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あきの日  作者: 白州藍樹
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side B

「あれ、美香(みか)は?」

 職員室から戻ってくると、さっきまで帰り支度をしていたクラスメイトの姿が無かった。

「さっき帰ったみたいよ」

「えー、一緒に帰ろうと思ったのに」

 返事をしてくれた子に、ありがと、と言って、机の上の鞄を持って、駆け出す。ちらっと教室の時計を見て確認する。わたしが呼ばれて職員室に行ったのが十分くらい前だったから、さっき帰ったならまだ追いつくはず。片手には先生に渡された書類ーさっきはこの書類をもらうために呼ばれていたのだがーを仕舞わないままで、急いで廊下を過ぎていく。下駄箱のところでちょっと息をついて、外履きに履き替えるときに書類も、適当に二つ折りにして鞄の隅に滑り込ませた。とん、と靴が嵌るようにつま先を床に打ち付けながら見ると、校門の先の曲がり角を、綺麗な黒髪のロングヘアーが曲がっていくのが見えた。美香だ。通りすがった友達が、「真由(まゆ)、じゃあねー」と手を振るのに振りかえして、校内の倍くらいのスピードで走り出す。

 このあいだの夏の大会で、三年生は引退になった。それまでは放課後は大抵部活でめったに一緒に帰れなかった。せっかくの機会を無駄にするわけにはいかない。もう十月の半ばだし、冬になったら三年生は家庭学習期間に入る。学校で一緒に過ごすのも、一緒に帰ったり休みの日に遊ぶのも、もう少しのあいだしかできないかもしれないのだ。まだ決まっていない進路にもよるけれど、家の方向は途中からは真逆だし、大学生になってから今のように過ごせる保証なんて全くなかった。三年間、運良く同じクラスではあったけれど…。

広い校庭の真ん中を、運動部たちのストレッチの掛け声を聞き流しながら突っ切る。陸上部の後輩が、あっ、真由先輩、と何人か呟くのが聞こえる。「相変わらず速いなー」「大学でもやるんでしょ?」「でも、推薦は受けないって言ってたよ」「もったいなーい」聞こえないふりをして通り過ぎる。「行きたい大学とか、別にあるのかな」「でもさー、ぶっちゃけ、陸上の成績で受験した方が上の大学行けるんじゃない?あれだけ入賞しててさ…。わたしだったら…」「アップ始めるよー、集まって」「はーい」声は聞こえないふりで、ふと思いついたようにその子たちの方を見て軽く手を振る。得意の影のない笑顔を向けてみせる。わたしに気づいていなかった子たちも他の子に言われてこちらを見て、ぺこっと頭を下げてくる。いいから、真面目に練習しなよ、と目で言って、こちらに振り向いた素直そうな後輩の顔に顎をしゃくって、練習に戻させる。そのためにちょっと失速したスピードを元に戻して、腕をふって校門を抜ける。鞄が大きくて揺れるので途中から片手で胸に抱えて、でも速さは落としたくなくて頑張って走る。片手しかふれないと余計体力を使って息が切れる。

 みんな勝手なことを言う。

 走りながら考える。わたしだって、いろいろ考えているし、さっきだってそのために職員室に行ってきたのだ。ぎりぎりまで悩んだ推薦入試をやめて、一般入試に賭けると決めて、みんなより遅れた資料請求を先生に頼み込んでしてもらっている。そのせいで最近は休み時間ごとに職員室に呼ばれたり、先生に声をかけられることが多くなっているのだった。目をかけてもらっているのは分かる。でも、美香と話せる時間が減るのは事実だ。休み時間だって、席を立って話して戻ってくればある程度時間がかかる。数十分の昼休みならまだしも、毎休みごとにそうされると、自分のためなのは知っているけれど面倒なのだ。資料を渡されたら目は通しておかなければならないし。何か勧められることも多いから、考えたりしなくちゃいけない。受験生なんだから当然といえば当然なのだけど。

