第34話 奇病 4
「そこまでだ。ユウ、大丈夫か?」
反射的に見上げた視界には、今までに見た事の無い程冷たい雰囲気を纏ったヴァルサスが、無表情に立っていた。
「お前は何者だ。どうやって此処へ侵入した?」
その声は凍てつく氷のようだった。私は背中に冷やりとした気配を感じ、嫌な汗が流れていく。初めて耳にするヴァルサスの声音に、私は震え上がった。
ヴァルサスのこんな声を、私は今までに聞いた事が無かったのだ。
「ふ、怖いな。あと少しの所だったのに残念だよ」
ニヤリと笑いながらシリウスは返答した。その発言に、ヴァルサスはより一層冷たい刃物のような気配を漂わせる。
「……質問に答えてもらおう」
その声と背中の気配に私の冷えた背骨は凍りついた。これにはさすがのシリウスも、浮かべていた笑みをかき消していた。
「侵入したのでは無いよ。喚び声に応えたんだ」
この返答では、余計にヴァルサスの怒りを煽るようなものだ。私はこの場を何とかしようと口を開いた。
「待って、ヴァル! この人は私が喚んだみたいなの。名はシリウス。シリウス、こちらはヴァルサス殿下よ。シリウスは私の命の恩人であり、友人でもあるの」
「どういうことだ?」
「まだ砦にいた頃に、砦の外壁から落ちた私をシリウスが助けてくれたの。彼が助けてくれなかったら、今の私は居ないと思う。……決して怪しい人では無いから」
「……」
私の説明を聞いている間も、ヴァルサスはシリウスから眼を放さない。厳しく冷たい眼差しをシリウスに向けたまま、さり気なく私の前に立ち、その背に私を庇う。
「そう言う事だから、そのおっかない気配を納めてくれない? 僕とユウは友人なんだ。それに、今回はユウの力になりたくて、ここに来たんだから」
「そ、そうなの。実は、奇病の治療法を知っているかもしれないの」
「ほう、魔族がか。その方法とは我々人間にも有効なのだろうな?」
この短いやり取りの間に、ヴァルサスはシリウスが魔族である事を見抜いたようだった。私には、外見上では全く分からないというのに。
「ヴァル、お願い。シリウスの話を聞いてみて。シリウスも、ヴァルにも奇病についての説明をお願いするわ」
「良いよ。ユウの望みならば僕は何だって聞くよ」
シリウスは素直に私のお願いを聞いてくれた。この雰囲気では流石に、真面目に答えてくれたのだと思う。
もちろん見返りなんて、今回は要求しなかった。最初から、その態度を取ってくれればいいのに。私はブツブツと心の中でぼやいた。
「奇病の治療法があるのなら聞こう」
ヴァルサスは、ようやく背筋の冷えるような気配を納めてくれた。ああ、寿命が一年くらい縮まったかも。この時私が安堵のため大きく息を吐いてしまったのは、仕方の無い事だと思う。
一通りの説明を終えたシリウスは、少し準備があると言ってこの場から姿を消した。現れた時と同様に、またもや唐突に姿を消した。今、私の部屋にいるのはヴァルサスと私だけとなっている。
魔族式の治療は早速明日にも行う予定となった。出来るだけ急がなければならないけれど、治療を行う為の準備が整っていなかったからだ。
時間と患者の体力は、刻一刻と削られていく。クリス先生やアルフリード殿下、その他の新たに発症した人達に出来るだけ早めに対応しなければならない。
シリウスの説明というのは、あの怪獣クンの姿だった時の事は省いた内容で、それ以外での魔族での奇病の蔓延と、治療による反応と改善についての物だった。また、具体的な治療方法についても説明してくれた。
「ユウ」
奇病と治療で占められていた私の思考は、ヴァルサスの声によって引き戻された。その声はいつもより低めで冷たく、何かを抑えている様に私には聞こえた。
「は、はいっ」
先程の冷気を思い出し、思わず声が裏返ってしまった。無意識の内に、一瞬で背中に鉄の棒が入ったかの如く背筋が伸びる。
見ると、ヴァルサスが再び無表情に私を見ていた。
いつもは穏やかな光を湛えている夜空の瞳は、凍える真冬の夜空となっていた。眼は鋭い光を放ち、獲物を狙う肉食獣の様に爛々としている。それは、砦で一度経験して以来、久しぶりに眼にした瞳だった。ヴァルサスの様子に私は息を飲むと、思わず体が縮こまった。
そう言えば、以前もシリウスが絡んでいたような気がする。そんな考えがちらりと脳裏をかすめた。
「あの魔族の気配を以前にも感じた事があったな。あれは砦での事だったか。あの時、命の危険にあっていたとは初耳だな」
「……」
しまった。
そう思っても後の祭り。私は砦の外壁から落ちた事は、一切口にしていなかったのだ。
シリウスに助けてもらった後の事が、鮮やかに頭の中で浮かび上がった。あの、恐怖の後に羞恥をもたらしたヴァルサスを。今、私の顔は間違い無く青くなっていると思う。
「どこまでされた?」
「……えっ?」
突然の問いに思考が一瞬止まる。
理解するのに数秒かかってしまった。その後、先程のシリウスとの事を思い出して顔が赤くなっていく。
一体いつからヴァルサスに見られていたの?
そう思うほどに、羞恥で顔が熱くなっていって、自分では赤くなるのを止められない。私は視線を落ち着きなくうろうろと彷徨わせてしまった。
気持ちを何とか落ちつけて、私は再びヴァルサスへと視線を戻した。けれど、私はヴァルサスに視線を戻した事を一瞬で後悔した。
ヴァルサスの眼は恐怖を誘う程に底光りをして、私を見ていたからだ。
ひいいっ、怖っ!
私は生唾を飲み込もうとして、それすら出来なかった。
ヴァルサスがゆっくりとこちらに歩いてくる。それは、肉食獣のように音も無くしなやかに。私は猛獣と一緒の檻の中に、閉じ込められてしまったような錯覚に陥った。
私はあっという間に壁際まで追い詰められていた。しかし、そんな事にも気付く余裕なんて無い。かろうじて呼吸をするのがやっと。
覆い被さってくるように、私の頭上からヴァルサスが身を屈める。いつの間に、こんなに近づいたのか。
ヴァルサスの体温と吐息が迫ってくる。私はこのまま、牙を立てられ喉笛を喰い千切られると思った。
「悪い事は何もされてないし、していないからっ」
意味不明な事を必死で口走っている。
私は眼を硬く瞑り、亀のように首を縮こめて必死で弁解しようと口を開いた。
途端、ヴァルサスの手が私に触れた。顎に手が掛かった瞬間、上向かされていた。
意識する間もなく、唇を熱い何かで覆われる。それは、火傷する程に熱く私の息を何度も奪う。
息苦しくなって、私は口を開いて逃れようともがいた。けれども私の自由になる物など何も無い。
激しく、湿った何かが溶岩のように入り込むと、私の口腔内を荒々しく何度も犯した。
今回も読んで下さいまして、ありがとうございます。