第32話 帰る場所
明るい日差しが部屋を包み込み、開け放たれた窓からは、微かに鳥の囀りが聞こえてくる。部屋の前には美しく整えられた庭園が広がっていて、そこで鳥達が楽しくおしゃべりをしているのだろう。
いつもと変わらない景色、空気と音。
部屋はいつもと同じ容相で私を優しく受け入れてくれる。けれども、私はそわそわとして落ちつけない。日ごろは座り心地好いソファも居心地悪く感じてしまい、何度も身じろぎをしては座り直す。窓から入ってくる風は、ざわついた人の気配を乗せて運んでくるような気がした。
私は立ち上がると、まるで何かが入ってくるのを恐れるかのように、開け放たれている窓をばたんと閉めた。
一体ヴァルサスは何を考えているの? 私の事をどう思っているの?
ヴァルサスは私に掠めるようにキスをして、はっとした時には既に離れていた。
微かに温もりと軟らかな感触だけを残して。
キスされたと解ったのは、少し経った後だった。
キ・キス!
つまり、あれだよ。私の唇とヴァルサスの唇がこう、隙間なくぴったりと重なっちゃったんだよ。
かっと身体が熱を持つ。脳みそが沸騰しそう! ぶくぶくと思考が泡立つ音が聞こえてきた。
けれども、ヴァルサスはあの後何事も無かったような態度で私に接した。
動揺しているのは私だけなの?
ヴァルサスは話を再開し、私は半ば止まりかける思考のまま、流されるようにただ頷いていた。
もちろん、ショックで涙なんかはとっくの昔に止まっている。
ヴァルサスは頭が真っ白けな私に約束させた。
いわく、ヴァルサスを頼ること。隠し事をしない事。今まで通りヴァルサスの元で過ごす事。召喚状態での強大な力はできるだけ使わない事。ヴァルサスとレオン以外には正体を明かさないように気を付ける事。
ただし、通常の状態での癒しの力を使う程度ならクリス先生の指導もあるし、良しとされた。
でもね、そう言われても、自分で意識して変身する訳でも力が使える訳でもないんだけれど。
私が意識して出来る事があるとすれば、たどたどしい癒しの力だけ。
けれどもその時の私は真っ白な頭で何も考えられないまま、ただひたすら頷いていた。疑問なんて、浮かぶ事すら無かった。
最後に、ヴァルサスの一言。
「ユウが成人していると知ったからには、今までとは違って子供であるとは思わないが、それでもいいな?」
「……うん、分かった。私もこれからは大人として行動するよう自覚します」
「ん、そんなに硬くならなくてもいいが、成人女性として見るというだけだ」
「はい」
それにしても、この世界でのキスって挨拶程度なのかしら?
出逢った頃に、父親か兄のように思って欲しいと言われているし、実際兄のように思っている。
だってさ、お父さんというにはちょっと若いよね?
先程のは軽い口づけ程度だったし、あまりにもヴァルサスの態度が変わらないから、親しい間での挨拶とか親愛の表現なのかもしれない。
日本での常識とは違うけど、この世界でのキスシーンなんて見た事も聞いた事もないし、分からないよ。
私一人だけがこんなに意識してしまうなんて、恥ずかしい限りだ。
なんだか私の気持ちは、ヴァルサスに振り回されているような気がする。
私も気にしないでおくとしよう。
あの後、私はレオンにも同じように話をする事に決めた。レオンも私の姿を見ているのだし、疑問に思っている事だろう。
それに、私は彼にも随分良くしてもらっているし、お世話にもなっている。
レオンにだって知る権利がある。
私は食事を済ませ、身じたくを整えると気持ちを落ちつけた。
ヴァルサスと話をして少し時間が経っているから、冷静に話が出来ると思う。多分。
部屋にノックの音が響いて返事をすると、ヴァルサスとレオンが入ってきた。事前にヴァルサスからレオンがお見舞いに来てくれる事を聞いていたので動揺はしない。
今日、レオンと話をする事に決めていた。もちろんヴァルサスも一緒だ。
