第38話 記憶 4
ヴァルサスの指先が掠めるように私の頬に触れた。それはほんの一瞬で去ってしまい、微かな熱を感じた頬は物足りなくて思わず不安がこみ上げてくる。
いつもならば、ヴァルサスのまなじりは優しく細められている筈だろうに、今の表情は涼やかなままだ。一体何を考えているのだろう。
でも、彼の胸中を知るのが怖い気もする。
ヴァルサスはテーブルの傍から椅子を持って来ると、そこへ腰かけた。蔦を模した繊細な刺繍を施してある背凭れに身を預けると長い脚をゆったり組む。いつもと違う彼の表情からは嫌でも距離を感じさせられてしまう。
「ユウが召喚獣の姿で現れた時、私の部隊は壊滅寸前だった。あの場を突破されれば後が無い状態であるにも拘わらず、我々はどうにも出来なかった。ユウが助けてくれなければ、あのまま皆全滅していただろう。君のお陰で救われた。我々とこの国を救ってくれたことに感謝する」
「そんなのっ、ただあの時は必死だっただけ」
言葉の内容とは裏腹にヴァルサスの態度は何となくよそよそしい。それに、まるで他人を見るような眼を向けられているように感じる。
やっぱり、眼の前で振った力に影響されたのだろうか。
「だが、私自身としては召喚獣として出てほしく無かった。あの様に姿を晒し、力を振るうなど。しかし、あの場面でユウが現れなければ今頃我らは存在していないだろう。全ては防ぎきれなかった私の力不足だ」
「そんなこと無いっ。ヴァルも皆もあれ以上にどう対応出来たと言うの? 犠牲になった人達のお陰で今があるわ。皆良く頑張ったと思う。それこそ、こっちこそ約束を守れなかった。他にもやりようがあったのかもしれない。でも、あの時は精一杯で他には出来無かった。そのせいで、貴方やレオンに迷惑を掛けてしまうのだろうけれど」
約束が守れなかった事に対して、罪悪感をあまり感じてなどいなかった。それよりも、自分の行動は必要なものだったのだから。
「ああ、召喚獣について色々な憶測が飛び交っているぞ。これからは今まで以上に気を配らないといけない」
「うん。分かってる。ねえヴァル。私、召喚獣として力を振るっている間の事は覚えているの」
そう、ヴァルサスやカイル達の部隊の前に姿を現した時、茫然と私を見ていたのを知っている。
「ただ、魔物を封じ込めた後の事は憶えていなくて。気が付いたらベットの上だったのだけれど、一体どうなっていたんだろう?」
私は意識を失っていた空白の時間が気になっていた。どのような形でこの部屋まで運ばれる事となったのか。
「巨大な召喚獣が姿を消して大地が元の状態へ戻ると、空を埋め尽くす程だった魔物は消えていた。気付けば痛い位の青空が広がっていて、先程までの出来事は幻だったのではないかと思えたぐらいだ。悲惨な状態の城下が無ければにわかには信じ難かった。混乱の最中、いつの間にかユウの姿も消えていた。それこそ、召喚獣や魔物と共に掻き消えたようだった」
ヴァルサスは足を組み替えると息を吐いた。半眼を閉じて答える姿は、その場面を思い浮かべているようだった。
「状況確認のため、部隊を残存する可能性のある魔物の討伐と被害者の救援へと向かわせた。同時に指揮を部下に一任し、私自身は君を捜索した。予想が正しければ、前回同様変身が解けた後は意識を失っている可能性があったからだ」
どうやら、私は公衆の面前で姿を晒す事は無かったらしい。
「その日は晴れていたのが嘘のように、途中から雨が降り始めてしまった。雨は大地を洗い清めようとするかの如くで、土砂降りとなった。君を発見した時、意識の無い状態で城下に倒れていた。冷たい雨に打たれ、全身ずぶ濡れとなって」
悪条件での捜索で、よくぞ見付けてくれたと思う。運悪ければ今頃肺炎となって死んでいても可笑しくない。
私の体は魔力を使い果たし衰弱した状態だった。その上、今は女神でも何でも無いただ不完全な存在でしかない。
人の子のようにあっけなく病気で死んでしまう。
「私がユウに駆け寄った時、その場にシリウスが現れた。彼もユウを探していたのだろう。君は転移に耐えられない程衰弱し危険な状態だった。すぐさま私とシリウスは混乱に乗じて此処へと運んだ訳だ。とはいえ、あの混乱の中我々に眼を向ける余裕のある者などいなかっただろうがな」
「そうだったんだ。私を探してくれて、ありがとう」
どうやら色々な人に随分と迷惑を掛けて、お世話にもなったようだ。
ヴァルサスは小さく頷くと両肘を膝の上に置き両手を組んだ。少し前屈みになるとその上に顎を乗せる。
「今後は召喚獣としての君の力を知った者が、その力を我が物にしようと企む愚か者も出てくるだろう。また、逆に強い恐怖を感じ過敏な反応をする者もな」
「ええ」
「それと、ユウの護衛を任せていたレオンからも報告を受けている。状況からどの程度の目撃者が居るかは不明だが、ユウが魔法陣と共に姿を消した事は印象付けられたかもしれない」
「変身する前に部屋から飛び出してしまった時の事ね。つまり、今のままでも十分に注意しないといけない訳ね」
「ああ。私も出来る限りの事はしようと考えている。だが、ユウに危険が及ぶ可能性は十分にある」
私は頷いた。何も言えないけれど、実際にヴァルサスでさえこんな風に反応しているのだから。
私の様子を見たヴァルサスは僅かに眉を動かした。
私はぎゅっと両手を握りしめた。彼に私の事を打ち明けなければならない。果たして受け入れてくれるだろうか、こんな私を。掌には纏わりつくように汗がじっとりと滲んでいる。
「ヴァル、私ね。意識を失っている間に昔の記憶を取り戻したの。全てでは無いけれど」
「昔の記憶? それはどういう事だ」
少し低めのその声はいつもより鋭く感じた。私の心は青い瞳に射抜かれる。
「古に滅びを迎えた、旧世界の女神だった頃の記憶を」
ヴァルサスは微動だにせず私を見つめていた。