一学期の最後のころ、申し込みの直前に推薦入試の話を断った。わたしは今まで部活の大会でいくつか賞をもらっている。県の代表に選ばれたり、全国の大会に出たこともあった。勉強が苦手なわけじゃないけど、確かに推薦を受ける方がずっと楽な進路だった。陸上は中学のころから始めていたし、高校もそっちの成績があったから前期試験で受かったようなものだった。自分でも、最初は大学でも同じようにしようと思っていたのだ。兄の受験も見ていたし、その方が、きっと簡単だし周りの期待にもきちんと応えるやり方のように感じていたから。でも、考え方が、変わって、悩んだ末に推薦は受けないことにした。話をもらっていた大学や勧められる大学は、みんな県外の、自宅から通うにはきつい学校ばかりだった。家でそう話すと、一人暮らしをする案が普通に出て、やっぱりそうかと思った。一人暮らしはしたくなかった。遠くの大学には通いたくなかったし、一応ライフワーク的な存在でもある部活は、正直、なんとなく他にすることがなくて続けているだけだった。だからと言って全然身が入らないわけではなくて、ある程度は好きだけれど、でも自分の全てを注ぎ込みたいわけじゃなかった。趣味程度で、将来、そういえば昔はこういうことをやっていたなー、と思い出すくらいで良かった。そのためにはもう十分すぎるくらい部活をこなしていた。体育教師になる気もなかった。それに、いちばんのわけは、美香と会える日が今よりずっと減ってしまうからだ。

 今、どのあたりかな、と考える。さっきの校門先の角はもうとっくに曲がっていた。美香は歩くのが遅いわけではないけれど、すごく速いわけでもない。わたしのスピードならそろそろ追いつくはずだった。でもなかなか、姿が、見えない。ちょっと速さを緩めて、はっとして脇道に入る。もしかしたら、あっちの、並木道の方かもしれない。学校から一緒に帰ったとき、何度か連れられて歩ったことがあった。「遠回りじゃん」「んー、でも、好きだから」と会話をしたのを覚えている。あれも秋だった。確か、二年前くらい。去年はこの時期部活が忙しくて、ほとんど一緒に帰ってはいなかったから、すっかり忘れていた。入った脇道から、その例の、枯葉で真っ赤になる並木道を目指す。この時間帯ならちょうど夕暮れで、日も落ち始めて空まで真っ赤で、ちょうど全面赤色になっているころだろう。赤い葉っぱも綺麗だと思う。絨毯みたいに地面に敷き詰められているのも、それを踏んで乾いた音をさせるのも、気に入っていた。わたしもあの道は好きだった。でもたぶん、美香が好きだと言ったからだと、思う。あの子が好きだと言ったから。あの子が、教えてくれた道だから。だから自分のなかで意味があるんだし、さっきも美香つながりでなければその道のことは思い出せなかった。角をいくつか曲がってしばらく行くと、数メートル前にその姿が見えた。

「美香!」

 おもむろに振り返る。黒髪が、ふわっと少しなびいた。

「やっぱり、ここだと思った。一緒に帰ろ」

「うん」

 軽く微笑んで答える声にほっとする。息を整えながら、並ぶように数歩ぶん近づいて来てくれる美香に笑いかける。

追いついてよかった。美香も、嫌じゃなさそうだし…。まあ普通に友達なんだしなあ。

「今日の、進路調査のやつさあ、」

 呼吸を整えるついでにちょっとため息をついて、落ち着くと、適当な話題を切り出すことにする。癖ひとつない黒髪を、見つめたいけれど、おかしく思われそうで横目で見ることしかできない。気になっては、視線を前に釘付けて平静を装う。動悸は走って着いたせい。呼吸がしにくい気がするのも、ちょっと体が火照っているのも駆けてきたせい。おかしいことはない。普通だ。平気だ。いつもの、わたしだ。

「うん」

 なんて書いた?と尋ねると、今までも何度か聞いた返事が返ってきた。

「普通に、A大って書いたけど。地元で行けそうなところってそのくらいだし、別にやりたいこともないし」

 美香は、特に部活はしていない。だけど塾にも通っていなくて、勉強にすごく熱心というわけではない子だ。でもそれなりの、中の上くらいの成績はいつも安定してとっていて、その成績ならA大は無難な選択だった。次にB大を志望しているのも知っている。わたしも、テストでは同じくらいの順位だ。

