Schnee
七夕記念小説です。
過去に書いた作品の改稿となります。
設定とかは全然違いますが。
――ああ、すげー憂鬱。
渡辺一樹はよくある喫茶店のチェーン店の一角を陣取り、退屈そうに目の前のアイスコーヒーの氷をかき混ぜた。――カラカラと、涼しげな音が響く。日頃の酷暑の中、その音はひどく耳に心地がよく、一瞬暑さの尽くが意識から飛び去った。実際、喫茶店ないの片隅で優雅に過ごしている一樹には、クーラーの冷風が心地よく届き、外を駆けずり回る人々を憂慮な瞳で見つめ続けているだけだった。
平日の太陽も疾うに登り昼食を取り始めるようなそんな時間、何故彼がそんな場所で胡乱げな視線で怠惰を満喫しているのかと言えば、なんてことはない、単に夏休みの期間であったからだ。
本来であれば悠々自適に自室で漫画やゲームを楽しんでいたはずなのだが、一樹の御母が緩みきった一樹を自室から追い出したのだ。それゆえに一樹のデイパックには入れたくもない重たげな参考書と筆記用具、なけなしの小遣いの入った財布が詰められていた。茹だるような熱線の中、たどり着いた図書館は既に満員。空いているのは軽く腰をかけて読書できるような簡易の椅子のみであった。その中に居座って勉強できる訳もなければ居眠りが出来る道理もなかった。当然読書をするという選択肢もあったが、漫画でもない本を読もうという気概が湧くはずもない。大きな図書館であれば漫画も置いてあるのだろうが、残念ながらこの図書館にはそんな娯楽に富んだ物品が置いてあるはずもなく。そして大きな図書館へ行くとならば自転車でも優に三十分はかかる。電車では二駅。しかし残念ながら駅までは自転車で十分は掛かる。そんな距離でさえ、移動するのも億劫である真夏日の日差しであった。
移動手段がほぼほぼ自転車に限定されているため、そんな原始的な移動方法にほとほと呆れていた。まもなく訪れる十六歳の誕生日に、原付免許の取得を固く誓ったのだった。
そんな些細な一樹の決意は兎も角、駅チカの某喫茶店チェーン店で一樹は無為に時間を過ごしていた。電車に乗ろうと駅に来たのはいいものの、次の電車までは軽く十分はあった。そんな中で屋外に出ていようという考えは一切湧くこともなく、迷わずに喫茶店の扉を開いていた。
そしてアイスコーヒーを注文してからはや三十分、一樹はアイスコーヒーに手を付けることもなく、参考書を開くこともなく延々とこうして座して黙しているだけだった。
アイスコーヒーの氷は大分小さくなり始め、初めの見てくれとは随分異なる様体を見せている。溶け出した氷のせいで味がかなり薄まっていることは間違いがないだろう。決してそれは美味とは言えない味をしていることは、実際に味わうまでもなく分かっていることだった。そんなことを意図することもなく、一樹は再びアイスコーヒーをかき混ぜた。――カラカラ。氷の立てる音も随分と小さくなっている。
アイスコーヒーを頼んだものの、実際、一樹はさほどアイスコーヒーが好きではなかった。それでもそれを頼んでしまったのは、冷たい飲み物を頼みたかったこと、コーヒー以外を頼んでしまった場合に向けられる視線を恥じたせいだった。そしてそれは当然誤った選択肢であったことをすぐさまに後悔したのだが、もはや後の祭りでしかなかった。そもそも何故喫茶店に入ったのか。その答えである駅の向こう側にあるであろうファーストフード店を思いだし一樹は顔を顰めた。
この駅には改札が二つ付いている。改札を通り抜ければ反対の改札口へと出ることは容易い。しかし、駅構内を通過しない場合、恐ろしいほどの遠回りを要される。それこそ自転車十分の距離である。残念なことに最寄駅を使用しない一樹にとって、定期を所持している理由は欠片もなかった。
つまり、怠惰に怠惰を重ねた一樹には相応の結果が待ち受けていただけだった。
チラ、と視界の端に映るコーヒーへと入れるだろうガムシロップとスティックシュガー、そしてミルク。どうせならそれに手を出してしまおうかとも考える。それは何度も考えた思考ではあるものの、高校男児の些細なプライドがそれを安易にすることを良しとはしなかった。がついに、その手がスティックシュガーへと伸びた。残念ながら彼、渡辺一樹は喫茶店に滅多には来ず、スティックシュガーとガムシロップの違いなど把握はしていなかったのだ。
