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異世界転生したら、おばあちゃんの膝掛けが最強の聖遺物でした ~87万4千の祝福を纏う者~

作者: uta
掲載日:2026/06/23

深夜2時17分。6.8トンのダンプが赤信号を無視した。


俺——佐藤健太、32歳、独身、中堅商社の万年係長——は、コンビニ袋を片手にその光景を見ていた。見ていた、というより、もう避けられないと悟っていた。


スローモーションで迫るヘッドライト。


走馬灯なんて嘘だ。頭に浮かんだのは、たった一つ。


『今日、おばあちゃんの命日やったな』


コンビニ袋の中身が宙を舞う。缶ビール。カップ麺。そして——ベージュと茶色の格子柄。使い古された、膝掛け。


仕事帰りに実家へ寄った。誰も住まなくなった築47年のアパート。遺品整理業者が来る前に、これだけは持ち出したかった。ばあちゃんが40年かけて編んだ、俺のための膝掛け。


衝撃。


痛みは一瞬だった。


視界が白く染まる。体が浮く感覚。ああ、死ぬんやな、と妙に冷静に思った。


『寒くないかい?』


——ばあちゃんの声が、聞こえた気がした。


握りしめた膝掛けが、淡く、温かく光る。


そして俺は——落ちた。


白い光の中を、どこまでも、どこまでも。



---



目を開けると、草原だった。


青い空。見たこともない形の雲。遠くに聳える、現実離れした巨大な山脈。そして——自分の手が、やけに小さい。


「……は?」


声が高い。子供の声だ。


慌てて体を起こす。服がブカブカ——いや違う、体が縮んでいる。手のひらを見る。32年間酷使してきた中年サラリーマンの手じゃない。柔らかくて、小さくて、傷一つない子供の手だ。


「なんやこれ……なんやこれ!」


混乱する頭で、一つだけ確かなことがあった。


肩に、あの膝掛けがかかっている。


見覚えのある格子柄。ところどころ補修した跡。40年分の愛情が編み込まれた、ばあちゃんの——


「おい、そこのガキ!」


怒声。


振り返ると、鎧を着た男たちが馬に乗ってこちらへ向かってくる。剣を抜いている。目が血走っている。どう見ても、優しく道を教えてくれるタイプじゃない。


「魔族の斥候か!? このあたりに子供がいるはずがない!」


「殺せ! 確認は後だ!」


理不尽。


転生して最初に遭遇するのが、殺意マシマシの騎士団とか聞いてない。チート能力は? ステータス画面は? 美少女ヒロインの出迎えは?


「ちょ、待っ——」


言葉が通じている場合じゃない。


逃げようとした瞬間、足がもつれた。8歳の体は、32歳の感覚で動かない。


転ぶ。


馬蹄が迫る。剣が振り上げられる。


——死ぬ。また死ぬ。今度こそ、本当に。


『大丈夫』


その時、膝掛けが光った。


『おばあちゃんがついてるよ』


温かい光が全身を包む。騎士の剣が振り下ろされた——その刃が、膝掛けに触れた瞬間。


砕けた。


鋼の剣が、飴細工のように粉々に。


「な——」


騎士が絶句する。俺も絶句している。


膝掛けは相変わらずベージュと茶色の格子柄で、古びていて、どう見てもただの布で——でも確かに、ばあちゃんの声が聞こえた気がした。


「ば、化け物……ッ!」


騎士たちが悲鳴を上げて逃げていく。


草原に、俺だけが残された。


8歳の体。見知らぬ世界。そして、光を失った膝掛け。


「……ばあちゃん」


呟いた声は、情けないほど震えていた。


これが、俺の第二の人生の始まり。


最強でも最弱でもない。ただ——祖母の愛だけを纏った、新たな物語の。



---



「信じらんない」


銀髪ツインテールの少女が、三度目の溜息をついた。


王都グランディア。鑑定士ギルド本部。その最奥にある特別鑑定室で、俺は椅子に座らされていた。


あれから三日。逃げた騎士たちが『謎の魔法使いの子供』として報告したらしく、調査のためにこの街へ連行された。殺されなかっただけマシか。


「もう一回やるわよ。いい?」


少女——リーナ・フォルトゥーネ、14歳、王国最年少の一級鑑定士——が単眼鏡を構える。翡翠色の瞳が真剣そのものだ。


「あの、さっきから何度も……」


「黙ってて。集中するから」


強気なお嬢様口調。でも手が微かに震えているのを、俺は見逃さなかった。


鑑定開始。


単眼鏡が淡く光る。リーナの瞳孔が開く。数秒の沈黙。そして——


「……っ!」


彼女の顔が蒼白になった。


「な、なによこれ……数値が、止まらない……!」


単眼鏡から火花が散る。煙が上がる。そして——


バァン!


