EP 5
墜ちる巨鳥と、青空に焼かれる魂
1938年、初夏。
ニュージャージー州の陸軍航空基地の上に広がるのは、憎らしいほど雲一つない、澄み切った青空だった。
「素晴らしい飛行日和だ! さあ、我々の『未来』を空へ飛ばそう!」
滑走路に響くヘンリー・H・アーノルド准将の快活な声。
最新鋭の双発爆撃機の前に立つ彼は、見送りに来た将校や整備兵たちに向かって、いつものように豪快に笑い、手を振っている。これから訪れる己の死など微塵も疑っていない、希望に満ちた英雄の顔だった。
フリー記者として取材陣の中に紛れ込んだ坂上は、プレスの腕章をつけたまま、ファインダー越しにその光景をただ静かに見つめていた。
(……許してくれとは言わない。お前は立派な男だ。だが、死んでくれ)
坂上が仕掛けた罠は、機体に直接爆弾を仕掛けるような野蛮なものではない。
昨夜、執務室で整備記録を改ざんし、昇降舵を制御する油圧ケーブルの「定期交換」の指示を意図的に消去した上で、予備ケーブルのテンション設定を狂わせておいたのだ。
地上での点検や離陸時には正常に作動する。しかし、高度数千フィートに達し、強烈な気圧と空気抵抗が機体にかかった瞬間、金属疲労を起こしていたケーブルは完全に破断し、機体はコントロールを失って真っ逆さまに大地へと激突する。
誰がどう調べても、「不運な整備不良による墜落事故」としか結論づけられない完璧な暗殺手段だ。
「エンジン始動!」
轟音とともにプロペラが回転を始め、爆撃機が滑走路を滑り出す。
巨大な銀色の鳥は、重力を振り切るようにして、美しい青空へと吸い込まれていった。
「おおっ……!」
周囲の記者や軍人たちから、感嘆のどよめきが上がる。
機体は順調に高度を上げ、やがて太陽の光を反射して小さな点になろうとしていた。
その時だった。
上空で、銀色の機体が不自然に「ビクッ」と跳ねたように見えた。
直後、機首が異常な角度で真下を向く。
「……え?」
誰かが間抜けな声を漏らす。
それは、まるで空から見えない巨大な手に叩き落とされたかのような、絶望的な垂直急降下だった。
機体を立て直そうとするパイロットの必死の足掻きも虚しく、重力に魅入られた巨鳥は、回転しながら一直線に地平線の彼方へと落ちていく。
数秒の、永遠にも似た空白。
そして――基地から数マイル離れた丘陵地帯の向こうで、真っ赤な火柱が上がり、遅れてドォン!という重く鈍い爆発音が大地を揺らした。
真っ黒なキノコ雲のような煙が、青空を汚していく。
「……墜ちたぞ!?」
「准将! アーノルド准将が乗っているんだぞ!! 救急班、急げ!!」
基地は一瞬にして阿鼻叫喚の地獄と化した。
怒号が飛び交い、サイレンが鳴り響き、兵士たちが半狂乱になってトラックへ飛び乗っていく。皆、愛する指揮官を失った悲しみとパニックで顔を歪ませていた。
その狂騒の中心で、坂上だけが微動だにせず、立ち尽くしていた。
カメラを下ろした彼の手は、氷のように冷たくなっていた。
(……終わった)
日本の空をB-29で覆い尽くし、広島を火の海にするはずだった「空の魔王」は、今、自らの愛する空で黒焦げの肉塊となった。
アメリカの航空戦略は、これで少なくとも数年は完全に停滞する。歴史の巨大な歯車を、また一つへし折ったのだ。
だが、坂上の胸に達成感は欠片もなかった。
あるのは、鉛を飲み込んだような重い吐き気と、果てしない虚無感だけ。
周囲の兵士たちの悲鳴が、昨夜見た「アーノルドの家族写真」の妻と子供たちの泣き叫ぶ声に重なって聞こえる。
自分が守った未来の裏側で、確実に一つの幸せな家族が今、この瞬間に消滅した。
坂上はポケットに手を突っ込み、無意識にコーヒーキャンディの包み紙を握りしめた。
だが、それを口に運ぶ気にはなれなかった。もはや、どんな甘さも今の彼を救うことはできない。
「……これで二人目だ」
坂上は、炎上する黒煙に背を向け、誰にも気づかれないようにゆっくりと基地の出口へと歩き出した。
青空の下で、坂上真一という人間の魂は、音を立てて崩れ落ちていた。




