番外編1 甘い香り
執務室の重厚な机の上には、今日も多くの事案や意見・要望書、報告書が厚く重ねてある。
更に朝から報告を携えては、部下の出入りが途絶えない。
ヴァルサスにとって、それはいつもの朝の風景だった。そして、相変わらずの仕事量だ。
カイルがヴァルサスへの報告と判断が必要な物だけ仕事を回してくれるのでそれだけでも仕事量を減らす事ができるのだが、最近ではユウが雑務から書類の整理とユウが出来る範囲で資料を用意してくれるので、仕事が今まで以上にはかどるようになっていた。
ある程度仕事に目処が付いて落ちつくと、ヴァルサスの目の前にお茶がそっと置かれた。
「喉が渇いていませんか?」
にっこりと笑顔を浮かべたユウがどうぞと言いながら熱いお茶を勧めてくれた。
「ありがとう」
ヴァルサスはそう返すと、湯気を立てるお茶に口を付ける。
……うん、ユウの淹れてくれるお茶はいつも美味いな。
発酵させた茶葉の優しい甘さと少し苦めの後味が、気付かない内に疲れていた心を解してくれる。
見ると、カイルも表情を和ませてお茶を飲んでいる。
ヴァルサスは一息ついて窓の外にちらりと眼をやると、黄色みを帯びた明るい日差しが降り注いでいるのがその瞳に映った。
時計を見れば、いつの間にか昼近くになっていた。時間が経つのは早いものだ。
「あの、ヴァル」
ユウが遠慮がちにおずおずと話しかけてくる。
すっきりと一つに結んだ黒髪が、身体の動きに合わせて背中から胸元へ零れ落ちた。
微かに覗く白い首筋と繊細な鎖骨に黒髪が掛かる。その様に、思わず眼が吸い寄せられてしまう。
ユウの今日の服装は、リボンで結ぶタイの付いたシフォン生地のシャツに紺のスカートだ。動くたびに微かに裾が揺れ、膝と白い腿がちらちらと覗いた。
両手で握りしめた銀のトレイを胸に少し前屈みになってこちらを見るユウは、眉を寄せて頬をほんのり赤らめると次の言葉を言い難そうに口を閉じた。
……そんな表情をされるとつい、手が出てしまいそうだ。
どきりと心臓が音を立てて跳ねたが平静を装ってユウに声を掛ける。
「どうした? 何か分からない所でもあったか?」
今日のユウはいつもと比べて朝から落ち着きなくそわそわしている。
ヴァルサスは目の前にある書類に目を通しながら、ユウをさり気なく観察していた。
ここ最近、ユウは何か考え事をしているかと思えば、楽しそうに浮かれている時もある。
こそこそと一人隠れて何かをしているようなのだが、何をしているのやら分からない。
しかし、いずれ分かるだろうとそれとなく様子を見ていたのだが、今日のユウはいつもと様子が違って手元のメモを見たかと思えば何かを思案しているようであった。
もちろん、ユウに任せている仕事はきちんとこなしているようだった。
「ううん、そうじゃなくて、お願いがあるのだけれど……」
「うん? 何のお願いだ?」
「あの、この書類を頼まれた所まで済ませたし、他に何か残っている仕事があるかなって。無ければ今日は少し早めに仕事を上がらせてほしいんだけれど……」
ヴァルサスはユウから処理の済んだ書類を預かると、眼を通した。
受け取った書類は指示通りきちんと整理されており、更に後の処理まで済んでいる。
相変わらず、指示以上の所までやってくれているな。
カイルに眼をやると、カイルの方も残っている仕事は無いと言う。
「ふむ、取りあえず今日はもう良い。ユウに頼めるのはここまでだ。後はカイルが処理する内容だしな」
そう答えるとユウは嬉しそうに眼を輝かせた。
「ありがとう、ヴァル!カイル!」
「ん、そろそろ昼だし、今日はこれで上がっていいぞ」
「ええ、お疲れ様でしたね、ユウ」
ユウはぺこぺこと見慣れない仕草で頭を下げて、感謝の言葉を述べながら執務室から姿を消した。
余程嬉しかったようで、元の世界でのものだろう挨拶をして出て行った。
それにしても、どうにもユウの妙な態度が引っ掛かる。
一体何をしようとしているのだろう?