爆発した。


「きゃあああ!」


リーナが尻餅をつく。俺は咄嗟に膝掛けで彼女を庇った。……いや、庇おうとしたら膝掛けが勝手に動いた。


「ちょ、何この布、生きてるの!?」


「いや俺に聞かれても……」


煙が晴れる。単眼鏡は黒焦げで、完全に使い物にならなくなっていた。


リーナは震える手で報告書を取り出し、書き殴り始めた。


「……品名、不明。材質、不明。年代、推定40年から50年。制作者、不明。そして——」


彼女の声が掠れる。


「祝福数、87万4千以上。測定限界突破により正確な数値不明」


「はちじゅうななまん……?」


「普通の聖遺物は、多くても数百よ。国宝級でも数千。伝説の神器でさえ、数万がいいところ」


リーナは俺を——正確には俺の肩にかかった膝掛けを——見つめた。


「これは『神代級聖遺物』。いえ、それすら超えてる。人類が観測した中で、間違いなく最高位の——」


「ばあちゃんの膝掛けやで、これ」


「……は?」


「俺のばあちゃんが、40年かけて編んでくれたやつ」


沈黙。


リーナの顔が、困惑から怒りに変わった。


「ふざけないで! 87万4千の祝福を込めるのに、どれだけの——」


「毎日やで」


俺は膝掛けを見下ろした。ところどころ色褪せて、何度も補修されて、それでも柔らかい手触り。


「毎日、俺のために編んでくれてた。『健太が寒くないように』『健太が怖い夢を見ないように』『健太が寂しくないように』って」


一日一目。いや、きっともっと。


40年分の、一目一目に込められた祈り。


「俺、両親おらんかってん。ばあちゃんだけが家族で。でも仕事忙しくて、最後……死に目に、会えんかった」


声が震える。8歳の体は、感情の制御が難しい。いや、32歳の精神でも、これは無理だ。


「だからこれだけは持っていきたくて。遺品整理の前に。そしたら——」


『寒くないかい?』


不意に、膝掛けが淡く光った。


温かい。懐かしい。ばあちゃんの膝の上で、編み物の音を聞きながら眠った、あの頃の——


「……っ」


リーナが息を呑む音が聞こえた。


「あんた……泣いてる」


「泣いてへん」


「嘘。ボロボロじゃない」


自覚したら止まらなくなった。8歳の体は、本当に、涙腺が弱い。


リーナは暫く黙っていた。そして、ぽつりと呟いた。


「……私も、お婆様がいたわ」


「え?」


「没落する前の話よ。家が傾いて、両親は夜逃げして、私だけ残されて——お婆様だけが、最後まで私を守ろうとしてくれた。でも、私には何もできなかった」


彼女の翡翠色の瞳が、膝掛けを見つめている。


「87万4千の愛情。それを測定できて、この目は何の意味があるのかしら。私には……一つも、届かなかったのに」


「リーナさん……」


「リーナでいいわ。さん付けとか気持ち悪い」


彼女は立ち上がり、黒焦げの単眼鏡を拾った。


「私があんたの鑑定士になってあげる。その膝掛けの秘密、全部暴いてやるんだから」


「いや、別に隠してへんけど……」


「うるさい。決定事項よ」


ツンとした表情の奥に、僅かな——本当に僅かな——羨望と、温かさが見えた気がした。



---



その夜、王都に激震が走った。


『魔王軍、東部戦線を突破。首都まで残り三日』


戦争が、始まろうとしていた。



---



血と硝煙の匂いが、鼻を突く。


王都グランディア東門。そこはもう、地獄だった。


「防壁、第三層まで突破されました!」


「第七騎士団、壊滅! 生存者なし!」


「魔王軍の先遣隊が——四天王旗です! 四天王が来てます!」


悲鳴と怒号が飛び交う中、俺は城壁の上で立ち尽くしていた。


なんでこんなことに。


三日前まで平和な鑑定ギルドにいたのに。『最強聖遺物の保持者』として王城に呼び出されて、気づいたら戦場の最前線。8歳の体で、32歳の精神で、どうしろと。


「ケンタ! 伏せろ!」


隣で巨大な盾を構えていた男——ガルド・アイゼンバーグ、元騎士団長——が俺を押し倒した。


直後、漆黒の炎が城壁を薙いだ。


石が蒸発する。兵士が悲鳴を上げる間もなく炭化する。たった一撃で、十数人が消えた。


