EP 8
配達される「歴史」と、次なる盤面
翌朝のニューヨーク。
鉛色の空から冷たい粉雪が舞う中、ジャック・ジャスティン(坂上真一)は、いつもと何一つ変わらない足取りで新聞配達のルートを回っていた。
「ヘイ、ジャック。冷えるな。今日もご苦労さん」
「おはようございます、マクラスキー巡査。雪が積もらないといいんですが」
顔見知りの警官と気さくに言葉を交わし、ずだ袋から新聞を取り出す。
昨夜、アメリカ軍の最重要人物を暗殺した「鬼」の気配は微塵もない。末端の労働者として完全に街の風景に溶け込んでいる。
だが、配る前に抜き取った『ニューヨーク・タイムズ』の一面を飾る見出しを見た瞬間、坂上の青い瞳の奥で、冷たい光が鋭く瞬いた。
『悲報:陸軍の重鎮 ジョージ・C・マーシャル准将、滞在先のホテルで急死。死因は急性心不全か』
記事の詳細は短い。
深夜、ホテルのスイートルームで就寝中に発作を起こし、そのまま息を引き取ったこと。同室で警護に当たっていた大尉が、疲労からうたた寝をしてしまい、発見が遅れたことへの無念のコメント。事件性は低く、持病の発作(自然死)として処理される見通しであること。
(……完璧だ)
坂上は手袋の中で小さく拳を握り、ゆっくりと息を吐き出した。
毒殺の痕跡は一切残っていない。ただの不幸な突然死。
アメリカ全土は悲しみに包まれるだろうが、「テロへの怒り」や「戦争への機運」が高まることはない。
陸軍の近代化と、数百万規模の巨大動員計画を推し進めるはずだった最強の頭脳が、歴史の表舞台から完全に消滅したのだ。
この新聞が全米に配達される今日この日。
間違いなく、太平洋戦争へ向かう巨大な歴史の歯車が、一つ確実に狂い始めた。
「……待っていろよ、明子、真奈美。必ず、平和な日本を繋いでみせる」
坂上は、冷たい雪が降る空を見上げ、故郷の広島にいるはずの家族を想った。
あの小さなカレーショップで、コーヒーの香りに包まれながら交わした他愛のない会話。あの日常を守るためなら、自分は何度でも手を汚す。
配達を終え、セーフハウスの安アパートに戻った坂上は、壁に貼られた「リスト」の前に立った。
最優先排除対象だったマーシャルに、太い赤ペンで横線を引く。
(殺すべき『有能』の筆頭は消した。……だが、これだけではアメリカの巨大な国力は止められない)
史実において、アメリカの戦争遂行能力を支えたのは軍の将官だけではない。
「正義の戦争」という名目のもとに団結した、圧倒的な世論と工業力だ。
ならば、次の一手は「分断」と「遅延」である。
坂上の視線が、リストの別枠――【生かすべき者(馬鹿・無能・孤立主義者)】の筆頭に記された名前に止まった。
『チャールズ・A・リンドバーグ』
大西洋単独無着陸飛行の英雄であり、徹底した「孤立主義(ヨーロッパの戦争には関与すべきではない)」を掲げるアメリカ・ファースト委員会の顔。
史実ではルーズベルト大統領の巧みな政治手腕によって徐々に力を失っていった彼らだが、もし、誰かが裏から強力な「支援」を行えばどうなるか。
「……殺すだけが工作じゃない。馬鹿を神輿に担ぎ上げ、アメリカを内部から腐らせてやる」
坂上は、偽造身分証の束と、タイプライターを引き寄せた。
次なるミッションは、リンドバーグら孤立主義者を煽り、ルーズベルトの開戦準備を議会と世論の両面から完全に麻痺させること。
孤独な鬼の戦場は、血なまぐさい暗殺から、情報の裏をかく冷酷な「心理戦」へと移行しようとしていた。




