異世界転生したら、おばあちゃんの膝掛けが最強の聖遺物でした ~87万4千の祝福を纏う者~
深夜2時17分。6.8トンのダンプが赤信号を無視した。
俺——佐藤健太、32歳、独身、中堅商社の万年係長——は、コンビニ袋を片手にその光景を見ていた。見ていた、というより、もう避けられないと悟っていた。
スローモーションで迫るヘッドライト。
走馬灯なんて嘘だ。頭に浮かんだのは、たった一つ。
『今日、おばあちゃんの命日やったな』
コンビニ袋の中身が宙を舞う。缶ビール。カップ麺。そして——ベージュと茶色の格子柄。使い古された、膝掛け。
仕事帰りに実家へ寄った。誰も住まなくなった築47年のアパート。遺品整理業者が来る前に、これだけは持ち出したかった。ばあちゃんが40年かけて編んだ、俺のための膝掛け。
衝撃。
痛みは一瞬だった。
視界が白く染まる。体が浮く感覚。ああ、死ぬんやな、と妙に冷静に思った。
『寒くないかい?』
——ばあちゃんの声が、聞こえた気がした。
握りしめた膝掛けが、淡く、温かく光る。
そして俺は——落ちた。
白い光の中を、どこまでも、どこまでも。
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目を開けると、草原だった。
青い空。見たこともない形の雲。遠くに聳える、現実離れした巨大な山脈。そして——自分の手が、やけに小さい。
「……は?」
声が高い。子供の声だ。
慌てて体を起こす。服がブカブカ——いや違う、体が縮んでいる。手のひらを見る。32年間酷使してきた中年サラリーマンの手じゃない。柔らかくて、小さくて、傷一つない子供の手だ。
「なんやこれ……なんやこれ!」
混乱する頭で、一つだけ確かなことがあった。
肩に、あの膝掛けがかかっている。
見覚えのある格子柄。ところどころ補修した跡。40年分の愛情が編み込まれた、ばあちゃんの——
「おい、そこのガキ!」
怒声。
振り返ると、鎧を着た男たちが馬に乗ってこちらへ向かってくる。剣を抜いている。目が血走っている。どう見ても、優しく道を教えてくれるタイプじゃない。
「魔族の斥候か!? このあたりに子供がいるはずがない!」
「殺せ! 確認は後だ!」
理不尽。
転生して最初に遭遇するのが、殺意マシマシの騎士団とか聞いてない。チート能力は? ステータス画面は? 美少女ヒロインの出迎えは?
「ちょ、待っ——」
言葉が通じている場合じゃない。
逃げようとした瞬間、足がもつれた。8歳の体は、32歳の感覚で動かない。
転ぶ。
馬蹄が迫る。剣が振り上げられる。
——死ぬ。また死ぬ。今度こそ、本当に。
『大丈夫』
その時、膝掛けが光った。
『おばあちゃんがついてるよ』
温かい光が全身を包む。騎士の剣が振り下ろされた——その刃が、膝掛けに触れた瞬間。
砕けた。
鋼の剣が、飴細工のように粉々に。
「な——」
騎士が絶句する。俺も絶句している。
膝掛けは相変わらずベージュと茶色の格子柄で、古びていて、どう見てもただの布で——でも確かに、ばあちゃんの声が聞こえた気がした。
「ば、化け物……ッ!」
騎士たちが悲鳴を上げて逃げていく。
草原に、俺だけが残された。
8歳の体。見知らぬ世界。そして、光を失った膝掛け。
「……ばあちゃん」
呟いた声は、情けないほど震えていた。
これが、俺の第二の人生の始まり。
最強でも最弱でもない。ただ——祖母の愛だけを纏った、新たな物語の。
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「信じらんない」
銀髪ツインテールの少女が、三度目の溜息をついた。
王都グランディア。鑑定士ギルド本部。その最奥にある特別鑑定室で、俺は椅子に座らされていた。
あれから三日。逃げた騎士たちが『謎の魔法使いの子供』として報告したらしく、調査のためにこの街へ連行された。殺されなかっただけマシか。
「もう一回やるわよ。いい?」
少女——リーナ・フォルトゥーネ、14歳、王国最年少の一級鑑定士——が単眼鏡を構える。翡翠色の瞳が真剣そのものだ。
「あの、さっきから何度も……」
「黙ってて。集中するから」
強気なお嬢様口調。でも手が微かに震えているのを、俺は見逃さなかった。
鑑定開始。
単眼鏡が淡く光る。リーナの瞳孔が開く。数秒の沈黙。そして——
「……っ!」
彼女の顔が蒼白になった。
「な、なによこれ……数値が、止まらない……!」
単眼鏡から火花が散る。煙が上がる。そして——
バァン!