「ひ……っ」


声にならない悲鳴が漏れる。これは、戦争なんてものじゃない。虐殺だ。


「来たか……」


ガルドが低く唸る。その隻眼が、戦場の一点を見据えていた。


黒い。


全てを呑み込むような漆黒のマントを纏い、灰白色の長髪をなびかせて、その男は悠然と歩いてくる。


冥魔将ヴァルナディス。


魔王軍四天王筆頭。300年無敗。単独で王国を三つ滅ぼした、最悪の怪物。


「おやおや」


声は、意外なほど穏やかだった。


「『87万の祝福を持つ聖遺物』とは、随分と仰々しい噂を聞きましたが——」


金色の瞳が、俺を捉える。


「なんです、この惨めな小僧は」


嘲笑。純粋な、見下し。


「聖遺物がどうとか言うから、多少は骨のある神官戦士でも出てくるかと思えば。子供一人に、ボロ布を巻きつけただけですか」


膝掛けを、ボロ布と言った。


頭に血が上る——が、体が動かない。恐怖で。圧倒的な存在感で。彼が一歩近づくたび、空気が凍る。


「ガルド・アイゼンバーグ。久しぶりですね」


ヴァルナディスの視線がガルドへ移る。


「10年前、あなたの部下300人を燃やした時は楽しかった。今日は何人連れてきましたか?」


「……てめえ」


ガルドの義手が軋む。歯を食いしばり、剣を構え——でもその手が、震えている。


この人も、恐れている。300人の部下を殺した怪物を、前にして。


「まあいいでしょう。貴様ら雑魚はどうでもいい」


ヴァルナディスが俺を見下ろす。


「その布を渡しなさい。87万の祝福——それが本当なら、魔王様への良い土産になる。おとなしく渡せば、痛みなく殺してあげましょう」


「——断る」


声が出た。自分でも驚くほど、はっきりと。


「は?」


「これはばあちゃんの膝掛けや。お前なんかに、渡すわけないやろ」


膝が震えている。声も震えている。でも——


『大丈夫、おばあちゃんがついてるよ』


膝掛けが、温かい。怖くても、逃げ出したくても、この温もりだけは渡せない。


ヴァルナディスの金色の瞳が、僅かに揺れた。


「……面白い。その目、嫌いではないですよ」


彼が手を掲げる。漆黒の炎が渦を巻く。城壁を溶かしたのと同じ、あの悪夢の炎が。


「では、その覚悟ごと燃やし尽くしましょう」


炎が放たれた。


避けられない。防げない。死ぬ——


『寒くないかい?』


膝掛けが、光った。


淡いベージュの光が俺を包む。漆黒の炎がそれに触れた瞬間——


消えた。


城壁を溶かすほどの業火が、ロウソクの火を吹き消すように、跡形もなく。


「——なっ」


ヴァルナディスの目が見開かれる。初めて見せた、動揺。


「何を、したっ……!」


俺にも分からない。でも膝掛けが囁いている気がした。


『お腹すいてない? 温かいもの作ろうか?』


ばあちゃん。ばあちゃんが、守ってくれてる。


「あり得ない……あり得ない! 私の冥炎を、ただの布切れが——!」


ヴァルナディスが再び手を振る。今度は氷。絶対零度の吹雪が——


消えた。


次は雷。次は闘気。次は呪詛。


全て、膝掛けの温かい光に触れた瞬間、消えていく。


「馬鹿な……馬鹿な……!」


四天王の顔に、焦りが浮かぶ。そして——その奥に、何か別の感情が。


「その温もり……なんだ、それは。なぜ私の心臓が……こんなにも……」


彼は胸を押さえた。金色の瞳が揺れている。怒りでも恐怖でもない。もっと根源的な——


「……っ、撤退だ! 全軍撤退!」


唐突に、ヴァルナディスが叫んだ。


「四天王自ら退却など——」


「黙れ。これは戦術的判断だ。あの聖遺物の解析が先だ。……今日のところは、見逃してやる」


捨て台詞。でも俺は見た。彼が最後に膝掛けを見た時の目を。


恐怖と——懐かしさが、混ざっていた。



---



魔王軍が去った後、城壁は歓声に包まれた。


でも俺は、その場に崩れ落ちていた。


「おい、ケンタ! しっかりしろ!」


ガルドが支えてくれる。リーナが駆け寄ってくる。


「何よ、死んでないわよね!? 死んだら許さないんだから!」


「……死んでへん。ただ、腰抜けただけや」


情けない。32歳の精神が、8歳の体で、本当に情けない。


