第39話 流言 2
私はシリウスと肩を並べて歩いている。
彼はごく自然に私の歩調と合わせてくれる。それが嬉しく、また彼のさり気ない優しさも伝わってくるのだった。いつもからかってばかりだけれど、彼の性格はこういう所に現れていると思う。
けれど、その言動には数々の疑問が残る。彼は只の魔族ではありえない。しかも、一体何を何処まで知っているのだろう?
その歩調が不意にぴたりと止まった。
つらつらとシリウスについて考え事をしていた私は彼に合わせられず、半歩遅れて立ち止まった。
「どうしたの」
顔を上げると、視線の先には私の考えを読み取ったかのように、にやりと笑うシリウスの顔があった。
嫌な予感がする。この笑顔を見せた後は大抵碌な事が無い。
さやさやと木々が揺れ、芳しい花の香りが漂った。鳥が羽ばたいて、遠くで賑やかに囀っている小鳥達の鳴き声が響く。シリウスの自由に跳ねる青銀の髪がいたずらに風に弄ばれて、魔族でしかありえないクリムゾンの瞳が細まった。
「ほんと、ユウは分かりやすいな」
「え?」
一体何を言おうとしているのだろう。ドキリとした心臓を守るようにぎゅっと握った拳を胸に当てる。こうでもすれば心の声が漏れないとでもいうように。
「たとえその姿が変わろうとも、君は変わないからかな?」
ニヤリと笑うその姿はフランの前で見せていた感じの良い魔族では無く、得体の知れない人だった。
「この国を出ていくつもりなんだろう? それも、ひとりでね。君の行き先は何処なんだい?」
私は唖然とした。こうも的確に言い当てられるとは、思ってもみなかったから。
「……シリウス、貴方は一体何を知っているの?」
私の声は少し擦れていたかもしれない。動揺を表に出すまいとしたけれど、彼は気づいたかもしれない。
「驚いたかい? 僕はね、君の中にいたんだよ。君の中から周りの状況を知り、同時に君の事も知った。勿論それは全てでは無いけれどね。君がまだ小さな身体の時だけれど、一緒に過ごした所為で君の考えそうな事は大体予測がつくのさ」
「えええっ! ちょっと待って。それってつまり」
……覗き?
やだ、どれくらいなの。
シリウスの発言はあまりにも衝撃的で、理解するのに時間が掛かった。二度目の動揺は全く隠しきれない。
「何処までかと言う事だろ? 勿論、日常生活や君の気持ち、それにある程度の思考。あと、記憶とかね」
それって殆ど全部じゃんっ。待って、日常生活って、もしや!
「そうそう、風呂とか手洗いとかもさぁ」
「ぎゃああっ! そんなの嫌っ、お願いだから嘘って言って」
「本当」
シリウスは何でも無い事のようにさらっと言った。おいおい、乙女のマル秘プライベートタイムを覗くなんてっ。
いやあああっ! つまり、あんな事やこんな事も。どこまでどんな風に? まさか全てが鮮明に見えていたの?
私はあまりの恥ずかしさに悶絶した。
「ん? はっきりと分かる訳じゃ無いさ。君を通して僕が知るという位だからね。ユウの反応だとまるで僕が覗き魔みたいじゃないか」
いえいえ、その通りでしょ。けれど言葉にならなくて、パクパクと魚みたいに口が開閉しただけだった。
でも、そんな反応でもシリウスには言いたい事が伝わっているようだ。
「あのさ、君の中で強烈に印象づいている事は、僕にもはっきり伝わっているけどね、そうでない事は分からないんだよ。そうだな、さっきのはちょっと言い過ぎたみたいだ」
シリウスはひょいと眉を上げると、片手に本を抱えたまま腕を上げそのまま肩へと乗せた。唇が僅かに上を向いている。いかにも誠実そうに見せているけれど、面白がっているのは大体想像付く。
「……え? じゃあ、お風呂とかお手洗いは嘘だったの?」
「まあ、そうなるのかな?」
よ、よかったぁ。また、からかわれただけだったのね。
とりあえず、からかわれた事に対して怒りが湧くよりも、まずはほっと胸を撫で下ろした。
はあーっと体中から力が抜けた途端、衝撃の言葉が降ってきた。
「でもさ、ヴァルサス殿下って結構いい身体つきしてたよね。男の僕でも見惚れる様で軽く嫉妬しちゃうよ」
「うんぎゃあああああっ」
シリウスったら最低!
それってお風呂の事じゃないの。
爽やかな笑顔でそれを言うか。絶対楽しんでるでしょ!
私の形相が凄かったのだろうか。
笑顔を引っ込めたシリウスは真面目くさった顔をした。
「傷つくなぁ、そんな眼で見ないでよ。僕だって、故意に見ようとした訳じゃないんだからさ。ユウが殿下の身体を鮮明に覚えているからだろ」
これっぽっちも真実味を感じられない。なぜなら、そのクリムゾンの瞳が嫌に輝いて見えるから。
それに、卑猥な表現をしないでほしい。いやいや、これ以上考えるのはよしとこう。あの、お風呂に入れられた記憶が甦ってきそうだから。
脱線しそうになる思考を戻すと、深呼吸をして気持ちを落ちつけた。
それよりも、もっと重要な事がある。シリウスから聞き出さなければならないのだから。
「……それで、他には何を知ったの?」
シリウスは真面目な質問に対してぱちぱちと瞬きをした後、本を担いでいた腕を下ろした。私をじっと見つめながら口を開く。
まるで、私の反応を一つも見逃さないとでもいうように。
「君の前世の記憶を。こことは異なる世界での、ユウツキ・サヤとしてのもの。病に苦しみ病死した事。そして、かつて月の女神であった頃の記憶も僅かに」
シリウスは私の本名を言い難そうに発音した。こちらの世界では舌を良く動かして発音する。彼にとって、私の名前は言い難いのだろう。
私が記憶を甦らせる前から彼は知っていたんだ、私の正体を。
だから、あんな風に私を呼んだのか。僕の女神と。