「そっかあ…」

「真由は?」

「わたしも、A大にしようかな…」

 口に出してから、しまった、と思った。言ってしまった。言わないでいようと思っていたのに。ちらっと美香の顔を盗み見る。流れる黒髪がいつも通りカーテンみたいにサイドにかかって、いつもの冷静そうな表情が見えた。そんなに興味がないみたいだった。美香は、他のクラスメイトたちともそうだけれど、あまり他人と何かを揃えたり、合わせたりすることがない。誰かがこれを選ぶから自分も、という選択をするのは見たことがない。いつでも自分の、いちばん妥当そうなことを選んでは行動している。好きなバンドや本の趣味、観たテレビの話などはみんなと同じようにするけれど、他人は他人、自分は自分、とボーダーがある気がする。深く詮索をされたり、同じ進路を選ばれるのは嫌がりそうだった。わたしが推薦をやめたと話したときも、そう、と言っただけだった。わたしも、あまり友達同士でべたべたするのは好きじゃないけれど、美香は…わたしと一緒にいて、どう思っているんだろうとたまに考えた。

 美香とは、一年生で同じクラスになって出会った。出席番号順で席が前後になって、前の席の女の子がすごく綺麗な長髪だった。入学初日、緊張しながら席について、それだけがただ印象的だったので今でもよく覚えている。いちばん最初の出席で、名前を呼ばれるのを聞いた。セノオ、ミカ。セノオって、どういう字だろう、とぼんやりと見惚れたまま思って、自分の名前に生返事をした。そのまま、学校や生活についての担任教師からの説明を聞き流しながら、わたしは魅入られたようにずっと、美香の黒髪を見つめていた。まっすぐな、日本人形みたいな黒髪。二の腕くらいまでのそれは癖ひとつなく、触ったら紗みたいにさらさらとしていそうだった。それに、きれいな姿勢。背中が、胸を張るようなのじゃなくて、凛として、良い姿勢で品よく座っていた。わたしは自分の、もともと茶色がかっている短い髪を、頬杖をつきながら気怠く引っ張ってみた。全然違う。それまで友達で付き合ってきたなかにそのひとのような子はいなくて、ちょっとオーラが違う気がして、仲良くなってみたいなと思った。茶髪も、男子より少し長めなくらいの短い髪も、嫌いではなかったけれど自分らしくはない気がした。簡単に言えば、そう、たぶん、ちょっと周りの女の子たちとは雰囲気の違う、個性を持って凛々しそうな空気を醸し出したその子に、憧れみたいな感情で惹かれたのだった。

中学のころから、わたしは陸上をしていた。お兄ちゃんが陸上部で、流れで同じ部にしただけだった。けれどなかなか合っていたようで、もとから嫌いではなかった短距離走で良い成績が出た。友達もいて、先輩や後輩、教師たちからも好かれた。良い成績を出してたかをくくっているように見られると目を付られるので、出来るぶんうまく手を抜いたり、ときどきふざけたりして見せていた。クラスの友達と合わせてピアスを開けてみたり、遅くまでカラオケに行ってみたり、派手にメイクをして遊びに行ってみたり。ちょっと悪いことを、誘われるたびにやってみた。部活の、上の学年からは手はかかるけれど可愛い後輩、同級生からは自分たちがいなければ道を踏み外しそうな危なっかしいチームメイト、後輩たちからは成績はいいけれど厳しくない楽しい先輩。先生たちには、流されやすいけれど注意はちゃんと聞く、目を離しきれないちょっとだけ手のかかる生徒、という認識を持たれた。そのくらいがちょうど良かった。真面目すぎず、堅すぎず、だからと言って目立つ不良でもない。ちょっと上のレベルの女の子。スクールカーストの上に立ち、いじめとかハブリのサイクルのなかに巻き込まれない、安泰の地位。そんな良いバランスを計算してとっていた。学校は社交界だ。本音とか、本当の自分とか、そんなのを簡単に見せるべきじゃない。もっと適当に、うまく、共犯みたいに演じ合って生きる場所。それが学校だし、外ではそうするものなのだ。空気を読むのは得意だった。相手が何を求めているかも、大体察せられた。裏表のない、にっこりとした笑顔が外への仮面だった。いちばん楽な顔だった。