爆発した。
「きゃあああ!」
リーナが尻餅をつく。俺は咄嗟に膝掛けで彼女を庇った。……いや、庇おうとしたら膝掛けが勝手に動いた。
「ちょ、何この布、生きてるの!?」
「いや俺に聞かれても……」
煙が晴れる。単眼鏡は黒焦げで、完全に使い物にならなくなっていた。
リーナは震える手で報告書を取り出し、書き殴り始めた。
「……品名、不明。材質、不明。年代、推定40年から50年。制作者、不明。そして——」
彼女の声が掠れる。
「祝福数、87万4千以上。測定限界突破により正確な数値不明」
「はちじゅうななまん……?」
「普通の聖遺物は、多くても数百よ。国宝級でも数千。伝説の神器でさえ、数万がいいところ」
リーナは俺を——正確には俺の肩にかかった膝掛けを——見つめた。
「これは『神代級聖遺物』。いえ、それすら超えてる。人類が観測した中で、間違いなく最高位の——」
「ばあちゃんの膝掛けやで、これ」
「……は?」
「俺のばあちゃんが、40年かけて編んでくれたやつ」
沈黙。
リーナの顔が、困惑から怒りに変わった。
「ふざけないで! 87万4千の祝福を込めるのに、どれだけの——」
「毎日やで」
俺は膝掛けを見下ろした。ところどころ色褪せて、何度も補修されて、それでも柔らかい手触り。
「毎日、俺のために編んでくれてた。『健太が寒くないように』『健太が怖い夢を見ないように』『健太が寂しくないように』って」
一日一目。いや、きっともっと。
40年分の、一目一目に込められた祈り。
「俺、両親おらんかってん。ばあちゃんだけが家族で。でも仕事忙しくて、最後……死に目に、会えんかった」
声が震える。8歳の体は、感情の制御が難しい。いや、32歳の精神でも、これは無理だ。
「だからこれだけは持っていきたくて。遺品整理の前に。そしたら——」
『寒くないかい?』
不意に、膝掛けが淡く光った。
温かい。懐かしい。ばあちゃんの膝の上で、編み物の音を聞きながら眠った、あの頃の——
「……っ」
リーナが息を呑む音が聞こえた。
「あんた……泣いてる」
「泣いてへん」
「嘘。ボロボロじゃない」
自覚したら止まらなくなった。8歳の体は、本当に、涙腺が弱い。
リーナは暫く黙っていた。そして、ぽつりと呟いた。
「……私も、お婆様がいたわ」
「え?」
「没落する前の話よ。家が傾いて、両親は夜逃げして、私だけ残されて——お婆様だけが、最後まで私を守ろうとしてくれた。でも、私には何もできなかった」
彼女の翡翠色の瞳が、膝掛けを見つめている。
「87万4千の愛情。それを測定できて、この目は何の意味があるのかしら。私には……一つも、届かなかったのに」
「リーナさん……」
「リーナでいいわ。さん付けとか気持ち悪い」
彼女は立ち上がり、黒焦げの単眼鏡を拾った。
「私があんたの鑑定士になってあげる。その膝掛けの秘密、全部暴いてやるんだから」
「いや、別に隠してへんけど……」
「うるさい。決定事項よ」
ツンとした表情の奥に、僅かな——本当に僅かな——羨望と、温かさが見えた気がした。
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その夜、王都に激震が走った。
『魔王軍、東部戦線を突破。首都まで残り三日』
戦争が、始まろうとしていた。
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血と硝煙の匂いが、鼻を突く。
王都グランディア東門。そこはもう、地獄だった。
「防壁、第三層まで突破されました!」
「第七騎士団、壊滅! 生存者なし!」
「魔王軍の先遣隊が——四天王旗です! 四天王が来てます!」
悲鳴と怒号が飛び交う中、俺は城壁の上で立ち尽くしていた。
なんでこんなことに。
三日前まで平和な鑑定ギルドにいたのに。『最強聖遺物の保持者』として王城に呼び出されて、気づいたら戦場の最前線。8歳の体で、32歳の精神で、どうしろと。
「ケンタ! 伏せろ!」
隣で巨大な盾を構えていた男——ガルド・アイゼンバーグ、元騎士団長——が俺を押し倒した。