彼の預かり知らぬところで消え失せそうだった彼のプライドは、彼の視界の一端を過ぎった姿によって辛うじて守られることになった。
そう。それは真白な純白。立ち去る殆どが黒や彩りを纏った姿であったのに対し、それは例えるならば真冬の雪のように何物にも汚されることもなくただただ白く純粋であった。白のワンピースに白の帽子。白の手袋に白い日傘。格好としては年若くは見えなさそうなそれでも、それを身につけている人物次第ではどうとでも変わる。一樹の目が捉えたのは肌さえも透き通るように白く輪郭はシャープ、肩下まで伸びる真っ直ぐなカラスの濡れ羽のような黒の髪を携えた如何にもなお嬢様であった。眦は僅かに下がり、そして何故か微笑むように唇の両端が僅かにつり上がっている。そして目元の泣きボクロが嫌に艶っぽい。それなのにその表情は哀愁を湛えたような憂慮にも満ちた表情であった。
気が付けば一樹は喫茶店を飛び出していた。真夏の殺人光線が一樹を苛む。だがそれも今の一樹にとってはなんてこともない意識もすることもないものに成り下がっていた。
「薫っ!!」
去りゆく白い背中に対して一樹が声をかける。意識しなければいとも容易く消えてしまいそうなそれに、必死に一樹は追いすがる。悠然と歩みを進めていたそれは一樹の声に気付き、優しげな微笑みを携えて振り返った。
「あら、一樹じゃない」
「あら、じゃなくて……なんでこんな所に」
「私がこんな所に居たらいけないのかしら?」
「そう言う意味じゃなくて……」
「うふふ、分かっているわ。ただいま、一樹」
そう言って野本薫、純白の彼女が一樹をその胸へと抱き込んだ。決して大きくもなければ小さくもないそれは確かに柔らかさを持っていて、その事実が一樹を羞恥で赤面させる。その表情を見られないようにこっそりと彼女から視線を外しながら、一樹は釈然としないまま薫を歓迎する言葉を発した。
「お帰り、薫」
* * *
「六年ぶり、かな」
どこかに視線を飛ばしながら薫がそう言った。その視線の先には緩やかに回る天井扇の存在があるが、視線が決してそれに向いていないことは分かる。視線はそう、過去の回想へと赴いていることが分かる。
「そうだな……もう、六年だ」
「一樹、大きくなった?」
「俺も高校生だぜ?この一年だけで十センチも伸びたよ」
「そっか。じゃあ、私よりももう大きいのかな」
「……これで俺も、ようやく面目つくかな」
「生意気。私のほうが年上なのに」
「……そう、だな」
薫を呼び止めた時のような気分の高揚は既に一樹の中にはない。あるのは煤けたノスタルジーと僅かな罪悪感。その遭遇を歓迎するよりも、唐突に目の前に現れた彼女に対して困惑の感情が色濃い。そんな感情のせいか、一樹の口は重く些細な会話さえも紡げないでいた。
そうして黙している一樹に、薫の優しげな表情が注がれている。それに気付いて一樹は薫からの視線を避けるように視線を他所へと反らした。
周囲にはまばらに寛ぐ人々の姿があった。うたた寝をする人物もいれば何か勉学に励んでいる人もいる。会話に興じている人々もいれば千差万別である。そんな周囲の様子を伺って冷静さをなんとなしに取り戻した一樹は目の前に鎮座するアイスコーヒーを睨みつけた。
「アイスコーヒー、嫌いだった?」
そんな様子の一樹を心配したような表情で薫が見つめていた。けれど一樹は知っている。彼女がわざとそうするように仕向けたことを。その挑発に乗るようにしてアイスコーヒーを頼んでしまった自身の迂闊さにも呆れ、一樹は一つ大きなため息をついた。
「別に。飲めるし」
「そう、なら良かった」
そう言いながら薫はガムシロップとミルクを手にとった。一樹はそれをみて僅かに眉をつり上がらせ、訝るようにして彼女へと問いかけた。
「あれ、砂糖は?」
「え?」
一樹の言葉に薫の動作が停止する。一瞬何を言っているのか全く理解できていない様子で、手元に置かれたガムシロップとミルクを眺めた。続いて添えつけられた砂糖壺を眺め、ようやく得心がいったという表情へと移り変わり、
「ふふふふふふふふふ」
「な、なんだよ」
眦から涙が溢れるほどに笑い続けたのであった。
「……もう落ち着いたかよ」
