戦地の幼馴染から落馬と食卓の話しかないので、求婚に気づきませんでした
とある辺境に領地を持つ男爵家には、八人の子供がいて、その中にリリッタもいた。
貴族といっても下位貴族の一つで、寄り親のマスタング伯爵家の脛をかじって生きてきた。
借りた領地の視察を一挙に任され、侍女もまともにつけられなかった。平民の一つ抜けたくらいで、裕福でもない。ただ、母親が采配を振るったおかげで、ひととおりの教育は受けられたし、母国語も読めるようになった。
だが十七歳の時、唯一の拠り所であるマスタング家が崩落したのだ。
珍しくもない王位争いに巻き込まれた結果であった。
ある貴族は、勝者となり。
ある貴族は、敗者となった。
国王の不興を買った高位貴族は処刑され、一族もろとも消し去られた。脅威と見做されなかった派閥内の下位貴族でも、爵位を奪われ追放された。家財を持ち出すことは一切禁じられ、子息令嬢が逃亡を図っても、貴族狩りから逃げおおせずに捕まってしまうことが殆どだった。
「ちょ…な、何よ…この傷…」
最初は、リリッタが出自もわからない子供を匿ったのが始まりだった。
小枝のように棒立ちの髪、斜めがけの巨大な鞄。しわがれた声の子供は、貴族とはお世辞にも言い難かった。母も兄も姉も出払っている静かな屋敷に、リリッタの当惑の叫びだけが響いた。
邸宅の脇に小川があったので、たらい片手に子供の手を引いた。
ユラユラと午後の光が踊り、花びらが舞い上がる。鬱蒼と生え茂る草が群集し、艶やかな蝶が膝に留まった。上流で子供を下ろすと、けばけばの髪を梳いてやった。栗色の毛深い髪から、少しずつ、陽光を映した黄白色が顔を覗かせる。
彼は子犬のような佇まいでぶるぶると水気を飛ばした。
「名前はなんていうの?覚えておきたいの」
「ブルガット、た…助けてくれてありがとう」
「えぇ…誰だってそりゃ、泥まみれの子供がいたら助けるわよ」
「ここは辺境の…?」
ブルガットは顔を顰めて、リリッタを見た。
「ここ、寄親だって聞いたんだけど」
「もしかして、あなた、マスタング家の!」
うん、と手元の銀貨を手渡される。
「これだけしか取り返せなかったんだ。途中で、貴族狩りを名乗る集団に捕まって…その時に家族とも離れて。騎士爵しか取り柄のない僕が、生き残る方法なんて何もないから。せめて、生活の足しに…」
きゅるん…と、つぶらな瞳で見つめられリリッタは戸惑った。
マスタング家の末子にブルガットという男の子がいることは、リリッタも知っていた。
一見小柄だが抜きん出た剣の腕は本物で、ブルガットは騎士として叙任されたばかりだった。だが、列席の貴族たちが次々と処刑されて、自らも追放されて。それからは絵に描いたような生き地獄だった。逃げる途中でかき集めた金銀財宝も、貴族を毛嫌いする平民たちに横取りされた。
その間、マスタングの家族たちは平民ども捕縛され、奴隷落ちとなっていた。
小柄な風貌から使えないと判断されたのか、その場から逃れたのは彼一人となったのである。
「私のお父さんがマスタング家を引き取るからって…準備してたところだったのよ」
正直家族が増えたことは嬉しかった。けれど、裕福でもない小貴族の屋敷など嫌ではないのだろうか。髪をわしゃわしゃと拭きながら、そんなことを思っていると、ブルガットはこちらを向いて笑った。
「僕…嬉しかったよ、引き取ってもらえるとこどこにもなくてさ」
「…えっ、そ…そうなの!?」
思わず心の中で小躍りしてしまう。
「だって…貴族の子とわかった瞬間、唾吐かれたんだよ。やってらんねえさ」
ブルガットがはにかんだから、心なしかリリッタも笑っていた。
今のは笑っていいところなんだろうか、と後から気づいたけれど。
屋敷に戻ると、般若の顔で母が睨みつけてきた。
だがマスタング家の末子だとわかると、ため息混じりに「預かりましょう…」と言ってくれた。
