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薄闇の舟  作者: 深水
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列車にて

 八時街で最も有名な焼き菓子の名店が、赤く夕日に染まる車窓の外を流れ去っていった。

 薄汚れた列車のコンパートメントの中で、私はオレンジのタルトを齧っている。今しがた視界に飛び込み、そして離れて消えたあの店で、人の行列に加わることまでして買ったものだ。菓子が好きというわけではないけれど、【八時】に来て「仕事」をした後には必ずあそこで何かしらを買うことにしている。その理由を思うたび、勝手に慣習化しておきならが馬鹿みたいに、どうしようもない憂鬱に頭を掻き毟りそうになる。これは儀式か、自らかけた呪いか。噛み締めたオレンジの皮の苦味にそれを和らげる効果を期待して、すぐに裏切られた。


 列車が発する規則正しい騒音に紛れて、車内の通路を重い足音が来る。コンパートメントの擦りガラスに大柄な黒のコートが透けて見えた。その影は横切ることなく、扉の前で止まる。私は窓側にあたる右手に抜き身のナイフを握る。左手には一口ほどの大きさになったタルトを持って、面倒なことになる、と告げる直感にひとり頷いた。


「失礼」


 片手の刃を隠したままに、音もなく開かれた扉の方を見れば、痩身長躯の男が小さな会釈とともにするりと車室へ入ってくる。温和な微笑を湛えた老人だった。表情とは裏腹に皺の刻まれた顔のつくりは精悍である。外見で判断することなかれなどと言うやつもいるだろう。けれど私にとっては関わり合いたくない部類の顔であることは間違いない。軍人か、どこぞの気鋭の政治屋か、あるいは。なんとなく何処かで見た顔でもある気がするもはっきりとは思い出せなかった。職業柄、人の顔を覚えるのは得意なはずなんだけど。

 正面に腰掛けた男に軽く頭を下げて、視線を窓に移す。そこに反射する男の姿を透かして見える景色はすでに【八時】の領域を抜け、【七時】の黒い森に差し掛かっている。葉をたっぷりつけた背の高い木々が沈みゆく日の光を遮って、車内灯だけが密室を照らす。残りのタルトを口に放り込もうとすると、男が声をかけてくる。


「旅行の帰り、ですかな」

「ええ、まあ。そんなところです」


 ただの世間話。ナイフを握り直す。これが無意味な警戒だとしても、準備しておくに越したことはない。柄を握る手に汗が染み出す。これで振り抜けるだろうか。男はにこにこしながら私の左手で路頭に迷っているタルトに目をやる。列車の走行音がやけに耳障りだ。


「『天球天使』のケーキ……【八時】は良い所だったでしょう」

「ええ。どこも活気があって。政庁周りは人が多くて参りましたけど」

「はは、他所から来る方には慣れないと評判ですから。とりわけ、我々のような者にとっては」


 そう言い終わるのと同時に、男と私の目を結ぶ直線上に艶のない銃口が現れた。

 いつ抜いた? まったく見えなかった。これは、私の高いとは言えない格闘能力を差し引いても、まるで格が違う。


「寄り道とは感心しませんな、お嬢さん。用事が済んだら即退散、それが鉄則だと教えられたのでは?」

「たまにはいいかと思ったんですけど。何かしくじりましたか、私」


 つつがなく仕事を済ませたつもりでいたし、今思い返しても、男の言う寄り道以外には何の落ち度も見当たらない。たしかに褒められた行動ではないけれど、まさか買い食いくらいでこうはならないだろう。しかしこんな凄腕を差し向けられたからには、何かを重大な見落としがあるに違いない。ここで始末されるのはもう仕方ないにしても、一応それが何故なのかだけは知りたかった。

 男は銃を私に向けたまま、すこしの間だけ思案を巡らせて言った。


「なるほど、君は……あまり業界に興味がないらしい。私を知らないのかな」

「はあ……?」


 思わぬ切り替えしに、変な声が出てしまった。確かに見覚えはある顔。けれど今をもって思い出せない。直接会ったことがあるなら忘れるはずがないし、同業の中でも相当高い地位にいるであろう男との接点に心当たりもない。


「やれやれ、血のディーガももはや過去の遺物か」

「……は」


 肩を竦めて、男は銃を下ろす。

 血のディーガ。中央の精鋭防衛隊の一部隊を単独で真正面から壊滅させたとかいう嘘くさい伝説の持ち主。同業でその名を知らない者などいない大物だ。どこかで見た顔だと思ったのは、古い日報に載った当時の顔写真があったからか。


「上は私なんかを始末するために、あなたのような人を?」


 これは本心から来る疑いじゃない。男が何者か判明した時点で、どうやら私は殺されるわけではないらしいことが分かった。粛清を請け負うのはとりわけ腕の良い連中だ。しかしいくらなんでも地表を転がる私程度の人間をわざわざ雲の上から取りに来るわけがない。現場に立つ同業の中では評判の良くない「上」だって、そこまで馬鹿ではないのだ。


「私はこれから【六時】で仕事でね。たまたま御同輩が同じ列車に乗るのが見えたものだから、話でもしようかと思ったのだよ。しかし、どうも居心地が悪そうだ。何か聞きたいことがなければ、老いぼれは退散しよう。どうだね?」


 まったく迷惑な話。おかげでシャツが汗を吸って冷たい。文字通り桁違いの人間を殺してきている男と、これ以上このコンパートメントの中でお喋りをするなんてごめんだ。質問? そんなものはいくらでもあるけれど。


「どうすれば生き残れるか……とか」

「簡単なことだよ。生きるのに邪魔なものは何もかも消してしまえばいいのさ。何故か皆、それよりも自分の死を選んでしまうようだがね。ではお嬢さん、またの機会までご機嫌よう」


 男は宣言通り、入ってきた時と同じように音もなくコンパートメントを出て行った。右手のナイフを手放そうとして、考え直す。なんとなく、今はこれを握りしめたままの方が落ち着く気がした。それにしても、さすが伝説級の殺し屋は言うことが違う。何故か皆、か。


「それは、選べなかっただけでしょ……」


 列車は【七時】の黒い森を駆ける。少し形が崩れてしまった左手のタルトを口に入れても、味が分からなかった。



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