 そんな自分と、目の前の席のセノオという珍しい名字の子は、全然違って見えた。同じ一年生で、同じクラスで、近くの席なのに。高校でも、中学生のころと同じように上手に社交をして生きて行くつもりだった。普通に偽って、普通に手を抜いて、笑い合う冗談のなかに本当の気持ちを少しだけ込めて、気づいてほしい、でも気づかないでほしい、反対の感情を抱えて思春期と呼ばれる時間を過ごしていくんだと思っていた。そうするはずの教室で出会ったその子に、まるで水を差されたように感じた。いちばん後ろの席だからと思いっきりだらけて姿勢悪く体を倒しながらじっと前の席を見つめていると、偶然クラスメイトになった同中の子が空き時間に「真由〜!同じクラスだね、今年もよろしく」と中学のころのノリで言ってきた。「うんー、よろしく」と笑顔で返して、「相変わらずだるそう」と笑われたから、たはは、と笑ってごまかす。このノリ、疲れたなーとちょっと感じている自分に、そのとき、気づいた。変わりたいのかもしれない、とかすかに、思った。入学初日、ちょっと気になる女の子の美香との出会いは、こんな感じ。初めて話したのは二日目の、実力テストのときだった。うちの高校は生徒の理解度を見るとかで、入学式の翌日には実力テストがある。入試をしたんだからいいじゃん、とクラスじゅうからブーイングの気配が漂うなかで、冷たいテスト用紙がぱらぱらと配られていく。手渡しするため振り返った美香から用紙を受け取ると、「あの」、とおずおずとした小さめな声が聞こえた。美香がこっちを、わたしの顔をその髪みたいにまっすぐに見つめて、薄い唇を動かしていた。どきっとして、

「えっ、なに?」

「消しゴム、持ってたら、貸してもらえませんか」

「えっ。うん、いいけど…」

 慌てて筆箱を漁って、予備の消しゴムを渡す。美香はさっと受け取ると頭をちょっと下げて、すぐに前を向いてしまった。試験監督の先生はちょうど黒板に注意書きをしていて見ていなかったようだった。美香が前を向くのとほぼ同時に生徒の方を振り向いて、では、始め、と厳かに言った。わたしはまだどきどきが治まらなくて、机の上に出した自分用の消しゴムを見て、ああ、こっちの方がきれいだったと後悔した。最初に聞いた美香の声と、振り返ったときに揺れた黒髪を思い出した。テスト中、何度も反芻してしまって忘れられなかった。問題文が頭に入らなかったり、自分の名前も間違えかけた。必死に落ち着いてどうにか解き終えて解答用紙を提出した後、美香がそっと振り返って、

「これ、ありがとう」

 と、疲れて突っ伏していたわたしの耳元でささやいた。はっとして顔を上げて、差し出されている消しゴムとキャンディーを受け取る。

「それは、お礼。いちご味、嫌いじゃない?」

「うん。ありがと」

 お礼を言うと、美香は安心したように微笑む。ひとえの瞳が、すっと細くなった。緊張が解れたみたいだった。わたしも、遠そうに感じていたその子にちょっと近づけた気がして嬉しくなって、さっそくキャンディーの包みを開いて、もう一度お礼を言って口に入れた。どきどきしたのは、急に話しかけられたからかな、と思った。

「タカハシ、マユさん?」

「あっ、知ってるの?」

「後ろの席だもん。わたし、同じ中学の子がクラスにいなくて。最初に友達をつくるなら席の近い子だなって、狙ってたの」

 ふふっ、と笑う、その、黒髪と姿勢以外に顔立ちも日本人形みたいな女の子を見つめて、やっぱり、そうじゃない、と思い直す。

急に話しかけられたからじゃない。緊張したからじゃない。わたしは、初対面でもそんなに気負わず話せるタイプだし。美香だから。この子だから。だから、戸惑ってしまったんだ。そう分かって、それこそ自分でも戸惑ったけれど、一瞬で外の仮面を付けて笑い返す。隠すのは、得意だ。同中の子に声をかけられたときみたいに、気さくに、明るく、