リリッタとブルガットは諸手を挙げて喜び、一緒に夕食をとった後、泥のように眠ったのであった。
男爵家アニリッタの朝はゆったりと始まる。
遠雷轟く山岳地帯は、冬になれば木枯らしが吹きすさぶ。肌を突き刺すかのような風は、屋敷の一階二階にまで及ぶのだ。リリッタは羽毛布団を引き摺ったまま、暖炉へ向かうと、そこにブルガットもいた。
幼さの残る整った顔立ちを光炎がゆらゆらと照らしていた。
「テーブル拭きしてくれたの?」
「うん、この屋敷侍女がいないんでしょ」
「いないと言っても、いずれ使用人がやってくれるわ」
「そういうところが婚期を遅らせるんだよ」
ブルガットは頬を膨らませて笑った。
彼は二歳年下の子息だが、当たり前のように家政を手伝ってくれる。領都にかつてあった豪邸には、侍女が数十人もいたというのに。何故だろうと彼に聞くと、仕事柄、騎士団寮で敏腕家事人として暗躍していたのだとか。男所帯の寮に宿泊ばかりしていたから、今では、もっと家族と接していればよかったなと寂しげに語っていた。
考えてみれば、リリッタも似たようなものだった。令嬢といっても、平民に近しい生活を送っているリリッタは、いつも家族に代わって留守番をしていた。ブルガットの養育を根気強く説得したのも、末娘という育ちで、心細かったから。
「掃除も料理も針仕事も洗濯も…やってはいるんだけどね」
「リリッタのお母さん、花嫁修行には熱心だよね、こないだも舞踏会に行ってたでしょ」
「うん…まぁ…意地悪な人はいっぱいいたけどね」
リリッタは言葉に詰まり、咄嗟にブルガットの方を見た。
澄んだ緑の瞳に、彫刻のようにきりっとした顔立ち。二人が森で出会ったときが、遥か昔のように思える。
女としての教養、早めの婚期を重んずる母。婚約相手にも巡り会えないリリッタの尻を引っ叩いては、社交場へ連行されるのだ。幌の剥けた乗合馬車でガタゴトと揺られつつ、内心は曇天、土砂降りだ。
農繁期の炊き出しも教養の一つと言われ、吹きすさぶ嵐の中、畑に駆り出される。
社交シーズンが終われば、自室に篭って、刺繍を売ったりしながら日銭を稼ぐ。研鑽を積んだリリッタはニット帽なんぞも編めるようになり、凍える人々に高額で売ったりもした。これも生活のためだ、うん。
「……騎士爵の僕が言うのもなんだけど、商才あるよね」
「ほんとっ!?褒め言葉として受け取っておくわね」
「褒めてないよ」
「え…?」
「なんでもない…」
リリッタは突然の言葉に驚愕し、ブルガットの方を向いた。
彼はこちらを見ることもなく立ち上がると、音もなく去った。
◇
三年の間、ブルガットからの文は几帳面に届いた。
四男にまで与える財産はないと、支度金もなしに騎士見習いとして騎士団に放り込まれ育ったブルガット。
彼はそれから鍛錬の癖が抜けず、結局、男爵家を去って寮へ戻っていったのだ。
騎士団の近況、寮での出来事、たまに食堂の卵焼きが辛い派に占領されたという愚痴。リリッタも返した。刺繍が売れたこと、母にまた舞踏会へ連行されたこと、ニット帽が今年は二割増しで売れたこと。我ながら令嬢らしくない文面だと思うが、向こうも大概だった。
屋敷に戻るたびに、ブルガットは少しずつ違う人間になっていった。
見上げるような背丈の体格に、彫刻のようにきりっとした顔立ち。可愛らしい童顔は消え去り、川辺で拾ったあの子供の面影はほとんど残っていなかった。
「ブルガット、もう少し寄ってかないの?休暇貰ったんでしょ」
「いや、いい…。ここの寝床は堅くて寝返りが打てないからな」
「えぇ…わかったわ、また来てね」
それからも、ブルガットからの手紙は届いた。
『乾燥肉とミシン、それにジャガイモと豆を加えると黒い塊が出来るのだな。野戦に向けて、メニューを考えたのだが…煮込みすぎて、鍋になにやらこびりついている。取れない、すごく取れないぞ…。なんだこれは』
