がかけられ、親指が気道を塞ぎ、他の指が頸動脈を絞めつける。
意識が薄れていく。そんな中で見えた神剣の目からは、涙が止めどなく溢れていた。口元は小さく笑っているにも関わらず。
神剣の頭の中で、記憶が蘇る。
優しかった兄との記憶。
突然いなくなってしまった両親の代わりに高校を中退し、身を粉にして働いた。毎日遅く帰って来ては、幼い自分の為に家事をして、また朝早くに出かけていく。
幼い神剣も兄の苦労を察し、甘えたい気持ちは心の奥にしまい込み、自分にも出来る家事をしながら暮らしていた。貧困ながらも、神剣にとってこの生活は輝いていた。
だがそんな生活も、長く続く事はなかった。
その日の夜、帰って来た兄は全身傷だらけだった。
「どうしたの……お兄ちゃん……?」
「ちょっと、お客さんに……ね。大丈夫だよ」
「…………じゃあ私が治す!」
病院に行く余裕もなく、不器用に絆創膏や包帯を巻いて補った。
そして次の日、異変は起きた。
朝起きると、いつもは仕度をしているはずの兄は、座り込んだまま呆然としていた。
「お兄ちゃん? お仕事、遅刻しちゃうよ?」
「……………………お兄ちゃん、お仕事おやすみ貰ったんだ」
「本当!? いつまで!?」
「っ。ちょっと……ちょっとの間だけ」
「やったぁ! 遊ぼ遊ぼ! 私ね私ね、じゃんけん! じゃんけんしたい!」
幼い神剣には知る由もない。
酒に酔った客に絡まれ、もみ合いとなった結果怪我を負わせた事。それが不幸にも政府の高官であり、店を潰される事を恐れた店長に店を辞めさせられた事を。
少しの間、と言った兄の休みは、とうとう終わる事はなかった。
日に日に部屋にはゴミ袋が積み上がっていき、やがて家の中には虫が涌き始めた。少しずつ貯めていた貯金も底を尽き、ガスや水道も止められている。
変貌したのは部屋だけではない。あれだけ働き者で、優しかった兄は、今や薄暗い部屋で寝ているだけだった。
「お兄ちゃん…………お腹空いた…………」
神剣が空腹を訴えても、黙ってゴミ袋の方を指差すだけ。中にはいつ食べたかも分からない、ポテトチップスの袋が入っていた。
まるでカラスの様にゴミ袋を破り、異臭のするポテトチップスの欠片を口にする。
「…………お兄ちゃん、これ……」
「文句言うなよ!! 黙って食え!!」
もう優しい兄はいない。何を話しかけても返事をせず、口から出るのは八つ当たりの怒声のみ。
「…………美味しいよ」
幼い口を突いて出た言葉は、何の意味もない気遣いの言葉だった。
どんなに辛くても兄がいれば生きていける。生きたいと思える。だから神剣は兄が変わろうとも、愛する気持ちを捨てなかった。
ある日の夜、夢を見た。
兄が天井に何かをぶら下げ、椅子をその下に置いている。
そして寝ている自分の頭を撫で、小さく囁いた。今にも消え入りそうな程。
「ごめんな、零奈……もう俺、お前と一緒にいるの、疲れたんだ。だから…………先に、父さんと母さんに、逢いに行くよ」
残っている記憶は、宙で小さく揺れる兄の姿。
神剣はそれを見て、小さく笑った。涙を流しながら。
「私もすぐに行くから……お友達と、一緒に!!」
「零…………奈…………!!」
いよいよ意識が途切れそうになったその時だった。
「…………あっ、あっ、え、せ、青河ちゃん!?」
突如として、神剣は我に返った。笑みが消え、驚いて手を離した拍子に尻餅をつく。
「うっ、かはっ、ゲホッ!!」
「どうしたの青河ちゃん!? どうしよう、どうしよう!? な、七海お兄ちゃん、七海お兄ちゃん呼んでくる!!」
青河が状況を理解するより早く、神剣は部屋を出て行ってしまった。
あれは一体何だったのだろうか。先程の神剣の様子からして、自分が首を絞めた事を認識していない様だった。
初めて青河は、神剣に対して恐怖心を抱いた。あの時に見た笑顔と目は二度と忘れられない。そこから見えた彼女の心は、深海の様な、底のない暗闇だ。
例えまた七海に頼まれようとも、次は断ってしまうだろう。
七海は、コクピット部が開いた《ヌル》を静かに見つめていた。
中には、かつて咲宮雷鼓が搭乗していた機体、《ペニーウェイト》にも搭載されていた、有人制御コクピット。武装も余剰パーツを流用して製造したものへ交換。本体の戦闘能力を高めている。
《グラッパー》と《メビウス》も損傷した武装を修復し、新たな《ヌル》に合わせた調整を行なっている最中である。
「討伐部隊にばかり目が向いていたけれど、千歳の部隊もやるじゃないか。まさか《ウインド》を鹵獲するなんて」
あのSWはあくまで試作機。中には機密情報などは入っていないが、戦闘データなどは解析されてしまうだろう。しかしデータを取ろうと、彼等にそれを応用することは出来ない。
「でも、外部に協力を求める可能性だってある。例えば…………いや、それは考え過ぎかな? でも万が一、億が一の時もある。だからまだ君達には頑張って貰いたいんだ」
七海も、神剣を無下に扱いたいわけではない。
だが彼女の、本当の願いを知っているからこそ、それを助けたいと思っているのだ。
「せめて願いが叶うまでの間、側で彼女を守ってやりなよ。廃棄される筈だった君達を助けてくれた彼女を、ね」
「七海お兄ちゃん! 七海お兄ちゃん、何処ぉ!?」
神剣の声が聞こえ、七海は黙って歩きだす。
哀れみに満ちた瞳を、瞼の裏に隠して。
続く