でも——


「ケンタ」


ガルドが俺を見下ろした。傷だらけの顔に、不器用な笑みを浮かべて。


「お前、逃げなかったな」


「……へ?」


「あの化け物を前にして、膝掛けを渡さないって言った。8歳のガキが。たいしたもんだ」


褒められているのか。よく分からない。


「俺は10年前、あいつの前で動けなかった。部下が燃やされるのを、見てるだけだった。お前は——違った」


「いや、俺も動けへんかったで。膝掛けが勝手に——」


「違う」


ガルドの大きな手が、俺の頭を撫でた。


「お前は、渡さないって言った。それが全てだ」



---



その夜、俺は宿舎の窓から月を見上げていた。


膝掛けを膝にかけて。昔、ばあちゃんの家でそうしていたように。


「なあ、ばあちゃん」


返事はない。でも、温かい。


「俺、ここで何ができるんやろな。チート能力もないし、戦い方も知らんし。こんな子供の体で」


沈黙。月だけが、静かに輝いている。


「でも——お前の膝掛けがあれば、俺は怖くないんや」


膝掛けが、ほんの少しだけ光った気がした。


『おばあちゃんはね、健太が生まれた時から、ずっと祈ってたんだよ』


幻聴。いや、記憶か。昔、ばあちゃんが言っていた言葉。


『健太が寒くないように。健太が怖い夢を見ないように。健太が寂しくないように。そして——健太が、誰かを温められる人になりますように』


「……誰かを、温める」


呟いて、俺は膝掛けを握りしめた。


分からないことだらけだ。この世界のことも、魔王軍のことも、俺に何ができるかも。


でも一つだけ、分かる。


ばあちゃんは、俺を信じてくれていた。


なら——その信頼に、応えなきゃ。


「ばあちゃん。見ててな」


月明かりの下で、俺は小さく、でも確かに、決意を固めた。



---



「違う、そうじゃねえ! 剣は腰から振るんだ! 手打ちになってるぞ!」


訓練場に、ガルドの怒声が響く。


俺は木剣を握りしめ、何度目か分からない素振りを繰り返していた。8歳の腕は細く、32歳の感覚で振ってもまるで力が入らない。


「はぁ……はぁ……」


「休憩だ。水飲め」


ガルドが革袋を投げてよこす。俺はそれを受け取り、その場に座り込んだ。


リーナが木陰で本を読みながら、冷めた目でこちらを見ている。


「無駄だと思うけど」


「うっさい」


「だって、あんたが剣振らなくても膝掛けが勝手に敵を倒すじゃない。わざわざ鍛える意味ある?」


正論だ。ヴァルナディスの攻撃は全て膝掛けが無効化した。俺は何もしていない。立っていただけだ。


「……でもな」


俺は木剣を見つめた。


「いつまでも、ばあちゃんに守られてばっかりじゃあかんやろ」


リーナが目を丸くする。ガルドが腕を組む。


「ばあちゃんは80歳まで生きて、最後の最後まで俺のこと心配してた。俺が仕事で潰れそうな時も、体調崩した時も、ずっと。でも俺は——忙しいって言い訳して、全然会いに行かんかった」


喉が詰まる。


「死に目にも会えへんかった。40年分の愛情受け取っといて、俺は何一つ返せへんかった」


木剣を握る手に力が入る。


「だから、もう甘えるだけは嫌なんや。膝掛けに守られながらでも、俺自身も強くなりたい。——ばあちゃんを、安心させたいんや」


沈黙が落ちた。


ガルドが、ゆっくりと近づいてくる。そして——俺の頭を、ばしん、と叩いた。


「痛っ!」


「いい心がけだ」


見上げると、傷だらけの顔に、不器用な笑みが浮かんでいた。


「お前、いいガキだな」


「いや32歳やねんけど」


「あ?」


「なんでもない」


ガルドは俺の隣に座り込んだ。義手が軋む音がする。


「……俺もな、守れなかったんだ」


唐突に、彼は語り始めた。


「10年前。魔王軍が初めて侵攻してきた時、俺は騎士団長だった。300人の部下を率いて、意気揚々と出陣した。——全員死んだ」


「ガルドさん……」


「ヴァルナディスが一人で来た。あの黒い炎で、俺の部下を、一人ずつ燃やしていった。俺は何もできなかった。恐怖で動けなかった。左目と左腕をやられて、気絶して、気づいたら病院のベッドだ」


