第33話 前触れ 3
私は辿りついた扉の前で凍りついた。
扉の向こうから微かに聞こえる混乱した物音と魔物達の咆哮に私の体からは血の気が引き、冷たい汗がじわりと掌に滲むと気持ち悪く纏わりついた。
私はいまだ力の入らない、微かに震える己の足に酷く腹立たしさを感じると同時に、この物音を窺う事しか出来ていない状況に焦燥感が募った。
必死で私が扉の外の様子を窺っていると、背後で人の気配がした。石の床を打つ靴音が、私の耳をも硬い音が打つ。
「気分でも悪いのかい?」
はっとして振り返ると、そこには茶色の制服を着て親切そうな笑顔を浮かべた白髪の中年男性がいた。左胸には警備員と書いてある名札がぶら下がっている。
後退している前髪のない広い額は天井からの照明を反射して、ぴかりと一瞬眩しく光った。
警備員のおじさんは白い口髭を動かしながら、少し身を屈めて優しく私に尋ねてきた。
「君、大丈夫かい? 立てるかな?」
「えっ? あの、ちょっと一人では立てそうになくて」
そう答えると、私の両腕を掴んで腰が抜けている私を立たせてくれた。
ぐらりと体が頼りなく揺れる。
私の足は小鹿のようにプルプル震えて一人では自分の体重を支えられず、しばらく警備員の両腕にしがみ付いて支えてもらっていたのだけれど、ほんの少し時間が経つと足の震えが止まってしっかりした。
よし、もう大丈夫。
両手で掴っていた警備員の腕を放すと自分の足がしっかりしている事を確認した。
「あの、もう大丈夫みたいです。ありがとうございました」
「おお、そうかい、それは良かった。さっきは凄い地震だったから、どこか打ったのか怪我でもしたのかと思ったよ。君と一緒にいた連れの人はどこへ行ったのかい?」
「どこにも怪我はしていません。連れは私をここに避難させてこの建物から外へ出て行ったんです。……あの、ここは?」
「避難? さっきの地震で何かあったのかい? ああ、ここは時計台の一階、受付カウンター前だよ」
私は改めてこの建物の中を見渡した。天井は高く、照明がゆらゆらと揺れている。銅の大きな輪っかにまあるい照明が幾つもシャンデリアのように付いていて、白い壁には飴色に光る木を使った柱が並んでいた。さらに、奥には同じ材質でできた重厚な階段があり、その手前に受付カウンターがあった。
奥の階段からは見学中だったのだろうお客が数人、ここの受付らしき女性と一緒にのんびり話しながら降りてくる。
「今、ここはさっきの地震で安全確認中なんだよ。しばらくの間、中の見学は出来ないんだ。悪いね」
警備員はのんびりと悠長に言い、まるで外の騒ぎとは無縁のように見えた。
もしかして、外で起こってる事や魔物が出た事を知らないのかもしれない。
「いいえ、私は見学ではなく、魔物が広場に出たのでここに連れが避難させてくれたんです」
警備員は面白くも無い冗談を聞いたかのように眉をひそめて笑った。
白い口髭が微かに歪む。
「魔物だって? おいおい、何の冗談だい? 魔物なんて、この王都にいる訳がない」
「本当なんです。さっきの地震と共に突然現れたんです!」
私の言葉を全く信じてくれない様子の警備員は、やれやれとか言って外人のように両手を上に向けて首を振った。
このまま説明を続けても、この様子だと魔物が出現した事を信じてもらえそうにない。
王都は今まで魔物が出現した事など無かったので、警備員は私の話を質の悪いつまらない冗談とでも思っているのだろう。
けれど、建物の外は危険である事を伝えておくべきだ。この建物の中にいる人達が魔物の危険にさらされ無いように、不用意に建物の外に出ないよう伝える必要がある。
この時計台の中には、ここにいる人以外の職員や他の見学客等もいるかもしれない。
私の言葉をまともに信じてくれない警備員に、それでも魔物が現れて建物の外は危険である事を伝え、建物の外には出ないよう他の人にも伝えるよう声を掛けた。
次に私はヴァルサスとレオンの様子を窺う為に扉の外へ出ようとした。
中央広場は、彼ら二人はどうなっているのだろう。少しでも、何かの力になれれば。
先程から不安と心配で気持ちばかりが焦ってしまう。
扉の取っ手に手を掛けようとしたその時、扉が勢い良く開くと外から人が数人転がり込むように入ってきた。
皆、必死な形相をして息を切らし、服は所々汚れている。
「た、助けて! ま、魔物が出たのよ!」
「あれはグールだった! 以前俺はグールを見た事があるんだ、間違いない!」
「ここに避難させてくれ! おい、早く扉を閉めろ! 外から開かないように鍵を掛けるんだ」
突然なだれ込んで来た人達に警備員も、受付の女性と見学客も驚いた様に茫然としている。
「今、外では魔物と騎士とマントの剣士が戦っているが、魔物の数が多いんだ!」
ヴァルサスとレオンの事だ! グールの数が多いとは、二人とも大丈夫なの?!