そう薫に言い遂げる一樹の顔は不貞腐れていた。それはイタズラが見つかって叱られた猫や子供にそっくりで、こういう点はまだまだ子供だな、薫はそんな風に率直にそう思った。同時にカワイイなど不名誉な思われ方をしているのは、一樹は全く知る由もなかった。
「うふふ、ごめんね。ちょっと面白くって」
そう言いながらも薫は未だに目元を拭う。笑いから来る涙を、未だに抑えきることが出来ないのだ。そんな薫の様子にイラついたような様子で一樹が視線をぶつける。その視線に怯むこともなく薫はにこやかに微笑む。
「ごめんね」
「あっ」
そう言って薫は優しげに一樹の頭を撫でる。そのひどく懐かしげな感触に、一樹も思わず言葉を内へと留めた。まるで頭を撫でられる犬のように大人しくなった一樹に、薫は益々愛おしさを感じていた。お洒落に目覚めたのか、髪はツンツンとワックスで立ち上げられ、その感触はあまり宜しくはない。それでも嬉しそうに目を閉じて薫のなすがままになっている一樹の様子に、薫はしばしそのままに一樹の頭を撫で続けた。
ようやく薫もその動作に満足したように一樹の頭から手を離した。一瞬、寂しげな目をしていた一樹だったが、直ぐに表情を取り繕うと不貞腐れたような表情へと変わった。
「いつもそうやってガキ扱いして……」
「うふふふ、そんなことないわよ」
やはり薫のその瞳はとても優しかった。それを真正面から見つめてしまった一樹は、思わずその視線に捉えられた。真っ直ぐに射抜くような視線。けれどそれは決して不快なものではない。むしろずっと見つめていたいような、ずっと囚われていたいような視線だ。そんな視線の中に、たった一つ、今までには見えていなかった感情が見て取れて一樹は思わず喉を鳴らした。
「一樹は立派な男の子だよ」
そう言って笑う薫。その表情に思わず『薫だってそうだよ』と言いかけて、慌てて言葉を飲み込んだ。それは終わってしまったものだし、許されてもいないものだ。今はただ一度の、"真夏の昼の夢"でしかない。だから一樹は言葉を噤んで上目遣いで薫を見上げた。その表情は不安に目を潤ませる子犬のようで、薫にまた新たな感情を抱かせたのだったが、それを一切おくびにだした様子さえ見せたりはしなかった。
「バスケット、まだやってる?」
「辞めたよ」
薫が唐突に振った話題は一樹が一時夢中になっていたバスケットの話だった。しかし、それもとうの昔の話。尋ねられた一樹はむべにも似たようにあっさりと言い切った。それを聞いた薫の表情が僅かに曇る。
「それって私のせい……だよね?」
恐る恐る薫が聞く。それは質問の形をとってはいるものの、実際は確信をもって尋ねているに過ぎない。その表情に優しい嘘を告げようとして、それでも傷つけてしまうことを確信して一樹は一切の偽りもなくその言葉を正直に告げる。
「……ああ、そうだね」
薫の表情がクシャリと歪む。端正であるその表情が歪む光景はそう見ていたいものではない。一樹だって、好きでそうしているのではない。ただ薫が、自身への罰を求めていることは間違いがなかった。薫が欲しがっている言葉、それが痛いほどに一樹には分かる。痛いほどに、分かってしまう。
――一心同体。なんとも分かりやすく、適切な言葉なのか。一樹と薫の関係を表したそれはなんとも心地よく、そして痛みを伴っていた。
一つの心に二つの身体。その矛盾。そして罪悪。そしてその苦さを噛み締めるようにして味わう。
「お母さん、元気?」
「おお、元気元気。『今度は資格をとるんだーっ!』って息巻いてるとこ」
「元気そうで良かったわ」
一樹の下手なモノマネに薫はクスクスと笑いを零す。――ああ、そっか。こんな風に笑うんだっけ。一樹は今更ながらにそう気が付いた。そんな一樹の視線に気が付いた薫は目を丸くし、そしてイタズラを思いついたように変な表情でニヤけた。
(あ、嫌な笑い)
「見蕩れてたでしょ?」
それはまるで好きな女子を虐める男子よろしく、好意の裏返しに違いなかった。――やられたなら、やり返せ。
「ああ、見蕩れてた」
一瞬薫はキョトンとした表情を見せたが、すぐに満開の花のように満面の笑みを浮かべた。その中に僅かに垣間見えるのは痛悔。選択は間違っていなかった。それでも悔いないことは決してない。そんな感情をそっと笑顔の裏に隠していた。
「それにしてもなんで今頃……」
「一樹がやっと、私を見てくれたから、かな」
