side A
赤い葉が、桜の花びらみたいにはらはらと舞っている。まるでここから先は樹海とでもいうように視界を覆う。一面、真っ赤で。赤く染まった樹に、赤い葉に、赤い空。きれいな秋の、景色。
私はこれを、誰と見ていたんだっけ?
毎年、秋になると学校からの帰り道で毎日見ていた景色だった。並木道が、他の通りでは銀杏の葉で黄色く彩られるのに、どうしてかこの道だけは真っ赤になるのだ。わたしはこの色が好きで、少し遠回りのこの道を、この季節だけわざわざ選んで通っていた。ここを通るときだけ、いつも駆け足の通学路を歩って行き過ぎた。
この道の中で、息をするのが好きだ。夏の重ったるい空気とは違う、まったく涼まった秋の風を感じるのが好き。さわさわと葉の繁った樹のあいだを通り抜けた、少し乾いた秋風が、こうして立っていると人気の少ない樹とコンクリートだけの道を吹いていく。わたしの体を追い抜いて、ひゅう、と音を立てながらどこかへ向かって飛んでいく。厚地のプリーツスカートが少しだけ翻るのを感じる。
冬服に慣れたこの時期の、毎年立ちつくすおセンチな十月の某日。
「美香!」
心のなかで待っていたのとは違う声がした。振り返ると、友人の真由が、駆けてきたように軽く息を切らしていた。やっぱり、ここだと思った、とそのまま切れ切れに呟いて、「一緒に帰ろ」とにっこりする。うん、とささやいて、隣に並んで歩き始める。
「今日の、進路調査のやつさあ」
呼吸が整うとすぐ、真由はそうきり出した。どうやらこの話がしたくてわざわざ駆けて追いついてきたらしかった。わたしは、うん、とまた同じ答えで相槌を打ちながら、視線は周りの赤い樹々に向けたままでぼんやりとしていた。
「あれ、なんて書いた?今度の三面で使うって言われたじゃん。わたし、まだ迷ってて…」
「んー、普通に、A大って書いたけど。地元で行けそうなところってそのくらいだし、別にやりたいこともないし」
今年何度目か分からない、いつもの答えで切り返す。第一志望はA大。第二志望はB大。第三からは適当に、近所の大学を書いていた。でも、A大もB大もだからと言ってすごく真剣に決めたわけではなくて、ただ家から通えて、成績的に受かるであろう場所だから選んでいるだけだった。高校三年の二学期。さして進学校でもない普通の公立高校の進路選択なんて、真剣な子は五クラスあるうちの一クラスぶんほどの人数しかいない。部活の推薦だとか、美容や服飾系の専門学校、就職、大学進学とあって、わたしみたいに無難な大学にあたりをつけている生徒はたぶん、いちばん多いと思う。あの一クラスぶんの、真剣に将来を考えて進学先を選んでいる子たちは、同じ学校の生徒だけれど、この時期になってもただ言われるがまま課題の受験用の過去問題をぼんやりと問いては提出しているわたしのような生徒とは、住む世界がもはや違う気がした。いつもいつでも単語帳や暗記本を手放さず、時間を惜しんで勉強をしている姿が、一学期の頃にはまだ数人しか見なかったのに、二学期になった途端季節とともに気持ちが移り変わったように激増した。それを見たわたしと同じタイプの子たちがまた焦り始めて、もしかしたら学校じゅうでいちばん呑気なのはわたしかもしれない、と最近は思い始めていた。思い始めてはいたけれど何となく、今さら焦ってもなあ、という気持ちがあったし、今までも別に成績がものすごく悪いわけではなかった。志望校はA判定がいつも出ていた。高校と同じくらいのレベルの、偏差値も50くらいの、無難の代名詞になるくらい標準の文学部を志望していた。もうすぐ本格的な受験期、と、気を張っているのは先生たちと校内の空気だけな気がして、何のために勉強するのか、というよくある命題を思い浮かべて毎日過ごしていた。この赤い樹々の道を歩くときだけ、周りをしんみりと見つめて、もう秋か、という気になった。気にしたい時間の流れはこの道にしかなかった。この景色だけ、見られる時間を肯定したかった。高校生活が流れていくこと、自由に子供でいられる時間がもうほとんどないこと、頑張って自分でリアルな将来に向かって進んでいかなければならないこと。学校や通学路で見飽きた、必死な、自分と同じ受験生たちを見つけるたびに、色んなことが押し寄せてきて、勉強なんてする気にならなかった。しなくても大学という行き場に辿り着けてしまいそうなのが、いちばんの理由だった。これからもきっとこんなふうに、何と無く無難な道を選んで生きていくんだと思っていた。
