EP 4
死の調合と、届かないコーヒーの匂い
マフィアの隠し金庫から奪った小額紙幣の束は、1937年の物価を考えれば、一個人が暗躍するには十分すぎるほどの軍資金だった。
翌日、坂上は新聞配達のルートを外れたロウアー・イースト・サイドの安アパートの一室を借りた。
前払いで数ヶ月分の家賃をポンと出すと、管理人の老婆は素性など一切聞かずに鍵を渡してくれた。不況のどん底にあるこの時代、現金こそが何よりも雄弁な身分証(ID)なのだ。
窓に分厚いカーテンを引き、坂上は買ってきたばかりの「日用品」を粗末なテーブルの上に並べた。
金物屋や薬局を何軒もハシゴして少しずつ買い集めた、殺虫剤、農薬、特定の漂白剤、アンモニア水、そして理科の実験で使うような安物のフラスコとゴム管。
どれも、一般市民が日常的に購入しても全く怪しまれない代物ばかりだ。
しかし、陸上自衛隊・特殊作戦群(特戦隊)において、サバイバルと破壊工作の訓練を骨の髄まで叩き込まれた坂上の手にかかれば、これらは容易く「死」へと変貌する。
「……さて、仕込みの時間だ」
坂上は換気扇を回し、口元にタオルを固く巻きつけると、ガラス瓶の中で慎重に液体を調合し始めた。
目指すのは、爆薬ではない。派手な爆発はテロとして扱われ、FBIや警察の目を一気に引き寄せてしまう。
必要なのは、密室で標的の心肺機能を静かに停止させるための、無色無臭の遅効性毒ガス、あるいは皮膚から吸収されて心不全を引き起こす濃縮毒だ。
薬品が化学反応を起こし、鼻をつくような刺激臭が薄暗い部屋に充満していく。
(……くさいな)
フラスコを揺らしながら、坂上はふと目を細めた。
脳裏に蘇るのは、カルダモン、クミン、コリアンダー……何十種類ものスパイスをミリ単位で調合し、玉ねぎを飴色になるまで炒めていた、あのカレーショップの厨房の匂い。
『お父さん、また店で寝泊まりする気?』
『あなた、コーヒー入ったわよ。少し休んだら?』
耳の奥で、真奈美の呆れた声と、明子の優しい声がリフレインする。
自分が毎日焙煎していた、あの深く、香ばしいコーヒーの匂いがたまらなく恋しかった。
「……待ってろよ、明子、真奈美」
坂上はタオル越しに低く呟き、手元のフラスコから視線を上げて、壁に貼り付けたアメリカ合衆国の地図を睨みつけた。
視線の先にあるのは、首都ワシントンD.C.。そして現在地であるニューヨーク。
地図の横には、今朝の新聞から切り抜いた小さな記事がピンで留められている。
『陸軍のジョージ・C・マーシャル准将、視察のため近日ニューヨークへ』
現在のアメリカ軍は、大国とはいえまだまだ平時の規模でしかない。
しかし、このマーシャルという男が実権を握れば、アメリカ軍は数百万規模という桁外れの巨大組織へと急成長を遂げ、その圧倒的な暴力の波は間違いなく日本を飲み込む。
奴が陸軍参謀総長に就任する前に、確実に「事故死」または「病死」させなければならない。
ポタリ、ポタリと、フラスコの中で透明な悪魔の滴が抽出されていく。
故郷の妻と娘を守るため。そして、特攻隊員として散った祖父の無念を晴らすため。
坂上真一は、届かないコーヒーの匂いを振り払い、ただ黙々と「死の調合」を続けた。
歴史の歯車を狂わせるための、最初の一滴を絞り出すために。




