EP 9
喪失の波紋と、煽動される英雄
ワシントンD.C.、旧陸軍省庁舎(のちのペンタゴン建設前)。
重厚なマホガニーのデスクに、分厚いファイルの束が叩きつけられた。
「……馬鹿な。マーシャルが、ただの心臓発作だと?」
陸軍上層部の将官が、信じられないものを見るように報告書を睨みつけていた。
ジョージ・C・マーシャル准将。実直で派手さはないが、軍の近代化と大規模動員の計画において、彼の右に出る頭脳は陸軍には存在しなかった。来るべき世界大戦を見据え、軍の規模を数倍に膨れ上がらせる巨大な青写真を描けるのは、彼をおいて他にいないはずだったのだ。
「彼の進めていた動員計画はどうなる? 後任は誰だ!?」
「現在、急ぎ人選を進めておりますが……彼の構想を完全に引き継げる者はおりません。陸軍の再編は、最低でも数年は遅れるかと……」
「数年だと!? ヨーロッパはいつ火薬庫が爆発してもおかしくないんだぞ!」
報告する副官の顔も蒼白だった。
この日、アメリカ陸軍は致命的な「数年の遅れ」を強要された。後に連合軍最高司令官となるアイゼンハワーを見出し、巨大な軍事機構を作り上げるはずだった中心核が消滅した代償は、アメリカが想像するよりも遥かに巨大だった。
* * *
一方、その「数年の遅れ」を作り出した張本人は、ニューヨークの薄暗い安アパートで、静かにタイプライターと向き合っていた。
坂上真一は、指紋を残さないように薄い革手袋をはめ、リズミカルにキーを叩いている。
(……武力で有能な将官を消すだけでは、アメリカの巨大な工業力と世論は止められない。真に国を滅ぼすのは、外部からの攻撃ではなく内部の分断だ)
特戦隊時代、坂上は対テロやゲリラ戦の訓練において、情報操作の恐ろしさを骨の髄まで叩き込まれていた。
民衆の恐怖と不満を煽り、特定の方向に世論を誘導する。それは時に、一万発の銃弾よりも深く国家の臓腑を抉る。
坂上が作成しているのは、強硬な孤立主義者であり、反戦を掲げる急先鋒、ジェラルド・ナイ上院議員やバートン・K・ウィーラー上院議員へ宛てた「匿名の告発状」だった。
『ルーズベルト政権は、密かにイギリスと結託し、アメリカの若き血を再びヨーロッパの泥沼に注ぎ込もうとしている。大統領の周辺には戦争で利益を得ようとする死の商人(軍産複合体)が巣食っている――』
ただの陰謀論ではない。坂上が持つ「未来の歴史の知識」――ルーズベルトが今後どのようにして中立法を骨抜きにし、イギリスを支援していくかという具体的な法案の手口や、政権内部の力関係を、絶妙に散りばめてあるのだ。
本物の機密情報が混ざった告発状ほど、政治家にとって魅力的な武器はない。
「……孤立主義の議員連中は、この餌に必ず飛びつく。そして議会を徹底的に紛糾させ、戦争の準備を泥沼化させる」
カタッ、と最後のピリオドを打ち、坂上はタイプ用紙を引き抜いた。
これを適切なルートで各メディアや議員のオフィスにバラ撒けば、やがてそれは大きなうねりとなり、「アメリカ・ファースト(米国第一主義)」の象徴である世界的英雄、チャールズ・リンドバーグを神輿に乗せた巨大な反戦運動へと成長するはずだ。
「さあ、馬鹿騒ぎの始まりだ。ルーズベルト、お前の思い通りにはさせない」
坂上は封筒にタイプ用紙を滑り込ませた。
愛する家族が待つ日本の平和な未来を勝ち取るため。孤独な亡霊の戦場は、血なまぐさい暗殺から、ペンの暴力が支配する情報戦へとその姿を変えた。