直後、漆黒の炎が城壁を薙いだ。
石が蒸発する。兵士が悲鳴を上げる間もなく炭化する。たった一撃で、十数人が消えた。
「ひ……っ」
声にならない悲鳴が漏れる。これは、戦争なんてものじゃない。虐殺だ。
「来たか……」
ガルドが低く唸る。その隻眼が、戦場の一点を見据えていた。
黒い。
全てを呑み込むような漆黒のマントを纏い、灰白色の長髪をなびかせて、その男は悠然と歩いてくる。
冥魔将ヴァルナディス。
魔王軍四天王筆頭。300年無敗。単独で王国を三つ滅ぼした、最悪の怪物。
「おやおや」
声は、意外なほど穏やかだった。
「『87万の祝福を持つ聖遺物』とは、随分と仰々しい噂を聞きましたが——」
金色の瞳が、俺を捉える。
「なんです、この惨めな小僧は」
嘲笑。純粋な、見下し。
「聖遺物がどうとか言うから、多少は骨のある神官戦士でも出てくるかと思えば。子供一人に、ボロ布を巻きつけただけですか」
膝掛けを、ボロ布と言った。
頭に血が上る——が、体が動かない。恐怖で。圧倒的な存在感で。彼が一歩近づくたび、空気が凍る。
「ガルド・アイゼンバーグ。久しぶりですね」
ヴァルナディスの視線がガルドへ移る。
「10年前、あなたの部下300人を燃やした時は楽しかった。今日は何人連れてきましたか?」
「……てめえ」
ガルドの義手が軋む。歯を食いしばり、剣を構え——でもその手が、震えている。
この人も、恐れている。300人の部下を殺した怪物を、前にして。
「まあいいでしょう。貴様ら雑魚はどうでもいい」
ヴァルナディスが俺を見下ろす。
「その布を渡しなさい。87万の祝福——それが本当なら、魔王様への良い土産になる。おとなしく渡せば、痛みなく殺してあげましょう」
「——断る」
声が出た。自分でも驚くほど、はっきりと。
「は?」
「これはばあちゃんの膝掛けや。お前なんかに、渡すわけないやろ」
膝が震えている。声も震えている。でも——
『大丈夫、おばあちゃんがついてるよ』
膝掛けが、温かい。怖くても、逃げ出したくても、この温もりだけは渡せない。
ヴァルナディスの金色の瞳が、僅かに揺れた。
「……面白い。その目、嫌いではないですよ」
彼が手を掲げる。漆黒の炎が渦を巻く。城壁を溶かしたのと同じ、あの悪夢の炎が。
「では、その覚悟ごと燃やし尽くしましょう」
炎が放たれた。
避けられない。防げない。死ぬ——
『寒くないかい?』
膝掛けが、光った。
淡いベージュの光が俺を包む。漆黒の炎がそれに触れた瞬間——
消えた。
城壁を溶かすほどの業火が、ロウソクの火を吹き消すように、跡形もなく。
「——なっ」
ヴァルナディスの目が見開かれる。初めて見せた、動揺。
「何を、したっ……!」
俺にも分からない。でも膝掛けが囁いている気がした。
『お腹すいてない? 温かいもの作ろうか?』
ばあちゃん。ばあちゃんが、守ってくれてる。
「あり得ない……あり得ない! 私の冥炎を、ただの布切れが——!」
ヴァルナディスが再び手を振る。今度は氷。絶対零度の吹雪が——
消えた。
次は雷。次は闘気。次は呪詛。
全て、膝掛けの温かい光に触れた瞬間、消えていく。
「馬鹿な……馬鹿な……!」
四天王の顔に、焦りが浮かぶ。そして——その奥に、何か別の感情が。
「その温もり……なんだ、それは。なぜ私の心臓が……こんなにも……」
彼は胸を押さえた。金色の瞳が揺れている。怒りでも恐怖でもない。もっと根源的な——
「……っ、撤退だ! 全軍撤退!」
唐突に、ヴァルナディスが叫んだ。
「四天王自ら退却など——」
「黙れ。これは戦術的判断だ。あの聖遺物の解析が先だ。……今日のところは、見逃してやる」
捨て台詞。でも俺は見た。彼が最後に膝掛けを見た時の目を。
恐怖と——懐かしさが、混ざっていた。
---
魔王軍が去った後、城壁は歓声に包まれた。
でも俺は、その場に崩れ落ちていた。
「おい、ケンタ! しっかりしろ!」
ガルドが支えてくれる。リーナが駆け寄ってくる。
「何よ、死んでないわよね!? 死んだら許さないんだから!」
