EP 2
新聞配達員という最強の「隠れ蓑」
1937年、冬のニューヨーク。
凍てつくような寒風が摩天楼の隙間を吹き抜ける中、坂上真一――いや、ジャック・ジャスティンは、淡々と新聞の束を各家庭の玄関先へと放り投げていた。
(……悪くない)
息を切らしながら、坂上はジャックの肉体を冷静に分析していた。
栄養状態は最悪で、筋肉量も陸自時代とは比べるべくもない。しかし、23歳という若さゆえの基礎体力と、関節の柔らかさがある。特戦群で培った近接格闘術(CQC)の動きを反復させれば、数週間で「実戦」に耐えうる体に仕上げられるだろう。
何より、この「白人の新聞配達員」という身分は、工作員にとってこれ以上ないほどの特権だった。
早朝の薄暗い時間帯、高級住宅街から貧民街まで、街のあらゆる場所を徘徊しても誰にも咎められない。
警官の巡回ルート、路地裏の死角、非常階段の強度、建物の屋上同士の距離。坂上の脳内には、特戦群仕込みの空間把握能力によって、ニューヨークの市街地が完全な3Dマップとして構築されていく。
「ヘイ、ジャック! 今日も冷えるな!」
「ああ、おはようございます」
すれ違う市民や警官からの気安い挨拶には、愛想のいい若者を演じて応える。
誰も、このみすぼらしい青年が、未来の超大国を内部から食い破ろうとしている怪物だとは夢にも思わない。見事なまでの「透明人間」だ。
坂上は配達の合間に、配る前の『ニューヨーク・タイムズ』に素早く目を通す。
ヨーロッパのきな臭い情勢、ルーズベルト大統領の動向。そして、軍の小さな人事異動の記事。
(……ジョージ・C・マーシャル。今はまだ准将になったばかりか)
後に米陸軍参謀総長となり、アメリカの巨大な軍事力をまとめ上げる「頭脳」。
彼が実権を握る前に消さなければ、日本の勝機はない。だが、軍の要人を暗殺するには、今の坂上はあまりにも丸腰だった。
戦争には兵站が要る。
つまり、金と「足のつかない武器」だ。
坂上の鋭い視線が、ロウアー・マンハッタンのうらぶれたレンガ造りの建物を捉えた。
表向きはただの寂れた倉庫。だが、周囲の建物の配置、不自然に立派な南京錠、そして夜明け前だというのに、周囲を警戒するようにタバコを吹かしている目つきの悪い男の存在。
(……マフィアの違法賭博場、あるいは地下銀行か)
素人目には分からなくても、長年死線に立ってきた坂上の目をごまかすことはできない。
あの中には、今の坂上が喉から手が出るほど欲しい「裏金」と「銃」が眠っている。
坂上は新聞を配り終え、ずだ袋を肩に掛け直すと、口元に冷酷な笑みを浮かべた。
広島の店でカレーを仕込む時の、あの温和な親父の顔はもうない。そこにあるのは、完全にスイッチの入った特殊部隊員の顔だった。
「……さて。開店準備(資金調達)といくか」
今夜、あの倉庫は歴史の闇に沈む。
誰にも知られることなく、無名の配達員の手によって。