彼の右手が、携帯している酒瓶を撫でた。


「この中には、部下の遺灰が入ってる。300人全員は無理だったが……拾えるだけ拾った。俺が殺したようなもんだからな。背負う義務がある」


重い。32歳の精神でも、その重さは分かる。


「それでも——」


ガルドが俺を見た。


「お前の膝掛けに包まれた時、思い出した」


「え?」


「俺の母親。俺が5歳の時に死んだ。でもその前に、いつも俺を膝に乗せて、温かい毛布で包んでくれた」


彼の隻眼が、潤んでいる。


「あの温もりと、同じだった。お前の膝掛け。だから——」


「ガルドさん」


「俺は決めた。お前を守る。お前と、その膝掛けを。命に代えても」


「いや、そこまでせんでも——」


「うるせえ。決めたんだ」


ガルドは立ち上がり、木剣を構えた。


「さあ、続きだ。お前が一人前になるまで、俺が鍛えてやる。——いつか、俺を守れるくらい強くなれ」


「無理やろそれは……」


「やってみなきゃ分かんねえだろ。ほら、立て!」


俺は立ち上がった。木剣を構えた。


膝掛けが、温かく揺れた気がした。



---



リーナが、そっと本を閉じた。


「……あいつら、暑苦しいわね」


でも、その翡翠色の瞳は——どこか羨ましそうに、二人を見つめていた。



---



その日は、雨だった。


魔王軍の第二波が来たのは、最初の撤退から一週間後。今度は四天王全員を率いて、王都を完全に包囲した。


逃げ場は、ない。


「全軍、最終防衛ライン! 王城を死守せよ!」


騎士たちの叫び声が雨に溶ける。俺は城壁の上で、迫り来る黒い軍勢を見下ろしていた。


隣にガルド。反対側にリーナ。そして——肩には、ばあちゃんの膝掛け。


「ケンタ」


ガルドが剣を抜いた。


「今日で終わりかもしれん。だが——」


「分かってます」


俺は膝掛けを握りしめた。


「逃げません」


「……ガッハッハ。いい返事だ」


リーナが単眼鏡を構える。新しいやつだ。壊れても壊れても、彼女は新しいのを用意してきた。


「ヴァルナディスが来るわ。他の四天王は陽動。本命はあいつ一人」


「どうして分かる?」


「あいつの目よ。一週間前、あんたの膝掛けを見た時の目。——忘れられないって顔だった」


鑑定士の目は、物だけじゃなく心も見抜くらしい。


「来る」


雨の向こうから、漆黒のマントが近づいてくる。


冥魔将ヴァルナディス。


今度は、微笑んでいなかった。その金色の瞳には、怒りと——もっと深い、何かが渦巻いていた。


「また会いましたね、小僧」


「また来たんか、おっさん」


「おっさん……?」


ヴァルナディスの眉がぴくりと動いた。300歳だか何だか知らないが、見た目は30代。おっさんで合ってるはずだ。


「まあいいでしょう。今日こそ、その布を頂きます」


「何度来ても同じやで」


「いいえ。今日は——私も本気です」


彼が手を掲げる。漆黒の炎が——いや、違う。炎の奥に、何か別のものが見える。


「私の全てを賭けましょう」


その瞬間、俺は見た。


ヴァルナディスの体から、黒い靄のようなものが立ち上る。それは——彼の命そのものだと、直感で分かった。


「冥府門開放。——滅びなさい、全てと共に」


空が裂けた。


黒い亀裂から、無数の手が伸びてくる。死者の手。怨嗟の声。数百年分の殺戮が生んだ、呪いの集合体。


「あかん——」


これは、防げない。膝掛けが光るが、量が多すぎる。一つを消しても、十が押し寄せる。百を払っても、千が追いかけてくる。


「ケンタ!」


ガルドが盾になろうとする。リーナが悲鳴を上げる。


駄目だ。このままじゃ、みんな死ぬ——


『健太』


その時。


膝掛けが、今までにない輝きを放った。


『大丈夫だよ』


声が聞こえる。ばあちゃんの声。懐かしい、温かい声。


『おばあちゃんは、ずっと見てたよ。健太が泣いた時も、笑った時も、頑張った時も、挫けた時も』


膝掛けが、俺の体を包む。マントではなく——全身を、繭のように。


『お前は優しい子だね。自分より他人を大事にする、馬鹿な子だね。——おばあちゃんの、自慢の孫だよ』