「真由でいいよ」

「じゃ、まゆ。わたし、妹尾(せのお)美香っていうの」

「知ってる。セノオって、どういう字?」

「妹に、尻尾の尾。珍しいでしょ。わたしも、美香って呼んで」

「みか。よろしくね」

「うん。よろしく」

 なんて話しかけようかなとか、どんな表情でいようかなとか、昨日から考えていたのに、向こうから話しかけられてしまった。今まで思ったことはなかったのに、急に、自分が変じゃないかすごく気になり出した。他の子に話すように、話せているかな。隠すのは得意なはずなのに。今までずっとそうだったのに。突然、色んなことに自信がなくなって、またどきどきし出した。美香は自己紹介が済むと、傾けていた体を完全にこちらに向けて、部活やテストの出来などの話を始める。内心叫びながら、声が裏返らないように気をつけながら会話した。美香はすっかり心を許しているように見えた。相変わらず遠さはあったし、それからしばらく一緒にいてもずっとそうだから、そこは美香の人付き合いの仕方なんだろう。それでも、高校でいちばん最初に仲良くなった子、という立ち位置には居ることになるわたしを、このときから信用してくれているのは確かだった。大したことはしていない。ただ、消しゴムを貸し借りしただけのきっかけだった。ほんとうに、席が近かったからというだけで手に入った幸運だった。幸運、と、思った。仲良くなれて良かったとこの日から今の高三のこの時期までそう思い続けているから。友達になれて、良かった。たくさん話せるし、色んなことを知れるし、一緒に帰ったりデートみたいに出掛けることもできる。ふざけてじゃれ合ったりも、できるし。友達として、女同士だから許されることがたくさんあった。ラッキー、役得、と思ったり、そんなことを思う自分が恥ずかしくなることもあった。正直、友達であることに安住して、この関係を壊したくない気持ちと、もっと違う関係を望んでいる気持ちの両方があった。さんざん悩んだり、お祭りとかそういうイベントがあるたびに言ってしまおうかなと考えては言えなかった。美香は、好きな人の話もしないし。

そう、しないのだ。美香は、恋愛には興味が無いみたいに、そういう話をしない。彼氏が欲しいなんて、中学のころや他の友達からはいつも出てくる言葉だったのに。わたしも合わせて、口癖のようにその言葉を口にしてはいたけれど、別にそこまで欲しいわけじゃなかった。恋人が欲しい、なら、別だったけれど。好きなタレントや俳優の話はしても、美香とはリアルな恋愛の話はしたことがなかった。悪い容姿ではないのに、告白されたこともないらしい。ドラマか本のストーリーを話していてふと自分たちの話題になって、少しだけ聞いたことによると、家の方針で幼稚園から小学校はカトリック系の学校で生活していたとかで、そういう経験―わたしが中学でしていたような、男子と女子数人ずつで遊びに行くとか、普通に付き合ってデートするとか―はしたことがないらしかった。もったいないなあと思う反面、変な男子に引っかからなくて本当によかったと思った。その話をしたとき、口では「少しは経験、しとかないと、将来困るよぉ」と言っておいたけれど、そんなの、ぜったい、見たくなかった。美香が彼氏を作って歩くところなんて、というか、恋人を作って楽しそうに歩く姿なんて、見たくない。高校生なら普通のことだ。だけど、やっぱり、複雑より、嫌だ、という気持ちの方が大きかった。だから、興味が無いならそれに越したことはない……のかな。ちょっとは興味を持っていて欲しいかも、とも思う、けど。そこは何とも言えなかった。自分のなかでも上手く整理のつかない夢だ。

