EP 4
錆びたコーヒーキャンディと、最後の晩餐
ニュージャージー州の陸軍基地司令部から、命からがら逃げ出した坂上は、深夜のセーフハウスに戻った途端、洗面台に崩れ落ちた。
「……うっ、がはっ……!」
胃の中にあるものを、全て吐き出した。
昼間に食べた安物のサンドイッチも、胃液も、全てがドス黒いヘドロのように流れ落ちていく。
執務室で見たアーノルドの家族写真。あの笑顔。
それが、自分の娘・真奈美の笑顔と重なり、坂上の内臓を裏側から抉り続けていた。
「ハァ……ハァ……、ハァ……」
震える手で冷水を蛇口から出し、顔を洗う。
鏡の中には、冷や汗でびっしょりと濡れ、隈がこびりついたジャック・ジャスティンの顔があった。
(……俺は、悪魔だ)
鏡の中の「ジャック」が、冷酷な笑みを浮かべて自分を睨みつけているように見えた。
広島の店で、毎日笑顔でカレーを作り、『いらっしゃいませ』と声をかけていた、あの温和な坂上真一は、もうどこにもいない。
ここにいるのは、国のため、家族のためという「大義名分」という名目のもとに、無防備な他人の家族を木端微塵に破壊する、冷酷な殺人工作員だけだ。
「違う……! 俺は、俺の家族を守るために……!」
坂上は、鏡に向かって吠えた。
喉の奥から絞り出した声は、自分でも驚くほど掠れていた。
殺さなければ、焼かれる。
このアーノルドを生かしておけば、数年後、あの空を覆い尽くすほどのB-29が日本へ向かう。
東京を、そして広島の街を焼け野原にし、無数の「誰かの家族」を消し炭にするのだ。
だから、俺はこいつを殺さなければならない。日本の家族を守るために、アメリカの家族を壊す。それが戦争だ。俺が選んだ修羅の道だ。
(……止まるな。ここで止まれば、明子が、真奈美が焼かれるぞ……!)
坂上は血が滲むほど唇を噛み切り、無理やり正気を引き戻した。
明日。明日、アーノルドが搭乗する視察機が、大空から墜ちる。
そのための「仕込み」は全て完了している。あとは、時間が来るのを待つだけだ。
「……腹が、減ったな」
極度のストレスで嘔吐を繰り返した身体は、エネルギーを求めていた。
坂上はフラフラとした足取りで、粗末なキッチンへと向かった。
そこには、昼間に買い集めた、この時代のアメリカでも手に入るスパイスの瓶が並んでいた。
ターメリック、クミン、コリアンダー、カルダモン……。
(……カレーを作ろう)
坂上は、自分でも驚くほど冷静な思考で、そう思った。
明日、一人の立派な男を殺す。その前の、最後の「人間としての食事」だ。
飴色になるまで玉ねぎを炒め、スパイスを調合する。
部屋中に、香ばしいカレーの匂いが充満していく。
その匂いは、一瞬だけ、坂上を広島のあの小さな店へとタイムスリップさせた。
『あなた、コーヒー入ったわよ。少し休んだら?』
明子の声が、耳の奥で響く。
真奈美が呆れたように笑う。
「……ああっ」
坂上は、鍋の前に崩れ落ちた。
カレーの匂いは、彼を温めるどころか、彼の「人間性」をより深く、残酷に切り裂いていた。
この匂いを、俺は他人の家族から奪うのだ。
アーノルドの家でも、明日は温かい食事が食卓に並ぶはずだった。だが、俺がその幸せを、明日、永遠に奪い去る。
「がっ……、はぁっ……!」
再び、猛烈な吐き気が込み上げてくる。
今度は何も出なかった。ただ、胃液と血が混ざったような酸っぱい液体が、口の中に広がるだけだった。
(……俺は、鬼だ。地獄に落ちるなら、一人で十分だ)
坂上は、這うようにして洗面台へ戻り、口元を拭った。
ポケットから、いつものコーヒーキャンディを取り出す。
精神安定剤代わり。これを舐めれば、明子が淹れてくれた香ばしいコーヒーの匂いと、平和な日常の記憶が少しだけ戻ってくるはずだった。
ガリッ。
噛み砕いた瞬間、坂上は顔を顰めた。
味が、しない。
いや、違う。
舌の上に広がったのは、鉄錆のような、血の味。
「……俺は、もう……人間ですら、ないのか……」
孤独な暗い部屋で、坂上はただ、血の味を舐め続けながら、明日、大空から墜ちる巨鳥の幻影を見つめていた。
歴史を変えるための代償。それは、彼の人間性そのものだった。