しばらく黙り込んでいる真由の隣で、ゆっくりと歩きながらそんなことを考えていた。
「そっかあ…」
返事の声は、曖昧だった。真由は、と訊き返すと、うつむいたまま、「うーん…」と言葉を濁して、
「わたしも、A大にしようかな…」
真由も、わたしと同じようにあまり将来に精力的でない方だった。他にも、何人か志望している子は知っているし、とごにょごにょと続けて、だけどまだ何か、くぐもっているようだった。考え込んでいる気持ちと対照的に所在無げな手が、短いくせっ毛の髪をいじる。悩んでいるときの真由のくせだ。真由とは一年生の頃から同じクラスで、わたしの妹尾と、真由の高橋で、苗字の順の出席番号が近くて席もだいたい前後だったことで仲良くなったのだった。家の方向も途中までは一緒で、たまには今日のように一緒に帰っていた。これまでにもこんなふうに進路の話をしたことはあったけれど、今日は一段と沈んでいるようだった。お互いあまり干渉的ではなくて、友達で約束をして同じ大学を選んでいる子たちは知っていたけれど、わたしたちはそうでもなかった。同じ大学が嫌だということはなくて、そうなっても、まあいいなというくらいで、お互いの選択はそれぞれでするもののような感覚だったからだ。だから、A大と決まっているわたしは誘ったりしなかったし、真由も決まっていないからと言って簡単に誰かに合わせようとはしていなかった。適当なところで割り切って決めてしまったわたしよりも、きちんと悩んで考えをまとめようとしている真由の方が、真剣だと思う。もともと、陸上部で運動が得意で、成績も悪くなくて、明るくて、ボーイッシュながらぱっちりとした瞳のかわいい顔をした真由は、先生たちからの信頼が厚くて部活での推薦の道もあった。ときどき、学校の式典のときに陸上大会の入賞で呼ばれては前に出ていた。それを、悩んだものの大学では続ける気がないからと勧められた推薦を蹴って今に至る。わたしは、聞いたときは勿体ないなあと思ったものの、それは真由の選択だからと何も言わなかった。
「美香は文学部だよね」
「うん。無難そうだから。教養学科とか、経済も、いいかなと思うんだけど。たぶん、文学部にすると思 う。真由は?学科は決めてるの」
「文学部かなあ、国語得意だから、って言ったら、親に怒られた。そういう問題じゃないでしょって」
「あはは。わたしは、A大なら通いやすいし、好きな学部でいいって言われてるからなあ。楽そうじゃない、文学って」
「まあねー」
笑って、いつものように話す。半分ほど歩った赤い並木道がいつまでも続くような気がする。いつまでも、こんなふうにゆっくりと歩き続けるままで、道の分かれ目なんてなくて、どこまで歩っても同じ、友達とのんびりお喋りをするまっすぐな道が永遠のような気がしてくる。でも、そんなわけはないのだ。時間が過ぎれば、いつか終わるのだ。過去は過去だ。時間は季節のように、毎年巡っては来ない。この秋の景色が、わたしには毎年見られても、隣に居る誰かはそのときどきで違ってしまうように。
「そういえば、神崎がさ」
真由が、話題を変えるように顔を上げて言った。顔を上げたせいか、少し歩調が早まった気がした。クラスメイトの男子の名前が上がって、小首を傾げる。うん、と相槌を打ちながら、思わず持っていた鞄の持ち手をぎゅっと握りしめる。心なしか熱い気がして、わたしたちのあいだを吹いていく風が涼しかった。
「T大の推薦、決まったって。聞いた?」
赤い樹々がさわさわと、大きな風に吹かれて揺れた。乾いた葉が、絨毯のように地面に散らばっているのはこの道に入ったところからずっとだったけれど、踏み抜いたときの丸まった葉のくしゃっと潰れる音が、今の一歩ではやけに大きく響いてびくりとした。
T大。
隣県の、有名な私立大学。
「奨学金も貰えるらしいよ。さすがだよね。次元が違うって感じ」
「うん」
聞いてなかった。知らなかった。
ふと、足が止まる。何かがぽつりと落ちた。見ると、真下の葉とあらわな地面のあいだに、水滴の跡が、数点。何の跡?何で、目が潤むの?顔が熱い。手が震えながら、目元をぐっとこすった。無意識にそうしていた。猫背になるくらい前に身を縮めて、髪がわたしの意思を汲み取ったように顔を隠そうと垂れてきた。髪が長くて良かった、と、呑気に思った。拭っても拭っても水滴が溢れた。両手で拭おうとして鞄を離してしまう。どさっ、と、問題集の重さを抱えた鞄が膝のあたりの高さから落ちて、うまく立てずにわたしの反対側に倒れた。