「……死んでへん。ただ、腰抜けただけや」
情けない。32歳の精神が、8歳の体で、本当に情けない。
でも——
「ケンタ」
ガルドが俺を見下ろした。傷だらけの顔に、不器用な笑みを浮かべて。
「お前、逃げなかったな」
「……へ?」
「あの化け物を前にして、膝掛けを渡さないって言った。8歳のガキが。たいしたもんだ」
褒められているのか。よく分からない。
「俺は10年前、あいつの前で動けなかった。部下が燃やされるのを、見てるだけだった。お前は——違った」
「いや、俺も動けへんかったで。膝掛けが勝手に——」
「違う」
ガルドの大きな手が、俺の頭を撫でた。
「お前は、渡さないって言った。それが全てだ」
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その夜、俺は宿舎の窓から月を見上げていた。
膝掛けを膝にかけて。昔、ばあちゃんの家でそうしていたように。
「なあ、ばあちゃん」
返事はない。でも、温かい。
「俺、ここで何ができるんやろな。チート能力もないし、戦い方も知らんし。こんな子供の体で」
沈黙。月だけが、静かに輝いている。
「でも——お前の膝掛けがあれば、俺は怖くないんや」
膝掛けが、ほんの少しだけ光った気がした。
『おばあちゃんはね、健太が生まれた時から、ずっと祈ってたんだよ』
幻聴。いや、記憶か。昔、ばあちゃんが言っていた言葉。
『健太が寒くないように。健太が怖い夢を見ないように。健太が寂しくないように。そして——健太が、誰かを温められる人になりますように』
「……誰かを、温める」
呟いて、俺は膝掛けを握りしめた。
分からないことだらけだ。この世界のことも、魔王軍のことも、俺に何ができるかも。
でも一つだけ、分かる。
ばあちゃんは、俺を信じてくれていた。
なら——その信頼に、応えなきゃ。
「ばあちゃん。見ててな」
月明かりの下で、俺は小さく、でも確かに、決意を固めた。
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「違う、そうじゃねえ! 剣は腰から振るんだ! 手打ちになってるぞ!」
訓練場に、ガルドの怒声が響く。
俺は木剣を握りしめ、何度目か分からない素振りを繰り返していた。8歳の腕は細く、32歳の感覚で振ってもまるで力が入らない。
「はぁ……はぁ……」
「休憩だ。水飲め」
ガルドが革袋を投げてよこす。俺はそれを受け取り、その場に座り込んだ。
リーナが木陰で本を読みながら、冷めた目でこちらを見ている。
「無駄だと思うけど」
「うっさい」
「だって、あんたが剣振らなくても膝掛けが勝手に敵を倒すじゃない。わざわざ鍛える意味ある?」
正論だ。ヴァルナディスの攻撃は全て膝掛けが無効化した。俺は何もしていない。立っていただけだ。
「……でもな」
俺は木剣を見つめた。
「いつまでも、ばあちゃんに守られてばっかりじゃあかんやろ」
リーナが目を丸くする。ガルドが腕を組む。
「ばあちゃんは80歳まで生きて、最後の最後まで俺のこと心配してた。俺が仕事で潰れそうな時も、体調崩した時も、ずっと。でも俺は——忙しいって言い訳して、全然会いに行かんかった」
喉が詰まる。
「死に目にも会えへんかった。40年分の愛情受け取っといて、俺は何一つ返せへんかった」
木剣を握る手に力が入る。
「だから、もう甘えるだけは嫌なんや。膝掛けに守られながらでも、俺自身も強くなりたい。——ばあちゃんを、安心させたいんや」
沈黙が落ちた。
ガルドが、ゆっくりと近づいてくる。そして——俺の頭を、ばしん、と叩いた。
「痛っ!」
「いい心がけだ」
見上げると、傷だらけの顔に、不器用な笑みが浮かんでいた。
「お前、いいガキだな」
「いや32歳やねんけど」
「あ?」
「なんでもない」
ガルドは俺の隣に座り込んだ。義手が軋む音がする。
「……俺もな、守れなかったんだ」
唐突に、彼は語り始めた。
「10年前。魔王軍が初めて侵攻してきた時、俺は騎士団長だった。300人の部下を率いて、意気揚々と出陣した。——全員死んだ」
