海の底で見る夢(3)
気泡の音はすぐ側から聞こえるようでもあり、どこか遠くから聞こえてくるようでもあった。
目を閉じた暗闇の中、脳裏にはユラユラと形を変えながら昇っていく気泡が、鮮明に映っていた。
私の意識は再び海と一つになり、かつてない程、海の気配を濃く感じていた。
身体にまとわりついていたクラゲの触手は、私に興味を無くしたのか、ゆるゆると解けた。
更に奥へと落ちていく私を相変わらず波揺られながら見送っているようでもあった。
息苦しさは全くなく、水圧も気にならない。
いつまでも、どこまででも潜っていけそうな気がした。
海はますます深く、蒼くなっていく。
ふいに、冷んやりとした恐怖が音もなく私の背筋をつたっていった。
「海に呼ばれても、決して応えるんじゃない」
聞き覚えのある声が耳の奥で響く。
今ではほとんど声を聞くことのなくなった父の声だ。
幼い頃、海のことはすべて父から教わった。
海の恵もその深さも。
「いいか、覚えておけ。
俺たちは海の声を聞き、海から恩恵を貰って生きている。
だが、海は俺たちにとって味方ではない。
俺たちの身体は海に近い。
だから時に、海は俺たちを取り込んで海の一部にしたがる。
そこに善悪はない。
いわば本能のようなもんだ。
だから海から呼ばれても決して応えるんじゃあないぞ」
何度も何度も繰り返し聞かされたため、記憶の底に深く刻まれた言葉だ。
この話をするとき、父はいつも険しい表情をし、苦しんでいるようでもあり、何かを思い浮かべているようでもあった。
「これがそうなのだろうか」
私は不思議な高揚感に包まれながら、真っ暗な海の底へと視線を向ける。
視界はまったく閉ざされているが、私には深海を泳ぎ回る生き物の気配を、自分
の皮膚の上を歩き回っているように感じていた。
私と海は、今ひとつになっている。
進めという声と、止まれという声が同時に頭の奥で響く。
海の底はまだ見えない。
私はどうしても、海の底に沈むという虹色の貝を持って帰らなければならない。
コポン、コポン。
暗闇の中を、小さな音が響いている。
気泡の立ち昇る音は、海が漏らす吐息のようでもあった。
胸の奥にため込んだ何かを、一息には解放せず、少しずつ少しずつ吐き出していく。
その息はやがて海面へとたどり着き、空へ溶ける。
いくつかは雲の一部となり、いくつかは風に乗って海を渡るのだろう。
私の意識は暗い海の底近くにあって、空の色をありありと感じとっていた。
視界の淵に薄らとした明かりが滲んでいる。
一瞬、青空の残像かとも思ったが、明かりは潮の流れに合わせて、頼りなく揺れていた。
私は視線を明かりの方へと移した。
真っ暗な深海の奥、ところどころで頼りない明かりが揺れている。
潮の加減に合わせて、その小さな光は赤や青、紫、緑、それらが混じり合って虹色に輝いていた。
人の心を惹きつける、幻想の色をしていた。
私は無意識に手を伸ばし、足で水圧の壁を蹴っていた。
明かりはみるみるうちに近づいてくる。
気づいた時には私の両足は、海の底の地面をとらえていた。
私は地上を歩くようにして海底を歩いた。
足元では、虹色の明かりを灯す貝殻が、星空のように広がっている。
私は夢中でそれを拾い集めた。
手の中には、 数十個の貝が乗せらている。
「海の恵みは両手で少し余るくらいにしておくものだ。
それ以上は荷が勝ち過ぎる」
耳の奥でまた父の掠れた声が聞こえてきた。
私は頭を振って声を振り払うと、勢いよく海底を蹴って浮かび上がった。
私にはこの貝が必要なのだ。
粒子の細かい砂の粒が煙のように広がっていく。
両手に抱えた虹色の光は、私が水を掻き分ける度、広がり、滲み、消えていった。
早く早く。
目的の物を手に入れた私の心は、先へ先へと意識を走らせた。
しかし、どれだけ昇っても海面が見えてくる気配は見えない。
底へ辿り着いたのと同じだけ昇ったようでもあり、まだ半分もきていないようでもあった。
心が急いているだけ、身体の感覚が曖昧になっていた。
ふと、自分が海面へ向かって昇っているのか、海底へ向かって潜っているのか、分からなくなった。
何時の間にか海の声も聞こえない。
あれ程の高揚感は消え失せ、潮が音もなく満ちるように、深海そのもののような恐怖が心の隙間に滑り込んできた。
途端に息苦しさが私に牙を剥く。
海面はまだ遠く、影さえ見ることは出来ない。
視界は徐々に狭まり、意識は遠のいていく。
意識が私に向って閉じてくる。
海の水が一粒一粒の雫となり、私の脳裏に染み込んできた。
僅かに残された意識が泡立つ。
父が見た光景はこれだったのだろうか、そして母も。
思考の尾ひれを捕まえる前に、私の意識は暗い海へと沈んでいく。
私の意識を追いかけるように、虹色の光が海底へ向かって、後から後から落ちていった。




