EP 3
裏社会の掃除と、甘くないキャンディ
深夜2時。1937年のニューヨークは、厚い雲に覆われ、月明かりすらない完全な闇に包まれていた。
ロウアー・マンハッタンのうらぶれた倉庫街。その一角にある、表向きは廃倉庫を装ったマフィアの地下金庫。
冷たいレンガの壁に背を預けながら、坂上真一は静かに呼吸を整えた。
「システマ」の呼吸法。極限の緊張状態でも、心拍数を自在にコントロールし、筋肉の強張りを解く。
手にあるのは、銃でもナイフでもない。
昼間に日用雑貨店で小銭をはたいて買った、ただの太い麻縄と、靴下の中に拾った小石とコインを限界まで詰め込んだ即席のブラックジャック(鈍器)だ。
(……見張りが外に一人。中に最低でも三人か)
建物のわずかな隙間から漏れるタバコの煙と、微かな話し声、そして足音の反響音で内部の状況を正確にマッピングしていく。
陸上自衛隊・特殊作戦群(特戦隊)での過酷なCQB(近接戦闘)訓練に比べれば、マフィアの警備など赤子の遊びに等しい。
「ファック、冷えやがる……」
見張りの男が寒さに耐えかね、両手を擦り合わせた瞬間だった。
坂上は音もなく闇から滑り出した。足音を完全に殺した「歩み」は、男が気配に気づく暇すら与えなかった。
背後から忍び寄り、麻縄を見張りの首に巻き付けると同時に、膝の裏を蹴り抜いて体勢を崩す。
「ガッ……!?」
悲鳴を上げる隙もない。頸動脈を正確に締め上げられ、男はわずか数秒で白目を剥いて崩れ落ちた。殺してはいない。ただ、脳への血流を絶ち、数時間は起き上がれない深い気絶へと誘っただけだ。
「一人」
男の懐から鍵を奪い、油を差したように静かに鉄扉を開ける。
中は薄暗い電球に照らされた、賭博場兼・事務所だった。テーブルの上に札束と帳簿が散乱し、奥のソファで三人の男がポーカーに興じている。テーブルの脇には、トンプソン・サブマシンガンが無造作に立てかけられていた。
「おい、トニーの奴、遅くねえか?」
一人が入り口に目を向けた時、すでに坂上は彼らの死角である天井の梁の下を移動していた。
「なっ……誰だテメェ!」
男の一人が叫び、腰の拳銃に手を伸ばす。遅い。
坂上は手にした靴下の鈍器を、男の顎の先端――脳を揺らす急所へ正確に振り抜いた。鈍い音と共に巨漢が糸の切れた傀儡のように崩れ落ちる。
「この野郎!」
残る二人が立ち上がるが、坂上の動きは流れるような暴力の舞だった。
踏み込みながら二番目の男の鳩尾に重い拳を沈め、胃液を吐き出して屈み込んだ顔面を膝蹴りでカチ上げる。
最後の男がトンプソンに手を伸ばした瞬間、坂上はその腕を掴み、関節の可動域を完全に無視した方向へ捻り上げた。
「ギャアアアアッ!?」
「静かにしろ。近所迷惑だ」
ゴキリ、と嫌な音が響き、男は床に這いつくばって呻き声を上げた。
実質的な戦闘時間は、わずか十数秒。一発の銃弾も使わず、ただの新聞配達員が、武装したマフィアの拠点を完全に制圧した。
「さて、開店準備の資金をもらおうか」
坂上は震える男を放置し、奥にある金庫を男から奪った鍵で開けた。
中には、マフィアが溜め込んだ無登録の汚れた紙幣(小額紙幣の束で足がつきにくい)が山のように積まれていた。さらに、油紙に包まれた軍用のコルト・ガバメント(M1911)と、弾薬の箱がいくつか。
(上出来だ。これで戦える)
紙幣と拳銃をずだ袋に詰め込み、坂上は足早に倉庫を後にした。
冷たい夜風にあたりながら、暗い路地裏を歩く。ポケットを探るが、愛用の『ハイライト』は当然入っていない。代わりに、昼間買った安物のキャンディを口に放り込む。
「……甘ったるいな。明子の淹れたコーヒーと、いつものコーヒーキャンディが恋しいぜ」
ガリッと派手な音を立ててキャンディを噛み砕く。
口の中に広がる安っぽい甘さは、これから始まる血生臭い暗躍には不釣り合いだった。だが、この平和な記憶の欠片こそが、坂上が人間で在り続けるための唯一の楔でもあった。
軍資金と武器は手に入れた。
次なるステップは、歴史の巨大な歯車、ジョージ・C・マーシャルの暗殺計画の立案だ。
(待っていろ、アメリカ。俺が、お前たちの最強のカードを一枚ずつめくってやる)
1937年の摩天楼の影で、冷酷な鬼が静かに嗤った。