 そんな美香にすっかり安心して部活の練習に毎日真面目に出ていたころ、高二の秋のある日、ふと気づいたことがあった。後ろの席って、案外前の席のひとの変化にはよく気づけるんだなあと思った。美香の様子が、微妙にだけれど、一学期のときとは違った。わたしは頬杖をついてぼうっと、相変わらず癖のないまっすぐな彼女の黒髪を眺めながら、授業中を過ごしていた。美香はいつもすごく姿勢がいいので、寝まくっている他の生徒たちより頭二つ分くらい座高が高く見える。それまでは教師に指定されない限り、よそ見や姿勢を崩すことはしていなかったのに、ある日から突然、ある方向をずっと見つめるようになった。あれっと思ってその視線を追うと、斜め前の席三つ分ほど先の男子を、じっと見つめているのだった。それは一度や二度のことじゃなくて、体育や家庭科でその席でないとき以外はほぼずっとだった。その席でないときですら、その男子の声や姿を、目で追ったりしていた。気になっているのは明らかだった。すごく分かりやすくて、みるみるうちに美香は、ちょっと周りの子とは雰囲気の違う、凛としたオーラのある子から、一人の恋する女の子になってしまった。そいつが休みの日には一日中そわそわして、列の中の空席を不思議そうに何度も見ていた。授業中彼が指名されたときには自分の名前が呼ばれたみたいにびくっとして、おそるおそる答える姿を見守っていた。移動教室、休み時間、放課後。いつも彼、クラスメイトの男子、神崎(かんざき)(りょう)を探していた。三年間同じクラスで席もずっと彼女の後ろだったわたしには、よく分かった。美香がずっと神崎を見つめていたように、いや、それよりもずっと前、初めて会ったときから、わたしは美香を見つめ続けてきたんだから。

 美香は、神崎に恋をしている。

 女子高生が学校という舞台でクラスメイトの男子に恋をするなんて、漫画でも小説でも、どこにでもありふれた話だった。

 あー、そっか。やっぱり男の子かあ。

 気づいたとき、そんな、当然のことを思った。普通のことだ。一般的な、何の変哲もないことだ。

 指摘はしなかった。いくら見ていて明白だからって、はっきりとその答えを聞くこと、美香が自覚して二人の仲が進展してしまうことが怖くて黙っていた。わたしはずるい女だ。好きな人の幸福よりも、自分がかわいい。自分が幸せな方をとってしまう。秤にかけたら、どっちが美香にとって幸せかなんて分かりきっているのに。わたしは友達として、応援してあげなくちゃいけない立場なのに。

こうして一緒に過ごせる時間を、わざわざぶち壊したくなんてなかった。大学でも、美香と一緒にいたい。友達としてでも、ずっと仲良く近くに居られたらいい。

そう思ってしまって、行動できなかった。その瞬間を変えたくなかった。何も変わらず、ずっとこのまま。お互い片想いで、永遠にこの生活が続けばいいと思った。それに、永遠な気もしていた。卒業なんてずっと遠い日だと思っていた。一年過ぎて、あと二年もある気で、二年目も過ぎて、でももうあと、半年しかない。半年。たったの半年だ。何にも変わらない日々はもう、あと半年しか続かない。一緒に居られるのも、あと半年だけかもしれない。卒業しても連絡は取り合うだろうけれど、同じ学部や大学でなければきっといつの間にか疎遠になるだろう。いつの間にか、ただの昔の同級生になって、記憶のなかからも消されてしまうんだろう。

今、こうして秋の道を歩きながら話をしていても、わたしの進路には全然関心がないみたいだ。一緒の大学は、嫌?なんて、尋ねるまでもない。美香は嫌だなんて言わない。友達だし、高校生のころと変わらない、二人でいる時間の多い日々が大学でも続くだけだと想像して、嫌じゃない、と普段のやわらかな表情で言うはずだ。

 そのことにちょっとむっとして、美香の興味のありそうな話題を探す。思わず惹かれてしまいそうなネタを考えようとして、そういえば他の友人から聞いた、たぶん美香の知らないであろう神崎の話題を持ち出すことにする。きっと多少は驚くだろうけれど、こともなさそうに装って、簡単に話を振ってみる。

「そういえば、神崎がさ。T大の推薦、決まったって。聞いた?」

 わざと彼女の顔を見ないようにして、言った。意地悪な気もしたけれどそのくらい、当てつけてもいい気がしていた。傷つけてやりたいと思った。

「うん」

「奨学金も貰えるらしいよ。さすがだよね。次元が違うって感じ」

「うん……」

 投げやりな、とりあえずしたという感じの返事が聞こえた。

ゆっくりと隣を見ると、美香がうつむいている。わたしの方が少し前に出ていたので、ちょっと振り返って覗き込むようなかたちになる。「美香?」呼びかけても返事がない。と、両手で顔を覆おうとして鞄から手が離れる。抑えようとして手を伸ばすけれど届かなくて、鞄はどさっと大きな音を立てて地面に落ちてしまう。

