EP 6
完璧な計画と、死の換気口
深夜2時。ニューヨークの喧騒も息を潜め、巨大な摩天楼は冷たい闇に沈んでいた。
『ウォルドルフ=アストリア』の従業員通用口から、一人の配管工が姿を現した。
オイルで汚れた青い作業着に、工具箱。深々と被ったハンチング帽。昼間の「上流階級の青年」から一転、坂上真一は、見事なまでに労働者階級の白人に擬態していた。
警備のMP(憲兵)が鋭い視線を向けるが、坂上は愛想笑い一つ浮かべず、気だるげな「夜勤の労働者」の足取りで通り過ぎる。
人種的な警戒感を持たれないこの肉体は、服装を変えるだけであらゆる階層に溶け込める。まさに究極の潜入兵器だった。
(……ルートは頭に入っている。ここから先は「裏」の道だ)
リネン室の奥にある、一般客が決して立ち入らないメンテナンス用の通風口。
坂上は音もなく格子を外し、ヘビのような滑らかさで狭い暗渠へと滑り込んだ。
『――特戦隊の基本は、いかなる閉所でもパニックを起こさず、自らの心拍音すらコントロールすることだ』
かつて部下たちに叩き込んだ教えを、自らの肉体で反復する。
ジャックの痩せこけた体は、この極端に狭いダクトを進むのに最適だった。埃とカビの匂いが充満する中、坂上は暗視スコープすらない闇の中を、わずかな気流と反響音だけを頼りに這い進む。
目指すは、VIPフロアのスイートルーム。ジョージ・C・マーシャル准将の寝室の真上だ。
数十分の静寂な潜行の末、坂上は目的の通風孔の真上に到達した。
グリルの隙間から、シャンデリアの淡い光と、低い話し声が漏れ聞こえてくる。
坂上は工具箱の中から、あの安アパートで精製した「悪魔の小瓶」を取り出した。
二つの液体を混ぜ合わせることで発生する、無色無臭の重い有毒ガス。空気より重いこのガスを上から流し込めば、ベッドで眠る標的の周囲だけをピンポイントで酸欠と心不全の海に沈めることができる。
完璧な「自然死(病死)」の偽装だ。
坂上は息を殺し、ガスの栓を開けようとして――その手をピタリと止めた。
(……おかしい)
グリルの隙間から部屋の状況を確認した坂上の眼光が、獲物を狙う鷹のように鋭く細められた。
ベッドにはマーシャルが座り、葉巻を吹かしている。そこまでは予定通りだ。
だが、その対面のソファに、屈強な体格の護衛将校(大尉クラス)が座り込み、山積みの書類を広げていたのだ。
『閣下、明日のワシントンへの報告書ですが……』
『ああ、すまないが今夜中に目を通しておきたい』
(……馬鹿な。あの護衛は別室で待機するシフトだったはずだ)
坂上は舌打ちを堪えた。
この時代の護衛マニュアルの甘さを突いた計画だったが、マーシャル本人の「ワーカホリック(仕事中毒)」な性格までは計算に入れていなかった。
このまま毒ガスを流し込めば、部屋全体に拡散する前に、起きて活動している護衛がマーシャルの異変に気づく。窓を開けられればガスは薄まり、暗殺は未遂に終わる。さらに「毒殺の痕跡」が残れば、アメリカ軍は完全に警戒態勢に入り、今後の暗殺計画はすべて不可能になるだろう。
『――作戦が図上通りに進むことなどあり得ない。プランAが崩れた時、いかに冷徹にプランBへ移行できるかが、生者と死者を分ける』
陸自時代の教官の言葉が蘇る。
坂上は、ガスの小瓶を静かに工具箱にしまった。
ここから先は、自らの手を血で染めるしかない。
護衛に気づかれる前に、完全に無音で制圧し、その上でマーシャルを心不全に見せかけて殺す。
難易度は跳ね上がるが、やるしかない。
坂上はポケットの中で、広島の店から持ってきたかのように錯覚してしまう「コーヒーキャンディ」を思い浮かべ、脳内でガリッと噛み砕いた。
甘い記憶を切り離し、完全に「修羅」へと切り替わるスイッチの音。
「……仕方ない。少し、手荒な掃除になるな」
坂上はダクトのグリルに手をかけ、特戦群の鬼としての牙を剥いた。




