ガラスケースのモルモット
ガラスケースのモルモット
これは幼い頃のおぼろげな記憶であるから、詳しく覚えていない。だが、忘れ去ることは出来ないものである。未だに私は、その時の答えが出せないでいるのだから。
ガラスケースの中に『モルモット』がいた。私は彼のもとへ、毎日会いに行っていた。父や父の仲間である大人たちに、会ってはいけないとひどく言いつけられていたのに、なぜか、目を盗んでまでわざわざ会いに行っていた。彼自身もそれを望んでいなかった様子だった。自分が会いに来るときはいつも、露骨に嫌そうな顔をして、こう言う。
「用がないなら来るな。あっても来るな。」
その瞳は冷え切った鉛のように冷たく、歪に欠けたガラスのように鋭かった。
白い壁と透明なガラスに閉ざされた何もない空間で、どんな時も絶対に警戒を解かず、隅で固く小さく縮こまっている。そして、たまに観察などをしにやってくる人たちを、相手の存在そのものを全否定するような目で睨む。そんな奴であった。そんな彼に何を感じて、何を思って、話がしたいなんて考えたのか、初めの動機などとうに忘れている。ただ一つ言えることは、私はあの時、それ以外の興味が消え失せてしまうほどに、夢中だったということだ。
彼は『モルモット』と呼ばれていた。だから、私も彼のことを『モルモットさん』と呼んでいた。なぜそう呼ばれていたのか、当時の私にはよく理解できなかった。だから、彼がどうしてこの名を呼ばれるたびに機嫌が悪くなるのか、わかるはずもなかった。
「おまえ、『モルモット』というのがどういう意味を持つか、知らないだろ?」
「しってるよ。かわいいいきものなんでしょ?」
「……もういいよ」
「ねえモルモットさん。どうしてためいきをつくの?」
「……疲れた。もうとっとと帰れ」
どうして彼はいつもこんなにも不機嫌なのか、不思議でならなかった。ただ、彼は私のことを嫌っていることだけはわかっていた。
それは無理もないだろう。彼は、私の父親たちのことをたいそう憎んでいる。父親たちは彼をここに閉じ込めた張本人であるし、よく彼に対して、ひどいこともたくさんやっているらしい(詳しいことはよく知らないのだが)。だから、娘である私などを好きになれというほうが厳しいのかもしれない。だが私も、冷酷なところがある父親たちには反感を覚えている。その父親たちと同じだと決めつけられるのには少し抵抗があった。そのため、自分はあいつらと違うと彼に訴えようとした。私は毎日彼に会いに行き、どうすれば仲良くなれるか探った。だけど、やっぱりうまくいかなかった。
「モルモットさんは、どうしてここにいるの?」
と私が訊くと。彼はいつも、
「こんなところなんて、すぐにでも出て行ってやるよ」
とぶっきらぼうに答えた。
「じゃあどうしてでていかないの?」
と返すと、彼は、
「それができたらとっくにここにいねえよ」
と答えた。
「もしも、それができることになったら、どうするの?」
と訊くと、彼は
「まさか。ありえない」
と嗤った。
ガラス越しに私は彼に話しかけ続けたが、いつもこんな調子であった。同じことを聞けば必ず同じ答えが返ってきて、それ以上深く知ろうとしてもはぐらかされる。彼のことを知りたいのに、いつまでたっても触れることはできず、表面くらいしか見えない。私の見たいものは全てガラスに阻まれていた。
どうしたら、少しでも彼に近づくことができるのか、心を開いてくれるのか、悩み続けていた。しかしある日、モルモットさんをここから出してあげる、ということを思いついた。彼はいつも、ここから出たいというようなことを言っていた。だから、その願いをかなえてあげるのだ。それは、無垢で幼すぎた私の軽い気持ちであった。ちょっとびっくりさせて褒めてもらおうという、こども特有の純粋な気持ちだ。こうすれば少しは彼との距離が縮まるというバカバカしい自信があった。それがどんな結果を生み出すか、まるで検討もつかずに。
私は後先考えずに、あの部屋のカードキーをこっそり持ち出した。そしてモルモットさんの元へ来るやいなや、カードキーを差し込んでガラスの戸を開け放った。
「モルモットさん! だしてあげるよ!」
私は満面の笑みで無邪気に言った。
彼はそんな私を見て、目を大きく見開いた。すぐに立ち上がり、ずかずかと私の目の前にまで歩み寄ってくると、いきなり胸ぐらをつかみあげた。
「なんのつもりだよ、てめえは……」
いつもより冷たい声だった。そして、殺意に満ちた目をしていた。感謝されることを期待していた私は、そんな反応などまるで予想もしておらず、うろたえることしかできなかった。
「自分が何したかわかってるのか? 余計なことをすんな、ガキが」
その声と、掴まれた手がわずかに震えていた気がした。
「なんで? ここからでたいっていってたでしょ?」
純粋な疑問を口に出すと、彼は何かをこらえるかのような表情で、妙に静かに言った。
「……だからって……本当にそうしていいとは限らないだろ……俺は、ここから出てはいけない。だから出られない。それはただの願望だ。夢だ。叶えてはならない夢を他人が簡単に叶えていいわけあるか」
意味はよくわからなかったのだが、ひどく心に突き刺さった。私はそれ以上何も言えなくなった。あの瞳は怒りをにじませていて、でも少し悲しげにも見えた。
彼は手を離して、また部屋の隅へと静かに戻っていった。私は彼が背を向けた直後、すぐにその場を走り去った。
その日以来、彼には会っていない。
後に知ったのだが、彼はガラスケースの中でしか生きられない身体であったそうだ。子供であった私の頭ではよく理解できなかったが、彼が『実験体』である理由の一つでもあるらしい。
彼が拒絶した理由はなんとなくわかった。でも、彼があのとき何を感じたのか、何を思っていたのかは、今でもまだ解らない。どれほど考えても、想像しようとしても、どうしても彼の考えていたことが解らない。昔は自分が無知な子供だから、と結論付けることができたが、大人になった今でも解らないとなると、もうどうしようもない。それは、本当は私も父と同じように人の気持ちが理解できない冷酷な人間であるからなのか。それとも、彼の気持ちが他人には到底理解しようもないものであったのか。
私はなぜあんなことをしたのだろう。そもそもなぜ彼に近づこうとしたのだろうか。独りぼっちで閉じ込められている彼に同情して、哀れんでいただけなのだろうか。それとも、私を動かしていたのは好奇心という欲望だけで、彼を本気で救いたいなんて思ってなかったのだろうか。だから余計なことをして彼を傷つけてしまったのではないだろうか。私は結局、父親たちとほとんどかわりなかったのか。
自分の気持ちすらも、もう解らない。
私はあのヒトに何をしてやれたのか、いまだに答えがでない。