「美香っ?えっ、どうしたの。だいじょうぶ?」

 急に罪悪感が襲ってきた。本当はわたしなんかより、彼と同じ大学にいきたいんだと知っていて言ったのだ。傷つける気で言ったのだ。そんな顔をさせたいわけじゃなかった。ちょっと思いついて言ってしまっただけだった。内心、ごめんね、と繰り返した。ごめんね。美香。ごめんね……。

 そうだ、ハンカチ、と思って、鞄を漁ろうとするけれど、なかなか美香から、目が離せなかった。ぽろぽろと涙を零し続ける美香に、思わず見惚れてしまっている自分がいた。黒い髪と、その奥の上気したほっぺたと、白い腕が、赤い並木道の真ん中で絵画みたいだった。美香が泣くのを見たのは初めてだった。こんなに、号泣するなんて思っていなかった。号泣と言っても、声もなく、無声映画みたいな、何か芸術系の、美術の映像資料でも観ているような感覚がした。美香の瞳から抑える指を伝って流れていく涙だけが動いていて、他は静止しているみたい。しずくだけが、ぽろぽろぽろっ絶え間なく落ちて、顔をどんどん濡らしていって、地面に跡をつけていく。

 こんなにきれいに泣くんだ。

 わたしはどうだろう。こんなにきれいに泣けるのかな。もっと声を上げて、無様に泣くんじゃないかな。子供みたいに、感情を爆発させてわんわん泣くんだろうな。美香みたいには、泣けないだろうな……。

 あいつのために、こんなに、きれいに泣くんだなあ。

 ひっそりと見つめながら、そんなふうに思った。女の子って、恋をしている子って、ほんとうにきれいなんだ。漫画の都市伝説じゃない。今まで聞いてきた恋バナを、自慢げに語った友達たちとも違う。ちゃんと純粋に恋をしている子って、きれいなんだ。

 目を逸らしたくなる。ちょっと視線を落として、枯葉に埋もれた地面を見下ろす。くやしいんだか、かなしいのか、よく分からなかった。自分の気持ちが分からない。どうしたいのか、どうされたいのか、どうするべきなのか。分からなくて嫌だった。どこかへ逃げ出したい気がした。

 奥歯を噛んで、いつもの自分を探して、ハンカチと一緒に見つけ出す。差し出すころには、もとの、“美香のお友達の真由”に戻っていた。

 しばらくしても受け取られないので、見かねてそっと片頬にハンカチを当てる。少し拭いてあげると落ち着いたようで、

「まゆ……ありが、とう」

「ううん。いいの。平気?」

「ごめん」

「いいよ。それより、はい」

 ハンカチを手渡して鞄を拾う。よく汚れを払って差し出すと、美香が顔を上げて何気なく、

「真由が居てくれて、よかった」

 ふわっと笑って、言った。

 居てくれてよかった。居てくれて、良かった。

 罪悪感が大きくなる。何度も何度も、頭の中で同じフレーズが繰り返される。居てくれて良かった。真由が、居てくれて、よかった。

 それだけで、満たされた。求めていたものを全部、空の壜に水をなみなみと注がれて溢れさせられたみたいに、何かで満たされた気がした。数分前の荒々しくて抑えられない気持ちが嘘みたいだった。安らかというか、嬉しくて、たったの一言なのにそれだけで救われた。救われてしまう。簡単だな、と思った。わたしって簡単だ。

 笑顔でそんなことを言われたら、何にもできない。泣き止んだ笑顔とか、だって、貴重すぎるし。ほんとに、今日追いかけてきてよかった。言葉のあやだし、たぶん大した意味じゃなくて、自然に出た言葉なんだろうけれど。だけど、でも、だめだ、やっぱり。