「ガルドさん……」
「ヴァルナディスが一人で来た。あの黒い炎で、俺の部下を、一人ずつ燃やしていった。俺は何もできなかった。恐怖で動けなかった。左目と左腕をやられて、気絶して、気づいたら病院のベッドだ」
彼の右手が、携帯している酒瓶を撫でた。
「この中には、部下の遺灰が入ってる。300人全員は無理だったが……拾えるだけ拾った。俺が殺したようなもんだからな。背負う義務がある」
重い。32歳の精神でも、その重さは分かる。
「それでも——」
ガルドが俺を見た。
「お前の膝掛けに包まれた時、思い出した」
「え?」
「俺の母親。俺が5歳の時に死んだ。でもその前に、いつも俺を膝に乗せて、温かい毛布で包んでくれた」
彼の隻眼が、潤んでいる。
「あの温もりと、同じだった。お前の膝掛け。だから——」
「ガルドさん」
「俺は決めた。お前を守る。お前と、その膝掛けを。命に代えても」
「いや、そこまでせんでも——」
「うるせえ。決めたんだ」
ガルドは立ち上がり、木剣を構えた。
「さあ、続きだ。お前が一人前になるまで、俺が鍛えてやる。——いつか、俺を守れるくらい強くなれ」
「無理やろそれは……」
「やってみなきゃ分かんねえだろ。ほら、立て!」
俺は立ち上がった。木剣を構えた。
膝掛けが、温かく揺れた気がした。
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リーナが、そっと本を閉じた。
「……あいつら、暑苦しいわね」
でも、その翡翠色の瞳は——どこか羨ましそうに、二人を見つめていた。
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その日は、雨だった。
魔王軍の第二波が来たのは、最初の撤退から一週間後。今度は四天王全員を率いて、王都を完全に包囲した。
逃げ場は、ない。
「全軍、最終防衛ライン! 王城を死守せよ!」
騎士たちの叫び声が雨に溶ける。俺は城壁の上で、迫り来る黒い軍勢を見下ろしていた。
隣にガルド。反対側にリーナ。そして——肩には、ばあちゃんの膝掛け。
「ケンタ」
ガルドが剣を抜いた。
「今日で終わりかもしれん。だが——」
「分かってます」
俺は膝掛けを握りしめた。
「逃げません」
「……ガッハッハ。いい返事だ」
リーナが単眼鏡を構える。新しいやつだ。壊れても壊れても、彼女は新しいのを用意してきた。
「ヴァルナディスが来るわ。他の四天王は陽動。本命はあいつ一人」
「どうして分かる?」
「あいつの目よ。一週間前、あんたの膝掛けを見た時の目。——忘れられないって顔だった」
鑑定士の目は、物だけじゃなく心も見抜くらしい。
「来る」
雨の向こうから、漆黒のマントが近づいてくる。
冥魔将ヴァルナディス。
今度は、微笑んでいなかった。その金色の瞳には、怒りと——もっと深い、何かが渦巻いていた。
「また会いましたね、小僧」
「また来たんか、おっさん」
「おっさん……?」
ヴァルナディスの眉がぴくりと動いた。300歳だか何だか知らないが、見た目は30代。おっさんで合ってるはずだ。
「まあいいでしょう。今日こそ、その布を頂きます」
「何度来ても同じやで」
「いいえ。今日は——私も本気です」
彼が手を掲げる。漆黒の炎が——いや、違う。炎の奥に、何か別のものが見える。
「私の全てを賭けましょう」
その瞬間、俺は見た。
ヴァルナディスの体から、黒い靄のようなものが立ち上る。それは——彼の命そのものだと、直感で分かった。
「冥府門開放。——滅びなさい、全てと共に」
空が裂けた。
黒い亀裂から、無数の手が伸びてくる。死者の手。怨嗟の声。数百年分の殺戮が生んだ、呪いの集合体。
「あかん——」
これは、防げない。膝掛けが光るが、量が多すぎる。一つを消しても、十が押し寄せる。百を払っても、千が追いかけてくる。
「ケンタ!」
ガルドが盾になろうとする。リーナが悲鳴を上げる。
駄目だ。このままじゃ、みんな死ぬ——
『健太』
その時。
膝掛けが、今までにない輝きを放った。
『大丈夫だよ』