言いたいことをグッと胸の中に押さえ込む。一樹はずっと、ずっとずっと薫を見てきた。薫が思っている以上に薫を見てきた。
「俺はずっと、薫を見てきた」
「え?なにか言った?」
「なんでもないよ」
こっそりと呟いた言葉を再び繰り返すことはない。それを目の前の彼女へ告げるつもりもなければ、教えてやるつもりもない。そんなことをしたところで、もう遅すぎるのだ。
不意に汗で張り付いたTシャツの不快感が押し寄せた。汗臭くはないだろうか、そう思いはしたものの、自身の体臭はあまりよく分からず、結局は成す術もない。そしてなぜこの時期に姿を現したのかという理不尽な不満が押し寄せた。
「それに、なんでこんな時期に……」
「こんな時期だから、でしょ?」
「……そらそーだ」
これから残暑へと向けて暑さが逃げていく、そんな八月中旬の、セミたちが短い命を限りなく使い果たすそんな季節。ただ一人取り残された一樹の前に現れた最も大切な人。
あの頃はただ憧れていただけだった。どんなに頑張ってもその背中に追いつくことは出来ず、ひょいひょいと一樹の前を行ってしまう。追いつけなくて泣きそうになっていると、必ずこちらを振り向いて待っていてくれる。そんな背中に追いつこうと、常に努力を続けてきた。バスケットだってそう。身長が伸びると聞いて始めたのが切欠だった。結局それは噂程度しかなく、それを続けずとも身長は勝手に伸びた。
時は残酷に、無情に過ぎる。そして一樹は成長していく。縮まるはずのなかった距離が次第に、近づいていく。それがひどく恐ろしく、そして悲しい。どう足掻いたところで時は止まることもなく、薫を置き去りにしていく。
その距離がもうあと二年もすれば、ゼロになる。
そしてようやく、一樹は理解した。薫の抱いていた感情を。二人を取り巻いていた環境を。
――それは異常だ。
一笑に付されるかもしれない。汚らわしいと嫌悪の視線を向けられるかもしれない。もしも受け入れられなかったら?もしも受け入れられたとしてもその将来は?
不安と恐怖に苛まれていたのだろう。それは一樹にもよく分かっていた。だからこそ、無垢で無知であった過去の自分を許せない。無償で安寧を受け入れていた自分を、赦せない。
もしも立場が逆であったのならば、自分はどういった選択肢を選んだのだろうか。違った答えの道を選んだ?それとも彼女と同じように自ら――……
「一樹」
思考に浸っていた一樹を優しげな声が引き戻す。その声とは反対にその表情には不安が刻まれ、一樹の心情を伺うように目を細める薫の姿があった。
「あ、ごめん」
「ううん、いいの。でも、変なこと、考えちゃ嫌だよ?」
――変なことをしたのはどっちだ。思わず怒声を叩きつけたい気分を無理矢理に押し込め、一樹は軽く彼女を睨みつけた。その表情に薫が若干肩を揺らして動揺の色を見せた。鋭く射抜くような視線にドギマギとして、慌てるように視線をあちらこちらへと飛ばす。
「本当に、バカだよ」
挙動不審なその姿に、震える声を無理矢理にぶつける。感情を必死に押し殺そうとしてそれでもとめどなく押し寄せるそれに抵抗する手段は皆目ない。それに呼応するかのように薫の瞳に水分が集中していく。
「本当に、バカだ」
* * *
「落ち着いた?」
「うん……ごめんね」
「別にいいよ。それにこうしてるの、結構楽しいし」
今は一樹は薫の横に腰掛け、宥めるようにしてその頭を撫でていた。頭に被っていたはずの帽子は薫の傍らに据え置かれている。一樹はその美しい髪を手櫛をかけるようになんども撫でる。その感触に心地よさそうにしていた薫であったが、一樹のセリフに照れたように顔を背けた。
「本当、生意気になっちゃって」
「俺だって、男の子なんだぜ?」
ニッと笑ってみせる一樹。そんな一樹の笑顔に対して薫は頬を染めた。その視線に囚われた薫は、自身が抱いてきた感情が間違いではなかったと改めて実感した。そしてフッと軽く息をつき、愛おしむような視線で再び一樹と視線を合わせた。それは覚悟を決めたような視線であり、一樹は薫が何処かへ消えてしまう確信を覚えた。
「また、行っちゃうんだよな?」
「……うん」
「また会えるのか?」
「来年もまた会えるんじゃないかな」
「そういうもんか?」
「そういうもんだよ、きっと」
そうか、と適当に相槌を打つ。あまり考え込んでも仕方がない。一樹は適当にそう結論付け、薫の言葉に頷いた。そんな様子を見せる一樹に、薫は変わらずに優しい笑顔で微笑む。