入ってきたレオンの表情には、私を気遣って心配してくれているのがありありと浮かんでいる。ヴァルサスの方は穏やかないつもの顔。
私はソファから立ち上がって二人を部屋に招き入れた。
レオンが優しい声で、問い掛けてくる。
「ユウ、調子はもう大丈夫なのか? 起きていて、しんどくはないのか?」
「ありがとう、レオン。もう何ともないから」
「ユウ、しんどくなったらいつでも言うんだぞ」
これはヴァルサス。私の体調だけでなく、気持ちまでも配慮してくれている。
「ありがとう、ヴァル。でも、心配いらないよ。さあ、どうぞ二人とも座って。今、お茶を淹れてもらうから」
私は先程まで自分が座っていた、テーブルを挟んで設置してあるソファに座るよう二人に勧めた。
すると、レオンは私の目の前に、ヴァルサスは私の隣に座る事となった。
ヴァルサスが隣にいてくれる、私にとってそれがとても心強かった。
私はフランにお茶を頼んだ。
今からレオンに話をする間、フランには席を外して貰う事にしたのだ。
私はヴァルサスに説明したように、レオンにも自分の事を話した。
私が異世界人で、元の世界で病死した事。こちらの世界に召喚された事。不思議と大きな力が使えた事。
レオンは私が話を終えるまで、じっと静かに聞いてくれた。
ヴァルサスも、口を挟む事もなく静かに佇んでいる。
話が終わった後もレオンは少しの間黙っていたけれど、やがてぽつりと言った。
「ユウ、俺に話してくれてありがとう。俺の事を信頼してくれて嬉しいよ。けれど、勇気がいっただろう? 一体どれだけの勇気がこの小さな身体に詰まっているんだ?」
レオンは立ち上がると、テーブルを挟んで座る私の傍に来て、その場にそっと跪づいた。
私は驚きながら、急いでレオンの方に身体を向き直した。
一体何をするつもりなのだろう?
レオンは貴婦人にするように優雅に私の右手を取ると、その手に微かに力を籠めて、そっと唇を寄せた。
レオンの吐息と唇が、わたしの手の甲を熱く撫でる。
唇が当たったのは一瞬だったけれども、私の手は燃えるように熱くなって、息をするのを一瞬忘れた。
レオンはまるで私以外眼に入らないとでもいうように、じっと熱の籠った眼差しで私を見た。
「君が俺を救ってくれた。一度ならず、二度までも。ありがとう、俺達の前に現れてくれて」
「レオン……」
「悪いが、元の世界に戻りたいと思ったとしても、もう遅いからな。放さないぞ、ユウ。この世界で、俺の元にいてもらうからな」
レオンは冗談めかしてそう言うと、そっと私の手を放した。
私は拒絶されなかった。それどころか、受け入れてくれたんだ。
じんと胸が熱くなった。視界が少しぼやけて眼が潤んでいるのが自分でも分かった。
良かった。
……怖かった、本当に。私は、親しい人に拒絶されるのが怖かった。
ヴァルサスが私に向けて優しく微笑んだ。その笑顔を見た途端、私の身体から緊張が取れて力が抜けた。
フランが淹れてくれたお茶を飲みながら、いつの間にかカラカラに乾いていた喉を潤した。
お茶の甘い香りが漂って、私の気持ちを解してくれる。
ヴァルサスとレオンは何やら会話をしながらお茶を楽しんでいるけれど、私はその内容が頭に入ってこなかった。
私は二人の様子を見ながら、胸の内でそっと自分に問い掛けた。
元の世界に戻りたいだろうか?
死んでしまった私にとって、元の世界には居場所は無いと思う。
もしも、あるとするならば、そこにはお墓と思い出がある位だろう。
もちろん、私の身体はとっくの昔に焼けて灰になり、小さな壺に骨だけとなって入っている事だろう。
帰る場所なんて、どこにもない。
ここ以外には。
私はレオンとヴァルサスに感謝して、今まで通り過ごす事となった。
ついでに、レオンともヴァルサスと同じように約束させられた。
「ユウ、しかしこれだけは約束するんだ。俺たちを信頼して、隠し事はなし。勝手に出て行こうなんて、思うなよ?」
それにしても二人共、私の事を良く分かっていらっしゃる。
今回も読んで下さいまして、ありがとうございました。