第29話 胸中
今回はレオン視点です。
レオンは今、王城内の長い廊下を脇目も振らず歩いていた。美しい庭園の傍を通り過ぎるが、その鮮やかな色彩もレオンの視界には入らない。ひたすらヴァルサス殿下の居住する一角に向けて早足で進む。目指す先はユウの部屋だ。
途中、何人か見知った顔とすれ違ったが、挨拶もそこそこに先を急いだ。
日差しが眩しく眼を刺した。少し眼をすがめながら、レオンはユウの部屋へと向かう。
部屋の前で立ち止まり深呼吸をする。大きく息を吐き出して、揺れる気持ちを静めてから目の前の扉をノックした。扉が硬質な音をたてると中から侍女のフランが現れた。フランはレオンを認めると、丁重な態度で挨拶を述べた。
「これはレオン様。今日はどのような御用件で、こちらにお越しいただいたのでしょうか? 申し訳ないのですが、ユウでしたら昨日から寝込んでおりまして。今、クリス先生に診ていただいている所なのです」
「知っている。だから見舞いに来た。悪いが少しの間、都合が良くなるまでここで待たせてほしいのだが。ユウの具合が心配でしょうがないんだ。一目でも会わせてはくれないか?」
「レオン様、けれど……」
奥から微かな声が耳に届く。それはヴァルサス殿下のものだった。ユウの傍には殿下もいらしてたのか。
フランはその声を聞いて、少しお待ち下さいとレオンに言葉を残して部屋へと消えた。
再び扉が開く。先程より、わずかな時間でレオンは部屋の中へと招かれた。
ヴァルサス殿下から入室の許可が出たようだ。
「失礼します」
部屋の中に入るとベットに埋もれるように横たわるユウの姿が目に入った。白いシーツに黒髪が鮮やかに映えている。血色の良い頬と花びらのような唇が、ユウを穏やかに眠っているかに見せた。ベットの傍にはヴァルサス殿下とクリスの姿がある。二人はユウの状態について会話中だった。レオンはその場の邪魔にならないよう脇で様子を窺っていると、ヴァルサス殿下がちらりとこちらを見た。レオンはヴァルサス殿下に向けて頭を下げ、静かに礼をした。
クリスの診察はこれで終わったのか、ごそごそと大きなカバンに荷物をしまいつつ、ヴァルサス殿下と話をしている。いかにもクリスらしい行動だった。
クリスか。確かに彼女なら今までユウの事を見てくれていたし、信頼もおける人間だ。逆に言えば、彼女以外の医者など思い浮かばなかった。
昨日の事がレオンの脳裏に甦った。
ユウを抱きかかえたヴァルサス殿下はハクオウに騎乗して、我々より一足早く王城へと帰還していた。
ユウは無事なのだろうか? 様子が知りたい。
レオンはもう一度、マントに包まれているユウの姿を見たかった。しかし、黒騎士達を放っておく訳もいかず、全員を無事王城に帰還させ報告を済ませて事後処理を終えた頃には夜半を過ぎていた。レオンはすぐにでもユウに会いたかったが、さすがに非常識な時間だ。
レオンは疲れているはずの身体を休めるために、その時は自分の部屋へと戻った。騒ぎ立てる自分の心を持て余しながら。
……半信半疑な思いと現実を受け止めようとする気持ちがない交ぜになる。
あの、死にかけていた自分の命を救ってくれた召喚獣がユウだったとは。しかも、一度ならず、二度までも。
召喚獣。ユウは人間では無いのだろうか? しかし、ユウは自分達と変わりないように思えた。唯一、混血児としても成長速度が若干速いくらいだ。
では、召喚獣とは一体何だ?
調べたところで詳しい事は何も分からない。召喚獣自体が不明瞭で、分かっていない事が多すぎる。
召喚とは、自分の魔力と引き換えに別次元の存在を呼び出す事だ。召喚士の魔力をもって、この世で存在できるようその姿をひととき形成する。その代わりに召喚獣の力の一部を借りるものだ。存在自体が強い召喚獣ほど呼び出しと形成に魔力を必要とする。そして、召喚獣は長時間この世には存在できない。それはこの世の存在では無い為らしい。
しかし、ユウは違う。ユウはここで、レオン達と共に食べて笑って泣き、生活している。
あれは、ユウ自身の能力なのだろうか?