「美香っ?えっ、どうしたの。だいじょうぶ?」
真由の慌てた声が遠くに聞こえた。堰き止められていた何かが一気に溢れ出したようだった。他のことはすべて遠くに感じて、ただただ立ちつくして泣いた。声も出さずに、何も言えずに泣き続けた。ぽろぽろぽろぽろっと、リズミカルにしずくが垂れた。某然としたまま瞬きと手首まですでに濡れた手で顔を拭くのを繰り返す。おもむろに真由がハンカチを差し出してくれる。あんまり手が濡れているので遠慮して受け取れずにいると、真由は見兼ねたように差し出したハンカチをそっとわたしの頬に当てた。タオル地のざらざらとした感触が妙にリアルな気がした。両目の下睫毛のあたりに数度ずつ、同じようにそっとハンカチを当ててもらって、やっと少し水量が減ったようだった。うまく声が出せなくて、掠れながら何とか、ひと言絞り出した。
「まゆ…ありが、とう」
「ううん。いいの。平気?」
心配そうな声がした。悪いなあと思いながら、そのまま丁寧に拭いてもらって、やっと顔を上げられる。へらっと笑ってみせて、
「ごめん」
「いいよ。それより、はい」
使いかけのハンカチをわたしの手に握らせて、落ちた鞄を拾ってよく汚れを払ってくれる。
「真由がいてくれて、よかった」
「おおげさだなー」
茶化すように苦笑いして、だいじょうぶ、と訊く。こっくり頷いてもう一度ハンカチを使わせてもらってから、鞄を受け取って歩き出す。さっきからさほど進んでいないはずなのに、この道の先の、赤い道が終わったところの分かれ道がぐんと近づいた気がした。左右に分かれた並木道の終わり。わたしは右の道を行って、真由は左の道を行く。まっすぐにも道は続いているけれど、それはこの通りよりも道幅のずっと狭まった、高い樹もない小さな小道だった。二人ならんで歩くことくらいはできるけれど、傘を差したらぎりぎり、歩けないかもしれないというくらいの狭さだった。自分の帰る方と、真由の帰る方を見比べる。わたしの道は街中の方へ抜ける、だんだんと広くなっていく道で、真由の方は閑静な住宅街に出る、細い道だ。前に、神崎ともこの通りで偶然一緒になったことを思い出す。通い始めた塾の帰りだと言って、通りかかったそうだった。一年前の、確か今くらいの時期だった。二年生の秋だった。二年から同じクラスだったけれど、向こうは勉強ができたし、受験に必死なタイプだった。だから今以上に将来に漠然としていたわたしにはクラスメイト以上の面識も関係も無かった。大した存在じゃなかった。ばったり合って、クラスメイトだからかなんとなく連れ立って歩いただけだった。もう、塾に行ってるのとか、あの大学がどうとか、その頃周りでうるさくなり始めた今はもう面前のターニングポイントの話をした。つまらない、ただの世間話みたいなものだった。でもいちばん話しやすい話題だった。あのときも、今見ている景色と同じ、赤い葉が桜のように舞う赤い小道だった。でももっと、樹に茂っていたかな。風に吹かれて落ちそうに揺れる葉が、たくさんあった気がする。そんなに目を合わせることもなく、普通に話しながら歩っていた。ふと、彼が立ち止まって何かを見上げるような仕草をした。
「なに?」
「いや、葉が…」
地面に視線を落として、
「この道、初めて通ったけど、きれいなんだな。知らなかった」
真っ赤で、と言ってはにかんだ。見つめる横顔が、まるで知らない他人みたいだった。クラスメイトでも顔見知りでもない、初めて出会った近いひと。そんな気がふいにして、熱い気がした。秋だというのに、誤魔化したくてわざと髪をサイドに流した。見つめてしまった自分がすぐに恥ずかしくなって目をそらした。彼がきれいだと言った景色が、わたしの目の前に広がっていた。しばらく立ち止まって、静かな秋風が吹きすぎるのを聞いていた。時間が止まったみたいだった。大好きな景色のはずなのに、全然集中できなかった。落ち着かなくて、耐えられなくて、でもずっとそこに居たかった。早く立ち去りたいのに、鼓動が早くて、できない。
ふいに彼が歩き出して、小さな声で、