視界が白く染まる。


『だからね、健太。今度は——おばあちゃんに、力を貸しておくれ』


分かった。分かるよ、ばあちゃん。


俺は——膝掛けを握りしめた。


「ばあちゃんの愛を——受け取れぇッ!!」


叫びと共に、膝掛けが完全覚醒した。


光が溢れる。温かい光。87万4千の祝福が、一斉に解放される。


その光の中心に——ばあちゃんがいた。


白髪を後ろで結んだ小柄な老婆。皺だらけだけど優しい目。割烹着姿で、手には編み棒。


「——ばあちゃん」


涙が溢れた。8歳の体は、本当に涙腺が弱い。でも今は——32歳の魂も、同じだけ泣いていた。


ばあちゃんの幻影が、微笑んだ。


『さあ、温かいもの作ろうか』


光が、広がった。


死者の手が消える。呪いの声が消える。ヴァルナディスの冥府門が——


「——ッ!」


彼が悲鳴を上げた。


「なんだ、これは……何なんだ、これはっ……!」


光に包まれたヴァルナディスの体が、震えている。漆黒の炎が消え、灰白色の髪が乱れ、金色の瞳から——


涙が、流れていた。


「私は……私は……」


彼の口から、嗚咽が漏れる。


「愛など……知らない……誰も、私を……愛さなかった……」


「違う」


俺は、一歩踏み出した。


「お前も、誰かに愛されてたはずや」


「黙れ……黙れ……!」


「人間と魔族のハーフやって? 両方から迫害されたって? でも——お前を産んだ人がおるやろ。お前を育てた人がおるやろ。全部が全部、敵やったんか?」


ヴァルナディスの目が見開かれる。


そして——彼の脳裏に、一つの記憶が蘇った。


『お前は私の子だよ。人間でも魔族でもない。私だけの、大切な子だよ』


「——かあ、さま」


彼の膝が折れた。


最強の四天王が、最弱の少年の前で——崩れ落ちた。


「私は……私は、ずっと……」


「分かっとる」


俺は、膝掛けを広げた。ばあちゃんの温もりが宿った、この布を。


「寒かったんやろ。ずっと、ずっと、寒かったんやろ」


ヴァルナディスの肩に、膝掛けをかけた。


「——っ」


彼の体が震える。温もりを知らなかった体が、初めて温もりを受け入れる。


「おばあちゃんは言ってたで。『健太が誰かを温められる人になりますように』って」


俺は笑った。8歳の顔で、32歳の魂で。


「だから——お前も、温まっていけ」


雨が止んだ。


雲間から、光が差し込む。


魔王軍は撤退した。四天王筆頭が膝をついた瞬間、戦意を失ったように。


でも俺は——勝利の喜びよりも、ただ。


「ばあちゃん」


膝掛けを握りしめた。


「ありがとう」


光はもう消えていた。ばあちゃんの幻影も、もう見えない。


でも——温もりは、ここにある。


87万4千の祝福。40年分の愛情。一目一目に込められた祈り。


それは、消えない。永遠に。



---



「ケンタ!」


ガルドが駆け寄ってくる。リーナが泣きながら抱きついてくる。


「馬鹿! 馬鹿! 心配させないでよ!」


「いや、泣いてるん自分やん……」


「うるさい! 泣いてないわよ!」


ガルドが豪快に笑う。


「ガッハッハ! やったな、ケンタ!」


「いや、俺は何もしてへんのですけど……」


「謙遜するな。お前があいつに声をかけたんだ。膝掛けをかけたのも、お前だ」


「……」


「胸を張れ。お前は——誰かを温められる人間になったんだ」


その言葉に、また涙が出そうになった。



---



空を見上げる。


青い空に、白い雲。見たこともない形の雲。でも——今は、どこか懐かしく見える。


『おばあちゃんはね、ずっと見てるよ』


聞こえた気がした。


俺は膝掛けを肩にかけ直し、歩き出した。


これは最強の物語じゃない。


最弱の物語でもない。


ただ——祖母の愛を纏った男が、この世界を少しずつ温めていく。


そんな、温かい物語。



——これは、始まりに過ぎない。

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