笑顔について
冬に差し掛かり、朝の空気はよく冷えている。玄関先の石段を叩く踵を、私はスプリングのくたびれきったベッドに腰掛けて待っていた。いや、待っていたわけではなく、ただぼんやりしていただけかもしれない。
ともかくおよそ定刻通りにやってきたそれを聞き、立ち上がる。月の一番目の水曜日、加えて不定期に数度、彼女とは直接顔を会わせなければいけない。気乗りしないような、得体の知れない安堵のような、そんなものを抱え込んで玄関の扉を開ける。
「おはようございます!こちらが本日の日報です!」
「うん、おはよう」
快活という言葉を人の姿にしたらこうなるのかもしれない。この明るい色の髪を持つ配達員の少女は、会うたびに何となくそんな印象を私に与えた。私に差し出す手には紙が一束、ほっそりとした肩に提げた鞄には十何軒分かの日報が詰まっている。健気に慌しく町を駆け回る姿は、近隣住民からなかなかの人気を集めているようだった。私ももう何年もの付き合いになる。けれど知っているのは目に見える部分くらいのもので、名前もすぐには思い出せない。
「あと、これも」
そう言って鞄の外側に付いたポケットから飾り気のない便箋を取り出す。それを渡すときにはいつも、彼女は照れたような顔をする。遠くにいる恋人からの手紙だと前に私が言ったからだろう。名前よりもそういったことが記憶に鮮やかだった。
「ご苦労様」
日報と便箋を受け取って言うと、一瞬私の目を見詰め、にっこりと笑ってから足早に去っていく。今時、ああいう混じり気のない笑顔は貴重だ。たとえそれが使命感に駆られて繰り出されたものであっても。いや、私がある種の偏った人間ばかりを見ているからそう感じるだけかもしれないけれど。すくなくとも私はあの表情を浮かべることは出来ないだろう。
常備してある温度の無い紅茶のボトルを手に取って悲しくなるほどみすぼらしいべッドに戻り、届いたばかりの紙片を膝の上に広げる。便箋を紐解き、ざっと目を通す。恋人からの手紙というのもあながち間違ってはいないと言える文面。もちろん実際にはそんな意図で書かれたわけではない。
日報は版元の違うものが三種ある。たいして美味くもない安物の紅茶を喉に流し込み、そのうちの一枚を眺める。四時街の政庁と反動派の衝突で何人が死亡しただとか、十時街の上級将校が狙撃されただとか、不穏な記事が並んでいる。五年前から続く中央政庁の混乱が今になって外縁を揺るがし始めたようだ。私はそれらを親しげな手紙の文字列の中に織り込まれた暗号に照らし合わせる。「仕事」の内容はその作業によって初めて明らかになる。
軽くなったボトルを床に置き、枕元に投げ出されていた煙草をケースから一本弾き出す。ライタは何処へやったっけ。手で枕の下を探ると硬い感触。火を点けて、ゆっくりと煙を口に含む。
私も以前は、彼女のように笑っていた。仲が良かったあの子と笑いあって。けれど失くしてしまった。それが今は人から奪うばかりの身の上だ。笑いたいのか泣きたいのか、よくわからない気分になる。どこにも、引き返せやしない。それはいつだってそうなのだ。
深く溜息となって溢れた紫煙は、冴えた朝の光にじわりと溶けて消えた。