EP 7
鬼の仕事と歴史の分岐点
通風口のグリルは、わずか四本のネジで固定されているだけだった。
坂上は懐から取り出したペーパーナイフ(昼間に調達した日用品だ)を使い、金属音を一切立てずにネジを回し切る。
眼下では、屈強な護衛将校がソファに深く腰掛け、分厚い書類の束に目を通している。その向こうのベッドでは、ジョージ・C・マーシャル准将が葉巻を咥えながら、ペンを走らせていた。
(……将校の視線が書類に落ち、マーシャルがインク壺にペンを浸す瞬間。そこがデッドラインだ)
坂上は呼吸を極限まで浅くし、筋肉のバネを限界まで引き絞った。
「システマ」の教えに従い、恐怖や緊張といった感情を完全に切り離す。今の彼は人間ではない。ただ静かに命を刈り取るための機械だ。
――カチャリ。
マーシャルのペンがインク壺に触れた微かな音。
同時に、護衛将校が小さく欠伸をして、目をこすった。
その一瞬の隙を突き、坂上は音もなく天井から「落下」した。
猫のようにしなやかに、しかし砲弾のような速度で護衛将校の背後へと着地する。着地音は、分厚いペルシャ絨毯が見事に吸収した。
「ん……?」
背後のわずかな空気の揺らぎに護衛が気づきかけた瞬間、すでに坂上の腕は将校の首に巻き付いていた。
特戦群で何千回と反復した、完璧な頸動脈絞め(チョーク・スリーパー)。
気管を潰して声を上げさせるような素人の技ではない。脳へ向かう血流のみを正確に遮断し、わずか数秒で意識をブラックアウトさせる「プロの絞め技」だ。
「……ッ、……」
屈強な将校の巨体がビクンと跳ねるが、坂上は関節の可動域を完全にロックし、一切の抵抗を許さない。五秒後、将校は糸が切れた人形のように完全に脱力した。
坂上はそのまま将校の体を支え、まるで『書類を読みながら居眠りをしてしまった』かのように、自然な姿勢でソファに寝かせた。
ここまで、わずか十秒。一切の物音は立っていない。
「……おい、大尉。その報告書の件だが」
ベッドで書類から目を上げたマーシャルが、ソファの異常に気づく。
大尉が不自然に眠りこけている。そして、その後ろに、従業員の青い作業着を着た見知らぬ白人の若者が立っていることに。
「貴様、誰だ……!」
歴戦の軍人であるマーシャルは、叫ぶよりも早く枕元の拳銃に手を伸ばそうとした。
だが、遅い。
坂上はすでにベッドサイドに到達していた。
左手でマーシャルの腕を払い除け、右手には、あのアパートで調合した「悪魔の小瓶」の中身をたっぷり染み込ませたハンカチが握られている。
「あなたは優秀すぎる、マーシャル准将。アメリカにとっては至宝だろう」
坂上は流暢な英語で静かに告げながら、マーシャルの鼻と口を、そのハンカチで完全に塞いだ。
「――だが、俺の祖国にとっては、最大の障壁だ」
「ぐっ……、が……ッ!」
マーシャルが目を剥き、激しく抵抗しようとするが、23歳の若い肉体に特戦群の技術を乗せた坂上の押さえ込みを跳ね除けることはできない。
ハンカチから揮発する高濃度の有毒ガスが、直接マーシャルの肺へと吸い込まれていく。
それは血液中の酸素運搬を瞬時に阻害し、急性の心不全を引き起こす即席の猛毒。しかも、数時間後には成分が分解され、当時の検死技術では「ただの心臓発作」としか診断されない代物だ。
数十秒の短い、しかし永遠にも似た静かな死闘。
やがて、マーシャルの巨体から急速に力が抜け、腕がベッドの上に力なく投げ出された。
アメリカ陸軍の近代化を推し進め、巨大な軍事国家へと変貌させるはずだった最大の「頭脳」が、今、完全に停止した。
坂上はマーシャルの脈がないことを確認すると、ハンカチをジップロック(のような密閉袋)に回収し、乱れたベッドシーツを整えた。
遺体の顔に苦悶の表情はない。ただ、突然の心臓発作で息を引き取った初老の男の姿があるだけだ。
「……悪いな。だが、これも家族と……広島を守るためだ」
誰に聞こえるわけでもない日本語の呟きを残し、坂上は再び天井の通風口へと音もなく消えていった。
後に残されたのは、居眠りをする護衛将校と、静かに「病死」した未来の陸軍参謀総長の遺体だけ。
歴史の巨大な分岐点は、たった一人の男の手によって、誰にも知られることなく強制的に書き換えられたのだった。