「そ、それで二人は? 騎士と剣士は無事なの?!」
「そんなの知らねえよ! 俺達はあそこから避難してくるだけで精一杯だ。駐在の騎士達がじきに応援に来るのを待つだけだ」
私は二人が心配で外に出ようと扉に手をかけた。けれど、その手は避難してきた人達に素早く払われる。
「何するのよ! 開けるつもりなの?」
「私の連れがまだ外にいるの。お願い!」
「よせ、開けるんじゃない! おい、警備員、早く鍵を閉めろ!」
私は扉の近くから奥へ追いやられてしまった。
茫然としていた警備員のおじさんは叫んだ人の剣幕に押されるように、じゃらじゃら音を立てる鍵束を持って扉に近寄ると素早く鍵を閉めた。
がしゃんと重い音を立ててあっという間に閉まった鍵は、私と建物の外にいるヴァルサスとレオンとの繋がりを断ち切るように重い音をたてた。
駄目だ、このままでは外に出れない。
私は他に出入り口が無いかときょろきょろ見回すと二階に上がる階段が視界に入った。
二階に窓があるかもしれない。
私は二階目指して階段を一気に駆け上った。
一階とは異なって二階は休憩室程度のスペースしか無かった。床には赤い絨毯が敷かれていて、目指した窓の傍には椅子とテーブルが数個置いてあった。窓は割と大きく観音開きのものだった。
私は窓際に駆け寄って、窓を大きく開くと身を乗り出して外の様子を見た。
時計台は中央広場に隣接しているため、中央広場は良く見渡せる。
中央広場には、さっきまであれほど溢れていた人影が、跡形も無くなっていた。
残っているのは散乱している商品や、壊れた屋台と襲ってくる魔物と、そして中央広場の中心で戦う二人の人間の姿だけだった。
二人の周りには、うじゃうじゃとグールが群がってくる。まるで二人に吸い寄せられるように。
周囲をグールに囲まれたヴァルサスとレオンは、お互いを庇うように背中を向けあって戦っていた。
次の瞬間グール数体が固まって一斉にレオンに襲い掛かった。
レオンは自分の背丈と同じ位の大剣を猛々しく振るうと、襲い掛かったグールの上半身が吹き飛び、あるいは体が二つに折れたようになってはじけ飛んだ。
斜め下から横薙ぎに払った大剣を、勢い殺さず上段よりグールの脳天に大剣を切り降ろす。グールの体はぐしゃりと潰れ、首が胴体にめり込んだ。そのまま返す手で続けざまに閃いた大剣は獰猛な勢いで新たな獲物に襲い掛かり、腰から肩にかけて一気に両断する。
ヴァルサスは両手に日本刀のように反りのある剣を持っていて、左右から襲ってきたグールの攻撃をひらりとかわすと同時に左手の剣でグールの腕を切り飛ばし、次いで右手の剣で反対側にいたグールの首を切断した。
腕を切り飛ばされたグールは体ごとヴァルサスに突進してくる。
このまま引きずり倒される!私の脳裏に恐怖の映像がちらついた。
しかし、ヴァルサスは素早く右足を踏み込み上体を沈めると両刀を交差させ、一気に左右に振り抜いた。
グールの上半身と下半身が真っ二つに分断され、遅れて血飛沫が噴水状に飛び散った。
そのまま、肉食獣の様に新たな敵の喉笛に両刀で喰らい付くと切り飛ばし、死骸を増やしてい行く。その動きは恐ろしい物なのに、まるで舞いを踊っているかのようで美しく見えた。無駄な動きが見当たらない。
不意に風に乗って、鉄錆のようなむせ返る血の匂いが私の元まで届くと共に、グールの放つ咆哮が轟いた。
ヴァルサスとレオンがグールを倒しても、次々と絶え間なくグールが二人に襲いかかって行く。
襲ってくるグールの数は、数体どころでは無く二十……ううん、三十体以上いるように見えた。
私は頭を強く殴られたような衝撃を感じた。
あれでは幾ら二人が強くても、いずれは数に押されて圧倒されるかもしれない。
現に絶え間なくグールに襲われて、召喚を行う隙もないみたいだ。
最悪な場面がちらりと脳裏をかすめた。
二人を助けなければ! 早く、はやく!
私は自分の奥底から力を引き出そうとした。
お願い、もう一度あの大きな力を。
今まで意識して変身していた訳ではないけれど、二度も変身して大きな力を使う事が出来たのだ。二度出来た事なら今回だって出来る筈だ。
脳裏に、二人に約束させられた事がちらりと浮かぶ。
――出来るだけ召喚状態での強大な力は使わないように。
――ヴァルサスとレオン以外には正体を明かさないように。
丁度、ここにいるのは私一人で他に見ている人は誰もいない
私は己の力を引ずりだそうと、更に自分の体の奥底に意識の手を伸ばした。
無い。
意識の手は空を切る。
力が湧いてこない!
更に探ると微かに指先に力が触れた。
視ると、意識の手の中に在るのはほんの微かな、細い糸のような力だけ。
あの、私を飲み込むほどに力強く圧倒的な力はどこにも感じられなかった。
出てきた力は私の掌がほんの少しぼんやりと光る程度の物だけだった。
どうして?
今まではヴァルサス達を助けたいと強く願った時に、力が湧いて出てきたのに。
今回だって、願いの強さは変わらない。
なのに、何故!
このままの私では、力も武器も持たない逆に襲われるだけの、自分の身すら守れない無力な人間でしかない。
どうしたらいいの?
私は愕然として、ただ窓越しに二人の様子を見ているだけだった。