「じゃあ私、そろそろ行くね」
「え、もう行くのか?」
「一樹の顔も見れたし、もう大満足、かな?」
「……もう行くのか?」
「ちょっと、そんな表情、しないでよ」
追いすがる子犬のような視線で薫を見つめている一樹。そんな一樹を置い捨てるなど、薫にとっては到底無理難題にも近い問題であった。拗ねる子供を宥めるように薫が優しく一樹の頭を撫でる。クシャリ、と一樹の髪が押しつぶされてその手の圧力を直接頭へと届ける。
「これで、我慢して」
一樹の肩を一気に引き寄せ、互の顔を接近させる。一秒にも満たない軽いバードキス。撫でるようなその感覚に一樹は身震いをした。
そしてそれを行った筈の当の本人も、その両頬を仄かに赤らめて羞恥を示していた。
「これで我慢、出来る……うむっ!」
そう告げる薫の唇を、一樹は無理やり奪った。あんなたった一つの戯れるようなキスで、誤魔化されたりはしない。欲しいものは絶対に奪う。今そうしなければ永遠にそれを失ってしまいそうな気がして。
一樹の舌が唇が、薫の口内を、口腔を蹂躙する。薄ら甘いコーヒーの味がした。ほぼほぼ聞きかじりの知識でしかなかったが、そんなものは意識の端には上りもせず、本能的に求めるように薫を求めた。時々聞こえる薫の息遣いが一樹の耳に届き、それが更に一樹から冷静さを奪う。歯茎を、舌を、撫でるように何度もなぞる。その度に震える薫の表情は、抵抗を見せる体とは反面に恍惚とした女の表情であった。
それに十分に満足感を覚えた一樹はゆっくりと薫を引き離した。薫の身体には十分に力が入っておらず、一樹が抱えていなければテーブルへと倒れ込むことは必須であろう。
薫の目には軽く涙が浮かんでいる。そんな表情を見て、再び一樹は胸を高鳴らせた。そんな一樹の機微など知ったことではなく、薫はキッと正面の一樹を睨みつける。
「一樹のバカ!大好き!!」
そう言ってのけると薫は一樹に再び軽く唇を寄せる。しっとりと濡れたそれは一樹のそれを啄むようにしてその形をなぞり、スッとその感触を惜しみながらも引かれた。
一瞬の瞬きのあと、一樹の目の前に居たはずの薫の姿はまるで幻のように一瞬で立ち消えていた。ご丁寧にも、薫の前に置いてあったミルクとガムシロップを溶かし込んだ薄茶色のアイスコーヒーも残っていはしない。一樹の目の前に残されていたのはただ一つ、未だに黒い姿をしたままのアイスコーヒーだけだった。
甘く、苦く、柔く、痛い。
今はもう目の前にはいないその姿を思って、一樹はボソリと呟いた。
「いつか絶対、迎えにいくから」
独白のように、誰もその言葉を聞き届ける者はいない。それは自身への、そして近くで見守っているであろうその存在に対しての誓いだ。だからそれを聞いていて欲しいとも思わない。
一樹が異常者だとしても、その心を貫いた薫を裏切ることは出来ない。絶対に、裏切らない。
「俺も大好きだ。――ねーちゃん」
その言葉は鋭い痛みを伴い、そして雪のように儚く消えた。
どうしてこんなのしか書けないんでしょうかね……
以下ネタバレ
設定
渡辺一樹
十五歳、高校生。野本薫の弟。元バスケットプレイヤー。姉の身長を抜かしたくて始めたバスケットボールだが、当の姉がいなくなってしまったことでそれを続ける意義を見失い辞めることに。
シスコン。元々は姉を尊敬するばかりだったのだが、姉の死去後に親愛を超えた感情を抱いていたことに気がつく。同時に姉が自身に抱いていた感情を理解し、無知であった自身をひどく後悔している。両親の離婚後、母親に引き取られた。
野本薫
享年十六歳。幽霊。お盆の時期なので帰ってきた。最後に"お姉ちゃん"でいられる時期なので姿を見せた。来年も会えると言っているが、今後はもうこないつもりでいる。(が、一樹に強く想われたりしたらやっぱり来ちゃうかもしれない)
両親の離婚後、父親に引き取られる。実は弟に対する恋心を父親に見抜かれていた。下衆いことに父親も娘に情欲を抱いていたため引き取った。その魔手から身を守るため、そして一樹のために純情であるため、自ら命を絶った。選択肢としては間違ったとは考えていないが、六年越しにあった一樹に会い、些か後悔している。
てかこの辺はセフセフ?BL、GLはあるけど近親系はないし……