ユウのいない執務室は何となく、先程よりも薄暗く静かな気がした。
次の日、早めに執務室に来て仕事を始めていたヴァルサスは、いつもの出勤時刻よりも早く出てきたユウに少し驚いた。
「おはよう、ユウ。今日はいつもより早いな」
「おはようございます、ヴァル。今日は何となく早く来てしまって。昨日早めに上がらせてもらったから、代わりに今日はしっかり働くね」
「そうか、頼もしいな。それじゃあ今日もよろしく頼むぞ」
ユウの今日の服装はさらりとした黄色の生地にふんわりと襞のあるシャツとクリーム色のスカートだ。その手には小さめの手提げ袋を持っていた。
ユウが身動きすると、微かに甘い香りが漂ってくる。
少し癖のある、その甘い香りは何となくヴァルサスの心をくすぐった。
一体何の香りだろうか? どこかで嗅いだ事のあるその甘い香りを、ヴァルサスは思わずもっと近くで嗅ぎたくなった。
ユウの束ねた黒髪の後ろに覗く、白いうなじに眼が吸い寄せられる。
そこに顔を埋めたら、あの香りが包んでくれるだろうか? その時ユウは一体どんな反応を見せてくれるだろうか?
思わずそんな事を考えたが、カイルが出勤して仕事に加わったので、意識を目の前の書類に集中させた。
時間はあっという間に過ぎて行く。
手元の仕事がひと段落付いた頃には昼になっていた。そろそろユウが仕事から上がる時間だ。
先にカイルがユウに労いの言葉を掛けて、書類の束を持って執務室の外へと姿を消す。様々な書類を持って各部署へと回る為だ。
「ユウ、今日はご苦労様。お陰で仕事が一段とはかどった。もう時間だから、上がっていいぞ」
ヴァルサスはユウに言葉を掛けた。
すると、ユウはあっという何かに気付いたような表情を浮かべ、落ち着かない様子で立ち上がった。
ユウは手提げ袋の中から何かを取り出すと、ヴァルサスの机の前に来る。
「ヴァル、受け取って下さい!」
「?」
頬を赤らめながら白い手から差し出された物は、赤いリボンの付いた小さな包みだった。
「ありがとう。……これは?」
「開けてみてください。それ、私のいた世界でチョコレートって言うお菓子なんです。ヴァルの口に合えばいいのだけれど」
「今、食べてみても良いか?」
「どうぞ!」
指でつまめる程度の小さな四角い茶色のそれを、口に含む。
微かにほろ苦い味わいがした後、甘くコクのある味わいが後から口の中を覆う。少しすると、淡く溶けて無くなってしまった。
どこかで嗅いだ事のある香りは、だが、初めて食べた味で美味しかった。
「美味い。これは初めて食べたな」
「良かった。あの、元の世界では今の時期位にバレンタインデーというのがあって、元々は女性から男性に対して愛の告白をする日なんだけど、他にも日頃の感謝の気持ちを込めてチョコレートを贈ったりもするの」
その言葉を聞いた途端、思考と共に息が一瞬止まった。
かっと頭に血が昇ると、遅れて心臓が躍るように早鐘を打つ。
上手く言葉が出てこない。
口を開こうとした途端、ユウが焦ったように声を出した。その顔は、包みを飾っていたリボンのように赤くなっている。
「あっ、もうこんな時間。クリス先生との時間に遅れちゃう。ヴァル、それじゃあ私は失礼するね!」
そう言い残して、ユウは素早く執務室の扉の向こうへと姿を消した。
執務室に一人残ったヴァルサスは赤くなった顔を片手で覆った。
今日のユウの甘い香りと同じチョコレートの香り。
そうか、ユウの様子が変だったのは、このチョコレートを準備する為だったのか。
……それで、どっちなんだ。感謝の気持ちかそれとも愛の告白か?
ヴァルサスは当分仕事には手がつけられそうに無かった。
今回も読んで下さいまして、ありがとうございます。