几帳面な筆跡からは、想像もできないような幼稚な文が並んでいる。
思わず吹き出しそうになりながらも、手紙の中では心情を語ってくれることに少し嬉しさを覚えた。
リリッタも返した。
『鍋は重曹で煮沸すると取れます。ジャガイモと豆と乾燥肉なら、最初から全部入れずに乾燥肉だけ先に炒めてから水を足すと良いです。野戦向けなら塩を多めに。あと煮込みすぎないこと』
送ってから、少し考えて、追伸を足した。
『ニット帽、新色が出来ました。売れ残ったら送ります』
それから、リリッタは使用人に掛け合っては、まだ手紙は来ないの、と尋ねるようになった。
北方の情勢が悪化すれば、ブルガットは戦場に駆り出されるかもしれない。
不安が脳裏をよぎって仕方なかったからだ。
ある日、焦った筆跡で手紙が届いた。
『わたしの母上が要塞から逃げ出し、貴族狩りに追跡されているようだ。こちらに来れば、匿ってやってはくれんか。もし捕まれば、処遇は残忍を極める。お願いだ…』
几帳面だった文字が、少し、乱れていた。
数日後、マスタング夫人は煤を被り、酷くやつれ果てた様子でやってきた。
護衛の首を掻っ切ったとかで、血の気のないまま客間にどかんと座った。煤と埃が舞い上がる。夫人の指には、質素なワンピースには不釣り合いな宝飾品がいくつも光っていた。
紅茶を一気に注ぎ込むと、ずれた眼鏡の縁をぐいっと持ち上げた。
「あの子の婚期はまだなの」
静かな声だった。
「あなた達のせいで婚期が遅れたじゃない。いっそ有力貴族に預けた方がよかったわ。そうすれば、綺麗な子があの子のお嫁さんになるんですもの」
それからしばらくして、三方向から手紙が届くようになった。
最初はブルガットとリリッタの往復だったはずが、気がつけば夫人も加わって、奇妙な三角形の文通が始まっていた。
マスタング夫人からの手紙は、いつも丁寧な書き出しで始まった。
『リリッタ様。先日はお世話になりました。おかげさまで体も回復してきております。お屋敷の皆様にもどうぞよろしくお伝えください。
さて、本題に入らせていただきます。レーヴェン家の御令嬢のことはもうお調べになりましたか。豪商レーヴェン家といえば、王都でも五本の指に入る商会を営む名家です。御令嬢は花嫁修行の真っ最中で、料理も裁縫も作法も申し分ないと聞いております。中庭で果実茶を飲みながら刺繍をなさっているとか。なんと令嬢らしい、絵になる光景でしょう。
あなた、いつになったら結婚するの。早く早く早く。』
リリッタは手紙を読み終えて、しばらく眺めた。
最後の三行だけ、筆跡が少し乱れていた。
ブルガットへの手紙には、リリッタは日々のことを書いた。
『先週、母にまた舞踏会へ連行されました。幌の剥けた馬車でガタゴト二時間、会場ではどこかの令嬢に扇でつつかれ、帰りはまた二時間揺られて、翌朝は畑の炊き出しでした。教養とはつくづく体力勝負だと思います。
ニット帽は今月だけで十四枚売れました。赤が一番人気で、次いで茶色です。緑は三枚。売れ残った緑が手元にあります。
屋敷の梅がそろそろ咲きそうです。去年より早い気がします。あなたが川で拾ったあの銀貨、まだ引き出しにしまってあります。なんとなく捨てられなくて』
ブルガットからの手紙は、夫人のことにはひと言も触れなかった。
『実践授業があった。馬上での槍の扱いを習ったのだが、三回落馬した。三回目は盛大に転がって、右足が膝から足首まで綺麗にずり剥けた。痛い。すごく痛い。先輩騎士に笑われた。悔しいので明日また乗る。
この地域の冬は思ったより厳しくて、夜は寮の共用室に全員集まって暖をとっている。先輩も後輩も関係なく毛布にくるまって座学の話をする。なかなか悪くない。座学は難しい。地図と法律と敵国の言語を同時に覚えさせられている。地図はまあいい。法律は眠い。敵国語は舌が回らない。