「みんながさ、T大にしろって言うんだ」
「みんな?」
「親とか、担任とか、塾講も。たぶんいけるだろうって。推薦も、この調子ならできるだろうって」
「ふぅん。まあ、いいんじゃない。優秀なんだし」
「いいのかな」
さっきの綻んだ声とは違う、弱ったような声だった。悩んでいるんだろうな、と分かりやすくて、強く意見をしたら簡単に従わせられそうな感じがした。
「やりたいこともないから、そうすると、行けるだけ上のレベルのところがいいって、ことになって。どこでもいいんだけど、そんなふうに」
「うん」
「これからもずっと世間体のいいところとか、周りがこう言うからだとか、そんな理由で生きてくのかな。ずっと自分なんて見つからなくて、さ。ちょうどいい将来を選んで、適当に、周りに合わせて、周りのために。自分なんて無いまま…」
消え入りそうだった。
言ったあと、すぐに照れたように、誤魔化すように笑って、
「ごめん。変なこと言った」
「変じゃない。ぜんぜん。普通のことだよ」
思わず口調が強くなった。立ち止まって、まじまじと顔を見て、言ってしまった。向こうもこちらを、びっくりして見つめているみたいだった。
「そう、思っただけ。何でもない」
とってつけて、続けた。目を逸らす。「ありがと」と、呟いて、笑ったようだったのが横目で見えた。正面から見る勇気はなかった。
まっすぐと左右の、分かれ目のところまで、気づいたらきていた。
「じゃ、おれ、こっちだから」
「うん。また、学校で」
「ああ」
まっすぐ前の細まった道を指差して、あっさりと挨拶を交わして別れる。とぼとぼと歩き去っていくのを、後ろから見つめてしまう。石につまずいた。あっ、と思うと、一瞬駆けるように足を動かして転ばずにすむ。ほっとして、わたしも帰ろう、と右に向きを変えて、その日の真っ赤な道を、それからずっと忘れない日を、誰かと一緒に見た景色をあとにする。雑踏の街へと向かっていく。
「じゃあ、明日ね。美香?」
はっとして真由を見返す。そうだ。今一緒に帰っているのは真由だった。
「あ、うん。明日ね!」
ぼうっとしていたわたしの顔をまだ心配するようにじっと見てから、真由は左の道へ、身軽な足取りでもって進み出した。わたしも記憶のなかと同じように自分の道を帰ることにする。
夕日の赤の光が、街の高層ビルのあいだに滲んでいる。ビルの窓ガラスと道路に差して、まだまだほのかに赤い世界を示していた。わたしは夕日の跡を追うようにそちらに向かう。照らされた冷たいコンクリートが靴の裏に硬い。木枯らしに似た風が一度、大きく吹いた。真後ろから、わたしを追いかけるように吹く風だった。大きくて冷たくて、思わず、かき上がった髪とスカートを抑えるのに足を止める。ふと、 風の音以外に何か聞こえた気がした。聞いたことのあるような、誰かの声のようなそれだった。空耳かな、と思って、また歩き出す。それはたぶん、わたしの待っている声ではなかった。それだけはなぜか分かった。だって、きっと、わたしがなにを求めているかなんてわたしにすら分からないのだから、こんなにタイミング良く降ってくるわけなんて無いのだ。
ぴゅう、と、また風が吹いた。今度はなにも聞こえなかった。ただの風だった。冬を呼ぶ、つんと冷えきった、寒い風だった。
聞こえた何かを、聞こえなかった何かを、期待してしまっていた。家まではまだ遠い道のりだった。そのあいだ、考え事は頭から離れそうもなかった。涙の跡が見えないか心配だった。もし家で突っ込まれたら何て言い訳しよう、と本題から逸れたことを考え出す。でも、逃げ切れない。やっぱり考えてしまう。
T大、かあ。
はああ、とため息をつく。それだけがぐるぐると自分のなかを巡って荒らす。そもそも何で、わたしはあんなに泣いて、今も彼の大学を頭のなかに駆け巡らせているんだろう、と不思議になって、考えたいことと考えたくないことが同じで苦しい気がした。考えなくちゃいけないこと。早く整理してしまいたいこと。切り替えたい気持ち。そんなものが、今まで灰色だったのがいきなりそれぞれ彩色を持ち始めたように目立って目の前に迫ってくるようだった。これからは、わたしも真由みたいに、もっと真剣に考えなくちゃいけないのかもしれない、と思った。赤い道の葉の揺れる、さわさわさわっという音が、立っているときと同じように聞こえた気がした。