すごく嬉しい。

 その気はもちろん無かったけれど泣かせてしまったことと、そのせいで結果的にこんなに喜んでいる自分がいることが申し訳なかった。ちょっとちくっとして、嬉しいのと痛いのが半々くらいだった。嬉しければ嬉しくなるほど、胸のあたりが痛い気がした。ナイフで刺されたみたいな消えきらない痛み。これから時間が経っても、忘れないだろうなと思った。刺し傷は消えない。消えたように見えて、上辺が塞がっただけで奥にはずっと残るのだ。きっと、忘れられないまま、抱いて生きていかなきゃならないんだ。

 それでもいいかなと思った。どんなに痛くても、その方が良かった。傷つけたぶんはわたしも痛くていい。その方がいい。何にも感じないよりずっといい。

 茶化すように「大げさだなー」と相槌をして、だいじょうぶ、ともう一度訊く。頷くのを見て笑顔を返して見せて、鞄を持たせる。

 そのままお互い黙って歩き続けて、この小道の分かれ目まできた。途中、わたしは美香の表情を盗み見たりしていたのだけれど、夢見るように高い樹の上を―たぶん、揺れる樹の葉を―眺めてゆっくりと歩く彼女には話しかけられなかった。最初並んで歩き始めたときよりほんの少しだけ、あいだを開けて歩いた。また、何か傷つけることを言ってしまわないように。さっきの嬉しさと、ちょっとしたきっかけでわたしも泣き出してしまいそうなのを隠したくて、そうした。何を考えているのかなあ、と思いながら、会話をしないですむ空気に助かっていた。美香とわたしのあいだを冷たい風が、何度か吹き抜けていった。

 ぼうっとしている美香に、

「……じゃあ、明日ね」

 声をかける。でも返事はない。

「美香?」

「あ、うん。明日ね!」

 こちらを見た泣きはらした顔を、じっと見つめてしまう。彼のことでも考えていたのかな、とふと気づいた。そんな表情だった。彼と一緒に歩くことでも、考えていたのかもしれない。そうだろうなーと、半ばやけになって薄く笑ってから、くるっと向きを変えて自分の道の方へ帰る。左の、閑静な住宅街の方。ああ、もう、にっこり笑って別れようと思ったのに。また明日、学校で会うのに。

 切なくて、遣る瀬無かった。ぐちゃぐちゃな気持ちがして、上辺だけの人間関係が懐かしくなった。ぜんぶあんなふうに、軽かったら楽なのにな。

 あの笑顔の前の、ごめん、というささやきを思い出して、「こっちこそごめんね」と言ってみる。風がさらって、美香の歩っていく方へ流していく。もしかしたら、聞こえてしまうかな。聞こえたらいい。幻聴のつもりで、聞かれて、風に吹かれて冗談になってしまったらいい。あんなことを思いやりなく言ってしまってごめんね。応援、してあげられなくてごめんね。美香の待っている言葉は知っていた。待っている行為も知っていた。でも、できなかった。わたしにはどうしても、できない。したくない。あなたのためだって、分かっていても。

 好きになってしまって、ごめんね。

 木枯らしが勢いよく吹いた。美香のロングヘアーがなびくのを、一瞬、瞼の裏で見たような気がした。


 本当はずっと変わらない日々を夢見ていたけれど、美香が恋をした時点で何かは確かに変わっていたのかもしれなかった。わたしの学校生活が、同線上にあると思っていた中学と高校でほんの少し違うものになったように、何かが毎日、少しずつ、確実に変わっていってしまうのだとこの日、感じた。改めて感じるようなことでもないのだけど。どうせ、明日からも受験生の高校三年生の日々は続くし、感傷的になったって流されて生きていくだけだ。決めなくちゃいけないこと、やらなくちゃいけないことなんていつでも山積みで、落ち着いてなんていられない。自分で立っていなくちゃ、助けなんてこない。瞬きをすると、あたたかい何かが零れた。少しだったし、拭う気も起きなくてそのままにしておく。風がちょうど吹いていて乾かしてくれそうだった。髪がちょっと崩れるのも気にしている暇はなかった。

 感傷的になっちゃうのは寒いせいだ、と思った。秋だからだ。今だけだ。だから、平気。二年半平気だったのだから、あと半年だって大丈夫。いつものわたしで、あと半年。大丈夫だ、やっていける、と言い聞かせて、少し足を速めて帰路を進んだ。

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