あの、とてつもない力が。ユウは混血児でなく純粋な魔族なのか? しかし、魔族でさえあれ程の癒しの力を持ち得るのだろうか? そんな話は聞いた事もない。
思考がぷつりと途切れた。クリスが診察の結果を言い始めたからだ。診察の結果はどうだったのだ。ユウの具合は? 結果が気になりクリスの言葉を一言も聞き洩らさまいとする。
「ユウは大丈夫です。どこにも異常は見られないし、状態も安定している。ただの疲労でしょうな。少し休めばすぐ元気になりますよ」
「そうか、良かった」
ヴァルサス殿下が心からほっとしたような声を零した。
レオンも気付かない内に入っていた体の力が抜けていく。安堵の息が漏れた。
「ああ、眼が覚めたら体力の付く物でも食べさせてやってください。それでは私はこの辺で失礼しますよ。他にも患者を待たせているもんでね」
「クリス、感謝するぞ」
ヴァルサス殿下とレオンはクリスがその場を立ち去るのを見守った。腕に持った、大きなカバンをガチャガチャいわせながらクリスは姿を消す。
「ヴァルサス殿下、見舞いをお許しいただきありがとうございます」
「レオン、こちらこそユウに代わって礼を言うぞ。それと、昨日は後の事をお前に全て任せてしまったな」
そう言った後、ヴァルサス殿下はフランに席を外すよう言葉をかけた。レオンはフランが姿を消すのを確認してから返事を返す。
「いえ、かまいません。それに、礼などむしろ俺の方がユウに言わねばなりません。何と礼を言っていいのやら分からないくらいです」
「そうだな、私もだ。一体何人の人間がユウによって救われたのか。感謝してもしきれない。しかし、ユウは不思議な存在だな。彼女について、私は何も分かっていない」
「ええ。一体何者なのでしょう?」
「ああ、何も分からない。本人に聞くしかないな。ただ、最終的には彼女は彼女だ。それ以外の何者でもない」
「もちろんです」
「……クリスにはいずれ、ユウの事を話そうと思っている。やはり、いざという時に協力してもらえる信頼のおける人間が必要だ。たとえ、ユウがどんなに凄い力を使えようとも人は完璧じゃない。今のようにな」
「はい、殿下のおっしゃるとおりです」
レオンはユウの様子を窺った。ユウは傍目には穏やかに眠っているように見える。少しだけ開いた花びらのような唇は少女と娘の狭間で揺れる特有の色気を醸し出し、官能的にすら思えた。
閉じられた睫毛の落とす影。微かに上下する胸。眠っているユウはとても小さく繊細だった。
それは、確かにレオンの知っているユウだった。召喚獣ではなく。
「殿下、ユウの状態が落ちついているのが分かったので、今日はこの辺にしておきます。これ以上邪魔してもいけないでしょうし、ユウの無事な姿も見れましたので、また明日伺うことにします」
「ああ。ユウが目覚めたらすぐにでも連絡しよう」
「ありがとうございます、殿下。では、失礼します」
部屋を出るときにちらりと見えた、ヴァルサス殿下のユウを見つめる表情は穏やかさの中にどこか熱に浮かされたような複雑なものだった。
レオンは自分の部屋にいつの間にか戻っていた。
ユウの部屋を出た後、どうやって戻ったのか覚えていない。
気が付くと、机の上に置いてある女神像を手に取っていた。この、掌くらいの女神象は木彫りの簡素なものだった。レオンが幼い子供の時より幾度となくこの手で触ってきたので、つるりと光沢を帯びている。
その穏やかな女神の表情とユウの顔が重なった。
どくりと心臓が大きな音を立て、きゅっと甘い響きをもたらす。思わず、胸の上に右手の拳を押し当てた。
レオンの伏せられた瞼の奥に虹色の輝きが広がった。
レオンの命を救ってくれた虹色の女。砦で魔物に襲われ死にかけていた、レオンを癒した女。
見えなくなったはずの眼力がぼんやりと回復していく時に見えた、あの時。
女神か天の身使いかと思った。
巨大な魔物が砦を襲撃したあの日。
かつてこれ程までに強い魔物など、存在しただろうか? 自分も部下の騎士達も、あのヴァルサス殿下でさえ歯が立たない。
突如、牙を剝く風圧にレオンの体は吹き飛ばされる。無残にも自分の両足が千切れる音が聴こえた。衝撃は後から体を電撃のように襲い、一瞬で意識が遠のいた。大量の血液が命と共に体から流れ出ていく。
自分は終焉を迎えている。
このまま死ぬのか?
嫌だ、まだ死にたくない。誰か助けてくれ!
ここへ来て救いを! 空虚で満たされることのないまま死にたくない!
薄れゆく意識の中でレオンは声の限りに叫んだ。
レオンは必死に手を伸ばした。掴まる物さえあれば、何でもいい。
実際のところ、レオンはピクリとも身体を動かす事など出来はしなかったのだが。
かすれていく景色が闇へと変わる。暗闇の中、不意に温かい光がぽっと灯った。その光が何なのか、考える事さえ出来ず咄嗟にしがみ付く。レオンは必死だった。この光ならば、自分を救ってくれるような気がした。
しがみ付いた光はレオンを拒絶する事無く受け入れてくれた。優しく、温かくレオンを包み込む。
穏やかな温かさに満たされる。
初めてだ。生まれて初めて、体だけでなく心が満たされた。この光は空虚な自分を受け入れてくれる。レオンは居場所ができたような気がした。
……この輝きに包まれているのなら、このまま死んでもかまわない。そうだ、ずっとこのままで。
全身を貫く痛みがじわじわと引いていく。感覚が麻痺しはじめていた。
突如、沈んで行く体を引き上げられたかのように急激に力が漲って、重く鉛のような身体が軽くなった。一体何が起きているのだろう? レオンは眼を開けた。動かす事ができなかった身体は実にあっけなく動く。
目の前に虹色の女がいた。女は光り輝いていたが、レオンにはうっすらと顔が見えた気がした。
その顔は、慈愛に満ちた女神像に似ていた。
レオンは女に向けて咄嗟に手を伸ばし、この腕に捉えようとした。今度はレオンの思うように動く。しかし、レオンを包んだ虹色の光は女と共にかき消えた。
会いたい、もう一度。心の底から切望した。
だが、どうすれば逢える?
ユウを初めて見た時、何故か女神像が重なった。それから、ユウがいる時は不思議と気持ちが穏やかになっていた。
気が付くと、ユウの姿を探している自分がいる。
こじつけのように手土産なんか用意して、ただ会って喜ぶ顔が見たかった。ユウという存在に引き寄せられる自分がいる。ユウはまるで闇の中に灯る光のようだ。レオンはその灯にふらふらと惹かれる虫のようだった。
あの虹色の女はユウだった。手の届かぬ存在しない幻では無く。
……あの輝きを今度こそ、この腕の中に。
必ず。
今回も読んでくださいまして、ありがとうございます。