昨日は煮込み料理を作った。乾燥肉を最初に炒めた。焦げなかった。鍋も綺麗だった。我ながら成長したと思う』
それからも、三方向から手紙は届き続けた。
夫人からリリッタへ。
『御令嬢は琴もお弾きになるそうです。夕暮れ時に中庭で琴を奏でながら果実茶を飲んでいると、レーヴェン家の方から伺いました。なんと風流な。ブルガットにはもったいないくらいですが、それでも早く早く早く。あなた、ブルガットに何か言いましたか。言ってください。今すぐ』
リリッタからブルガットへ。
『夫人から手紙が届いています。今月で七通目です。私宛に。報告まで。
梅が咲きました。白くて小さい花です。川沿いに三本並んでいるのですが、真ん中の一本だけ毎年遅れて咲くのです。今年も遅れています。不思議だと思いませんか。
右足は大丈夫ですか。包帯は毎日替えてください』
ブルガットからリリッタへ。
『足は大丈夫だ。かさぶたになってきた。先輩に薬を借りた。
今日の座学は戦略論だった。少し面白かった。地図に書き込みながら解説されると頭に入りやすい。法律は今日も眠かった。隣の同期が居眠りして椅子ごと倒れた。声を殺して笑った。
梅、咲いたか。遅れて咲く一本は、去年もそうだったな。川の水が冷たいから根が冷えるんじゃないか。知らないけど』
夫人からリリッタへ。
『御令嬢は読書もお好きだそうです。知性的な女性は良いですね。果実茶と琴と読書、なんと優雅な日々でしょう。ブルガットにはやはりもったいないかもしれない。でも早く早く。あなた、返事はしましたか。まだですか。なぜですか』
返さなかった。
気がつけば、夫人の手紙はレーヴェン家の御令嬢情報と「早く」で構成されるようになり、リリッタの手紙は屋敷の植物と日々の売り上げと気候の話になり、ブルガットの手紙は落馬と座学と食事の話になっていた。三者三様、誰も誰の話題を正面から受け取らない、奇妙な文通になっていった。
それでも、リリッタは毎朝使用人に聞いた。
まだ手紙は来ないの、と。
ある朝、手紙の代わりに本人が来た。
玄関先に馬の蹄の音がして、リリッタが顔を出すと、ブルガットが立っていた。
川辺で拾ったあの子供の面影は、もうどこにもなかった。大木のようにがっしりした体躯に、彫刻のようにきりっとした顔立ち。旅の埃を被ったままの外套が、冬の朝の光の中に立っている。
リリッタはしばらく、何も言えなかった。
「…母が、君に迷惑をかけるだろうと思って」
低く、静かな声だった。
「だから、離れていた方がいいと思っていたんだが、無駄だったか」
「…無駄でしたね」
ブルガットは小さく息をついた。眉間に皺が寄って、また消えた。
それから、静かに言った。
「また、一緒に暮らそう」
風が吹いて、川沿いの梅の花びらが舞い上がった。遅れて咲く、真ん中の一本から。
リリッタは返事の代わりに、一歩、玄関の中へ引いた。
「…お茶、淹れます。荷物を置いてきてください」
ブルガットは動かなかった。
「ブルガット?」
「…少し、待って」
低い声が、かすかに震えていた。
リリッタは黙って待った。冬の風が梅の花びらをひとひら、ふたひら、運んでいく。
「片翼に、なってくれるか」
リリッタは目を瞬いた。
この国のプロポーズの言葉だと、気づくのに少し時間がかかった。
「…騎士爵しかない。財産もない。母は押しかけてくる。それでも」
ブルガットの緑の瞳が、まっすぐこちらを見ていた。
川辺で拾ったあの子供と、少しだけ同じ目で。
「君がいい」
リリッタは返事の代わりに、一歩、前へ出た。
ブルガットの外套に顔を埋めると、旅の埃と、冬の空気の匂いがした。大きな手がゆっくりと背中に回って、静かに、きつく、抱きしめた。梅の花びらが、二人の足元に降り積もった。