声が聞こえる。ばあちゃんの声。懐かしい、温かい声。
『おばあちゃんは、ずっと見てたよ。健太が泣いた時も、笑った時も、頑張った時も、挫けた時も』
膝掛けが、俺の体を包む。マントではなく——全身を、繭のように。
『お前は優しい子だね。自分より他人を大事にする、馬鹿な子だね。——おばあちゃんの、自慢の孫だよ』
視界が白く染まる。
『だからね、健太。今度は——おばあちゃんに、力を貸しておくれ』
分かった。分かるよ、ばあちゃん。
俺は——膝掛けを握りしめた。
「ばあちゃんの愛を——受け取れぇッ!!」
叫びと共に、膝掛けが完全覚醒した。
光が溢れる。温かい光。87万4千の祝福が、一斉に解放される。
その光の中心に——ばあちゃんがいた。
白髪を後ろで結んだ小柄な老婆。皺だらけだけど優しい目。割烹着姿で、手には編み棒。
「——ばあちゃん」
涙が溢れた。8歳の体は、本当に涙腺が弱い。でも今は——32歳の魂も、同じだけ泣いていた。
ばあちゃんの幻影が、微笑んだ。
『さあ、温かいもの作ろうか』
光が、広がった。
死者の手が消える。呪いの声が消える。ヴァルナディスの冥府門が——
「——ッ!」
彼が悲鳴を上げた。
「なんだ、これは……何なんだ、これはっ……!」
光に包まれたヴァルナディスの体が、震えている。漆黒の炎が消え、灰白色の髪が乱れ、金色の瞳から——
涙が、流れていた。
「私は……私は……」
彼の口から、嗚咽が漏れる。
「愛など……知らない……誰も、私を……愛さなかった……」
「違う」
俺は、一歩踏み出した。
「お前も、誰かに愛されてたはずや」
「黙れ……黙れ……!」
「人間と魔族のハーフやって? 両方から迫害されたって? でも——お前を産んだ人がおるやろ。お前を育てた人がおるやろ。全部が全部、敵やったんか?」
ヴァルナディスの目が見開かれる。
そして——彼の脳裏に、一つの記憶が蘇った。
『お前は私の子だよ。人間でも魔族でもない。私だけの、大切な子だよ』
「——かあ、さま」
彼の膝が折れた。
最強の四天王が、最弱の少年の前で——崩れ落ちた。
「私は……私は、ずっと……」
「分かっとる」
俺は、膝掛けを広げた。ばあちゃんの温もりが宿った、この布を。
「寒かったんやろ。ずっと、ずっと、寒かったんやろ」
ヴァルナディスの肩に、膝掛けをかけた。
「——っ」
彼の体が震える。温もりを知らなかった体が、初めて温もりを受け入れる。
「おばあちゃんは言ってたで。『健太が誰かを温められる人になりますように』って」
俺は笑った。8歳の顔で、32歳の魂で。
「だから——お前も、温まっていけ」
雨が止んだ。
雲間から、光が差し込む。
魔王軍は撤退した。四天王筆頭が膝をついた瞬間、戦意を失ったように。
でも俺は——勝利の喜びよりも、ただ。
「ばあちゃん」
膝掛けを握りしめた。
「ありがとう」
光はもう消えていた。ばあちゃんの幻影も、もう見えない。
でも——温もりは、ここにある。
87万4千の祝福。40年分の愛情。一目一目に込められた祈り。
それは、消えない。永遠に。
---
「ケンタ!」
ガルドが駆け寄ってくる。リーナが泣きながら抱きついてくる。
「馬鹿! 馬鹿! 心配させないでよ!」
「いや、泣いてるん自分やん……」
「うるさい! 泣いてないわよ!」
ガルドが豪快に笑う。
「ガッハッハ! やったな、ケンタ!」
「いや、俺は何もしてへんのですけど……」
「謙遜するな。お前があいつに声をかけたんだ。膝掛けをかけたのも、お前だ」
「……」
「胸を張れ。お前は——誰かを温められる人間になったんだ」
その言葉に、また涙が出そうになった。
---
空を見上げる。
青い空に、白い雲。見たこともない形の雲。でも——今は、どこか懐かしく見える。
『おばあちゃんはね、ずっと見てるよ』
聞こえた気がした。
俺は膝掛けを肩にかけ直し、歩き出した。
これは最強の物語じゃない。
最弱の物語でもない。
ただ——祖母の愛を纏った男が、この世界を少しずつ温めていく。
そんな、温かい物語。
——これは、始まりに過ぎない。




